ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


山名豊国


ヨミ: ヤマナトヨクニ
掲示板をミル!
4カキコ!

山名豊国(1548年~1626年)とは、日本戦国時代から江戸時代前期に活躍した、歴史上の人物である。


概要


室町時代に割拠した名門大名・山名の末裔であり、戦国大名山名最後の当。謀反によりを追われたの死により督を継ぎ、やがて領を奪還する。勢を拡大する毛利の軍勢が本拠地に及ぶと下に降るが、山中幸盛の尼子再軍に協してもいる。織田中国遠征軍が迫ると徹底抗戦を掲げる部下と決裂し単身降伏、そのまま秀吉に味方し、自身の元居を攻める事に。以降は大名にはならず、豊臣政権下では秀吉の御咄衆として仕える。関ケ原の戦いでは東軍に所属、江戸幕府の下では6700石を与えられ、子孫は旗本交代寄合となった。


来歴



これまでの山名家


山名源氏出身の一族で、の子・を始祖とする新田氏の末裔。新田義重の庶長子・義範が上野にある山名郷という場所を領地とした事から山名を名乗った。

室町時代には一族は足利尊氏側に立ち南方と戦い影を拡大。四職の一に数えられるようになり、最盛期には全66あるうち守護接地のうち6/1の11かを守護として治め、六分の一殿と称された。しかし、その勢の拡大を危険視した室町幕府によって討伐対となり攻撃され、滅亡こそ免れたが一族は大ダメージを受けた(明徳の乱)。

その後山名は表面上は大人しくしつつも勢回復に努め、乱終結から8年で6かの守護となった。嘉吉の乱では山名宗全赤松討伐の総大将となり、功績として赤松の旧守護地を吸収。宗全は細川勝元と共に幕府のツートップにまで登り詰め、一族は再び栄の時代を迎える。

応仁の乱で宗全は西軍の総大将となり、勝元率いる東軍と突。しかし、京都で11年にも及ぶ泥沼の戦いと宗全の死の末に一族は衰亡し、領内では反乱が頻発。勢は急速に衰退していった。


誕生


1548年(17年)に山名宗山名祐豊である但守護・山名豊定の次男として生を受ける。母親は時の管領・細川高国、正室として豊のを娶っている。として山名豊数がいる。

1560年(永3年)に・豊定が死去し、後を継いだ棟豊(豊の子)も1年後(1561年・永4年)に亡くなり、にあたる豊数が因幡守護因幡にある領土を継ぎ、自身も因幡に居を与えられる。しかし、客将であった武田高信が間もなく反乱を起こし兄弟って居を追い出され但に逃れる羽に。


家督継承


1564年(永7年)頃に・豊数は逃亡生活の末に死去(記述はいが文献に名が見られなくなる)。豊因幡守護督を継承する。当となった豊の最初の仕事は高信を倒しを奪い返す事であった。そこでを付けたのは山中幸盛(鹿之助)率いる尼子再軍であった。尼子再軍に協する見返りとして領地奪還を支援してもらい、高信の拠点である鳥取を攻め落とし反乱を収束、領土を回復している。

復帰後は鳥取新居としている。その際に本丸を自身に協・奮戦してくれた幸盛に譲り、自身は二の丸を住居としている。また、反乱者である高信は豊によって切腹へ追い込まれたという(死亡日・死因は異説あり)。


変わり身の末に


1573年(正元年)に毛利吉川元春が軍勢を率いて侵攻すると、居を明け渡してあっさり降伏。そのまま毛利に臣従する。その際に毛利輝元の「元」の字を拝領し元豊と名。

しかし、その裏では織田信長と誼を通じており、名前も「豊」と再度めている(本記事では名前を豊で統一している)。やがて、信長支援の下に尼子再軍が尼子勝久を擁立して再度襲来し、豊臣団の反対を押し切って幸盛ら尼子軍と手を結ぶ事を決意。物資などの援助を得た尼子軍は鳥取など中の塞を奪還し、毛利因幡から追い出した。

の寝返りを毛利も放っておくワケがく、1575年(正3年)には元率いる毛利軍が再び侵攻してくる。その事態に対し豊はまたも毛利に降参し、今まで散々世話になったハズの尼子軍を切り捨てるという行為に出た。支援者を失い敵地に放り出される形になった尼子軍は毛利軍に敗れ瓦解し、幸盛らは命からがら京都へ脱出していった。

毛利側に付いた豊は領としての立場を安堵された。しかし、1580年(正8年)には信長配下の羽柴秀吉率いる中国遠征軍が鳥取に攻め寄せてきた。豊達は堅と名高い鳥取に籠り一進一退の攻防が繰り広げられるが、息巻き徹底抗戦を叫ぶ臣団とは対照的に、豊くから降参する事を考えていた。暫くして豊秀吉中を単身訪れ降伏。秀吉を通じて信長にも降伏が伝えられ、取り成しにより助命が許された。

この単身降伏には諸説があり、弱と変心ぶりに呆れた臣団によって追放された・秀吉が豊を人質にして降伏を迫った・秀吉軍に毛利方の情報を密告しているのがバレて逃げてきた、ともいわれている。

降伏後はそのまま秀吉軍に加わり(1581年・正9年)、毛利から派遣された吉川新城に迎えた鳥取攻めに参加。ついさっきまでの居とかつての臣を「渇え殺し」と呼ばれるほどの底した兵糧攻めを行う事になり、元居の落と経臣の切腹を見届けた。


大名を辞めて


鳥取攻防戦が終わった後もは返してもらえなかった。秀吉から仕官の誘いが来るも、渇え殺しにあった元臣達に気が咎めたのか・大名に嫌気が差したのか・豊は誘いを断り浪人となり、暫く諸した後に摂津の小領多田食客として領地内に仮の住まいを用意してもらい、そこで暮らした。

1586年(正14年)には徳川家康から知行を得たという。秀吉からも度々交友を持ち、半ば強引に御咄衆に任命され、高い教養と有職故事を持って仕えている。1592年(正20年)の朝鮮出兵時は秀吉から招集され名護屋まで同行・生活している。


江戸時代


1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは家康率いる東軍に組し、亀井茲矩の軍に参加して戦っている。その功績により山名の旧領である但内に6700石の領地を与えられた。この頃は豊の系である山名宗は断絶しており、宗と一番近い血筋にある豊系が山名嫡流を受け継いでいる。大坂の陣にも幕府方として参戦。

幕府内でも高い柄と教養を持って活躍し、家康に誘われて駿での会に招かれたりと厚く信頼された。大名復帰への意欲はく、あくまでも一介の武士として幕府に仕えた。

1626年(寛永3年)10月7日に死去。享年79歳。山名江戸時代を通じて高家(儀式や典礼・朝廷との交渉を担当する役職及びソレに任命可柄)・交代寄合(参勤交代を課された旗本)として存続した。


人物像


度を越したほど謙虚な性格でプライドは二の次だった模様。ある日、家康と共に元尾守護・斯波義銀の屋敷に招かれた際には、卑屈すぎるほどの懇切丁寧な態度で義と接した。その家康は「義足利将軍の一門とはいえ分にすぎない。お前新田の嫡流で守護も務めていたのになぜそうも卑屈なのだ」と豊に対して苦言を呈した。徳新田の末裔を自称しており(実際の出自は違うらしい)、同じ新田の後裔でしかも嫡流の血筋である豊が低すぎる態度にモノ申したかったのだろう。また別の日に、家康に自身の領を失い没落した末を笑われた際には特に恥じらう事く謙虚な受け答えをしてみせ、家康を苦笑いさせている。

義な面もあったようで、秀吉に仕えるために摂津を去る際には世話になった多田に丁寧な挨拶をしている。

謀反人である武田高信の遺児を引き取り200石で召し抱えている。遺児は後に助信と名乗り、子孫は代々山名に仕えた。


評価


現在の豊に対する評価は悪いと言わざるを得ない。

大抵の場合最後の君は一族を滅ぼしたという汚点から評判が悪くなりがちだが(その評判が正しいかどうかは置いといて)、豊の場合は大名としての山名最後の当という事実の他に・次々と所属勢乗り換えた変心っぷり・世話になった尼子再軍をあっさり切り捨てた・部下を見捨てて単身投降・元部下が籠った元居を攻め落とすのに加担・なのに穏な人生を迎えている・とにかくが低い、などがマイナス要素になったか、世間一般からは血筋がいいだけの暗君と見られている。元居である鳥取でも玉砕を遂げた吉川が評価され像が建てられているが、豊への評判はやっぱり悪い。

の来歴を見ると、要所要所で最適な判断を下して滅亡を回避している事が分かる。己のプライドや地位は度外視し勝ち・強い方に付くという処世術で戦国の世を生き抜いてきた。結果として子孫は高家交代寄合という上級旗本として存続。多くの大名が滅亡・没落していった戦国生き残りレースを十分勝組と言ってよい形で迎えられた。

状況を見極める観察眼や危機を乗り越える生き残り術は高かったのではないだろうか。


関連項目



最終更新日: 18/02/22 22:50
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ