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山崎武司(やまさき たけし、1968年11月7日-)とは、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手)である。
OB | |
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山崎武司 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県知多市 |
生年月日 | 1968年11月7日 |
身長 体重 |
182cm 100kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1986年ドラフト2位 |
引退 | 2013年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1986年にドラフト2位で中日ドラゴンズに指名され、入団した。
本人は巨人入りを熱望しており、巨人も上位指名を確約していたのだが、一位で阿波野秀幸を、外れ1位で木田優夫を指名したため山崎の巨人入りは幻に終わった。
ちなみに、愛知工業大学名電高校の5年先輩には工藤公康、5年後輩にはイチローがいる。
入団当初は捕手だったが、途中で外野手に転向した。なかなかレギュラーポジションを掴めずに9年間を過ごす。
1996年に監督に復帰した星野仙一から20kgの減量を命じられ(当時の体重は110kgだった)、必死の努力により22kgの減量に成功する。そして、この年ついにレギュラーポジション(レフト)を獲得して39本塁打を記録し、見事本塁打王に輝いた(打率は4位、打点は2位)。
1997年はこの年開業したナゴヤドームに対応出来ず、成績を大幅に落とす。オフに大豊泰昭が矢野輝弘と共に阪神タイガースに移籍したため、翌1998年からは空いたファーストにコンバートされた。
1999年9月26日、対阪神タイガース26回戦(ナゴヤドーム)の9回裏に福原忍から劇的な逆転サヨナラ3ラン本塁打を放った直後、打席に立ったまま絶叫しながら両手を突き上げて仁王立ち。この派手なガッツポーズは後に「Xホームラン」とも形容されるなど語り草となっている。しかしこの年の9月30日、神宮球場で行われた対ヤクルト戦(優勝決定戦)で打者走者の真中満と交錯して左手首を骨折し、同年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズには出場できなかった。
2000年は前年の骨折もあって打撃フォームを改造し、オールスターゲーム第2戦では4打数3安打2打点の活躍でオールスターMVPを受賞する。最終的に.311という高打率を残すが、オフの契約更新の席でフロントから本塁打数の少なさ(18本)を指摘され、両者の関係が険悪となるきっかけとなった。2001年はチーム最多の25本塁打を記録するが、それと引き換えに打率と打点が急降下する。フロントにこの点を指摘されると山崎は激怒しFA宣言するが、新しく監督となった山田久志の慰留もあって、最終的には中日と3年契約を結んで残留した。
2002年オフに成績不振と山田久志監督との対立でオリックス・ブルーウェーブにトレード(トレード相手は平井正史)。2003年にそこそこの活躍を見せたが、2004年にまたしても伊原春樹監督と対立。戦力外通告を受ける。
ちなみに伊原とは現在は和解しているようだが、山田のことは現在も避けているらしい。
オリックスを戦力外になった際、現役引退も考えたが、高校の先輩、工藤公康の勧めなどもあって新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。
2005年には楽天初代監督の田尾安志に勧められ、打撃フォームをすり足から一本足に改造して長打力が復活。
2006年、田尾に代わって野村克也が監督に就任。初対面でボロカスに貶されるが、何故か二人は意気投合し、師弟関係を結ぶようになっていく。周囲の人間は、絶対に二人は激突すると懸念されていたそうだ。
野村監督の「お前は三振を怖がっとるやろ。三振してこい。」というアドバイスにより、2007年は三振数こそ激増(リーグトップ)したものの、43本塁打、108打点を記録し見事本塁打王、打点王の二冠王に輝いた。
セ・パ両リーグでの本塁打王は落合博満、タフィ・ローズに次ぐ三人目という快挙であり、いらない子からパ・リーグを代表するバッターまで上り詰めた。
2008年のオールスターゲーム第1戦ではサヨナラ適時打を放ち、当時史上4人目となるセ・パ両リーグでのMVPを獲得した。2011年に楽天を退団になった後は、古巣の中日に復帰。
2014年、一日限定で中日ドラゴンズの支配下選手に登録され、3月24日の引退試合(楽天戦)に出場。最後の打席は併殺打だった。今後は野球解説者を務めながら4輪レース参戦を狙う。
▲かなりの遅咲きとも言える選手で、2004年まで(中日・オリックス)の成績は、18年間で931安打、211本塁打、617打点。この間、いわゆる打撃三冠を獲得したのは本塁打王1回(1996年)のみである。しかし2010年まで(楽天)の成績は、6年間で767安打、180本塁打、520打点。前述の通り2007年には本塁打・打点の二冠を獲得している。同年までの現役通算の成績は、24年間で1698安打、391本塁打、1137打点で、そのうち実に約4割を楽天移籍後の僅か6年間で記録している。2010年には、門田博光が持っていた42歳シーズンの最多打点記録を更新する93打点を挙げた。加えてオールスターゲームで記録した通算3本塁打は全て楽天移籍後に放ったもので、とりわけ2010年には第1戦(ヤフードーム)、第2戦(ハードオフ新潟)で各1本を打ち、40代の出場選手としては史上初の2試合連続本塁打を記録している。山崎が楽天に移籍してきたのは36歳の時であり、一般的に成績が下り坂に差し掛かる年齢においてこれほどの成績を挙げる選手は希有である。
しかし長年活躍している一方、主軸打者としては致命的な勝負弱さが最大の弱点だった。その顕著な例として、2001年には中軸を打っていたにも関わらず、得点圏打率.184、25本塁打を放ちながら僅か51打点という惨憺たる成績を残している。この極端な勝負弱さは元プロ野球選手で現格闘家の古木克明が、横浜ベイスターズ在籍時の2003年に記録した22本塁打37打点と共に不名誉な記録として語り継がれており、山崎ファンは同年の成績を指して「2551の年」と呼んでいる。
ただし単純に勝負弱いわけではなく、誰も期待していないような所で決定打を度々打つ事がある(例:前述のXホームランなど)。その為「希望と絶望」「光と闇」「アルファでありオメガ」などと形容される。
プロフィールの通り右投げ右打ちだが、実は左利き。打撃においても「右腕で押し込むのではなく、左腕でリードして打球を運ぶ」という独自の理論を持っている。
通算25年と長い現役生活を送ったが、日本シリーズと縁がない(中日時代には1988年と1999年に2度の優勝を経験しているが、どちらも出場していない。前者はまだ二軍暮らしの時期であり、後者は前述のように優勝決定戦で負傷したことによるものである)。
▲前述の勝負弱さから、中日在籍時の後年から次第に置物呼ばわりされるようになり、ネット上ではいつしか「邪魔崎」と呼ばれるようになってしまった。折しも中日が低迷期に陥ったこともあって、山崎の低迷ぶりもまた、その最たる象徴としてしばしば槍玉に挙げられていた。このように、試合で大ブレーキになった時などには「邪魔崎」、大勢が決した試合終盤で本塁打や適時打を放った際には「帳尻崎」、逆に目を見張るような活躍を見せた時には「必要崎」「不可欠崎」「神崎」「伝説崎」などと呼ばれるようになり、その後「邪魔崎」が徐々に変化し、元々のニックネーム「ジャイアン」とくっ付く格好で、現在のネット上の愛称「ジャーマン」が生まれた。
ヽ(*`Θ´)ノ <ジャマハハ!
2010年5月下旬には「ざmj」という愛称も誕生した。これはニコ生の「楽天イーグルス公式戦生放送」対横浜ベイスターズ1回戦(2010年5月18日)の9回裏、山崎の打席で運営が「ざきさーーーん」とコメントしようとしたのを、どういうわけか「ざmj」とタイプミスしたままコメントしてしまったのをきっかけに(当日のコメント履歴:3時間58分を参照[外部])、タイプのし易さもあいまって、じわじわと広まってしまったものである。その「ざmj効果」なのかどうかはさておき、山崎は同年のセ・パ交流戦で両リーグ最多の11本塁打を放つ活躍を見せた。だが反面、5月4日を最後に交流戦を挟んで6月25日まで、約1か月半にわたって適時打はおろか、犠飛すら出ないなど得点圏打率は下降する一方で、その結果「知ってた率」も上昇してしまった(「知ってた」に関しては後述)。そもそもの発祥がタイプミスだけに「打ち損ない」が増えてしまったのだろうか。
▲普段は温厚な人柄で、ファンサービスにも熱心。本塁打や適時打を打った際のコメントや試合後のヒーローインタビューでは「真っすぐ一本釣り」「終わったと思った」「振り遅れていた。スライダーならごめんなさいだった」「果てしなくスライダーを待っていた」「24年生ながら自信が持てた」「忘れていた感触だった」「甘かった~!!」「足、速いでしょ?」などの迷言名言を発し、ファンを楽しませている。
また社会奉仕活動にも積極的で、楽天移籍後は自身が放った本塁打数に応じて寄付額が増加する「ホームラン基金」を設けており、これまで地元・宮城県や仙台市に社会福祉目的での寄付を行っている。2008年6月14日に発生した宮城・岩手内陸地震で被災した宮城県栗原市に対し翌年1月、前年の本塁打数(26本)に因んで260万円の寄付金を贈ったことが縁で、同市の栗駒球場には「山崎武司球場」という愛称が命名された。
人命救助で貢献した経験もある。中日時代の1990年12月、実家近くで火事の現場に遭遇し、逃げ遅れた乳幼児5人を知人らと協力して救出。地元消防署から感謝状が贈られた他、セ・リーグからも特別表彰を受けた。
だがその反面、人一倍向こうっ気が強く、一旦キレると相手が外国人であろうと審判であろうと見境なく向かっていくため、乱闘劇や退場劇の主役になってしまうこともしばしば。1996年5月1日の中日対巨人5回戦(ナゴヤ球場)の5回裏、相手先発のバルビーノ・ガルベスが投じた頭部付近へのビーンボールを巡り、パンチを繰り出したガルベスに対しヘッドロックを仕掛けたのをきっかけに乱闘を引き起こして、プロ入り初の退場処分を受けたのを皮切りに、現役日本人選手としては最多の通算6回の退場処分を受けている。
NPB審判とは、判定を巡ってたびたびバトルを繰り広げている。2009年5月14日の対日本ハム9回戦(Kスタ宮城)の4回裏、ストライクの判定を巡って球審・栄村孝康に「下手くそ!」と暴言を吐き、侮辱行為で退場処分となった。山崎は試合後も怒りが収まらず「俺だけやない。他のチームもみんなアイツにやられとる。下手くそに下手くそと言って何が悪い!俺が代表してやってやったんや」とまくし立て、当時ちょっとした話題を呼んだ。2010年7月27日の対ソフトバンク15回戦(熊本)でも、5回表の打席でストライク判定を巡って激高し、球審・白井一行に対し暴言を吐いて退場処分となった。山崎は試合後「あれをストライクと言うのであれば、俺はマイナー(二軍)に行った方がいい。感情で手を上げて(判定して)いる。俺は暴言を吐いたことは反省しているし制裁金も払う。でもあっちは処分もないだろう」と怒りをぶちまけ、これもまたちょっとした話題となった。