ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


岩田聡


ヨミ: イワタサトル
掲示板をミル!
1938カキコ!
\直接!/

岩田聡(1959年12月6日 - 2015年7月11日)とは、任天堂の4代社長である。
通称「いわっち」「電部長」「いわたくん」等。「直接!」

概要

2002年から、2015年に在任のまま逝去するまで、任天堂の代表取締役社長を務めた。

任天堂社長としてはニンテンドーDSWiiの2大ヒット商品を世に送り出し、同社を大きく成長させたことで知られる。自ら登場して社の製品を“直接!”解説する広報動画ニンテンドーダイレクト」や、開発スタッフへのインタビューをこれまた自ら行う「社長が訊くシリーズなど、社の顔として意欲的に活動する名物社長としてファンから人気を集めていた。
任天堂カンファレンスやゲーム関連の展示会などで、よくプレゼンテーションを行っていた。プレゼンの巧さには定評があり、中継直後のニコニコ動画を初めとして、内外のサイトで好評を得ている。

それ以外にも、DeNAとの資本提携、健康事業への参入など、任天堂としての新たな試みを多く進めた。

社長就任以前はHAL研究所社長スタッフとして、開発に参加していた。優秀なプログラマーとして知られており、開発に関する逸話がいくつも存在する。
なお、現場での開発への参加意欲は社長就任後も強く、「できることならプログラムを書いていたいと発言したこともある。

略歴

任天堂社長就任まで

北海道札幌市出身。
高校在学中に、ヒューレット・パッカード社のプログラミングも出来る電卓を購入し、プログラミングにのめり込んだ。その電卓で作ったゲーム日本ヒューレット・パッカードの代理店に送ったところ、驚いたその会社がいろんなものを岩田少年に送ってくれたという。

大学への入学祝いに加え、さらにローンを組んでコモドール社のPET2001というコンピュータを購入し、西武百貨店池袋店にあった売り場に入り浸るようになる。そこで出会った「同好の士」と共にコモドールジャパンオフィスにも出入りするようになり、コモドール社のVIC-1001VIC-20)向けにゲーム(多くはアーケード人気作のパ○リ)を開発し、その技術のあまりの高さに関係者を驚かせた。

1980年になると、百貨店の売り場の店員HAL研究所を設立し、岩田青年も誘われたためアルバイトとして入社する。(先輩社員が居ないため)エースプログラマとして奮闘し、コモドールジャパンから仕事を請け負ってコモドールブランドパッケージソフトを多数開発した。

大学卒業後はそのままHAL研究所に正社員として入社する。そして卒業の翌年の1983年任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、会社の出資者で任天堂と取引のある関係者を通じて任天堂に自らを売り込みに行った。岩田青年の技量を認めた任天堂HAL研究所に開発を依頼し、初期の「ピンボール」や「ゴルフ」の開発にあたった。特に85年発売の「バルーンファイト」の移植は元のアーケード版の開発スタッフをも感嘆させ、当時任天堂に訪れていた岩田を尋ねたという。

ちなみに、コモドール社のコンピュータファミリーコンピュータと同じMOS6502を採用しており、MOS6502に精通した岩田青年は特に重用されたようだ(この当時の日本8bit市場は、ザイログ社のZ80が圧倒的なシェアを締めており、モトローラ社のMC6809が追随する状況で、MOS6502シェアはごく僅かしかなかった。ただし、北ではコモドール社の他、アップル社Apple IIでも採用されるなど、高いシェアを誇っていた)。

おこの頃のHAL研究所は5名のみのスタジオで、プログラミングの他、デザインも販売もスタジオの掃除まで何でもやっていたという。

その後、同社はバブル崩壊の余波を受けて経営難に陥り、取引先の任天堂支援を受けることになった。
このとき、当時の任天堂社長だった山内溥が岩田をつけたと言われる。彼の経営の才覚を見抜いた山内は、当時開発課長だった岩田社長となることを支援の条件としたという。

1992年岩田はこうしてHAL研究所社長に就任した。
それまで経営とは縁遠いキャリアを積んでいた岩田だったが、桜井政博らの才を見出し、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』などのヒット作を送り出すことに成功。社の経営を建て直した。
当時から自ら率先してPRやプロモーション活動を行っていたほか、社長になってからも、時々プログラミングにも参加していた。

有名なものでは、長期に渡る開発の難航で中止寸前の状態に陥っていたSFCMOTHER2』に参加した際、開発に当たっていた糸井重里を始めとするスタッフ達に対し、

「このままでは出来ないと思います。今あるものを使って完成させるなら2年かかります。
しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、半年で完成させます。どちらにします?」

と提案。全てのプログラムを組み直し言葉通り半年で完成させ、更に完成度を高めるブラッシュアップを半年行い『MOTHER2』が発売されたという逸話がある。

おこのときの縁から、『MOTHERシリーズディレクターである糸井重里とは長年に渡って親交していた。
ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも参加し、“部長という肩書きも持っている。
糸井によれば、「糸井重里事務所内に置かれている、パソコンの設置・設定。電コードやLANケーブルの配線に至るまで全部、電部長がやってくれた」とのこと。

なお、この項の大幅加筆も、ほぼ日刊イトイ新聞の社長に学べ![外部]を参考にしている。

1997年から『ポケットモンスター赤・緑北米版ローカライズを担当(ポケモン開発に関わったクリーチャーズ立ち上げに携わり同社の役員を務めていたのが縁とされる)、更に『ポケットモンスター金・銀』『ポケモンスタジアム』開発に協HAL研究所でも『ポケモンスナップ』を開発。この縁は任天堂入社後も株式会社ポケモン立ち上げ(2000年ポケモンセンター株式会社から称)を始め様々な企業との折衝など多岐にわたる。

1998年任天堂オールスターバトルアクションである『大乱闘スマッシュブラザーズ』を開発。当初はオリジナルキャラで展開する予定だったが、知名度及びニンテンドー64の普及のために任天堂キャラクターを使用する事を提案、任天堂(宮本茂)との打ち合わせのため、使用権承認前にプロトタイプ(この時点でマリオドンキーフォックスサムスを採用していたという)を作成してプレゼンテーションを行っている。

1999年HAL研究所の経営立て直し了と時を同じくして社長を退任、相談役になる。

社長就任後~DS、Wii発売

HAL研究所での経営手腕は山内にも高く評価され、2000年任天堂取締役経営企画室長として入社。文字通り任天堂商品の企画及び経営に参画するという大抜だった。

2002年5月山内に後継者として名され入社後わずか2年、42歳という若さ任天堂4代社長に就任した。
このとき、山内に呼ばれて、マンツーマンで3時間ほど経営哲学を説かれたという。

社長血縁でも任天堂生え抜きでもなく、40代前半という異例のキャリア若さでの就任に驚くユーザーもいたが、当時の任天堂ライバルである『プレイステーション2』の大ヒットと自社ハードゲームキューブ』の立ち上げ失敗によって、ゲーム業界の中心的立場をすっかりソニーに譲ってしまっていたため、そもそもあまり話題になっていなかった。

岩田は、当時世界ゲーム人口が微減傾向にあったことも踏まえ、「ヘビユーザーターゲットを絞っていては、いずれ市場が死んでいくのでは」と考えた(これはHAL研究所時代からずっと危惧していたという)。そしてその対応策として、「それまでゲームに触れたことのない人達を新たに取り込む」ために、直感的に操作できる新たなゲーム機の開発を進めた。

2004年タッチネルを含めた2画面という新なコンセプト携帯機・『ニンテンドーDS』を発売し、これがゲーム史上に残る大ヒットを記録。最終的には全世界で1億5000万台以上を売り上げたDSは、任天堂を再びゲーム市場の中心へと返り咲かせた。

「直感的で新鮮な操作」というコンセプトは据え置きハードにも受け継がれた。
2006年に発売された『Wii』は、リモコンコントローラという新たな操作体系を取り入れ、やはり大ヒット。こちらも世界で累計1億台をえる売り上げを記録した。

この頃、「ほぼ日刊イトイ新聞」にもよく登場していた。
新商品のPRなど「社長」として来訪する事もあるが、またある時は「仕事が終わって帰る途中、たまたま事務所の)近くを通ったので・・(笑)という可らしい理由で、糸井重里事務所に『糸井氏の友達』としてプライベートで立ち寄っており、氏の穏和な人柄を垣間見る事が出来る。

名刺の上では、私は代表取締役社長です。
頭の中では、ゲーム開発者です。
でも、心の中では、ゲーマーです。

――GDC 2005にて

3DS、WiiU発売~様々な新事業の打ち出し

2011年には『ニンテンドー3DS2012年には『WiiU』を、大ヒットしたDSWiiの後継機種としてそれぞれ発売した。
この頃から、上述した「ニンテンドーダイレクト」「社長が訊く」などの広報活動を精的に行うようになった。
「直接!」という強い言葉や「トゥイッター」などの独特の発音、親しみやすく丁寧な解説がファン人気となり、任天堂の名物コンテンツとなっていった。

しかし、新ハードはいずれも、立ち上がりは順調ではなかった。
特に、後に内最速の普及速度を記録するまでになった3DSはともかくとして、WiiUは想定した販売台数を下回り続けた。結果としてこの苦戦は、岩田が退任するまで続いた。
スマートフォン爆発的普及によりいわゆるライトユーザースマホゲームに移行していったことなどから、任天堂は戦略の転換を迫られていた。

そこで岩田はまず、「ユーザーのQOLクオリティオブライフ)向上に寄与する」ことが「娯楽」であると再定義し、健康事業への参入を発表した。
山内社長が「異業種には絶対に参入しない」ことを厳命しており、実際にホテル経営などで失敗した過去を持つ任天堂としては、これは異例の決断であり、多くのユーザーを驚かせた。

また、2015年3月には、携帯電話向けゲームの大手であるDeNAとの資本提携を発表。
スマートフォンへの参入を本格的に進めることを発表し、これもまたユーザーに驚きを与えた。
おこのとき、新ハードNX」(後のNintendoSWITCH)の存在を電撃的に発表している。このとき岩田は、「ゲーム機事業への情熱を任天堂は失っておらず、むしろこれからもゲーム機事業を軸にやっていくという意思表明」とっていた。

このように精的に活動していた岩田だが、2014年頃に体調を崩していた。
後に胆管腫瘍と明らかにしており、同年6月には手術を受けた。8月頃には社長業に復帰したが、それまでのふくよかな体格から一転して痩せた姿となっていた。

早すぎた死去、退任

2015年7月11日、胆管腫瘍により、京都市内の病院で逝去した。享年55
任天堂から発表があった[外部]のは、13日のことであった

6月総会では続投が承認されたばかりで、ニンテンドーダイレクトや同の『社長が訊く』などにも復帰していたため、多くのユーザーが衝撃を受けた。
マスメディアの取材によれば、7月に入って突然体調を崩したという。

任天堂社長として数々の功績を残した岩田の死は世界に衝撃を与えた。海外マスメディアも氏の訃報を伝え、多くの著名人が哀悼の意を表明した。その影ぶりは7月13日午前のYahoo!の最新つぶやき(Twitterランキングどが氏に関係するワードが羅列する程であった。
そして、直近のヒット作『Splatoon』のMiiverse投稿された絵やメッセージの数々や、ハッシュタグ#ThankYouIwata[外部]」が示す通り、偉大な才との別れを惜しむ追悼ばかりでなく、むしろ多くの傑作ゲームを送り出した事に対しての暖かい感謝が溢れていた。
自ら広告として活躍してきた岩田が、ただの世界企業の経営者としてではなく、数々の楽しいゲームを作り出し続けてきた「任天堂」の徴的存在として非常に多くの人々から深くされてきたことが表されている。その長年の業界への貢献から英国の「Golden Joystick Awards 2015」で特別功労賞が追贈された(同賞を受賞している人物として小島秀夫氏がいる)


次へ»
最終更新日: 18/12/31 16:28
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ