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川中島の戦いとは、戦国時代の天文22年(1553年)~永禄7年(1564年) に武田信玄と上杉謙信の間で断続的に行われた戦いである。
武田信玄と上杉謙信の間に引き起こされた(なお名前がころころ変わるので、有名な武田信玄、上杉謙信で統一する)、戦国時代中もっとも有名な合戦の一つ。両者の一騎打ちや山本勘助による啄木鳥戦法とその失敗、といったエピソードが知られているが、これは永禄4年(1561年)に行われた第4次の戦いのみを取り上げたものにすぎない。
実際は室町時代を通して東国を秩序立てていた、「鎌倉公方―関東管領」体制が崩壊する中で、それぞれ固有の事情を抱えて北信濃でぶつかり合った5度に渡る長期戦だったのである。しかし、結果は両者ともに思惑通りにはいかず、武田家、上杉家どちらも新しいフェーズに入っていく。
なお川中島とは広義には、更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡の奥四郡を指す。
▲室町時代、武田氏の本拠地であった甲斐は鎌倉府の統治領域であり、さらに言えば、後に上杉謙信を輩出する越後長尾氏が推戴した越後上杉氏の治める越後、今川氏の治める駿河、小笠原氏の治める信濃の三国も室町幕府の統治領域とはいえ、鎌倉府に近い存在であった。
その最初のほころびが上杉禅秀の乱であり、以降永享の乱、結城合戦、江ノ島合戦、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱、永正の乱と、東国では戦争状態が恒常化。そこを今川氏のもとに派遣されていた北条早雲こと伊勢宗瑞の関東進出もあって、鎌倉公方、関東管領上杉氏のどちらも勢力を減退させたのである。
さらに当時は飢饉と災害が相次ぎ、資源の少ない領域を支配していた大名や国衆には軍事活動を行って資源を確保する必要が生じた。それこそ盆地で開発が進んでおらず、内乱や関東情勢で今川氏や後北条氏の侵入の相次いだ甲斐武田氏、食糧危機の頻発した越後長尾氏の両者だったのだ。
越後は守護の越後上杉氏と、それを支える守護代の越後長尾氏が統治していた。もちろん越後上杉氏は関東管領上杉氏の同族であり、東国情勢が荒れるにつれ、本家に協力してたびたび関東に出兵したのである。
ところが越後長尾氏の長尾能景が北陸の一向一揆討伐中に亡くなると、後を継いだ長尾為景は主君上杉房能と対立し、上杉定実を推戴して謀反。上杉房能を永正4年(1507年)、さらに応援に駆け付けた山内上杉氏の上杉顕定をも永正7年(1510年)討ち取ったのである。こうして越後は事実上長尾為景が支配する領域となった。
当然それに反発するものも多く出るが、長尾為景は徐々に反対派に勝利していく。やがて新たな主君上杉定実とも対立するが、事態を収拾させ、越中に侵攻。いったんとん挫したものの、守護・畠山尚順の紀伊からの追放もあって掌握に成功する。こうして享禄元年(1528年)足利義晴から諸特権を認めさせ、越後支配の正当性を得る。
そして享禄・天文の乱で自立しようとする上条定憲らと戦う一方で、この頃上杉謙信が誕生する。長尾為景は苦戦し、朝廷から「御旗」や「治罰綸旨」を手に入れたものの効果はなかった。結局息子の長尾晴景に家督を譲るということで天文5年(1536年)和睦。ほとんど敗退に近いものであった。
しかし長尾晴景の代に上杉定実の後継者問題が浮上。奥羽で天文の乱が勃発する一方で、越後も混乱に陥る。こうして登場したのが晴景の弟、後の上杉謙信であり、一瞬の対立の後、天文17年(1548年)の和睦で晴景は隠居。こうして上杉謙信の下、越後は統一に向かう。
甲斐武田氏は応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で上杉禅秀に味方して以来、内乱が相次いだ。というのも守護・武田信満は自害し、その子である武田信重、武田信長らが逃走し、守護家がいったん空白になってしまったのだ。
鎌倉公方・足利持氏は甲斐源氏の逸見有直を代理の役目に任じるが、幕府はこれに反発し、信満の弟・穴山信春を武田信元として甲斐に送る。しかし信元はあっけなく亡くなり、武田信長の息子・武田伊豆千代丸を後継者として任じるが、幼い彼に事態は収拾できないと判断され、武田信重を応永30年(1423年)に守護にする。しかし信重は在国を嫌がり、逸見氏は武田信長に掃討される。結果、足利持氏は武田信長を鎌倉に引き入れ、味方にし、武田信重に対抗しようとする。
しかしこの結果、守護代・跡部氏の台頭を招き、武田信長派は追い落とされてしまった。そして永享の乱の勃発でようやく武田信重が甲斐に入国するも、武田信重、息子の武田信守が相次いで亡くなり、1455年(康正元年)に孫の武田信昌が跡を継いだ。信昌は寛正6年(1465年)に跡部氏を打倒したものの、今度は嫡子・武田信縄ではなく、その弟油川信恵に家督を譲ろうとして国内を二分してしまう。
両陣営は諏訪氏など周辺の国衆のみならず、足利茶々丸、大森氏の生き残りである大森泰頼を抱え込み、伊勢宗瑞・今川氏親の介入まで招いてしまう。かくして明応7年(1498年)の明応地震を口実に両者は和睦し、武田信縄が家督を継ぐ。そのまま武田信昌、武田信縄が相次いで亡くなると、永正4年(1507年)に登場したのが武田信虎である。
信虎の代は大井氏・今井氏といった周辺国衆や、今川氏親との戦いが相次ぎ、大永2年(1522年)にようやく今川勢の甲斐からの駆逐に成功する。さらに北条氏綱の台頭で荒れる関東に、山内・扇谷の両上杉氏の要請で進出。こうした後北条氏との一進一退の対立の中、天文元年(1532年)にようやく甲斐を統一したのだ。
やがて天文5年(1536年)に今川氏輝の死と花倉の乱が勃発すると、武田信虎、北条氏綱両名は今川義元を支持する。結果武田・今川の方に同盟が成立し、北条氏綱がこれに対立するという構図に変化する。両上杉氏はすでに衰え、後北条氏との戦いはこの同盟が主軸となるが、一方で天文9年(1540年)には諏訪頼重に娘を嫁がせ、天文10年(1541年)には佐久郡の大井氏と海野棟綱を攻め、諏訪頼重とともに佐久郡、小県郡を手中におさめ、信濃に進出。
ところが、帰国後娘婿の今川義元に会いに行った際、息子である武田信玄のクーデターが起き、武田信虎は追放される。これは大飢饉の後の代替わり徳政を狙ってこのタイミングで起きたともいわれている。
かくして武田氏はついに武田信玄の時代に移り、信濃への進出が本格化するのである。
▲武田信玄のクーデターのさなか、諏訪氏は独断で山内上杉憲政の進出に対し講和を結んで領土分割を含めた協定を上杉氏との間に結んだ。これを受けて天文11年(1542年)に武田信玄は諏訪郡に侵攻。諏訪一族である高遠頼継、諏訪大社・下社もこの動きに同調した。
諏訪頼重、神長官守矢頼真らがこれに対抗しようと軍勢を集め、布陣したが、武田の大軍に対し諏訪軍は崩壊。高遠頼継の攻勢もあって上諏訪は混乱に陥った。桑原城にこもった頼重であったが、ついに和睦。こうして諏訪郡は旧大祝諏訪頼高領を高遠頼継、旧惣領諏訪頼重領を武田信玄が治めることとなった。そして諏訪頼重に加え、禰宜太夫矢島満清の讒言で頼重の弟・大祝諏訪頼高の両名が自害に追い込まれたのである。
ここにみられるように諏訪氏は一族同士の内訌や、小笠原氏に対する長期遠征とそれに重なった災害による領内の不満があり、それを信玄に利用される形で諏訪頼重は滅亡に追い込まれたのであった。
そして、頼重の滅亡によって、今度は武田氏に協力した高遠頼継が禰宜太夫矢島満清の協力の下、諏訪氏惣領を狙い始めたのである。こうして武田・高遠両氏は開戦し、あっけなく武田方が高遠方を掃討した。
天文15年(1546年)の諏訪満隆の反乱もあり、諏訪氏には、諏訪頼重と信玄妹の間の息子・千代宮丸ではなく、自分と頼重の娘との間に生まれたのちの武田勝頼を後継者に据え、家臣の板垣信方を諏訪郡の統治者にした(なお諏訪大社は高遠頼継の反乱の際、自身に味方した守矢氏が神長官や禰宜太夫を任じられた)。さらに上原城が普請され、諏訪郡は武田氏の治める地域となったのである。
次に武田氏が狙ったのは、小笠原政康が跡部氏を派遣して以来、長年対立と連携を繰り返した佐久郡・小県郡の国衆たちである。
まず最初のターゲットは武田・諏訪両氏の混乱に乗じて行動に移った大井氏であった。前述のとおり諏訪頼重は武田信虎との共闘や、山内上杉憲政との和睦で、長窪城を中心にこの地域に進出していた。しかし諏訪一乱の結果、大井貞隆は長窪城を占拠し、このことが武田信玄の攻撃の口実となったのである。
長窪城の大井貞隆・望月昌頼はあっけなく敗北、貞隆は生け捕りにされ、昌頼は一族が滅ぼされる中行方知れずとなった。こうして長窪城を佐久・小県郡進出の拠点としたのである。
しかしこの後諏訪郡で再度の反乱が起きた。板垣信方はこの反乱を鎮圧したが、その背後にいたのは小笠原長時、藤沢頼親、そして高遠頼継であった。天文13年(1544年)に高遠頼継は諏訪郡で行動を開始したが、翌年あっけなく降伏。頼継の政治生命はこれで断たれてしまった。ついで藤沢頼親とそれを支援する小笠原長時が相手になるが、藤沢頼親もあっけなく降し、上伊奈を制圧したことでようやく諏訪郡に安定した統治が行えるようになった。
武田信玄は北条氏康と今川義元の争いを収め、天文14年(1545年)に国境が安定したと判断した結果、再度信濃に侵攻した。今度の相手は大井氏の庶流であった大井貞清であり、小笠原長時の協力でこれを降伏させた。次いで佐久郡の笠原清繁を攻めると、佐久郡の国衆たちと関係が深い山内上杉憲政が、河越夜戦の傷も癒えないうちに進軍。武田信玄はこれに勝利し、笠原清繁のこもる志賀城を陥落させたのであった。
そしていよいよ相手は北信の村上義清となった。ところがこれまで戦ってきた国衆とははるかに規模が違う村上氏相手に、天文17年(1548年)上田原合戦で武田軍は敗北。板垣信方・甘利虎泰らが討たれるほど大打撃を受けたのであった。
この敗戦でこれまで武田氏に従ってきた信濃国衆は動揺し、村上義清は大井貞清を仲介に山内上杉憲政と連携を取る。さらに村上義清は武田方についていた小笠原長時、仁科道外、藤沢頼親らと接近し、諏訪郡に侵攻。諏訪郡でも反乱がおき、これまでの信濃遠征が水泡に帰す危機に陥ったのである。
こうして小笠原長時・村上義清の連合軍との戦いに入る。まず起きたのは天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いである。この戦いで侵攻していた小笠原軍を叩きのめし、以降小笠原氏による諏訪・伊奈郡の侵攻はなくなったのであった。
そしてこの勝利をきっかけとして諏訪郡を長坂虎房に任せ、佐久郡の再侵攻を行った。藤沢頼親、大井貞清はあっけなく降伏し、佐久・諏訪・筑摩郡に拠点となる城を築く。さらに攻撃と真田幸綱による調略を繰り返し、佐久・小県郡はすぐに武田方に戻ったのであった。
村上義清との和睦は失敗したものの、北方からの攻撃が無くなったのを見届けると、次のターゲットに小笠原長時を狙う。天文18年(1549年)、小笠原長時は前年の敗戦の傷も癒えないまま攻められ、没落。仁科道外は武田方に寝返った。筑摩・安曇郡が武田方の支配下にはいると、周辺の国衆は次々に武田方になびく。
そして天文19年(1550年)、武田信玄はついに小県郡の戸石城を狙う。この頃村上義清は北で高梨政頼と対陣しており、この隙を狙ったのである。ところが対陣は長期にわたり、村上義清の高梨政頼との和睦が成立すると、村上軍は反転する。そして、かの有名な武田信玄の敗戦・戸石崩れが起きたのであった。
こうして南進する村上軍であったが、情報戦に敗れ撤収。小笠原長時が一人取り残される形となった。村上義清も上田原合戦の頃と違い、武田方に傾いたパワーバランスを元に戻すことはできず、1551年(天文20年)には真田幸綱が戸石城の調略に成功した。