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幕末


ヨミ: バクマツ
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今週のおすすめ この記事は第65今週のオススメ記事に選ばれました!
よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。

幕末とは、江戸時代末期の事である。


概要


一般的には船来航の1853年(嘉永6年)から徳幕府が終焉を迎えた1868年(慶応4年)までの約15年の期間を意味する。

近世から近代への転換点であり、戦国時代と並び日本歴史上最も人気のある時代区分の一つである。

19世紀中葉、鎖国状態にあった日本外では英をはじめとする西欧列強がその帝国義によって世界中を席巻していた。 そんな折、嘉永6年6月(1853年7月)、賀に米国の艦隊が来航し開を要動の時代が始まる。


嘉永年間(1853~1855)


「開シテクダサ~イ」とヅラら顔ことペリーを打ち鳴らしながら賀にやって来た!

驚いた幕府はとりあえず引き伸ばしを模索するも、ファキンジャップの手の内を予習済みだったアメ公には通用せず、「1年後ニマタ来マ~ス!HAHAHA!」と言っておきながら半年後にやって来るというフェイントや、今に続く伝統の艦外交をかましたりしつつで終始交渉を有利に進め、がどう見てもアンフェアな日"和親"条約を締結、意気揚々と帰して満足感のうちに4年後にくたばった。

4年後どころから顔が来てすぐにくたばった12代将慶に代わって13代将軍となったのはカステラや吹かしを作るのが趣味のイモ定。 流石に不安に思った老中トップ阿部ちゃんこ阿部や有諸侯たちは「めに次の将軍決めておこうぜ」とグループ結成、一の慶喜を推薦する。 だがしかし、慶喜の出身水戸である事にこだわるチャカポン井伊直弼はじめ譜代大名や大は紀州の慶福こそが血筋的に継ぐに相応しいと、こちらもグループを結成する。 それぞれ一、南紀と称される。火事とか船とか嫌な事ばかり続くのでたまらず元、安政とする。

そんなこんなで幕末の、ええじゃないかのドンチャン騒ぎが始まるのであった。

ペリーの他にもロスケのプチャーチンとか来てるけどめんどいからく。


安政年間(1855~1860)


元した途端に大地震が発生、幸先の悪いスタートである。

「これからどうすんべ」と困った老中トップ阿部ちゃん、船以降慣例を破って全の大名や朝廷に聞いて回るも攘夷攘夷の大合唱

「できるわけねーだろ馬鹿」と思いつつ開明の幕臣を起用したり自称攘夷の巨が遠い爺さんの徳斉昭を宥めるなどソツなく仕事をこなしていたが 体調を崩してそのままポックリ過労死。代わって老中トップになったのはメタボ肖像画の残る堀田である。

メタボ堀田が取り組んだのは朝廷から通商条約調印の許可をもらう事。なんとか朝廷を動かそうとし、成功しかけたものの孝明天皇の拒絶と反対卿達の抵抗に合い失敗。 ちなみに反対した卿の中に加山雄三のひいひい爺さんである岩倉具視が混じっている。

ションボリと手ぶらで江戸に帰ると、メタボの与り知らぬ内にどういうわけかチャカポン井伊直弼が大老に就任しており、慶福(茂)が次期将軍に決定。一替えしていたメタボに対し「お前もうイラネ」とばかりに強権発動、メタボは罷免される。

ところで当時日本に来ていた米国総領事ハリス、そうあの白髪ヒゲデブです。幕府は当時コイツと交渉をしており、ヤツく「ク条約結バナイトエゲレストカオフランストカ来チャウYO!」と言うもんだから焦ったチャカポン朝廷から勅許を貰いたい所。 「ハルリスの首を刎ねよ」とイミフなことを言う水戸ジジイを全スルーしつつ、何とか朝廷許可を貰いたかったチャカポンだったが結局願いわず、ついに独断で日"修好通商"条約に調印。

ちなみにこのハリスとかいう詐欺師まがいのデブ、「メリケント通商結ベバ外トノ交渉ヲ有利ニ進メルヨウ協スルYO!」とか調子の良いことを言いつつ裏では内外の交換率が違うのを利用して小判を外に流出させ暴利を貪ってました。悪い野郎だねー。 コイツのせいでこの後日本国内でインフレ起こったし。大悪党だね。

さておき、通商条約が結ばれ出度し出度し、なわけはなくお冠なのは孝明天皇

「もう幕府なんか知らないっ!」とばかりに幕府を視して水戸に直接ラブレター午の密勅」を送付。 一メンバーと慶喜メンバー水戸ジジイも「どうしてミカドdisったの!?シンジレナーイ」とアポも取らずにチャカポンのところにやって来てなじる。

逆切れしたチャカポンは大反撃を開始。世に言う安政の大である。

手始めに一大名メンバーを強制的に隠居、朝廷の一メンバーは丸坊主の刑、その他とばっちりで開明幕臣や吉田松陰橋本左内などが社会的&リアル殺であぼーん。 この件で一旦事態が沈静化したかに見えたが、面下では「Fuck You...ブチ殺すぞ」とどすい意志が蠢いていた。

イモ方は途中で死んでます。


万延年間(1860~1861)


安政7年の3月3日、現代でいうと3月24日しく降る端午の節句の日に登中の井伊直弼が十数名の暗殺者によって討たれる。 桜田門外の変である。

あまりにもあっけない死に様に江戸中どころか日本中が騒然となり、これ以降西南雄や在野人士の活動が活発になっていく。

嫌な事ばかり続いて憂なので気持ちを切り替えようと同3月元、万延となる。

チャカポンに代わり幕政を取り仕切るは安藤信正と久世広周の2老中。チャカポンべるといまいちキャラが薄い。誰?って感じですね。

「どうも朝廷との関係が上手くいかんべなー」
「んだんだ」
「そうだ天子サマの君を降させるべ」
「んだんだ!」
「きた!武一和きた!これで勝つる!
「んだー!なすばなるー!」

というブロントさんと丸美屋の麻婆茄子を足して割ったような相談の結果、婚約者が居たにも拘らず皇女和宮が14代将茂にぐ事になった。 この件で攘夷の恨みを買った安藤は翌年襲撃を受け、それが元で失脚。久世もフェイドアウト。

その頃薩摩では島津三郎である斉彬の遺志を継ぐという触れ込みで兵を引き連れ京都に向けて出発していた。


文久年間(1861~1864)


リフレッシュの為万延2年2月元、文久となる。

かねてから政治革への関心が高かったサブローこと島津は、幕政革案を携え1000人程のお供を連れてまずは京都入り。そこでは「すわ討幕」と思い込んだ薩摩過激派達が行動を起こすべくニコニコと待ち構えていたが、サブローに袖にされたあげく、中止しなければ手打ちにすると宣告、同士討ちとなる。

朝廷に対して幕政革の建書を提出した後、勅使のお爺ちゃん大原重徳と共に江戸入り。夢の幕末タッグ編が始まる。

対峙したトクガワ・ショーグネートに対し、ショーグンコーケンショク・セージソーサイショクという大技コンボをぶちかますも耐えるショーグネート。だがセコンドの乱入をちらつかせるとショーグネートはたまらずギブアップ。一部を除き要を飲む。

大原お爺ちゃんとのタッグマッチで見事ショーグネートをマットに沈め、勝利を収めたリングネームサブロー・シマヅこと久。ご機嫌で帰途の途中に通りすがったエゲレス人を礼討ちにする。

この件が原因で1年後に薩摩エゲレス間で撃戦が勃発し、油断しきっていたエゲレス人を十数人弾で仕留めるも沿部に損を被り和解。この後薩摩エゲレスとの関係を深めていく。

ついでにエゲレスから要された賠償大久保利通が謀略で全部幕府に押し付けました。しめて7万両、まいどありー。

一方その頃京都では長州士と土佐勤王党を中心とする尊王攘夷中に入り浸り、表ではしきりに攘夷のための朝廷工作を続け、裏では明し・の文吉とかいう割とどうでもいいようなザコを暗殺したり、足利義満の木像の首を引っこ抜くなどやりたい放題であった。

攘夷工作活動に押された朝廷は幕府に対し将軍を上させろとしつこく迫り、ついに嫌々ながらも茂が上する。この時、後に京都治安維持という名コスプレ活動を実践した某団体が同行している。

将軍を「大勝利!」と捉えた攘夷は更に朝廷工作を進め、天皇神社参拝に将軍を同行させてその場で攘夷を約束させようとするなどセコイ手を弄し続ける。

ここで中川宮という人物が急浮上してくる。院宮・獅子王院宮・賀陽宮・久邇宮等コロコロと呼び名を変えることに定評のあるこの人物が、「攘夷ウザス」と薩摩会津に働きかけ、攘夷京都から叩き出す計画をほかならぬ孝明天皇認可の下実行に移す。

文久3年8月18日の政変である。

会津薩摩などによって御所を封鎖された長州激怒し、一触即発状態になるもこの時は攘夷卿達を伴い京都から撤退する。

長州京都から居なくなると幕末の四賢と呼ばれる嶽・伊達山内容堂・島津の四人が京都に集結。徳川慶喜容保が加わった参預会議が発足する。

ここにおいて薩摩の掲げてきた一連の政治革案が成就したかのように見えた。


元治年間(1864~1865)


文久4年2月、出し抜けに元、元治となる。

発足したばかりの参預会議にて孝明天皇の意思に基づき横浜港を鎖港とするかが議題に上る。諸外との関係を考えれば不可能であり、全員当然の如く鎖港など非現実的で一致すると思っていたが、ここに来て急に徳川慶喜横浜鎖港すべしとし始めた。

これまでの意見と正反対であり、慶喜の変節に一同(゚Д゚)ハア?と首を傾げる。不信感が高まる中、席で慶喜が久らを罵倒。これが参預会議終了のお知らせとなり、やる気をなくした四賢は参預を辞任して全員。参預会議はあっけなく幕を閉じる。

6月京都に潜伏中の攘夷による京都焼き討ち計画が本当にあったかどうかは定かでないが、とにかく新撰組という名のコスプレ団体にもたらされた。

局長以下、これは一大事と浅葱色コスチュームを着込んで出動し、池田屋という館に押し入って容疑者達と乱闘。双方に何名か死者が出た他、多数捕縛される。いわゆる池田屋事件である。これ以後新撰組コスチュームは何故か浅葱色からずくめに変更されたと言われる。

池田屋事件の知らせを受けた長州では過激派を押さえられなくなり、ヒゲもじゃのガチムチ老兵来島又兵衛松下村塾出身者の久坂玄瑞らが京都へ進発。名天皇に謁見して弁明するというものだったが論全で断られる。

7月会津薩摩などで構成される幕府軍と京都で衝突。御所に攻め入るも西郷隆盛率いる薩摩により押し返され、来・久坂ら有者が次々と戦死・自害する。

京都は戦乱の大火に見舞われ3日に渡って燃え続けた。この戦乱を禁門の変、もしくは蛤御門の変と言う。

戦乱の後、乞食の格好をして潜伏していた桂小五郎は一旦補導されるも、便所に入った隙に逃げ出し「逃げの小五郎」と異名を取る。ついでに行方不明となる。

一方その頃長州では英連合艦隊と交戦した結果沿部を占領される非常事態に突入していた。

戦後から召し出された高杉晋作が通訳として伊藤博文を伴い連合艦隊の代表と和議の会見に望む。

「賠償?んなもんねーよ」と賠償要を断った上、幕府の命でやった事だから幕府に支払わせるべきというを貫き通す。話題代わっての租借の話になると古事記を暗唱し始めて相手を煙に巻き有耶耶の内に和議を成立させた。

一難去ってまた一難。今度は幕府が諸からかき集めた10万以上の大兵長州を包囲する。参謀を務めていた西郷は当初長州を滅ぼすべきと考えていたが、同じ時期に勝舟と会談した際、幕府内部のgdgdっぷりを聞かされた為、幕府有利に進める事を思い止まる。

局長に対しては家老や重臣の死罪と恭順の約束を取り付けるという較的軽い内容で沙汰止みとなる。

恭順の意を示した長州内では佐幕流となり、高杉の理解者だった周布政之助は自害井上は暗殺未遂により瀕死の重傷、行方不明のまま、高杉九州に逃亡とまさに火が消えかかっていた。


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最終更新日: 18/10/07 19:46
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