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平城天皇


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平城天皇(774~824、在位:806~809)とは、日本の第51天皇である。諱は安殿

在位3年、四半世紀の治世を展開した桓武天皇平安時代に繁栄をもたらした嵯峨天皇の間に挟まれた、いわば影に隠れた天皇であり、しかも藤原子を中心とする政変により憂きを見て余生を過ごす事となってしまった今日あまり良いイメージ天皇である。


誕生~即位


774年8月、当時皇太子であった桓武天皇藤原漏の間に長男として生まれた。
この当時、出自というものは重視されの桓武自身も高野)の身分が高いとは言えず劣等感を抱いていたという。その事も含めてかは後に皇后として冊立され平城天皇は皇后からの生まれとなり系の出自は桓武天皇や祖天皇以上によかったといえる。

781年に桓武天皇天皇から譲位を受けて正式に即位し1ヵ後には良親王を皇太子に命じる。
そしてこの年の12月天皇70年の人生を全うして崩御した。

桓武天皇、そして皇太子良親王と天皇皇太子が決定し何事もなく進むと思いきや、藤原種継事件が起こりその関係者として良親王の太子・流罪を桓武天皇が申し付ける事となる。親王は実を訴えるべく絶食をしたがやがて憤死した。

このような事件が起きた一因に桓武天皇長男である平城天皇の存在が大きく関わっていた。
平城天皇は当時幼少且つ病弱良親王は不幸にもいざという時のための予備的扱いだったといえる。平城天皇がと共に幾度か政に関わり政治的立場を確立していくと次第に良親王の立場は薄れていき、その危機感が周囲を刺して事件に至ったという。

いずれにせよこの不遇の事件は良親王の憤死に繋がり変地異や周囲の人物の度重なる死など、祟りと思われるような出来事に桓武天皇は度々悩んだらしい。

事件が落ち着いた後日、平城天皇は立太子されいよいよ皇太子に任ぜられる。この間、皇太子に仕える人物も決められ中には「皇太子の師」と仰がれるような人物もいた。平安京造営と夷征伐は国家の事業として大事だ!VS平安京造営と夷征伐はが掛かり負担が増すだけだ!の徳政論争でお染み菅野である。平城天皇は彼から帝王学を学んだといわれる。

806年、桓武天皇が崩御し平城天皇は即位。この時に皇太子時代の平城天皇と不倫の仲となり桓武天皇の怒りを買い追放を受けていた藤原子が尚となって再び戻ってくる。この頃にはら(後の嵯峨天皇・純和天皇)はもちろん息子保親王も誕生しており、その後の政変など露知らず政に取り掛かるのであった。

ちなみに不倫にキレた桓武天皇一妃ではない済永継とも関係を持ち子供(良峰安世)も生ませている。
愛人を奪われた事、似ている状況があった事、平城天皇は「上だって…(´・ω・`)」と拗ねたかもしれない。


治世


平城天皇の在位は僅か3年桓武天皇25年や嵯峨天皇の15年にべれば少ないのは一瞭然である。
しかしその少ない在位期間でも積極的に政治を行っていた。

平城天皇のスタイル地方行政を重んじる政治であった。巡察使、察使、観察使などを地方派遣し現地の実情を調べさせて地方の正常化をすというもの。これは祖天皇に通ずる政策でもあった。

また本来地方で起こった問題は天皇が命を下し解決に向かわせるが、それは天皇→太政官→それぞれの地方へという形で、命は太政官が全て把握出来た。平城天皇はこれを天皇→観察使→それぞれの地方へという具合に観察使との連携を強めた。太政官符や詔勅に必要な印を捺す事も太政官から観察使に移ったとされ、太政官全体が把握する事態を合わせて数人の観察使らだけが実情を把握行政が行われるようになる。

このように個別との関係を強にして政治に臨むスタイルも平城天皇の特徴であった。

他にも数々の定員の増減やの併合・女(地方族出身の女性)の貢献停止・氏女制度変や兵衛府の革・少納言増員などの大規模な官制を次々に行う。

平城天皇の治世は国司に厳しく農民に優しいという、民第一の地方行政を展開した。また官僚機構を整理して簡素化をした官制革を行った。桓武天皇の政策と違えどこれはこれでまた評価されるものでもあると思われるが貴族たちからは様々な不満を買ったようで跡を継ぐ嵯峨天皇の政策はこれらを否定するような方向性となる。


譲位


809年4月1日、平城天皇は突然譲位を宣言した。それを受けたのは嵯峨天皇突然の譲位に嵯峨天皇は驚いていたらしく何度か辞退したもののどうやらエイプリルフールでもなんでもないの本気の譲位と悟ったのか、の第三皇子であり甥でもある高岳親王を皇太子に立てて正式に天皇に。そして平城天皇は太上天皇(上皇)として君臨する事となる。

譲位の理由やそれに至るまでの経緯は様々あるが一説に心身の不良が原因ともいわれる。


政変


その後、上皇はへの遷都を決起した。-しかしこれが引き金となる

この遷都に反感を覚えた嵯峨側が慌しくなりいよいよ上皇と嵯峨天皇対立するに至った。上皇の深い情を受けていた子は二所朝廷の状態を利用し政権を分させようと図り、・仲成もそれに加担し上皇の復位を望んだとされる。このためこの政変は子の変と呼ばれるのだが最近では太上制度が王権分の原因とされたり、上皇の罪を藤原仲成・兄妹にただなすりつけただけとして太上天皇の変と呼ばれる事が多くなってきた。

嵯峨天皇遷都を拒否し伊勢近江美濃の三の関を固め仲成は監禁・左遷を経て射殺され子は官位剥奪。上皇は怒って軍事行動に出たとされる。しかし嵯峨天皇側の軍事的防備を知った一行は勝てる見込みはないとやむなくへ戻り剃髪子はを仰いで自殺し政変は終結した。

この政変で上皇は政治的立場を絶たれ、第三皇子で嵯峨天皇皇太子となっていた高岳親王は太子に至る。
上皇にしては悲しい末路であるがこの政変はいくつか疑問もあるという。

などなどの見方もされるようで、一概に子や上皇だけが悪いとは言えないかもしれない。

そもそも天皇と上皇は同じ権威を持っており、つまり天皇が二人いるような感じである。最高の権威を持つ人間が複数いれば対立が起きるのはほぼ必然であり、それは末期の院政や保元の乱などにも繋がってくる。
太上天皇制は自らもそこに就いた持統天皇の時代から存在したがそのほとんどは摂政のような立場であったりしたので特に立った対立は起きていなかった。しかしここに至り上皇と嵯峨天皇が対立したため太上天皇制の見直しのきっかけにもなったとされる。

色々な見方があるとはいえ、嵯峨側の勝利となってしまったのは事実上皇はで残りの人生を過ごす事になるのであった。


変後


政変で敗北政治世界から身を引くことになった上皇だが、太上天皇の号は剥奪されていなかった。また高岳親王は四品に叙されてある程度の立場で落着し保親王は息子たちの臣籍降下を許可され在原臣を名乗る。その中の五男が在原業平であった。
上皇自身は東大寺の宝物をいくつか購入出来たりと称号を有していただけにそれなりの扱いは受けていたらしい。

権威はあったためにも仕える貴族などは配置されていたようだ。しかし今更配置され続けても駄だと思ったのか、823年の嵯峨天皇譲位をきっかけにそれを申し入れた。上皇と嵯峨上皇と、二人の太上天皇が存在する事となるのだが、間もなく上皇は自らの意思も含めて太上天皇称号を辞める事となる。

824年7月上皇は51年の生涯を終えて崩御した。諡号は「天皇
その陵墓(陵)だが、なんと他人の墓の使い回しらしい。 上皇はそれをどう思ったか知る由もないがその屈辱に嘆いたか、「いいよもう…(´・ω・`)」と開き直ったか…


毛利元就との関係


戦国大名として有名な毛利元就だが実は「自分は平城天皇から数えて25だ!」と書き残しているという。
元就の先祖で名が知られるのは末期から鎌倉時代にかけて源氏の御人として活躍した大江広元だがその大江「おおえの」読み桓武天皇から賜った姓。一般的なのはこちらだが他の説に広元の先祖・音人保親王の落胤という説が存在し、それに則って元就もそう名乗ったとされる。偽は不明だが毛利に繋がっている可性も否めない。


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最終更新日: 13/03/30 13:57
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