7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します
応仁の乱とは、応仁元年(1467年)~文明九年(1477年)の間に起った、将軍家をはじめとする幕府勢力の内乱である。応仁・文明の乱とも呼ばれ、戦国時代の端を切った戦乱としても有名である。
戦国時代の始まりのひとつとも言われる内乱。(※今日では1493年の明応の政変を始まりに据えることが多い)
教科書でも間違いなくその名を習う非常に有名な出来事であるが、どうしてこんな戦いが起こったのかについてはスルーされている事も多いので知らない人も多いと思われる。何故この乱が起こったのか、当時の興福寺の僧侶・尋尊の書き記したところによれば
「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」
…という事で、当時のトップクラスの知識人からしても意味不明な戦乱だった。ざっくり説明すると
といった辺りが原因といえる。様々な思惑で乱は長期化し、室町幕府の統治体制は崩壊へと向かっていった。
▲南北朝の動乱のさなかに産声をあげた室町幕府だったが、将軍である足利氏の権力基盤は、かつて鎌倉幕府を支配した北條氏と比べると貧弱というべきものだった。これは創立者である足利尊氏の性格や、動乱のさなかに在って敵味方に様々な妥協をして政権を維持していった結果だった。このため、将軍は諸大名の権限の上に権威をもって君臨するという形となり、幕府政治は諸大名たちの合議の上に成り立つものだった。この体制は自国の安定や、他家との調整を望む守護大名たちにとって必ずしも悪くないものだったが、将軍にとっては形式的とはいえ上位にいる自身の命令が必ずしも実行されないこともあった。
この貧弱な将軍権力をいかに獲得するかが、幕府滅亡に至るまでの歴代将軍の課題となった。
▲この課題を相当程度達成したのが足利義満である。諸大名の内乱を誘発し、将軍が制御しやすい片方の勢力に介入することで、有力大名たちを次々と弱体化させて、自身が制御しやすい相手としたのである。幕府の政治は義満の専制となっていった。ところが、こうした政策は義満の死で頓挫し、次代の足利義持の代では、関東との緊張や巻き返しを図る大名たちの画策もあって、幕府の体制は従来の合議体制へと戻っていく。
こうした流れの中で、義持の死後第六代将軍に就任したのが足利義教だった。宿老たちが生きていた時分は比較的押しとどめられた彼も、宿老たちが相次いで世を去ると、万人恐怖と称された強権政治をもって守護大名たちを排除し、将軍権力の確立を推し進めていく。こうした政策はほぼ達成されたかに見えたのだが、恐怖政治故に排除されるのではないかと疑念を抱いた播磨守護赤松満祐によって弑逆される。
残された義教の息子たちは幼く、更に七代将軍足利義勝は早世。義教の死後八代将軍足利義政の成人までの8年ほど将軍権力は空白となる。これが、将軍権力の弱体化となっていった。
▲混沌の中、8代将軍に就いたのが足利義政。しかし彼は有力大名を抑えこむことが出来ず、次第に政治を嫌い文化の発展へのめり込んでいく。さらに、彼は正室・日野富子との間になかなか子ができなかった。(正確にはできたけど早死)
隠居したいのに後継者がいない。窮した足利義政は、実弟の足利義視に対して将軍の後継者になるように要請した。義視は、兄が30歳にも満たない年齢で隠居することに戸惑い、義政に男子ができれば後継者争いの元となる…という理由で拒絶したものの、「子供が出来ても将軍職は義視に譲る」と起請文まで書かれたため、しぶしぶこれを承諾する。後見役には、三管領のひとつ・細川家の細川勝元がついた。
ところが、足利義政の正室日野富子に男児が誕生(のちに足利義尚となる)。日野富子は自身の息子に将軍職を継がせたいと考え、四職にあたる山名家の山名宗全を後見人につけた。
足利義視・細川勝元の勢力と、足利義尚・山名宗全の勢力は当初こそ直接の軍事衝突はなかったものの、三管領の1つである畠山家にて家督争いの激化(畠山政長と、その従兄である畠山義就の家督争い)に端を発して、ついに戦争が発生した。10年以上の長きに渡る「応仁の乱」である。
▲応仁の乱が起こるまでにはいくつもの伏線があった。様々な対立構図が最終的に細川勝元と山名宗全をそれぞれ頼るような形で結集し、それが応仁の乱という形で爆発に至ったのである。
色々な場所で分裂・対立が起こっていたのには、足利義教や足利義政が各地の大名家に介入して火種を作っていた事も大きな理由だった。足利義満はその類まれな政治感覚で介入・挑発を繰り返しては守護大名たちの力を削いでいったが、その再現とはならなかったのである。特に義政は当初は有力大名たちに対抗するため、自分の側近たちによる派閥を新たに作ろうとしていた。が、あまりにもコロコロと方針の変わる義政陣営の行動が問題視され、1466年に『文正の政変』で側近たちは一掃された。義政の政治力は一気に低下し、やる気も消滅してしまう。
この政変によって足利将軍家は「武家の調停役」という幕府本来の役目を果たせなくなり、応仁の乱がズルズルと続く一因となった。
既に前項で述べられたように、元々は足利義視(義政の弟)を後継とする予定であったところに、足利義尚(義政の子)が誕生した事で二派に分かれた。
嘉吉の乱(1441年)で山名宗全が赤松満祐を討伐し、赤松氏は一時滅亡していた。ただ、これにより山名氏の勢力が強くなり過ぎた為、警戒した足利義政は赤松氏の再興を企んだ。もちろん宗全は反対したが、最終的に赤松政則が加賀半国を与えられて再興(1458年)。
旧領である山陽地方を山名氏から取り戻すため、赤松氏は反山名(つまり東軍)に接近していく。
大内氏は日明貿易から大きな権益を得ていた。そこに注目していた細川勝元は、伊予の河野氏の当主人事に介入するなどして瀬戸内への影響力を強め、最終的には大内氏の権益を奪おうと考えていた。この争いは大内教弘・大内政弘と父子二代に渡って続いていた上、教弘の妻が山名宗全の養女であったことも手伝って、大内氏は山名方(西軍)に接近していく。
畠山持国は足利義政の将軍就任当初の最大の実力者だったが、跡継ぎがいなかった。このため当初は弟の畠山持富を後継に指名していたのだが、晩年(1448年)になって庶子・畠山義就に後継者を変更してしまう。当然お家騒動が勃発した。
持国と対立していた細川勝元・山名宗全らは持富の子・畠山弥三郎を支持する(持富は1452年没)が、畠山氏を自分の派閥に取り込みたい足利義政は義就を後継者として認めてしまった。
しかし義就は失策続きであっという間に義政の信頼を失ってしまう。弥三郎は1459年に早世したが、代わってその弟・畠山政長が勝元らの支援の下に取り立てられた。
失脚した義就の方は宗全の力を借りようと接近する(→西軍)。文正の政変で義政側近が一掃されたのをチャンスと見て、宗全らは政長を追放処分とし、義就を当主に復帰させることに成功した。当然ながら納得いかない政長は、勝元の下へ走る(→東軍)。
宗家・斯波武衛家で後継者無く当主が死去したため、分家から斯波義敏が入って家督を継いでいた。だが、義敏は守護代の甲斐常治や朝倉孝景(敏景)と対立してしまう。間の悪い事に、享徳の乱鎮圧のための援軍総大将として関東へ出陣する事を幕府に命じられるも、守護代勢力との睨み合いから動くに動けず、これを無視してしまった(1459年)。
これが問題となって義敏は追放され、代わって堀越公方足利政知の側近・渋川義鏡の息子である斯波義廉が斯波氏当主に就任した(1461年)。ところが渋川義鏡はまもなく不祥事を起こして失脚してしまう。
義敏は足利義政に接近し、義廉との激しい主導権争いの末に義敏が当主に復帰する(1466年)。義廉は山名宗全の娘を妻に迎え、宗全の力を借りての復権を目指した(→西軍)。
文正の政変に巻き込まれて義敏は失脚し(当主復帰から僅か半月後という慌ただしさ)、当主はまた義廉になったが、義敏は当然対抗するために細川勝元の力を借りようとする(→東軍)。
▲この乱が始まり、長期化した主な原因としては、
が挙げられる。将軍家の跡目争いの当事者たる、8代将軍足利義政、将軍後継候補の足利義視(弟)、足利義尚(息子)たちは、主導的に諸大名の争いを収めようとした形跡が殆ど見られず、逆に山名宗全に懐柔されて畠山の内紛を広げるなど、芯の通らない態度を足利将軍家がとり続けていた。
2つ目の「各勢力の寝返り」は凄まじいものがあり、数多くの諸大名が返り忠を行っていた。富樫政親、朝倉孝景などはその代表である。さらに両軍の人間関係は複雑で、西軍総大将の山名宗全の息子・山名是豊は東軍に所属し、父親の西軍と戦っていた。さらに途中からはトップの将軍家まで入れ替わってしまう。
そして、更に厄介だったのが「陣営内部の目的の不統一」である。もともと、将軍家のお家争いを軸として両陣営は争っていたものの、各勢力が西陣や東陣に参加した理由は全く違った物だった。例えば、乱の中盤で大内家が西軍として参戦するが、これは大内家と細川家の瀬戸内の覇権争いや明との朝貢貿易権の争いに端を発する物で、余り各勢力のお家争いとは関わりが無かったりする。つまり、大内家にとって必要な明との貿易から細川家が離脱することなのだが、細川家からしてみれば、将軍位を巡る争いでこの条件はのめないわけである。一方、東軍に付いた赤松家は旧領播磨奪還を望んでのことであるが、現所有者山名家からすればやはり飲めないわけである。
こんな有様なので、両陣営とも和議を結ぼうとするものの、大名毎の和議の必要条件がばらばらで、交渉内容が多岐に渡り複雑化して、あちらが立てばこちらが立たずと言った様で、全く交渉が進まなかったのである。実際、1473年には足利義尚の将軍位が決定するが、その後も戦いは続いたし、大内、細川間や山名、赤松間では和議の後も戦いが続けられたのである。
こうして、応仁の乱は長期化し、京は焼け野原と化す。更に、「将軍家の跡目の決定=権力の獲得」を一応の目的としていたはずの戦争によって、権力の象徴たる足利幕府は著しく弱体化していた。
最早、勝っても何も得られない。何のためにやっているのか…。
山名宗全が自殺しようとして家臣に止められる、という所業を行うくらいに厭戦気分が高まっていたのに、やめどきが分からない。そんな乱は、細川勝元、山名宗全の相次ぐ病死によって終息の兆しを見せ始め、勝元の息子・細川政元、宗全の孫・山名政豊によって和議が結ばれ、9代将軍に足利義尚が就任することで一応の終わりを見た。
この応仁の乱は、殆どの勢力にとって徒労に終わる。以下に主要大名のその後を辿る。
9代将軍に足利義尚が就任する。なお、応仁の乱終結時に、全国の守護大名が戦乱で疲弊し、三管領も斯波が没落、畠山が分裂、細川が幼主となったため、幕府の権力は大暴落したものの、義政が健在であった将軍家の権威が相対的に上昇することとなる。
だが、近江の六角氏征伐の最中に25歳の若さで死没する。更に、8代将軍足利義政も死没し、結局将軍家継承のため再び足利義視にお鉢が回ってくる。つまり、応仁の乱の主目的が十年ほどでさっぱり意味失ったことになる。やがて足利義視の息子である足利義材が相続する(10代目将軍)。ところが足利義政の正室・日野富子と、将軍の父親である足利義視の対立が激化し、日野富子は細川政元と協力して足利義材を京都から追放。1493年には足利義澄を11代将軍に据える。
やがて1496年に日野富子が病死、1507年に細川政元が暗殺されると、細川家で内紛が発生する。足利義澄は細川家の援助を得られないまま、大内義興を味方に付けた前将軍・足利義材が義尹と名を変えて、京都に侵攻。足利義稙とまたも名を変え、再び将軍職に返り咲く。ちなみに二度も征夷大将軍に就いたのは彼だけである。
足利義澄は近江六角氏のもとへ逃れ、細川澄元や三好之長らの援助を受けて義稙勢力と対立する。一度は京都を取り戻すも、決戦を前に死亡。義澄方は敗北し、阿波へと逃走する。
結局足利家の内紛はそのまま続き、10代将軍の足利義材勢力は養子となった堺公方足利義維に引き継がれ、一度崩壊するも、ここから14代将軍足利義栄を輩出、11代将軍の足利義澄勢力からは息子で12代将軍の足利義晴、孫の13代将軍足利義輝、15代将軍足利義昭を輩出する。カオス。
山名宗全の死後、紆余曲折あって孫の山名政豊がおさめるが、乱の最中から叔父の山名是豊に代表されるように、既に内部対立が加速していた。同じく四職で因縁のあった赤松氏との対立を深め、播磨に遠征するも失敗、備前美作を取り返され大きく権勢を落とす。やがて息子の山名誠豊の代には、山名四天王と称される地元有力守護代に押され、更に隣国からは尼子の侵攻もあって、かつて武を持って鳴らした山名氏の勢力は見る影もなく没落していった。
やがて養子の山名祐豊、そこから山名豊国と継承され、この代で織田信長、豊臣秀吉の勢力拡大に屈して江戸時代を迎える。