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忠臣蔵(ちゅうしんぐら)とは、赤穂事件を元にした歌舞伎や人形浄瑠璃、映画・ドラマの作品群。
時には赤穂事件そのものを指す。
元禄14年(1701年)3月から元禄16年(1703年)2月までに起きた
までの一連の出来事の総称。
この「赤穂事件」と後世の作品群との混同を嫌うWikipediaでは厳密な区別がなされているが、本稿では「忠臣蔵」と言う名称が歴史的にも人口に膾炙していることや、検索上の理由からあえて忠臣蔵を記事名にしている。
▲この日、朝廷への年賀の返礼として3日前から江戸に下向していた院使(上皇の使者)・勅使(天皇の使者)への返事を奏上する「奉答の儀」が、江戸城本丸内白書院にて執り行われる予定になっていた。
この儀礼の指南役に充てられていたのが高家(こうけ)旗本・吉良義央である。高家とは幕府と朝廷とのやり取りを取り仕切る役職・家柄であり、当時の吉良家は高家筆頭の立場にあった。
一方、事件を起こした赤穂藩主・浅野長矩は同年、吉良の補佐役に任命されていた。この日は院使・勅使を接待する「饗応役」に任ぜられていた。
巳の下刻(午前11時半過ぎ)、江戸城内・松の廊下で留守居番・梶川頼照と居合わせ挨拶していた吉良に対し、突然、浅野長矩が刀で斬りつけた。
吉良は背中と額に刀傷を受けて卒倒、浅野はその場で梶川に取り押さえられた。
その理由について浅野は
上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候
(吉良には以前から遺恨があった為、殿中であり、また今日は大切な儀式があると知っていたが、止むを得ずに討ち果たした)
と語ったが、「遺恨」の具体的な内容は不明だった。
この騒動に五代将軍・徳川綱吉は激怒。浅野長矩の即日切腹と浅野家の改易を命じた。
この時、幕閣や取り調べを担当した役人たちの間では「今少し時間をかけて取り調べるべきでは」という慎重な意見も出たが、勤皇意識が強く、また生母・桂昌院の従一位叙任を急ぎたい綱吉は事件の早期収拾を図り、これらの意見に対し聞く耳を持たなかった。
その一方で被害者の吉良は「抵抗しなかったことが殊勝」とされ、何の咎めも受けることはなかった。
陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷に預けられた浅野は、戌の下刻(午後7時半過ぎ)に切腹。死ぬまで動機については先に述べた通り遺恨があったことしか話さず、その遺恨の内容も明かすことはなかった。
また切腹までの待遇はかなり悪く、大名クラスの切腹は屋敷の中で行われるのに対し、庭先での切腹という扱いであった。これには怒りの治まらない綱吉の強い意向があったという説がある。
遺体は江戸の赤穂藩藩邸に詰めていた藩士たちが引き取り、浅野家の菩提寺であった泉岳寺に葬られた。正室・亜久里は即日落飾し、名を瑤泉院と改めて麻布の屋敷へと移った。
国元の赤穂に第一報が届いたのは、事件から一週間後の3月20日であったとされる。これには藩主が刃傷に及んだことのみが記されていた。
ただ、その後の情報がなくても以後の切腹・改易は容易に想像でき、藩札の回収や禄の整理が始められた。藩士たちはのちに四十七士のリーダーとなる家老・大石良雄と岡島常樹を中心に、藩政の混乱防止に努めている。
3月25日には江戸藩邸の召し上げを知らせる使者が到着。これでいよいよ改易は決定的となり、27日には今後の対応についての話し合いが持たれた。
この席で籠城して異議を唱えるべきだとする強硬派と、潔く開城してお家再興を図るべきだとする穏健派が対立。前者は足軽頭・原元辰(岡島常樹の弟)、後者が家老・大野知房である。両派の対立は翌28日の赤穂城接収の決定で、さらにエスカレートした。
一方その頃、赤穂藩には連座を恐れる浅野氏縁戚から開城を求める使者や手紙が殺到していた。この事態を憂慮した大石良雄は両者の仲介と、幕府の使者への対応に奔走する。
まず、使者には「開城したいが、藩主を慕う無骨者ばかりなので」と煙にまいて時間稼ぎをし、籠城派と開城派には「みなで切腹して殉死しよう」と、あえて誰の本命ではない第三の道を提示して衝突を防いだ。
4月に入ると吉良の生存も明らかになり、江戸詰め藩士(中心は堀部武庸。彼らは切腹事件の当事者であるため、吉良への憎しみが強かった。俗に江戸急進派とも)も帰藩して詳細を報告し始めたため「開城して下野し、しかる後に仇討ちをしよう」と言う方向に藩論を誘導した。
こうした一連の大石の尽力は成功し、藩論は開城に定まった。
さらに藩に残っていた財産の分配も下級藩士たちに厚くし、自身は取り分を放棄したことから人望も集める。ついには神文または義盟と称して運動への参加・暴走阻止の誓約を、同志たちから取り付けた。
一方、開城派であった大野は上級藩士優先の分配を主張して支持を失い、さらには解雇された足軽たちの強盗騒ぎもあったため4月12日赤穂から逃亡。最初の脱落者となった。
こうして赤穂城は開城、幕府に引き渡された。しかし大石はその後も残務処理の傍ら、まずはお家再興のために請願活動を開始。接収役に任じられていた大名たちに接近し、一人から支持を取り付けている。
7月には京都に拠点を構え、縁戚である大垣藩を通じた工作に全力を挙げる。しかし、これらの活動は堀部たちには変節に映ったらしく、しきりに仇討ちを要求し、ついにはお家再興や浅野長矩の養子で後継者の浅野長広をも軽視するような言動を取り始める。
慌てた大石は10月に堀部が在住していた江戸へ向かい会談を持った。
この席で一周忌に当たる翌年3月の仇討ち決行を約束し、それまではお家再興活動を続けることに理解を得る。幸か不幸かこの頃になると脱落者も増え始め、堀部の周辺人物からも幾人かが脱落したためにその権威は失墜。リーダーの大石に異を唱える者は少なくなっていった。
そうしていよいよ約束の3月に入ったが、この時点ではまだお家再興の行方が分からないため、大石は延期を決定した。しかし堀部は激怒し、大石の殺害までを視野に独自の仇討ち路線を模索する。しかし、これも不幸中の幸い(?)か、7月に浅野長広の広島藩お預かりが決定したためにお家再興は絶望的となり、浪士たちの間で大石含め方針が敵討ちに一本化する。
同月28日、京都円山で同志が参集(俗に言う円山会議)。正式に吉良への仇討ちが決定され、一連の運動はここに大きな転換期を迎える。
この時点まではまだお家再興のみを考え、仇討ちは本心ではない藩士も多かった。
このため、大石はまず運動への参加を誓った証紙を一旦参加者に返還した上で、仇討ちに賛同する者のみ再度提出するように迫った。神文返しと呼ばれるこの行為により、130人いた同志も60人ほどになったらしい。
11月、大石一行は江戸に潜伏。討ち入りのための武器の手配や吉良家の屋敷の絵図の入手に全力を尽くす。しかしこの期間中にも脱落者は発生し、12月14日の段階で最終的に残った人物は47人となった。
2日には最終会議が持たれ、討ち入りの際の手順や手柄を独占しないことを約束させた。
12月14日深夜、47人の浪士たちは江戸本所にあった吉良屋敷を襲撃。
赤穂藩は山鹿流兵法を採用しており、これが推奨する袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、陣太鼓を叩きながらの突撃とされる。
ただし実際は全員が黒衣で模様は統一されておらず、鎖帷子を着込んでいたらしい。また陣太鼓は所持していなかったことも明らかになっている。
一方で吉良家でも赤穂浪士の襲撃を警戒しており、当日は百人近い侍や足軽が詰めていた。
しかし、浪士たちが「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」とあたかも数百人規模で押し寄せているかのような偽装の掛け声を出していたため身動きが取れず、さらには武器庫を抑えられて弓の弦を切られるなどの策略もあり比較的簡単に制圧されて行った。また上記のように浪士方が鎖帷子を着込んでいたため、切り合いに及んでも勝負にはならなかったとされる。
乱戦の中、仇である吉良義央の身柄はなかなか確保できなかった。浪士の間でも逃亡された懸念が広がり始めたが、台所横の炭小屋から声が聞こえたため、捜索を開始。
すると食器や炭を投げつけられ、次いで吉良家家臣と思われる人物が切りかかって来た。素早くこれらを切り捨て、さらに奥で動くものがあったため槍でついた。たまらず飛び出たのは老人であり、脇差で抵抗したために浪士の間光興が首を切った。これを検分すれば額に傷があったため、吉良義央と確認。ここに討ち入りは成功した。
浪士たちは火の始末をした後、吉良の首を掲げて回向院に向かった。しかし受け入れを拒否されたため、泉岳寺へ移動。そこで浅野長矩の墓前に首を捧げ、仇討ちの成功を報告した。
また、数人の浪士に討ち入りの口上書の写しを持たせた上で、大目付・仙石久尚の屋敷に出頭させた。これを受けて仙石は直ちに江戸城に登城して幕閣に報告、幕閣は一旦浪士たちを泉岳寺から引き揚げさせた上で仙石の屋敷に移動させた。
なお、この過程で足軽・寺坂信行は離脱。浪士は46人となっていた。
仙石の屋敷からさらに46人の浪士は、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に預けられた。事件の噂は少なくとも江戸の武士たちには当日から広まっていたらしく、特に同じ境遇を持つ浪人たちからは赤穂浪士の行動を義挙として熱烈に支持する者も多かった。
一方、上級の大名や幕閣の間でも判断が分かれており、当事者となった仙石久尚と身柄を預かった細川家・水野家は彼らを厚遇、助命まで嘆願しているが、毛利家・松平家では罪人として冷遇している。
学者の間でも盛んに議論が行われ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張。しかし逆に荻生徂徠は「46士の行為は義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」と主張した。
徳川綱吉は一年前の浅野の暴挙に対する怒りもやや薄れていたのか、本人が儒教の忠孝をすすめていたこともあったのか、赤穂浪士の討ち入りそのものには美を感じていたとされる。
しかし、助命することは一度自身が下した裁定の誤りも認めてしまう結果になりかねなかった。また輪王寺門主・公弁法親王の「46人を生かしたとて一人でも堕落すれば今回の義挙に傷がついてしまう。だが、今の内に殺せば美として語り継がれるだろう」と言う意見もあり、最終的に名誉を尊重した上での切腹に決定した。
その上で吉良家を改易処分とし、子息の吉良義周を流刑とした。
切腹は預けられた先で順次行われた。大石など身分の高いものを除いては扇子腹(切腹と斬首の中間に相当)だったとされる。
この時細川家では最高の格式を用意し、庭の玉砂利に流れた血を洗い流す事なく、彼らの「義」にあやかろうとしたと伝えられている。
ドラマなどでは四十六士が一堂に会して沙汰を受けるシーンがあるが、これは事実ではない。
また四十六士の内、出家していなかった子息たちも連座して遠島などの処分が下された。しかし時間が経つにつれて同情論が噴出。宝永6年(1707年)に綱吉が死去すると直ちに恩赦が下されている。
広島藩に預けられていた浅野長広も同年に赦免。浅野家の「旗本としての」再興が許されている。
▲この事件は当時の幕政には何らの影響も与えなかったが、文学的な影響は大きかった。
事件の翌年には早くも歌舞伎において「傾城阿佐間曽我(けいせいあさまそが)」という、曽我兄弟の討ち入りにこの事件を仮託した作品が発表され話題を呼んだ。ただし幕政を挟む出来事であるため幕府の厳しい監視は存在し、以後明治までは他の歴史事件に仮託すると言う手法が取られた。
これら作品群の集大成は言うまでもなく寛延元年(1748年)に発表された「忠臣蔵」こと「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」である。当初は人形浄瑠璃で演じられていたが、歌舞伎においてもほどなく演じられるようになり、現在に至るまでの虚虚実実の忠臣蔵像を確立した。
実に赤穂事件から47年後のことであった。
おそらく赤穂浪士事件の中では一番論じられてきた論点ではないだろうか。
現代に到るまでも諸説あり、有名なものとして