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忠臣蔵


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このうち1については今でも文学作品などで知られている。
ただ注意しなくてはならないのは、この時代は現代と違い賄賂は悪ではないと言うことである。
もちろん、田沼意次のように批判された例はあるが、多くは反対者が敵をこき下ろすまたは失脚者を悪しざまにする常套手段とも取れる(実際に田沼政治批判した松平定信も自身は賄賂を貰ったり渡したりはしていた)。
そもそも、現代の企業と違って必要経費が生じたらその都度経費として支給される社会ではなく、大名や高家は幕府の命を受けたら自前の費用で役職を果たすのが前提。大名はまだ財産的な余裕はあるが、1万石以下(吉良の場合は4200石)の高家全額負担することは到底不可能であり、共に役職についた場合に大名側の負担が多いのはむしろ当然なのである。高家が大名にこれを要することもどちらかと言うと必要経費の請に近く、これを同時代の人間の、しかも支配者階級にいた浅野が知らない訳はない。
また、吉良からしても実際に饗応を担当する浅野側がミスを犯せばそれを南していた自身にも責任が及ぶ(江戸時代は今とはべものにならないほどの連帯責任社会)ため、そこまで酷い仕打ちをするとは考えにくいという説もある。
加えると、綱吉が院の従一位叙任に神経質になっていたように、この時期の朝廷対策は最重要課題であったために手抜きが許されるはずもない。

2については一次資料には全く見られない。また1と同じく不手際の責任までを考えると首を傾げたくなる気はする。

3は大河ドラマでも取り上げられ、現在でも歴史好きの人たちからされることもある。
しかし、実際に吉良の所領に塩田は存在しない。現地の吉良町を見ると遺構があるように見えるが、実際は飛び地として他の旗本が支配していた。この為現在では3は否定されている。

4は性格までは当事者にしか解らず、否定のしようもない。
ただし、吉良悪人とする資料のほとんどは事件から数十年後のモノであり、一連の忠臣蔵作品の影は排除できない。一方、浅野がキレやすい人物だったことは臣へのそれまでの処遇からも見え隠れしている。

総じて言うと、前後関係から饗応役を巡ってトラブルがあったとするのが妥当な見方だろう。

浅野は以前にも饗応役についており、不慣れな田舎と言うドラマなどの描写はあり得ない。しかし、その時に生じた費用なども当然に記録に残っており「前はこれぐらいで済んだのに…」といった感情を持ったことはあり得る。当時は日本史史上でも特筆すべきほどのインフレ時代であったために、浅野吉良も双方に思い違いが生じやすい下地は確実にあったのである。

もっとも、どの説を取るにせよ浅野は遺恨があったこと以上のことは抗弁せず、穂浪士たちも傷の理由をしなかったことは考慮すべきである。もし吉良側に圧倒的な落ち度があるならするはずであり、それをせず単に喧両成敗を訴えていることからも理由は当時から見て大したものではない可性が高い。


浅野家の人々について


忠臣蔵の影で好感を得ている浅野であるが、幕府隠密の集めた大名情報をまとめた「土記(どかいこうしゅうき)」にある人物評では「頭はいいが、好色で大引きこもり政治家老達に任せている」と、暗君としかいいようがない評価を下している。
記の信憑性はさておき、穂事件が起きる数ヶ前に書かれた「諫懲正(かんちょうこうせい)」という書物にも「浅野武道に励んでいるが、気が小さく短気で仁の心がなく、方の下女に非を働いて『このは危ない』と噂されていた」と書かれていた。
事の次第はどうあれ、神経質で問題がある人物だと見られていたようである。
ただし、思惑はどうあれ討ちをしてくれるほどの人徳もあったのも事実だろう。


仇討ちについて


時おり「江戸時代討ちは合法であったが穂浪士事件では例外にされた」とするがなされるが正確ではない。
江戸時代に義務とされていたのはあくまで直系尊属が犯人本人に殺された場合であり、しかも奉行所などに届け出をして許可を得た上で一対一でなければならなかった。穂浪士にはこれは当てはまらないことになる。ただし、討ちを理由にすれば大に見られると言う潮は確かに存在し、事件より30年前に起きた浄瑠璃坂の討」では徒党を組んだ上でこれに及んだが実行犯たちは許され厚遇された。
「これを頼みに討ちを起こしたのでは?」と言う考えは確かに成り立つ。

もっとも、裁定を下した幕閣の中にも徒党を組んだことを問題視し、46人全員の磔をした者も少なからずいたとされ、見様によっては切腹死ねたことが例外とも取れる。また、切腹の沙汰を伝えるのにわざわざ上使(直使)を使っていることからも、綱吉や幕閣としては最低限してやれることはやったと言うことになるのではないだろうか。

なお、江戸急進部武庸は果し合いの末に3人を殺し、それが評判となってに召し抱えられた人物である。こちらは合法なのだが、今回も同様で多少過ぎても許してくれると言う判断もあったのかもしれない。


浪士たちの意図


後世忠勇の士と称えられる四十七士だが、事件の記事でもふれたように最初から討ち一辺倒ではない。
特に大石は円山会議の直前までおの意図は崩していない。一方、大石とたびたび対立してきた部は前述のような経歴があり、当時から腕自慢と評判の立つ人物である。浄瑠璃坂の前例もあり、その気概を見せれば再にも弾みがつくまたは許された上で他への再仕官もかなうと考えた人物がいても不思議ではない空気だったと言える。

近年では少なくとも大石の意図はおにあるのであり、討ちもその延長線上にあるとする説が有。これを逆手にとり大石サラリーマン的に描いたドラマビートたけし演したTBSのものなど)も存在する。


四十七士か四十六士か


吉良邸襲撃までは47人であったが、仙石邸に収容された際には一人減って46人となっている。これは足軽の寺坂信行が姿を消したためであり、処罰対にされたのも残りの46人である。寺坂の離脱には諸説あり、単なる逃亡説、足軽がいると義挙に傷が入ると浪士たちが逃がした説、長矩の正室で実家に戻っていた瑤院や広島に居る浅野長広に事の次第を伝える役を与えられた説などがある。

寺坂の本来の君であった吉田は討ち入り後、「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」とったとされ、大石良雄も「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。
一方、寺坂はのちに仙石邸に出頭したが何の処罰もなく、吉田婿伊藤に奉している。また、配流された兼の遺児にも忠を尽くし様々な配慮をしたとされる。伊藤の書簡では寺坂が広島に赴いた記録も残っているため、少なくとも長広またはその近習と接触していたことは事実らしい。このうち仙石久尚は出頭後、浪士を厚遇した人物であり、大石とは寺坂の処遇について話を合わせていたのではないかと言う見解もできる。

明治以降、実的な歴史研究によりこれらが明されたため、現在では少なくとも単純な逃亡説を支持する人物は少ないと思われる。作品においては討ち入り後の主人公に擬せられることも多く、瑤院や浪士の家族にことの次第を伝えたり一切の後始末を行ったりして物語が締めくくられるのが常である。


吉良義央について


日本史においてもここまでdisられた人物は少ないように思える。

あまりの嫌われっぷりの反動か、所領があった吉良町などでは防の建造や新田開発などの事跡も強調され、実は名君説が古くから唱えられていた。地方史が多少なりとも重要視されつつあることや価値観の多様化で討ちの側面だけを強調する作品傾向が衰退したこともり、近年では地元以外でも取り上げられることが多い。

ただ、当時の旗本は既に所領の統治からは切り離されており、多くは代官たちがその執政を担っていたことには留意すべきである。実際に吉良本人が領地を訪れた確実な記録は一度だけであり、どれだけの影を持っていたかは不明とされる。

しかし、性悪であったと言う確実な資料も前述のように存在しない。少なくとも傷と討ち入りについては「被害者」と言う側面が強く、幕府の一貫性のない仕置き(遺恨があったと認めておきながら喧両成敗にしなかった)に一番振り回された人物であることは間違いないだろう。


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最終更新日: 19/02/12 07:47
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