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支那事変


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支那事変とは、1937年〜1941年の期間、事件に端を発する大日本帝国中華民国における戦闘である。1941年に太平洋戦争がはじまると当時の呼称であった大東亜戦争の一部に組み込まれ、支那事変とは呼ばれなくなったが戦闘自体は1945年日本の降伏まで継続されている。中国では満州事変も含めて15年戦争と呼ばれており、支那事変は15年戦争の後期として扱われる。

なぜ支那事変という呼称が用いられたかについてだが、当初は両とも宣戦布告おこなわなかったためである。(戦争とは宣戦布告をした上でおこなわれる戦闘であるのに対し、事変は宣戦布告がないままおこなわれる戦闘である。)

宣戦布告がされなかった理由は日本中国も同じで、宣戦布告して開戦することでアメリカから石油をはじめとする資が買えなくなることとにある。当時のアメリカ国家中立法に基づいて戦争を行っている交戦国には軍事利用されうる資は売らないことが決まっていた。これはアメリカにとっても世界恐慌から立ち直っていないなかで資の輸出先が潰れてしまう不利益があった。他にも1928年に日本パリ不戦条約に調印しており侵略戦争はしないということを社会の場で約束しており、国際連盟脱退で際関係が冷え切っていた状況からの悪化を避けようとした狙いがある。しかし実際には戦争と呼ばないだけで実質的に起きていたことは全面戦争である。そこから1941年の日開戦の後、中国宣戦布告おこない、支那事変は戦争となった。

戦後は日中戦争と呼ばれるのが一般的な呼称になり、現在は一般的に支那事変とは呼ばない。


概要


満州事変の発生で日本軍中国の領土に侵攻して武に任せて強引に占領、中国東北部を満州国として独立させて日本の傀儡国家にしたことが発端である。

それ以前の対二十一ヶ条要や山東省出兵、作霖爆殺事件などで既に中国反日感情が強まっていたのをさらに化させ、そこから熱河地方への侵略華北侵略日本軍侵略は広がるにつれて中国人反日感情は全土に広がっていき、事件での戦闘開始と第二次上海事変での全面戦争が始まったことで、中国国民党蒋介石日中全面戦争を宣言、当時は中国国民党中国共産党は内戦状態にあったのを中止して抗日(日本抵抗する)で一致して中国人全てが日本侵略に対抗する態勢が出来上がった。

最終的に8年にわたって戦闘は続き、日本ポツダム宣言受諾で中華民国に対して日本は降伏し中国勝利に終わった。なおこの8年の戦争中国1000万人以上の死者を出し、1985年の最終的な調では軍人と民間人を含めた総数は2000万人とされている。大幅に増えていることを不自然に感じるかもしれないが、1000万人は終戦から共内戦を終えて中華人民共和国の建から間もない1950年の短期間での調からの発表で調が終えていない時期での発表である。日本もまた終戦直後は東久邇宮内閣が発表した陸海軍の軍人と軍属と民間人を合わせて死者70万人としていたのが、東南アジアとの交回復後に調が進むにつれて年を追うごとに増加、現在330万人以上と発表しており、決して被害増しされているというわけではない。


支那事変までの流れ


19世紀の帝国義時代、ヨーロッパアメリカ列強はアジアアフリカ植民地化を推し進めていた。
中国大陸日本を含む列強各によって租界と呼ばれる外国人居留地が数に存在していた。
その状況を憂いた孫文は辛革命を起こし、清朝を滅亡させると列強に負けない強い中国中国統一を推し進めた。しかし中国内部は分裂し各軍閥が中国統一をした。所謂、軍閥割拠時代である。

第一次世界大戦後、ロシア帝国ドイツ帝国トルコ帝国などの消滅により全世界民族自決運動が展開。
植民地でも独立運動が盛んとなった。租界地でも独立運動が活発になり列強各は警備の為に軍隊を派遣する。日本も相次ぐ破壊活動(現地邦人が拉致、商店の襲撃)により軍隊を派遣する。中国軍閥同士の争いも活発になった。

1921年、中国共産党が結成される。孫文の後継者、蒋介石は反共義者であり、中国共産党クーデター企画しているとして共産党員を多数処刑している。(上海クーデター)これにより中華民国国民党)と中国共産党による共内戦(1927年)が始まる。同年、日本中華民国の北伐(中国内の軍閥を潰し全国統一すこと)に刺を受け、山東省に出兵を決定。第三次山東出兵まで行った。それにより中国人の感情が、反欧米か反日に転換した。現地では小規模な衝突が起こり国民党兵士による日本民間人の射殺事件も起こり、日本世論も反中嫌中になった。

1930年、満州事変が起こり満州国が誕生する。これにより、中国人及び大陸での権益独占を狙っていたアメリカが反発。日本際非難(植民地を持っている欧)を浴び国際連盟を脱退する。

1933年、共内戦は国民党軍が中国共産党を壊滅寸前まで追いつめていた。共産党軍は長征(撤退)を行う。蒋介石大日本帝国との関係補修を図るが、日本侵略にたいする反日感情の化からテロが活発になり日本軍もまたテロを理由に侵略正当化させようとしていたことから、大規模戦闘は終わっても火種はくすぶり続けた。


支那事変


当初から支那事変と呼ばれていたのではなく、事件のときまでは北支事変と呼ばれていた。

あくまで北支、つまり中国大陸北部である華北より北の部分で済ますつもりであったのが支那、つまり中国全土に事変が拡大して状況が変わったことがえる。


盧溝橋事件


1937年、当時北支に居留民保護の名で駐在していた日本陸軍部隊の駐屯地に実弾が二発発され事件が勃発する。当時の日本軍支那駐屯軍歩兵第一連隊長であった牟田口廉也は部下の一木清直大隊長中国国民党軍への攻撃を許可し、日本軍中国国民党軍の間で戦闘が開始された。当初は戦闘は小規模で日中の現地軍の双方が期終結を模索して現地協定を結び事件は沈静化するも、同じ日に日本政府近衛内閣中国への日本軍の追加兵を決定。今回の事件を北支事変と名付けて華北侵略の足掛かりにしようとした。

この日本政府の決定を知った中国国民党蒋介石日本の二枚舌外交激怒して現地の国民党軍に戦闘が起きてもいいように準備を示し、中国共産党は対日戦争を呼びかけると蒋介石もやむを得ない場合は全面対決する決断、1937年7月山にて蒋介石は正式に中国人民に向けた抗日宣言を行って日本と戦うことを世界アピールした。


郎坊事件と広安門事件


国民党軍は速、北京及び天津の電線切断作戦を展開。修理に訪れた日本軍を襲撃する郎坊事件が発生した。日本軍修理した電線で援軍を要請。翌日には日本軍戦闘機による国民党地を襲して地を占領。日本軍は事情の説明をめるも国民党軍より回答はなかった。

また居留民保護の為に出動していた日本軍国民党軍が発する広安門事件が発生。
さらに在留日本人230人が虐殺される通州事件が起こると日本国内世論は昂し『暴戻支那膺懲』(暴虐に振舞う生意気な中国を懲らしめる)を唱えて中国との戦争の正当性をアピールし、全面戦争も辞さない構えとなった。

もっとも通州事件現在中国の通州で、当時は日本軍がでっちあげた傀儡政権における中国人治安部隊の反乱であり、その事実を書くのを軍部や政府から厳しく禁じられて中国人による虐殺を虚飾をつけて衝撃的な内容で記事にしたために日本国内では猛反中感情の化が起きたのが実態である。日本人通州事件背景には満州事変と同じく日本軍の謀略によって行われた侵略と傀儡政権を作られたという背景を知るのは戦後東京裁判でのことである。 


第二次上海事変


上海では、事件前から日本軍国民党軍との間では険悪な空気が漂っていた。
1936年4月には中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは蒋介石に対日開戦を進言、1936年末には上海停戦協定を破って、上海の非武装地帯に地構築を行っていた。国民党軍は精鋭部隊を配備。特に教導総隊などは前記したドイツ軍事顧問団から訓練を受け、ドイツ製の武器を装備しており最精鋭部隊と評価されていた。また一部の部隊はガスを装備していた。

1937年、北支事変が起こると緊一気に高まり一触即発の様相を呈していた。
そんな中で1937年8月9日日本海軍軍人撃事件(大山海軍中尉事件)、日本海軍拉致事件が発生。衝突は時間の問題となった。この大山事件は中国人反日感情の高まりを利用して大山中尉丸腰中国軍の飛行基地をウロウロさせるように命じて中国軍を刺させるもので、ワザと大山中尉を殺させて上海攻撃の口実にした日本軍におけるマッチポンプである。大山中尉は殺されると戦死ではないにもかかわらず異例の1階級特進している。

8月12日国民党軍約3万が上海内の際共同租界の日本人地区を包囲。対する日本軍は、海軍戦隊4千だけだった。日本側は撤退を要するも聞き入れられず、陸軍に増援を要請した。13日には中国側の撃により戦闘開始。日本海軍戦隊は応戦するが中国軍が本を入れて戦闘を準備していたため予想外の苦戦を強いられ、援軍を待つことになり積極的な攻撃を行わず防戦一方であった。国民党軍機が爆撃を行っても対戦闘を行わなかった。しかし撃も始まり、15日には日本政府も不拡大方針を撤回。海軍航空隊による初の渡洋爆撃を敢行。また日本各地の特別陸戦隊上海派遣国民党軍の攻撃が続く中、各拠点を死守した。

8月23日上海派遣軍(日本陸軍2個師団)が上陸。攻勢に出るも、強固なトーチカに阻まれ思うように進撃が出来なかった。10月上海派遣軍はゼークトラインを攻撃し突破。日本軍にとって初めての塹壕戦で、その際には有名な爆弾三勇士の活躍がある。殉職した3人の一等兵は二階級特進して伍長になり、軍歌や当時の運動会の種なるほどに有名になり、軍部の宣伝に使われて遺族に多額の義援が送られた。

11月、第10軍(日本軍)が広州に上陸すると、国民党軍は北側の長江上陸した日本軍と南北から挟み撃ちに合って退路を断たれる危険から蒋介石が退却を命、一斉に退却して第二次上海事変日本勝利に終わった。

この事変では3ヶ戦闘日本軍は9千人の戦死者、戦傷者3万1千人を出す前代未聞の大損を受けた。中国側も国民党軍のを注ぎ込んで70万人もの兵で死を尽くして戦ったため25万人もの死傷者が出た。当初は満州事変華北侵略のときのように少ない損で簡単に勝てると見込んでいたのに反する大損であった。事件以降は中国人抵抗しくなり朗坊事件や広安門事件、通州事件などで中国人への憎悪を深めていた日本軍は今回の中国軍抵抗怒り心頭し、中国国民党政府の本拠地である南の陥落をして日本政府の承認も受けないまま進軍していく。


石原莞爾


当時の陸軍参謀本部に所属していた石原莞爾少将事件から侵略を拡大していく日本軍の動きに一貫して反対していた。事件で日本軍は3師団20万人もの兵の増を行うことにも反対していた。華北侵略現在中国内モンゴル自治区にあたる地域にまで進出してしまい、ソ連の同盟であったモンゴルに迫ったことでソ連を刺してしまううえに戦線を拡大して中国相手に戦を消耗してしまうことを恐れたのである。

朗坊事件、広安門事件で中国軍の攻撃にあったため止むを得ず増を容認して北京から天津周辺の短期戦で北支事変を終わらせるつもりであったが、不拡大方針を取っていた陸軍参謀本部に反して現地の日本軍内モンゴル自治区のチャハルにまで侵攻してしまい、東京陸軍参謀本部の方針を聞かなくなっていた。


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最終更新日: 21/06/26 17:10
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