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明智光秀


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明智光秀(あけち・みつひで 1528? ~ 1582)とは、戦国時代の武将である。


概要


浪人あがりで織田信長に仕え、卓越した才覚で異例の出世を重ねた。織田信長天下統一まであと一歩という時に突如謀反。本能寺の変信長を討ったが、その後山崎の戦い秀吉に破れ、逃げるところを土民に殺された。その死は本能寺の変からわずか11日後だった。

羽柴秀吉豊臣秀吉)の「サル」と並んで、「金柑頭(キンカ頭)」という名が有名(ただし、創作説あり)。

人物像はよく分かっていない。特に織田仕官以前の前半生に関してはまともな資料はほぼ皆無で、「美濃出身で本能寺の変の時は55歳」というのが通説ではあるが出自も年齢も諸説ある。連歌会を催すなど教養が豊かで、庶民に対しては税金を免除したり治工事を行うなど、光秀が統治していた福知山亀岡市では尊敬されている。当時としてはしく、側室を持たなかったというでもある。

歴史ものの創作物では実な義将とも狡猾な野心とも描かれ、本能寺の変の動機も様々に憶測される。

ニコニコ動画では戦国時代に関するゲームでの明智光秀を扱った動画が見られる。


半生


戦国武将として抜群の知名度を持つ光秀であるが、出生地や幼少期はに包まれている。これは当時光秀名だった事もあり、リアルタイムに編纂された記録が一切存在しない事に因る。現在世に出ている前半期の記録は江戸時代などの後年に編纂されたもので、いまいち信憑性に欠ける。光秀人生を描いたものと言えば「明智軍記」が有名だが、これも後の世で編纂された二次史料であり、しかも矛盾点が多く存在する。生年からし1516年説、1528年説、1540年説の三つが提唱されており、これに伴って没年もはっきりしない。何だこいつ。多くの資料では、1528年説(享年55歳)が有とされている。先祖についても不明瞭だが、室町幕府に仕えていた土岐明智ではないかと言われている。しかし父親に関しての史料が全くいため、断定は出来ない。


織田家に仕えるまで


光秀が生まれた頃、明智美濃斉藤三に仕えていた。しかし息子の義下克上に遭い、居だった明智を奪われて野に下った。若くして浪人の身となった彼は越前に流れ着き、朝倉義景のもと領内の称念寺で約10年間過ごす。まともな俸く、一頭すら持てず、明日の食事さえ事欠く人生ドン底を味わう。それでも寺の僧と交流し、医学の知識を学んだ。やがてドン底生活から脱しようと、戦が少ない越前を去って近江傭兵稼業に手を出す。

ちょうどその頃、室町幕府第13代将軍足利義輝が暗殺される。足利は彼の(義昭)を将軍に擁立し、室町幕府の再を諸に呼びかけた。近江にやってきた幕臣の一人を見つけた光秀は自らを売り込み、寺で得た医学の知識を教えて見事細川に召し抱えられる運びとなった。

最近発掘された史料により、1565年頃は近江高島田中にいた事が確定している。

信長の近くに姿を現したのは1567年頃であり、当時は細川臣であった。当時、将軍足利三好三人衆の脅威から逃れるため頭を現した織田に接近にしており、両渡し役を行っていた模様。信長足跡を記した信長公記に登場したのは、1569年1月5日に生起した「本寺の変」である。室町幕府15代目将軍足利義昭が仮の御所としていた本寺を三好三人衆の軍勢に襲撃された事件で、信長公記によるとの名手だった光秀は単身で30人の敵兵を射殺。わずかな手勢で、織田方の援軍が到着するまで守りきった。そして翌6日、援軍とともに三好三人衆の軍勢を撃破して追い払う事に成功する。


新参者が重鎮と化す


その後、足利と通じていたうえ信長の上視した朝倉を滅ぼすべく織田軍は越前に出兵。足利織田ん中に位置していた光秀もこの戦いに参加し、所属を織田とした。順調に朝倉軍を蹴散らしていた織田軍であったが、同盟を結んでいたはずの背後の浅井がまさかの裏切り。挟撃を避けるため、1570年4月27日ヶ崎より撤退を開始する。この命がけの撤退劇で光秀殿を担当。殿は最も優秀な部隊が担当する事から、信長からの信頼も厚かったものと推測される。信長包囲網を脱し、光秀も生還して武功を挙げた。

光秀は最近召し抱えられた新参者で、古くから織田に仕えていた臣(柴田勝家など)からは眼視された。しかし彼は貪欲に知識を吸収し、どんな仕事も嫌な顔せずにこなした。また信長が望むような丁寧な報告書を書き上げ、「内容が具体的で、まるでの前で見ているかのようだ」と讃えられた。その甲斐あって新参者ながら、信長の信用を勝ち取っていった。

1570年6月19日、体勢を立て直した織田軍は岐阜を出撃。裏切り者の浅井の本拠地である小谷を攻撃する。しかし山の上に築かれた要小谷力技で落とすのは容易ではないとして、南方横川に矛先を向ける。ここを押さえれば浅井軍の同士の連携を断つ事が出来る。織田軍には同盟相手の徳軍が、浅井軍には朝倉軍が増援として到着。6月28日の戦いが生起した。かつて世話になった朝倉義景の軍勢と図らずも戦う羽になってしまった光秀であったが、織田軍の相手は浅井軍が体だったため干を交える事はかった。この戦いで浅井朝倉連合軍を破り、近江の深へと侵攻。浅井朝倉は滅亡へと転がり落ちていった。

1571年9月12日、軍勢を率いて比叡山焼き討ちに参加。浅井朝倉の残党を匿い続ける比叡山を攻撃し、抜群の功績を残した光秀は褒美として近江志賀を与えられる。彼はさっそく居となる坂本建築を開始し、佐山から引っ越し。居を手にする事が出来た。だが、ゆっくりを下ろす時間はかった。1573年2月足利織田打倒の挙兵をすると、光秀全に将軍と袂を分かつ。一応、和のため織田足利の間を奔走したが、失敗に終わった。義昭は追放され、1575年に信長より従五位下日向守の惟任の姓を賜った。居坂本の近くには琵琶湖があり、そこを使って軍を創設。西進を企てる信長を献身的に支え、1575年だけで高屋の戦い(vs三好軍・本願寺)、長篠の戦い(vs武田軍)、越前一向一(vs一向宗)の鎮圧に参加。東西南北走り回った。更に毛利を攻めるための進軍路確保のため、同年9月(6月とも)に丹波の攻略を命じられる。光秀は各地を転戦しながら丹波攻略揮を執るという、ブラック企業ハードスケジュールを強いられた。

1576年は光秀にとって厄年となった。1月15日、丹波攻略の一環で黒井に立てこもる赤井直正を攻撃中、味方だったはずの波多野秀治に裏切られて敗走。京都まで退却させられてしまう。体勢を立て直した光秀2月18日に再度出撃し黒井を攻撃するが、石山本願寺との対決のため4月頃に大阪方面へと引き抜かれる。5月5日より始まった天王寺の戦いでは、ついに大ピンチを迎える。毛利勢から兵糧と武器を受け取り、勢いづいた石山本願寺vs織田軍の戦いであったが、彼の兵数はなんと1万5000vs3000!織田側が寡兵だった訳である。さっそく1万の軍勢からの一斉射撃を受け、奮戦むなしく原田直政隊が壊滅。本願寺軍は突撃し、光秀がいる天王寺砦を攻囲。窮地に立たされた光秀40km後方のにいる信長に援軍要請を送る。知らせを受け取った信長は動員を出すが、急な命だったため兵数がわず。天王寺砦から8km離れた若江信長自ら布するが、同行する戦は心もとなかった。その間にも天王寺砦は締め上げられ、「持って後3、5日程度」と絶望的な報告をしている。死の淵にいる光秀を救うべく、信長は何とか集まった3000名の兵を率いて1万5000の本願寺軍に突撃した。の弾がいっぱい飛んでくる中、敵を切り崩した増援部隊は天王寺砦の光秀と合流。本願寺軍は数の暴力でまとめて叩き潰そうとするが、信長は篭ではなく攻勢に打って出た。これが功を奏し、2700名の敵兵を倒して木戸口まで押し返す逆転勝利を収めた。この勝利により本願寺は消極的となり、篭を選んだ。

信長の増援で何とか助かったが、連戦による疲れからついに病に伏せてしまう。一時は病死の報まで駆け巡ったが、7月に快復。丹波攻略の足がかりにすべく、亀山(現京都府亀岡市)を建築。現地に出向いて進捗状況を確かめた。しかし彼と入れ替わる形で介抱していた妻の明智熙子が倒れ、11月に帰らぬ人となってまった。心身ともにボロボロとなる光秀だったが、信長の人使いの荒さは治らなかった。丹波攻めを再開したい光秀であったが、ここで思わぬ邪魔者が入る。織田臣の松永秀久が謀反したのである。これを討伐するため光秀信貴山攻略に引き抜かれ、1577年10月5日より4万の軍勢とともに信貴山を攻撃する。反乱は10月10日に鎮圧されたため、さっそく丹波へと転戦。裏切り者の波多野軍が管轄する丹波亀山と丹波八木を奪取。続いて籾井と丹波船坂を攻撃し、見事落させた。

1578年1月10日、園部攻略9月には高山を陥落させるなど丹波の定が迫りつつあったが、10月臣の荒木村重が離反し毛利方に寝返ってしまう。離反した村重は摂津を押さえており、隣接する丹波方面の攻略に悪を及ぼした。光秀は村重の説得に当たったが失敗、信長は討伐命を下す。12月に戦況が好転したため、丹波攻めを再開。

1579年6月2日、ついに裏切り者の波多野秀治ら3兄弟を降伏させる。9月22日には丹波定に成功し、10月24日に安土にて信長に報告を行った。信長光秀を褒め称え、褒美として奪い取った丹波を与えられて34万石を保有するに至った。福知山には婿明智秀満を置いた。光秀は戦乱で荒れ果てた丹波の復を第一に考え、統治を開始。領民を困らせていた由良氾濫を食い止めるべく治に着手したり、税金を免除するなど善政を敷いた。このため領民から慕われ、光秀を讃える神社まで建立されたとか…。


本能寺までの道


1582年3月11日武田勝頼自害によって東方の障だった武田が滅亡。敵対勢北陸上杉四国長宗我部中国毛利のみとなった。織田の武将は敵対勢撃滅のため各方面に散っており、畿内にいた有力武将は光秀とその配下くらいであった。これはつまり、信長周辺の警備がかなり手薄になっていた事を意味する。武田滅亡の際、光秀は「らも苦労した甲斐があった」と言ったが、これが信長逆鱗に触れたらしく折檻を受けたという。

また光秀石山本願寺、毛利の背後を突ける長宗我部との交渉役を担っており、尽によって長宗我部織田は良好な関係を築き上げた。ところが本願寺の勢が衰えると長宗我部の価値は下がり、信長は手のひらを返すように四国の領土を返還するようめた。光秀にしてみれば苦労して長宗我部友情を築いたのにそれを一で破壊され、面を潰された訳である。

同年5月14日光秀信長より家康の接待役を命じられる。品を用意してもてなしたが、が腐っていて怒った信長暴力を振るわれたとも、不手際が原因で中国攻略中の秀吉のもとへ飛ばされたとも言われる。また中国に向かって出立しようとした時、信長からの使者が来て「近江坂本と丹波は取り上げる。代わりに出雲と石見(毛利の勢圏)をあげるから頑って戦ってきて」と領地を奪われたという。

中国毛利討伐を命じられて光秀は畿内を出発するのだが…。一体何が光秀の謀反を決意させたのかは未だに包まれれている。


本能寺の変


1582年5月17日備中高松を攻囲中の羽柴秀吉より応援要請の手紙を受け取った信長は、光秀に加勢するよう命安土城から坂本に戻り、出の準備を開始した。

6月1日夕方、1万3000の軍勢を率いて丹波亀山を出発。少し東進したところで軍議を開き、明智秀満斉藤利三、溝尾茂朝などの重臣を集めて「信長を討つ」と謀反を打ち明けた。集めた5人の重臣から起請文を書かせ、さらに各方面から人質を確保。前もって離反者が出ないよう工作した。山崎(摂津方面)と京都へ通じる分かれにつくと、光秀京都に向かうよう命を下した。この時、「敵は本寺にあり!」という有名な言葉を発しているが、どうやらこれは明智軍記で後付けされた台詞で実際は言っていなかった。信長を討つ事は兵には伏せられていたため、中には用済みになった家康を葬りに行くと考える者もいた。

情報漏洩を避けるため、光秀中で出会った農民を片端かられと非情な命を下した。底した対策により明知軍の不審な動きは隠蔽され、翌2日未明にはへと到着した。ここで戦闘準備を命じ、各軍団ごとに分かれてを突破。1万3000もの大軍団がに入れば簡単に露呈してしまうため、敢えて小分けにして進軍させるという光秀の才知がる。こうして、明智軍は思い思いのを通って本寺をした。


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最終更新日: 20/06/28 17:17
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