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木村重成


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「木村重成」きむら・しげなり 1593 ~ 1615)とは、大坂方の四天王の一人に数えられる豊臣秀頼兄弟であり、

「智・仁・勇の三徳を兼ね備えている」

と評価される冷静さと勇敢さと仁にあふれるもっと評価されるべき若武者であり、 

と言われた、子の如き長身の美丈夫たる戦国時代である。 

豊臣秀頼四天王
真田信繁
後藤基次
木村重成
長宗我部盛親

概要


豊臣秀次家老を務めた・木村重茲(木村)の子に生まれ(養嗣子で近江源氏佐々木氏の末裔とも)、宮内卿局(右京太夫局)が豊臣秀頼となった事から、豊臣秀頼とは兄弟の間柄であったが、が「秀次事件」に連座して切腹しての所領を奪われた際には、木村重成も処分されかけたが、幼年である事や聡明さを豊臣秀吉が買っていた事等を理由に許され、豊臣秀頼近侍して小姓を務め、元後は豊臣秀頼の全幅の信頼をうけ、3千石を拝領して長門守と称した。

色白の美丈夫で、立ち振る舞いや言動はやかで、礼儀作法を身につけ、粗暴なところがく、術に長けた武将に成長した木村重成は、徳川家康豊臣秀頼との対立路線を強めると、秀頼四天王の一人として軍勢を率いて大坂冬の陣初陣を飾り、佐竹義宣上杉景勝らの軍勢を破って戦功をあげ、徳川家康との講和の際は、豊臣秀吉の使者として徳川家康の本に乗り込んで講和の誓詞を徳川秀忠より受け取った。

大坂夏の陣でも豊臣秀頼軍のとして戦い、藤堂高虎井伊直孝らと戦った八尾・若江の戦いに挑むにあたっては、他の豊臣方の武将同様に木村重成も自らの散り際を見定め、前日にに香を焚きこませて出し、

兵は疲れており再度戦えば敗北は必至

との諌めに対して、

この程度の勝利はものの数ではない

とまだ徳川家康徳川秀忠の首をとっていないとして十中十死の中に覚悟の突撃を行って討死し、生まれてくる時代が違ったならば大輪のを咲かせることも出来たであろう若武者は、一時の花火の如き享年23歳の生涯を終えた。

その他「木村重成」の詳細についてはWikipeidaの該当記事参照の事。[外部]


秀頼への忠義


大坂城内でも随一のイケメンぶりと、気品あふれる優な物が優男感を助長していたのと初陣をすませていなかった事から、豊臣秀頼臣団の中でも軽んじられ、時に馬鹿にされることもあったと言われるが、そういった侮辱に対して木村重成は抜群のスルーを発揮して受け流していたが、そのうち坊主にまで馬鹿にされるようになり、果てには[とても言葉では表せない]様な周囲からも空気読めよと思われる程の侮辱をとある坊主より受け、さすがにこれはを抜いてり捨てるだろうと周囲は思っていたが、木村重成は坊主に対して

本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろう。
だがそうすると私も責任をとってを切らなければならない。
しかし、今は秀頼様のためにこそ死ぬべき時であり、
お前ごときのために私は死ぬわけにはいかないのだ。

といって秀頼への忠義の為にはどんな侮辱にも耐える覚悟を笑顔と共に見せたことから、中から一置かれる存在になった。


秀頼四天王として


術に長けた若武者として、毛利勝永をさしおいて真田信繁後藤基次長宗我部盛親ら歴戦の勇士達と共にと秀頼四天王に列せられた木村重成だったが、まだ初陣もとげていない自身には身に余るというか空気を呼んだのか歴戦の猛者である後藤基次に対して

自分は若輩ゆえ戦闘の経験が乏しい。
どうか戦闘に際しては存分にお引きしお頼み申したい

挨拶して後藤基次の感心を誘い、アクの強い四天王による閥争いといった益な味方の戦低下を防ぐように手を打う空気を読む程度の能力を見せた。


日本無双の勇士


大坂冬の陣で念願の初陣を飾った木村重成は五千の兵を率いて、徳川家康側の佐竹義宣や八千と戦った。

弾が飛びかう戦場において弾除けのをあてがわれた木村重成は、

たとえ矢玉は遁れようとも、運命からは遁れるのは難しい

といってを捨てて益々敵へと接近して佐竹義宣の軍勢を押し返して渋江政光を戦死させるといった戦功を挙げた。

かしこの時、木村重成の部隊の隊長を務める大井某の姿が見えなくなり、

私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士の下知が出来るだろうか。

といって死体が折り重なる戦場に飛び出して「大井はいずこ」と捜索を開始したところ、死体の中からまだ息のある大井某を探しだした。

かしこの時、敵側よりが撃ちかけられて敵兵も数騎飛び出してきた為、大井某は自分を捨てて「いのちだいじに」生還してほしいと木村重成へと告げたが、

私はのお迎えに来たのだ。
敵が出たからと言ってを放り棄てて戻るくらいなら、初めから来ないだろう。

といって自慢ので敵兵を屠らんとした際に味方の兵が現れた為、味方に大井某を運ばせた木村重成は、自身が殿軍を務めて事退却し、味方そして敵からも

智・仁・勇の三徳を兼ね備えている

との賞賛をうけ、豊臣秀頼からも

日本無双の勇士である

として感状と脇差を下賜したが、木村重成は、

この度の戦功は自分一人の働きによるものではありません。

といって脇差を返上し、

感状は他へ奉する時に経歴の飾りとなりますが、私は二君に使える心が内ので用のものです。

といって感状も返上し、豊臣秀頼への忠心と戦う事に対する己の信念を見せた。


真田信繁の心中を察する


大坂冬の陣の際、木村重成のへと六文銭の旗印を立てた軍勢が攻めかかってきた。

軍勢を確認した木村重成が同じ六文銭が旗印の真田信繁に会って、

私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋は六文銭です。
その中で若い武者二騎がっ先に進んできて炮をものともせず、兜を傾けて柵に取り付いていますがどなたの子でしょうか。

と言ったところ真田信繁は、

を告げて、

彼らを分の人に命じて討ち取って下さい。
そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、これに過ぎるものはありません。

と答えたが、木村重成は、

一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。
必ず和になりますから、めでたくご対面なさって下さい。

真田信繁の心中を察して、真田信吉と真田信政を狙撃しないように兵に命じた。


秀頼の名代として


大坂冬の陣闘の末、豊臣秀頼ら強硬が「講和なんかしたら埋められて篭できなくなるだろ」と反対する中、和淀殿大野治長織田有楽斎らが徳川家康と講和するとなった際に、木村重成は豊臣秀頼の名代として徳川家康を訪れた。

譜代の臣がずらりと並ぶ中を礼もせずに、ただ徳川家康のみを見て静かに歩いて近づくと、徳方の将兵からは「若造のくせに生意気だ」とか「最近の若いのは礼儀も知らんのか」といった罵詈雑言が飛び交ったが、坊主レベルにも耐えられる抜群のスルー力を持つ木村重成に対して効果があるわけでもなかった。

そして、徳川家康の血判が押された誓一通り見た木村重成は、

血判の血が薄くてよく見えませんが?

と言い、空気の読めるである徳川家康も「年とったから血が薄くなったのだろう」と再度血判を押し直し、豊臣秀頼の名代として血判を押させ直させた事を確認して丁重に礼を重ねて徳川家康を出て行こうとした際に、罵詈雑言をあびせていた家康臣に向かって

今日君、秀頼の名代として参りましたので、先ほどはに失礼致しました。
なにとぞお許し下さい

と侘びの言葉を述べた。

君の名代として君の名に傷がつくような事をせぬようにしていた事を感じ取った家康臣達は、罵詈雑言をあびせていた愚挙が恥ずかしくなったのか返事するものがなく、木村重成は続いて丁寧な会釈の後にを出た。

罵詈雑言をあびせていた者達は逆に「立なものだ」と賞賛し始めた中で徳川家康は、

秀頼はよい臣を持っている

と、程度の低いことで罵詈雑言をあびせた臣と、君の名代として君命を辱めずに役割をまっとうした木村重成を較して溜息をついたと言われているが、この話は後年の創作話らしい。


徳川勇士の嗜み


大坂冬の陣で取り交わした誓徳川家康に握り潰された木村重成は、大坂夏の陣での八尾・若江の戦いにおいて長宗我部盛親に迫る藤堂高虎の軍勢を打ち破って押し返す事に成功した際に、

 はまだ両将軍の首を取ってはおらぬ。これしきの勝利はもののかずではい

と戦功におごらぬ姿勢と、誓を取り交わすという最上級の条約締結まで行っておきながらこれを一方的に反故にするという徳川家康徳川秀忠への憤慨を露にした。

しかし大坂城の掘を埋められて篭わぬ大坂方は前の火の状況であり、木村重成の部隊にも、運命を決する相手となるひこにゃんこと井伊直孝の軍が迫っていた。

他の大坂方の武将達がそうであったようにまだ二十台前半の若武者である木村重成も自らの散り際を考えて、1週間程前より食事を制限していた。

食が進まぬ事を憂いた妻の青柳

この度は落も近いと取り沙汰されていますが、それでお食事が進まないのですか?

と聞いたところ木村重成は、 

昔、後三年の役割四郎という者がいたが、臆病での食事が喉を通らず、敵で首を矢で射切られたところ、傷口から食事が出てきて恥をさらしたという。
私もこの戦いで敵に首を取られるであろうから、見苦しくないように心掛けて食事を慎んでいるのだ。

と答えた。

当時18歳とも19歳とも言われた妻の青柳は、夫・木村重成の思いをうけとめ、最期の戦いに向かう夫が

合間に夫の用の兜に香を炊き込めておいた。

そして妻の思いを受けとめた木村重成は、兜の緒の端を切り落として討死を覚悟した状態で井伊直孝の軍へと突撃し、形成を逆転させる武勇を発揮したものの、満身創痍の中で討ち取られ、戦場を咲かせた。

その後、徳川家康が木村重成の首実験をした際に、兜をとったから香の香りが漂った事から、

5月の初めというのに、首にいささかの臭気もなく、香を焚きこめたのは勇士のよき嗜みである。
皆もここに来てそのりを嗅いでみよ。
また兜の緒の端を切り落としてあるのは討死にを覚悟した拠、素晴らしい勇将である。

と木村重成の戦いに挑む姿勢に感心して褒め称えた。


妻・青柳 


大蔵卿局の姪の青柳は、偶然見かけたイケメンの木村重成に一ぼれし、

侘て 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀といふ人かな

との歌を贈られた木村重成は

枯の は人の 心をも 待てこそ 結ひ留むらめ

と返し、二人は大坂夏の陣の年の初めに夫婦となった。

木村重成が大坂夏の陣で戦死した際に、青柳のおには木村重成の子が宿っており、匿われて男児を出産した後に尼となった青柳は、木村重成の一周忌を終えた後に自害して20年の生涯を閉じた。


血染めの薄


井伊直孝の居彦根城には、木村重成の勇将ぶりとその見事な最期に感じ入った井伊直孝により、木村重成の鮮血にまみれた薄(ススキ)を掘りあげて移植してあった。

その後、明治の世になって薄は根の佐和山神社に移されたが、残念ながら薄は現存していないらしい。

なお、木村重成の150回忌の際に、戦死の地である八尾に墓碑が立てられ、内に木村重成の首塚が存在する。 


関連動画


真田幸村真田信繁)が大将となった豊臣秀頼軍のマンモスマンとして登場する「決戦1


■sm1452447[ニコ動]

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大坂城花火は綺麗だなぁ・・・


補足


信長の野望」(PCシリーズにおける木村重成の力一覧。

毛利勝永と並ぶもっと評価されるべき大坂方の武将である。


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最終更新日: 16/03/25 14:14
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