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村山聖


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村山聖とは、将棋棋士である(故人)。九段(追贈)。森信雄七段門下、棋士番号180
タイトル挑戦1回(王将)、獲得0期。一般棋戦優勝2回。順位戦A級3期、竜王戦1組4期。


概要


1969年広島県安芸府中町生まれ。幼少の頃から腎臓の難病であるネフローゼを患いながらも、奨励会入会から2年11かという異例のさでプロ入りを果たす。

いわゆる「羽生世代」の強棋士のひとり。奨励会員の頃から「終盤は村山に聞け」と言われるほどの終盤の持ちで、プロ棋士になった後は「東の羽生、西の村山」と並び称された。

しかしプロ入り後も体調不良に悩まされ、思うように実が発揮できないことが多かった。
一のタイトル挑戦は92年度の王将戦だったが、谷川浩司に0-4で敗退。

95年、A級八段となる。翌96将棋選手権で優勝
この頃からさらに体調が悪化し、97B級1組へ降級。直後、膀胱にが見つかり、地元広島へ帰る。

の手術を受けることとなったが、その間も休場することなく戦い続けた。特に手術後の第1局であるB級1組2回戦(対丸山忠久戦)の闘は伝説の一局としてり継がれている。同年、NHK杯でも決勝に進出。村山優勢であったが、終盤に読みに追われてミスし、羽生善治に敗れ準優勝となる。これが羽生との最後の対局であった。

順位戦では上述の丸山戦で敗れたものの、1期でA級復帰を決める。
ところが、98年のの転移が見つかり、1年間の休場、治療に専念することを表明。最後の対局を勝利で飾り休場。
しかしそのまま復帰はわず、1998年8月8日、膀胱のため29歳で死去。薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ、「……2七」が最後の言葉であったという。翌9日、九段追贈。A級在位のまま死去したのは、大山康晴山田美に続き3人であった。


人物


奨励会員の頃には、その貌から「怪童丸」の異名で呼ばれた。これにあやかり、地元府中町では「村山聖杯将棋怪童戦」が開催されている。

非常に負けず嫌いかつ闘争心がしい性格で、ライバル棋士に対しては将棋以外の場でも敵意を剥き出しにすることが多かったという。ただ、羽生善治にだけは特別な敬意を払っていた。
負けず嫌いなのは将棋だけでなく、囲碁麻雀で遊んでいても負けを強く悔しがっていた。そのため、一緒に麻雀をしていた瀬川晶司(当時奨励会員)から「A級がそんなことを言うもんじゃないでしょ」と嗜められ、それがきっかけで亡くなるまで瀬川と親しかった。

居飛車党であり、持ち味の終盤を活かした逆転劇も多い。
終盤について代表的なエピソードがあり、ある時A級順位戦の対局を控室で村山棋士が集まり検討していたところ、関西大御所詰将棋創作大家である内藤國雄がやってきて「詰んどるやろ」と言ったため、全員が詰み手順を探し始めた。
しかしその中で村山は一人、っ先に「詰まない」と宣言。
詰みを明するには一つの正解手順を見つければよいが、詰まないことを明するには全ての詰み手順が否定されなければならない。それをよりも遂し、しかも「詰むだろう」と言った大御所を前にしてそれを口に出せる村山の実と自信を、後に内藤も絶賛した。
この終盤から「終盤は村山に聞け」と言われるほどであった。
現在もこのフレーズになぞらえて、村山慈明がその序盤研究から「序盤は村山に聞け」と言われたり、藤井猛ファンタジスタを披露しては「終盤は藤井が聞け」と言われたりしている。

読書かつ漫画であり、3000冊の少女漫画に囲まれて過ごしていたこともあった。同じものを3冊買いえており、しかもしばしば熱を出して寝込んでいた村山は、度々師匠に買ってきてもらっていた。「どちらが師匠かわからない」と言われたのもこの頃のことがあったため。

は「名人になること」であり、あと一歩まで迫っていたもののついにそのわず、名人以外のタイトル獲得もならなかったが、羽生世代の一人として現在り継がれ、小説青春』や漫画 -天才羽生が恐れた男-』でその動の生涯が描かれた。


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最終更新日: 18/09/08 08:50
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