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東ローマ帝国


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東ローマ帝国395年 - 1453年)とは、東西に分割統治されたローマ帝国の東側の領域、およびその帝国である。

5世紀に西ローマ帝国が滅亡して以降は東地中海またはバルカンアナトリア半島を中心に土を形成した。ローマ文化を部分的に継承していたものの、本質的にはオリエント(中近東)からの影を持つギリシア文化(ヘレニズム)圏かつキリスト教圏であり、絶えざる争乱もあって、7世紀を古代ローマとは異なる独自の文明へと変質していった。この帝国は12世紀に至るまで全ヨーロッパの羨望の的でもあったが、同時に嫉妬と侮蔑の対でもあった。

東ローマ帝国は「中世ローマ帝国」とも呼称され、一般的にはビザンツ帝国ビザンティン帝国の名でも知られる。

基本データ
正式名称 ローマ帝国
Imperium Romanum
Βασιλεία τνωμαίων
国旗

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(レオロゴ時代)

[画像を見る] (レオロゴ時代)

最大版図

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(西暦555)

公用語 ラテン語
(395年 - 629年)
ギリシア語
(629年 - 1453年)
首都 コンスタンティノポリス
(395年 - 1204年 / 1261年 - 1453年)
カイ
(1204年 - 1261年)
政治 専制君主制(ドミナートゥス)
宗教 正教会
皇帝 アルカディウス(初代)
ユスティニアヌス1世(527年 - 565年)
 ・最大版図を実現
ヘラクレイオス(610年 - 641年)
 ・帝国ギリシア
バシレイオス2世(976年 - 1025年)
 ・最盛期を現出
アレクシオス1世(1081年 - 1118年)
 ・国家を再建
ミカエル8世(1261年 - 1282年)
 ・都奪還
コンスタンティノス11世(1448年 - 1453年)
 ・最後のローマ皇帝
人口 26,000,000人(565年)
通貨 ミス
概要
 ・この国の特徴
前期 成立と再興
 ・テオドシウス朝(379年 - 457年)
 ・レオ朝(457年 - 518年)
 ・ユスティニアヌス朝(518年 - 602年)
  ・大帝のローマ復興
中期 変化と盛衰
 ・ヘラクレイオス朝(610年 - 695年 / 705年 - 711年)
  ・英雄の誕生
 ・シリア朝(717年 - 802年)
  ・その渾名は糞皇帝!
  ・参上二次元女帝
 ・アモリア朝(820年 - 867年)
 ・マケドニア朝(867年 - 1057年)
  ・全盛期
 ・ドゥーカス朝(1059年 - 1081年)
 ・コムネノス朝(1081年 - 1185年)
 ・アンゲロス☆ファミリーズ
後期 分裂と衰亡
 ・ラテン帝国とニカイア帝国(1204年 - 1261年)
 ・パレオロゴス朝(1261年 - 1453年)
  ・超内乱
滅亡
ローマであること
東ローマ帝国の歴史的意義
年表
  関連動画
  関連商品
  関連項目

 

 

 

 

 

 


概要


ローマ帝国が東西に分割された際の、東側の帝国である。

初めの頃、東ローマ帝国は高度な文化のギリシア、交易により富のとなるシリア、穀物地帯のエジプトを所領していたことから、の基盤が西ローマ帝国よりも安定していた。そのうえ首都コンスタンティノポリスは交通・経済・文明の要衝地にあったため、中世ヨーロッパにおいては最大の貿易都市であった(また、当時の全ユーラシアにおいても常にトップ3に入るほどの巨大都市であった)。

文化面においては、キリスト教である正教会古典ギリシア文化に、オリエント(中近東)やペルシャの文化を融合させたビザティン文化を持っていた。このため東ローマ帝国は、西ローマ帝国亡き後の西欧に対し、先進文明圏としての優位を保っていたのである。ホメロス物語ローマ建築の中を生き続け、イエスの教えが緋色の衣とともに然と世界、それが東ローマ帝国であった。

古代ローマ帝国政治や伝統を継承した東ローマ帝国は、6世紀には旧西ローマ領を有するばかりか、旧都ローマを奪還するに至る。文化面においても、帝国地中海における影は絶大であり、欧州一の「皇帝を戴く」であった。

が、ランゴバルド王フランク王国ると、せっかく得た旧西ローマ領は奪われてしまう。また7世紀にはササン朝ペルシャ帝国イスラム帝国により領土を蝕まれ、経済基盤の東方を失うこととなった。さらにはスラヴ人やトルコ系のブルガリアによるバルカン半島への圧迫が加わり、帝国の領土はますます縮小した。

領土の縮小と文化的影の低下に伴い、帝国古代ローマ帝国とは全に別の存在となった。「ローマ帝国」と自称こそするものの、7世紀には住民の大半がギリシア人となり、公用語ギリシア語となっていた(629年)。また8世紀にはローマ教皇と対立し、9世紀初頭には神聖ローマ帝国(の原形)が成立したため、西欧への影は低下した。

しかし9世紀中頃からはを回復させ、10世紀からは有能皇帝が連続して現れ、政治経済軍事・文化の面で著しく発展した。そして11世紀にはギリシア正教の布教による東欧の文化圏形成、ブルガリアに対する驚異的な戦勝により、帝国は絶頂期に突入した。

しかし11世紀後半にもなると、相次ぐ内部の政争やセルジュークトルコに対する敗戦を機に、が大幅に低下した。12世紀初頭までには再びの繁栄を取り戻すも、13世紀の初めには、第4回十字軍により都を奪われる始末。亡命政権ニカイ帝国により一応奪還には成功するが、すでに東ローマ帝国は「老いた帝国」であった。14世紀からはオスマン帝国に領土を侵食され続け、1453年、ついにとどめをさされてしまった。


この国の特徴


ローマ政治に特徴があった。

面にも大きな特徴がある。

※時の皇帝大な権に反して、過去皇帝に対する批判はいつの時代も絶えなかった。皇帝の権は絶対だが、権約束されているのは「生きている」時期に限った話であるため、過去の(すなわち死んで文句も言えない)皇帝に対しては然と批評・酷評が行われた。余談だが、こうした習や上述の異教徒との妥協が、西洋諸には狡猾・卑怯に映ったのか、「ビザンツ人」という言葉はネガティブな意味となった。

ローマの始まりについては意見の分かれるところだが、上述の最終分割395年を成立とすると、実に1000もの間、存続したことになる。「帝国1000年間続く」という例は他になく(神聖ローマ帝国の出発点を800年のカールの戴冠とした場合は別だが)、この点において東ローマの特異性や魅が存分に伺えるだろう。


東ローマの出発点


ディオレティヌスが四分割統治(テトラルキア)を行う頃には、すでに「帝国の東西」という概念はあった。

しかし実際に東ローマ帝国が誕生する切っ掛けとなるのはコンスタンティヌス1世(大帝によるビザティウム(後にコンスタンティノポリスへと名)への遷都である。コンスタンティノポリスは最初のキリスト教都市であった。東ローマ帝国が「キリスト教によるコンスタンティノポリス帝国」である以上、330年に行われたその遷都は実に大きな意味を持っている。歴史の中にはその330年を東ローマ帝国ないしビザンツ帝国の始まりと見る者もいる。

ところが「東の帝国」なるものが実際に表れるのは395年。すなわちローマ帝国が東西分割された年である。その時点をもって東西のローマ帝国つまり東ローマ帝国と西ローマ帝国ができあがるのだが、もちろん双方ともに新しい国家であるわけでもないし、ましてやローマ歴史が絶えたわけでもない。両ともに列記とした「ローマ帝国」なのだ。とはいえこの時をもって東ローマ帝国が誕生したのは紛れもない事実である。

帝国の変質”という点に東ローマの出発点を見出すのであれば、それは6世紀以降となる。ユスティニアヌス1世(大帝の時代はまさにそうであろう。彼の底的な中央集権、独裁政治古代ローマ帝国とは一線を画しているし、何よりそれは「古代ローマ帝国からの脱皮」に他ならない。皇帝専制を基本とする東ローマ帝国だからこそ、彼の専制的な試みは東ローマを東ローマらしくさせたといっても過言ではない。


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最終更新日: 18/05/31 05:26
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