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水野忠央


ヨミ: ミズノタダナカ

水野忠央とは、江戸時代後期の紀新宮御三家紀州の付老である。

将軍継嗣問題における南紀の一人として知られる。


概要


文化11年(1814年)10月1日、新宮で紀州老の水野忠啓の長男に生まれる。通称鍵吉、四郎。号は峯など。

老とは、江戸時代初期に将軍出自の人物が大名になる際付属された老のことで、として認められていなかった。詳細はWikipedia等参照。

保6年(1835年)に督を継ぎ、新宮に就任。

水野独立した大名になってやがて老中の座をも狙う野心があったと言われており、大2人を奉に出し、うち1人は12代将軍・徳慶の側室になって二男二女を産み、もう1人は年寄になるなど幕府への工作活動を盛んに行なっていた。また、紀州11代・徳斉順(なりゆき)が死去した際は、自らの甥であった慶の子を後継ぎに据えようと画策したが失敗している。

嘉永2年(1849年)、紀州・徳斉彊(なりかつ)が死去すると、当時4歳だった徳慶福を擁立し、政の導権を握る。

13代将軍・徳定の継嗣問題が持ち上がると、慶福を次期将軍にするため大に送り込んだ2人を使って工作活動を行ない、定の側用人の平岡には賄賂として木炭を山のように送ったとされる。井伊直弼とも手を組み、南紀要人物の一人として暗躍した。

安政5年(1858年)、一を抑えて論見通り慶福を14代将軍に据えることに成功したが、安政7年(1860年)3月井伊直弼が暗殺されると急速に勢を失い、6月に失脚、隠居。

慶応元年(1865年2月25日に死去。享年52


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最終更新日: 10/08/07 12:01
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