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永禄の変 / 永禄の政変とは、永禄8年(1565年)5月19日に起きた室町幕府13代将軍足利義輝が三好義継、松永久通率いる三好軍に殺害された事件である。
室町時代の一転換点となる足利義輝の殺害された政変。ニコニコ大百科でもセイバーのごとく刀をとって戦った彼の姿が有名だが、実は21世紀になるまでほとんど研究されておらず、松永久秀の関与度などの謎は多い。
というか、三好義継の軍勢が突然上洛してきたと思われていたが、実は足利義輝に偏倚されて名前が変わったころ(なのでおそらく三好義継は変後ではなく変前からの名乗りではないかといわれるようにもなった)からずっと京都にいたことが2019年になってようやく分かったレベルであり、足利義輝政権も含めて基本的な事実関係の整理すら発展途上の段階にまだある。
※なお、以後のイエズス会文書は『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第2巻〉』、『十六・七世紀イエズス会日本報告集〈第3期‐第3巻〉』の和訳の引用であり、原文はラウレスキリシタン文庫が公開している"Iesus. Cartas que os Padres e Irmãos da Companhia de Jesus, que andão nos reynos de Japão escreverão aos da mesma Companhia da Índia, o Europa, des do anno de 1549. até o de 66. Nellas se conta o principio, socesso, e bondade da Christandade daquellas partes, e varios costumes, e idolatrias da gentilidade. Impressas por mandado do Illustrissimo e Reverendissimo Senhor dom João Soarez, Bispo de Coimbra, Conde de Arganil. &c. Forão vistas por sua Senhoria Reverendissima, e impressas com sua licença, e dos inquisidores, em Coimbra em casa de Antonio de Mariis. Anno de. 1570. [colophon:] Foy impressa a presente obra na muy nobre e sempre leal cidade de Coimbra em casa de Antonio de Maris Impressor e livreyro da Universidade. Acabouse o derradeyro dia do mes de Agosto, do anno do nacimento de nosso Senhor Iesu Christo, de mil e quinhentos, e setenta."、そこにないものはFicha Bibliográficaが公開している"Cartas que os padres e irmãos da Companhia de Iesus escreuerão dos Reynos de Iapão & China aos da mesma Companhia da India, & Europa, desdo anno de 1549 atè o de 1580."を併記しただけなので、筆者が訳したわけではないことを注意(なお、言い訳をすると近世文書なので前者と後者ではアルファベットの表記などに微妙にブレがあり、本来は全部そろっている後者で統一したほうがいいのだが、前者のほうが読みやすかったのでこっちを使った…正直等位接続詞の表記法とかわかりやすいので逐一典拠は示さない感じで…)。
※また『晴右記』は誰一人として翻刻していないため、筆者が勝手に活字に起こしただけなので合ってるかどうかは参考程度にしてほしい。
▲明応の政変で二流に分かれた足利将軍家、永正の錯乱で二流に分かれた細川京兆家、その他畠山尾州家や畠山総州家、六角氏や赤松氏、若狭武田氏、大内氏といった在京大名、京に近い在国大名を巻き込んだ畿内の泥沼の戦いは、三好長慶の台頭によって三好本宗家と細川晴元(とそれに巻き込まれた足利義晴)の戦いという構図に収束していった。
そんなさなか生まれたのが足利義輝である。天文5年(1536年)に誕生した彼は、実母である近衛氏出身の慶寿院に育てられ、六角定頼を管領代として天文15年(1546年)に元服する。しかし上述の三好本宗家と細川晴元の戦いによって天文18年(1549年)に近江に動座。翌年足利義晴が近江で没したため将軍位につく。六角定頼の支援の下朽木に移り、天文21年(1552年)に和睦し、京都に戻ることとなった。
しかしまだ年若い足利義輝は親三好派、反三好派の近臣の対立を巻き起こし、上野信孝、杉原晴盛、細川晴広、彦部晴直、祐阿、細川某、の「六人衆」から三好長慶への人質を差し出す羽目になってしまった。しかし反三好派近臣に接近した足利義輝は天文22年(1553年)に細川晴元を赦免。和睦は破断し三好長慶との戦いに至る。しかし東山霊山城での戦いに敗北し、朽木に動座。以後5年間にわたって三好本宗家が京都を単独支配する「三好政権」が生まれることとなった。
足利義輝の家臣はほとんどが京都に戻り、母親の実家である近衛家等一部の側近のみが彼を支えていった。そんな中足利義輝は地方の大名と音信を取り、和平調停などに積極的に乗り出す。しかし永禄元年(1558年)坂本に移った後、六角義賢の仲裁で再度三好長慶と和睦することとなったのだ。
帰京後の足利義輝は武衛御所を築き、織田信長、一色義龍、長尾景虎といった上洛者も現れるなど安定した統治を行うことができた。しかしそのほころびとなるのが、永禄5年(1562年)三好長慶とそれに対抗する六角義賢、畠山高政、そして伊勢貞孝父子や一部の奉公衆が戦いに至った「幕府分裂抗争」である。足利義輝はこの戦いで八幡に避難。両者を仲介したものの、結果として三好氏による将軍の単独擁立がより強まってしまったのだ。
しかし足利義輝もこれに対抗する。先の戦いで伊勢貞孝が討ち死にし、摂津晴門を政所頭人に送り込んで足利義満以来の政所における伊勢氏の独占体制を終了させたのである。
しかし表では協調し、裏では冷戦状態にあった三好氏にも三好長慶の支配体制にほころびが出始めていった。十河一存、三好実休、安宅冬康といった弟たち、後継者だった三好義興が相次いで亡くなっていったのである。そして三好長慶も永禄7年(1564年)についに没することとなった。
そして跡を継いだのは養子の三好義継。そしてそれを支えたのが三好三人衆と松永久秀、松永久通父子であった。
そしてついにD-デイが訪れる!
▲ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~ざっつぁつぁっつぁ~~~!
乙卯、天晴、八専、申刻雨降、天一東 辰刻三好人数松永右衛門佐等、以一万計俄武家御所へ乱入取巻之、戦暫云々、奉公衆数多討死云々、大樹午初点御生害云々、不可説不可説、先代未聞儀也、阿州之武家可有御上洛故云々、御殿悉放火、春日殿焼、慶寿院殿御殿残云々、御小袖之唐櫃、御幡、御護等櫃三、伊勢加賀守貞助為警護、禁中へ被預申云々、
討死人数大樹、鹿苑寺殿、慶寿院殿、畠山九郎、十四才、大館岩石、予州子十才、上野兵部少輔、同予八郎、摂津いと、十三才、細川宮内少輔、一色淡路守、同又八郎、予八郎弟也、彦部雅楽頭、同孫八郎、小林弟、荒川治部少輔、武田左兵衛尉、小林弟、進士美作守、同主馬頭、沼田上野介、杉原兵庫助、逃死、朝日新三郎、結城主膳正、有馬源次郎、奉行治部三郎左衛門、福阿弥、台阿、松阿。林阿、廿四か手資、慶阿、御末疋田弥四郎、同二宮弥三郎、足軽衆大弐、同谷口民部丞、慶寿院殿内小林左京亮、西面左馬允、松井新二郎、高木右近、森田新左衛門尉、竹阿、金阿、鹿苑院内衆蔵首座、河端兵部丞、木村小四郎、小川之蓑屋、十六才、高名、春日局内衆飯田左橘右兵衛尉、松原小四郎、粟津甚三郎、林予五郎、西川新左衛門尉、中井勘左衛門尉、畠山九郎内畑、十六才、杉原内村田彌介、八田十右衛門尉、進士内高橋ヽヽヽ、一河ヽヽヽ、小者、其外雑兵数多云々、
天晴 四時分ニ上意ヘ三好左京大夫 右衛門佐取りかけ上意御腹をめし候 同慶寿院殿御自害
三度御対面にてやり□し伊勢加州上意ミおまほりよろい禁中へあつけ参ゝ又くれ〱に御はた又伊勢加州大和宮内少輔りょうにんあつけ□□也俄夕方夕立事□也
当年(永禄八乙丑)五月十九日。三好左京大夫。松永右衛門佐。武衛陣御所以軍勢取巻。征夷大将軍義輝(御歳三十)御生害。同慶寿院殿。幷北山鹿苑院殿(是ハ於路次)御生害(御供若衆一人。御乳主川端一人)。御供衆上野兵部大輔。畠山九郎。御部屋衆大館岩福丸(伊予息)細川宮内少輔。一色淡路守。上野与八郎。一色又三郎。同三郎。有馬源次郎。摂津伊登丸。武田右兵衛丞。御走衆荒川治部少輔。進士美作守。同息主馬頭。彦部親子。杉原兵庫助。沼田上野。結城主膳允。治部三郎左衛門。同朋衆福阿弥。松阿弥。慶阿弥。台阿弥。輪阿弥。此外打死霊数十人。幷小侍従御局於東山智恩院生害
ーー『東寺過去帳』
五月十九日午時大樹有事。御母儀慶寿院殿。御舎弟鹿苑寺殿同時。討手三好左京大夫義継。松永右衛門佐久通以下也。
ーー『公卿補任』
▲四月晦日三好孫六郎。松永右衛門佐上洛シテ。五月朔日室町殿ヘ出仕申。孫六郎左京大夫ヲ望申候之間。則被成候。同廿二日於殿中御一献可申沙汰由申入。御油断候処ニ。十九日辰刻袴着ニテ殿中ヘカケ入。御城ノ内外多人数ニテ取巻申候。御近所ノ衆身命ヲ捨雖合戦。多勢ニ無勢無力各討死候。午刻ニ将軍義輝(宰相中将。三十歳)御自害。同御母慶寿院殿(五十二歳)御自害。将軍御舎弟鹿苑寺殿(十七歳)御生害。阿波衆平田和泉守鹿苑寺殿ヲ討申候。後御若衆ウシロヨリ和泉守ヲ一刀ニ切落。其身打死。於殿中卅人打死。其外侍以下数ヲ不知。御自害以後御所ニ火ヲ懸焼失。
ーー『永禄以来年代記』
永禄8年(1565年)、三好義継に代替わりした三好本宗家は、土地の安堵すら系統が一本化されず、有力者それぞれに保証を求める事態になっていた。そして4月30日、三好義継は三好長逸、松永久通などを率いて上洛し、翌5月1日に足利義輝に出仕した。その結果足利義輝は義継と久通を好待遇したのである。