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沖縄戦


ヨミ: オキナワセン
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この項は内容が少ないです。
調べものなどの参考にはなりますが絶対的に内容が不足しています。
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ただし既にこの記事の方が総務省の「全戦災史実調報告書」より詳細です。

沖縄戦とは、太平洋戦争/大東亜戦争における沖縄戦場にした日本軍と連合軍(ほとんどアメリカ軍、一部イギリス軍)の戦闘である。

本記事での日付について

この記事では、年を省略した日付は特に断りがければ1945年す。


概要


狭義では1945年3月1日沖縄爆撃3月23日沖縄爆撃3月27日の慶良間諸米軍上陸、4月1日沖縄本島米軍上陸から6月23日牛島満自決によって沖縄日本軍の組織的抵抗が終了した期間をす。ただし、それ以前に起きた1944年8月22日対馬丸撃沈や、1944年10月10日沖縄大空襲十・十空襲)を含めることも多く、降伏調印式は9月7日である。

沖縄戦のあまりの惨状は「の暴」「暴風雨」「ありったけの地獄を集めた」と言われるようになった。米国原爆投下正当化論では沖縄戦の犠牲の多さを根拠の一つにしている。

連合軍側の作戦名は「アイスバーグ(氷山)作戦

なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではない。現在日本領でないが当時は日本領であった北海道占守における「占守島の戦い」や樺太全域における「樺太の戦い」があり、また現在日本領である東京都硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため「一の地上戦」という認識は必ずしも正確ではない。


カイロ会談、両軍の準備


194311月22日エジプト首都カイロに連合軍の首が集まって会談を行った。この時、ルーズベルト大統領チャーチル首相が対日戦の打ち合わせをし、インド洋と中部太平洋の二方面から協同攻撃を実施すると約束した。

しかし1944年に入ると連合軍の侵攻や作戦較的く進んだため、カイロ会談で定めた計画に修正を加える必要が出てきた。再検討の結果、台湾攻略して日本本土攻撃の足がかりにする「土手作戦」が採用され、統合参謀本部は同年3月チェスター・ニミッツ提督1945年初頭を途に実施できるよう準備をめた。しかしバックナー陸軍中将は「太平洋で使用できる補給部隊と支援部隊が不足している」として作戦中止を進言。これに太平洋地域陸軍部隊ミラード・F・ハーモン中将と、参謀本部のアーネスト・J・キング元帥が同調。土手作戦は中止となり、代わりに攻略標となったのがルソンと硫黄島、そして沖縄であった。

沖縄本島は、連合軍にとっても魅的なであった。日本本土をすにはどうしても邪魔になるが、もし奪取に成功すれば日本本土のと鼻の先で攻撃軍の訓練が可できる優れた基地を得られる。また沖縄と本土の距離は短く、爆撃機を飛ばすには打ってつけの立地だった。おまけに艦隊の停泊が可な中湾と武湾まで付いてくる。まさに喉から手が出るほど欲しいだったのだ。

迎え撃つ日本側も沖縄の重要性は理解していた。1944年3月陸軍沖縄防衛を担う第32軍を創設。中国大陸朝鮮日本本土から兵がかき集められ、翌4月沖縄本島と周辺の々へ派遣された。あ号作戦に伴って内地からタウイタウイ泊地に向かう軍艦に兵や物資を載せ、緊急輸送を実施。まず最初に精鋭の第9師団が到着し、第32軍の中核に据えられた(しかし第9師団は後に生起したレイテの戦いに抽出され、その埋めはされなかった)。6月には九州で編成された独立混成第44団が沖縄派遣されたが、中で潜水艦撃に遭い、4000名近くが戦死。生存600名程度のみが的地に到着する有様だった。損失を埋めすべく、独立混成第15連隊が輸された。続いて沖縄に配備されたのは、満州に駐屯していた第24師団であった。訓練は充分に行われていたが未だ実戦は経験しておらず、また太平洋々の戦を増強するために何度も戦の抽出が行われていて、抜きとなっていた。それでも第24師団は第32軍の最大戦で、本土から細々と増援が送られて沖縄戦までに定数を満たした。


疎開、対馬丸撃沈


1944年7月7日サイパン守備隊が玉砕すると南西諸での戦闘が確実となってきた。

日本政府は緊急閣議を開き、南西諸の老幼婦女子10万人の疎開を決定し泉守紀沖縄県知事へ示した。戦闘及び労働がある壮年、警防団、医師疎開は原則として認めなかった。

もっとも知事自身が疎開に消極的だったこと、複数の飛行場建設に県民が動員され人手不足だったこと、家族が離ればなれになること、内地での生活することの不安があること、日本が南西諸の制権を失っていたことは沖縄県民でも知れ渡っており上の方が危険だと疎開う者が多かったことにより疎開はあまり進まなかった。

そうした最中に1944年8月22日九州へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」がトカラ列島悪石島付近で米軍魚雷により撃沈してしまう。乗船者1661人のうち、1484人が死亡した。「対馬丸」撃沈は沖縄県民を含む日本国民には秘密にされた。後の10・10空襲沖縄県にいても危険だと実感した県民が増え、以降は疎開が増加した。

9月15日米軍がペリリューとモロタイに上陸。これを機に大本営は台湾沖縄小笠原のいずれかに連合軍が1945年までに襲来すると判断し、準備を急いだ。


10・10空襲(十・十空襲)


1944年10月10日に南西諸各地、特に沖縄本島都市、飛行場、港湾とが5回にわたって米海軍艦載機による襲を受けた。この襲により非戦闘員を含む少なくとも668人が死亡、旧那覇市では90屋が焼失するなど大きな被害が出た。ちなみに首里城は当時の那覇市に含まれていなかったので、被害を免れている。

米軍は同時に地上写真を撮影して後の上陸戦に向けて情報収集も行ったようである。

1971年に復活した那覇大綱挽の開催日は体育の日に合わせたのではなく10・10空襲の日に合わせたものである。


日本軍の戦備


大本営は、沖縄での戦いは地戦になると考えていたため、特別強戦車隊は配備しなかった。それでも満州戦車第2師団の一部を抽出し、第27連隊として沖縄に配備。第32軍の揮下に入った。

1944年10月18日アメリカ軍フィリピンレイテ湾に上陸。フィリピンの戦いが生起した。しかしレイテ沖海戦に敗れ、地上での戦いも敗色濃厚となり、フィリピンへ増援を送る事が出来なくなった。そういった増援部隊は沖縄に配置転換となり、砲兵が急に膨れ上がった。こういった砲兵は一第5砲兵師団和田孝助中将揮下に入れ、揮系統の混乱を防いだ。

中将は後方戦の整備にも注した。住民から志願を募って戦を集め、防衛隊を編成。兵は1万7000名から2万名と言われている。彼らは陸軍の下で訓練を受け、沖縄戦では陸軍に編入された。沖縄14歳以下の男子青年義勇隊として編成され、鉄血勤皇隊と呼ばれた。彼らは後方の通信隊に配属されたが、一部は前線に駆り出されている。

こうして第32軍は約10万の戦を用意した。内訳は6万7000名の正規兵、約9000名の根拠地隊、そして約2万4000名の沖縄県民であった。

32軍は、アメリカ軍の物量を思い知っていた。このため艦砲射撃の標的になりやすい施設や防御地は内陸に配置し、海岸線は放棄。敵を内陸に引きつけてから反撃する戦法が採られた。この戦法は少し前の硫黄島攻防戦で栗林中将が実践し、連合軍に多大な出血を強いていた。また沖縄の墓は地下に造られる文化を利用し、即席の防壕とした。加えて中に狙撃兵を配置。沖縄の地形は、守る側に有利だった。防御に適した地形には次々に地が作られ、各砲兵地が連絡し合えるよう地下道が四方八方に伸びていた。天然と人工の障物を巧みに使い分け、撃しやすい場所にアメリカ軍が来るよう工夫された。洞窟の入り口には機関銃、重迫撃砲、野が配置され、それぞれが全に統率されていた。大きな洞窟には病院や兵営、戦闘揮所が置かれ、襲や艦砲射撃から身を守る防として機。戦の大半は南部に集中配備されたが、北部は手薄だった。嘉手納飛行場や読飛行場などを防衛するだけの戦がなく、北部一帯は切り捨てる予定だったのだ。アメリカ軍は飛行場を占領するだろうから、その妨のために150mmが飛行場を睨んでいた。アメリカ軍の上陸をいちく察知すべく、内陸の各所に特設の偵察隊を配置。士気を鼓舞するために中将スローガンを制定。「1機で1艦を」「1艇で1船を」「一人十殺」などが作られた。

32軍の底的な戦闘準備及び配置転換は、アメリカ軍にも伝わっていた。後方部隊にまで不安が広がり、一部の兵が不安を日記っている。

1945年1月3日と翌4日、22日に、機動部隊による襲が発生。爆撃12時間に及んだ。また潜水艦や敵艦が沖縄周辺で遊し、日本本土との連絡は断たれつつあった。2月中旬頃にはもう全に孤立してしまった。上陸の時が迫っているのは、にも明らかだった。


アメリカ軍の戦備


作戦揮を執るニミッツ提督は、1944年10月25日に氷山作戦の計画書を各指揮官に配布。統合参謀本部は、この作戦のために55万の戦を動員。これは史上最大の作戦と呼ばれたノルマンディ上陸より多い兵数であった。支援を担当するスプルーアン提督率いる第5艦隊は装を含め空母40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻、その他数に及ぶ補助艦艇を保有していた。上陸を担当するのはバックナー陸軍中将が率いる第10軍。彼には地の破壊以外にも占領地域の守備も請け負っていた。

アメリカ軍作戦は、まず読と嘉手納飛行場を速やかに占領し、沖縄の制権を奪取する事だった。上陸予定日は1945年3月1日に定められていたが、二週間延期となって15日になった。その後ニミッツ提督によって更に延期され、4月1日にまでずれ込んだ。フィリピン攻略に参加したマッカーサーの艦艇を参加させるかどうかで悩んでいたようである。

氷山作戦に割り当てられた艦艇や兵太平洋に広く分散していたため、第10軍は合同演習が出来なかった。そこで第10軍は訓練に関する導や要綱を出し、各軍団長や師団長が現地で訓練させる手法を採った。参加する部隊はいずれも粒いで、大規模な上陸作戦こそ経験していないものの実戦経験豊富なベテランで占められた。レイの第24軍団サイパンの第2兵師団は、日本軍掃討の合間に訓練を行った。

沖縄を守備する日本兵の数は当初4万8600名と推定していたが、1945年1月に6万6000名に修正。更に増援が到着しているならば8万7000名に達しているかもしれないと判断した。攻撃してくる日本軍機は3000機を想定し、沖縄には特攻撃艇の部隊が存在している事も把握していた。


沖縄戦



慶良間諸島上陸


1945年3月17日硫黄島が陥落したことにより米軍は本格的に矛先を南西諸へ向けることが出来るようになる。

レイテから77、第7、第96歩兵師団を乗せた輸送船団が出航。時同じくしてガダルカナルとパブブで第3兵師団が乗船し、前進拠点のウルシーへと向かう。ここで大破したエセックス級空母フランクリン撃し、兵員は一様に不安を抱いた。3月25日ウルシーを出発し沖縄方面へと向かった。

3月23日~24日に米軍襲と艦砲射撃で慶良間諸を攻撃。26日には座間味、慶留間に上陸したが、ここで日本軍の最初の反撃が行われた。先から飛び立った第8飛行師団が同日未明に特攻を仕掛けてきた。すかさずイギリス艦隊が先を攻撃し、飛行場を使用不能にして化した。沖縄本島からも3回に渡って特攻機が飛来したが、連絡機や練習機まで使った理な特攻だったため、29日に沖縄航空は消滅した。だが連合軍に与えた損も意外と大きく、旗艦インディアナポリスを含む6隻が損傷。10隻が特攻機の至近突入で損傷し、2隻が触で沈没した。しかし作戦を遅らせる程度の影は与えられなかった。


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最終更新日: 21/02/06 16:17
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