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海鷹


ヨミ: カイヨウ

海鷹とは、大日本帝國海軍が保有した航空母艦の1隻である。


概要


海鷹の前身は、大阪商船が保有していた貨客船あるぜんちな丸。建造費を補助する代わりに、有事の際は軍に徴用される制度「優秀船建造助成施設」により建造された大貨客船の1隻で、大阪商船最大の船舶だった。

1938年2月5日三菱重工業長崎造船所で起工。12月9日に進し、1939年5月31日工。7月11日横浜を出港し、あるぜんちな丸は処女を始める。しかし間もく、ドイツ軍ポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。そのドイツと同盟関係にあった日本は対日感情悪化を引き起こし、寄港先で苦労する羽になる。何だかんだありつつも世界一周を成し遂げ、1940年10月17日横浜へ辿り着いた。
しかし優秀船舶が外地に取り残される事を危惧した軍から航路変更の示を受け、内地に近い大連航路に就役した。

戦争の足音が近づいてくる1941年5月帝國海軍は既にあるぜんちな丸を徴用し、空母へと装する計画を立てていた。そして9月29日、正式に徴用される。開戦直前の12月6日横須賀鎮守府からの命で直卒補給部隊に編入され、サイパン及びトラック向けの航空機材や航空3000缶、機弾425、信管95を積載する。


大東亜戦争


1941年12月8日大東亜戦争が生起。12月17日横須賀を出発。開戦後しばらくは最初は運送船として使用され、トラックサイパン、クェゼリンへの輸送任務に従事する。
5月5日にて諸試験を実施。更に軍需品や弾薬保品、第五陸戦隊向け食糧品を満載。続いてミッドウェーの占領を担当する第五陸戦隊員816名を便乗させる。

1942年6月4日ミッドウェー海戦では、を占領する特別陸戦隊816名を積載して参加。ところが中でB-17カタリナ飛行艇爆撃を受ける。あるぜんちな丸は装備していた固定の機2基と陸戦隊の助を得て撃退に成功。しかしこミッドウェー海戦に大敗した事で、あるぜんちな丸の運命が一変する。
6月13日グアムに帰投。7月5日にはキスへ兵を輸送している。

空母の補充が急務となった帝國海軍装案を具体化し、優秀な大船舶を次々に装し始めた。あるぜんちな丸も例外ではなく、6月30日装が決定。12月10日軍が船体を買い取り、20日から長崎造船所で装工事が始まった。空母化の他に、機関ディーゼルエンジンから陽炎型機関に変更。

194311月23日、工事了。横須賀鎮守府に編入され、帝國海軍最小の空母として生まれ変わった。上護衛隊に編入され、1944年1月4日を出港。駆逐艦2隻に護衛されながら、第23航空隊の機体をマニラシンガポールトラックサイパンへ輸送。2月20日へ帰り着き、因造船所で整備を受ける。ここから第931航空隊を乗せ、自前の航空隊を持つ。3月10日から発着艦訓練を始めるが、事故により殉職者を出す。16日に了。

その後は輸送任務や船団護衛に従事。

1945年1月13日に門へ帰投するが、深刻な燃料不足により二度と外洋へ出る事はかった。
3月19日58任務部隊による軍港襲に巻き込まれる。直撃弾1発と至近弾1発を受け、14番重油タンクに破孔が生じる。また左舷機械室に浸襲後、江田島へ避難。3月21日へ戻った。28日には呉鎮守府へ転籍となっている。4月13日江田島で擬装を行い係留。その後、第三船渠で緑色塗装し、別府湾へ回航。そこで特攻兵器の標的艦や発着艦訓練の練習艦となる。
5月5日で入渠中にB-29爆撃に遭遇するが被害なし。同20日、別府湾で飛行訓練に協

7月18日19時38分、佐田岬灯台合いで触し小破。さらに24日、別府第38及び第57任務部隊の襲を受け、更にイギリス空母フォーダブルインファティカブル、ヴィクトリアス艦載機からの攻撃で損傷。室へ退避するが、18時30分に大分県関崎の合いでアメリカ軍が敷設した機に触れて大破し航行不能駆逐艦航を始め、翌日何とか別府湾まで回航された。浸しく、戦闘を喪失したも同然の状態だった。ポンプで排作業を始めるが……。
7月28日第38任務部隊の襲で発電室が破壊され、動を失う。これにより排ポンプが使えなくなり、ついに着底。翌29日にはB-25爆撃機5機の襲撃を受け、更に損傷。

8月10日、右舷側に傾斜。ついに船体が放棄された、このままの状態で終戦を迎えた。11月20日、除籍。


関連項目



最終更新日: 19/03/01 00:07
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