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塹壕戦により膠着化した第一次世界大戦において、塹壕を突破し後方の予備隊の反撃を撃退するために採用された。ドイツに範を示したロシアの将軍、アレクセイ・ブルシーロフからブルシーロフ戦術とも、創始者であるオスカー・フォン・フーチェルからフーチェル戦術とも呼称される。
ただし、ドイツ側では特に呼称はなかったようである。
▲塹壕戦と言うと第一次世界大戦のイメージが強いが、実際は19世紀中盤のクリミア戦争から砲撃力の強化と小銃の射程や命中率増大で攻撃・防御側双方が塹壕に籠る事態は起きていた。続く南北戦争では長大な塹壕線が築かれ、戦争は一年近く停滞を見せている。
横隊を組む戦列歩兵は1870年の普仏戦争で既に存在自体が危ぶまれていたが、歩兵の戦術としては横隊散兵として存続した。歩兵が軍の主役で、小銃と銃剣がその主戦力である以上、歩兵の隊列としては、基本的に小銃と銃剣の威力を最大限に発揮できる横隊を採らざるを得なかった。そのため、散兵と言ってもまだ申し訳程度の散開に止まっていた。
19世紀末の戦闘態様としては、横隊を組んだ歩兵が600メートルから300メートルの距離で射撃を行い、射手の恐怖心から命中率が下がるそれ以下の距離では銃剣で決着を付けると言う、現代の目から見るとある種牧歌的な(あるいは精神主義的な)戦術が未だに採られていた。この銃撃のための距離を「決戦射撃距離」と呼び、各国は決戦射撃距離の延伸のために銃の改良と素早く正確に射撃を行うための歩兵の訓練にしのぎを削った。
しかし、20世紀に入ると歩兵に随伴が可能な速射砲(歩兵砲)と機関銃の登場により、数千年続いた歩兵の陣形と言う概念もろとも決戦射撃距離は崩壊する。歩兵は隊列を組んで突撃を開始した直後から(場合によっては隊列を組む前に)歩兵砲の射程に捉えられた。射線を点ではなく線で捉えることが出来る機関銃は射手の心理状態と関係なく正確な銃撃を行うことが出来、300メートル以内に近づくことはむしろ自殺行為となった。
最初にこの新しい戦争の洗礼を浴びたのは1904年の日露戦争における日本軍で、機関銃(マキシム機関銃)を装備していたロシア軍に苦戦を強いられた。そこで日本軍は突撃発起線に達するまでは、分隊単位にまで部隊を散開させ、徹底的に地形地物を利用し、行動を遮蔽した。ボーア戦争の教訓からカーキ色の軍服を採用していたことも幸いし、遼陽の戦いではロシア軍に戦線すら見えないとまで言わしめるほどの脅威を与えた。
続く1914年の第一次世界大戦ではシュリーフェン・プラン失敗後、双方が防御に回ったため、北はドーバー海峡、南はスイス国境にまで至る広大な塹壕が築かれた。日露戦争と同様、塹壕に配された歩兵砲は「あられのごとく」歩兵たちをえぐり、機関銃は「死神の火線」と称されるがごとくなぎ倒して行った。それまでは綺羅を飾っていた各国の軍装は一変。フランス伝統の赤い軍服は早々に退場し、低視認性の妨げにしかならないドイツのトゲ付き軍帽ピッケルハウベも廃された。
もちろん、軍服を変えたところで塹壕を突破できる訳ではない。そこでまずフランスは横隊を諦め、戦闘群戦法と呼ばれる戦術を採った。これは日露戦争の日本軍の散兵戦術をさらに徹底し、横隊廃止による攻撃力低下は分隊単位で装備させた軽機関銃(一人で持ち運べる機関銃)で補い、その火力で塹壕の機関銃手や小銃手が塹壕に押し込め(つまり頭を上げられなくさせる)その隙に突入すると言う戦法だった。
ドイツ軍も古来から続いた「まず強い敵に当たり、敵の士気をくじく」を諦め、強固な拠点は迂回し弱点をつく戦い方を意識し始める。1916年のヴェルダン戦では既に抵抗点の迂回包囲が試みられ、フランス側から「浸透」と言う表現を出させている。
しかし、塹壕はそれだけが脅威なのではない。たとえ突破に成功しても、敵陣後方で損害を受けて孤立し補給もままならない突破部隊に予備隊が襲いかかってくることが本当の脅威であった。また、「砲兵が耕して歩兵が刈り取る」と言う戦闘形態にこだわるあまり、一週間に渡って膨大な量の砲撃を行うことが常態化したが、塹壕には決定的な打撃を与えることが出来ず、かえって攻勢の意図を相手に暴露し敵の予備隊の導入を円滑化してしまう事態も招いていた。
これに対する答えは西部戦線ではなく、東部戦線のロシアが出した。ロシア帝国将軍アレクセイ・ブルシーロフは上層部の大半を占めるフランス留学組が大量砲撃戦法に固執することに疑問をもち、5時間ほどの集中砲撃を加えたのちに練度の高い突撃部隊を突入させ後方を攪乱。個別に包囲をかけて敵戦線を崩壊させると言う作戦案を提出する。
当初、この作戦案は激しい反発を受けたが砲弾不足に悩む皇帝ニコライ二世や参謀本部は苦肉の策として採用。1916年5月、ガリツィア方面で決行された(ブルシーロフ攻勢)。結果は大成功となり、オーストリア・ハンガリー帝国軍に150万、ドイツ軍にも30万の損害を与え事実上壊滅させた。
戦線が安定化したことやその後に砲弾の大量生産の目途がついたこともあり、ロシアはこの戦法自体を捨ててしまったが、攻撃を受けたドイツ側の衝撃は大きかった。
1917年にドイツ第8軍司令官となっていたオスカー・フォン・フーチェルはフランス軍の戦闘群戦法とブルシーロフ攻勢に着想を受け、自軍の迂回戦術をさらに昇華させて浸透戦術をあみ出した。
9月、リガにおいて新戦術が実行に移され、前年のロシアの戦法に毒ガスも加えてわずか四日でロシア軍を駆逐した。
この戦果を見て、10月にはイタリア戦線のカポレットにおいて三個軍による大規模攻勢が実施された。これまでの戦い方と違い、数分程度の短いが激しい急速な弾幕射撃により奇襲効果を確保し敵守備隊を混乱に陥れた。こののちドイツ軍精鋭が浸透を目的とした攻撃を開始。強力な火点は無視し、弱点をついて敵後方の司令部や連絡線を破壊。それに続く後続部隊は孤立化し後方と連絡が取れなくなった敵守備隊を降伏に追いやった。
結果、イタリアはわずか一週間で3万人が死傷し27万人が捕虜となる大損害を受け、戦争から事実上離脱した(カポレットの戦い)。
自信を深めたドイツはロシアの脱落により東部戦線からの兵力の引き抜きが可能になったこともあり、この戦術を使った春季攻勢で雌雄を決することを決断する(カイザー戦)。
1918年3月21日、作戦は決行され5000挺もの対塹壕兵器である短機関銃(MP18)を装備した精鋭部隊「突撃隊」が戦訓通りの短い砲撃ののち浸透を開始。司令部に加えて脅威であった予備隊集結地も破壊して行き、協商国側を極度の混乱に陥れた。いままで通りの予備隊導入による回復攻撃は行えず、包囲された部隊はこのような状況に対応する訓練は受けておらず降伏するより他なかった。前線は崩壊し8日で65kmと言う驚異的な進軍(前年までは12kmの進軍ですら数か月を要した)を記録。
6月にはパリにまで直線距離で70kmの地点にまで到達し、イギリスは派遣軍の撤退を検討し始めた。
しかし、フランス軍のフェルディナン・フォッシュは諦めず冷静であった。イギリス軍に対し「攻勢はどこかで止むものである」と豪語し反撃の機会をうかがった。
実際、ドイツ軍の補給が前線に追いつかなくなり、戦線は停滞を始めた。イギリス軍を加えたフォッシュは縦深的に防衛線を築き、再び消耗戦へと持ち込んだ(縦深陣地)。
5月にはアメリカ軍が前線に到着し、6月にはベローの森でアメリカ海兵隊が反撃に成功した。
7月、ドイツ軍は四年前の雪辱を果たすべくパリ前面のマルヌで再び攻勢を仕掛けたが、新型のルノー・FT-17快速戦車の前に惨敗。浸透戦術は戦車を利用した機動防御の前に敗れた。
ドイツ軍には再び浸透戦術を大規模に決行する余力は残されていなかった。戦車と急降下爆撃機を加えた協商国側に圧殺され、士気が低下した兵士たちは次々に白旗を挙げた(百日攻勢)。
この敗勢に既に限界に達していた銃後は耐え切れず、キール軍港での反乱がきっかけとなった革命が起きドイツ帝国は崩壊し敗北した。
戦間期に至ると旧協商国は攻勢を諦めてしまい、フランス中心にマジノ線に見られるような静的防御に固執するようになる。一方、復讐を誓ったドイツ軍は攻勢を諦めることなく、後半において協商国が行った戦車攻勢に浸透戦術を組み合わせた電撃戦をあみ出し、第二次世界大戦で欧州を席巻することとなった。
また、第一次世界大戦の教訓を正確に得ていた日本軍は浸透戦術と戦闘群戦法を徹底的に磨いた。日中戦争の上海戦では大量の軽機関銃を利用し、ドイツ人軍事顧問が築いた国民党の大規模防衛線網(ゼークトライン)を大損害を被りつつも突破。10倍近い敵を壊滅させ大陸での足がかりを築き、浸透戦術としてはカポレットに続く戦果を示した。
第二次世界大戦後は足で歩く歩兵が戦局に与える影響は低下してしまったが、歩兵同士の戦いにおいては現在でも浸透戦術の教訓が生かされている。
▲迂回がメインであるので、当然ながら低視認性を重視した軍装を羽織ることになる。前述の通り19世紀前半まで見られた煌びやかでロマン主義的な軍装は一般部隊でも廃されていたが、浸透戦術の主役を担ったドイツ軍の突撃隊はガスマスクとワイヤーカッターがついたこん棒を装備し、ヘルメットには草や木を括り付けあえて泥だらけにした。このいで立ちはあたかも蛮族の戦士のように見えたと言う。彼らが即興的に生み出した迷彩ヘルメットは、現代にまで続く迷彩服のはしりであったとも言えるだろう。
砲撃は短めながら効率的な集中射撃を重視した。砲弾の炸裂孔は進撃の妨げになるのでガス弾が好まれた。当然ながら、通常弾よりも相手を混乱させる効果も見込める。
塹壕での戦いでは接近戦になるので、長射程の小銃は不要であり短射程ながらも大量に拳銃弾をばら撒ける短機関銃が好まれた。この短機関銃と小銃の長所を採った突撃銃が第二次世界大戦後に世界の銃器市場を席巻する。
敵の弱点を小隊、時には分隊によって単独かつ主体的に突く必要があるため、浸透戦術を実行する小隊長にはかつての中隊長並みの技量が、下士官には士官並の能力が求められた。戦後の将校教育は予算の問題もあり各国ともに頭を悩ませた。第二次世界大戦からは速成教育による大量生産の少尉が登場。戦争映画の定番、世間知らずの大学出の少尉が古参の下士官にいじられ、戦争を通じて人間的な成長を遂げるドラマの下地が生まれた。この傾向はベトナム戦争終結まで続いた。
▲第二次世界大戦を題材にしたウォーシュミレーションゲーム、ハーツオブアイアンでは陸軍のドクトリンの一つ「浸透襲撃」として登場。機甲部隊の設立には向かないが、士気が高く夜戦と夜間移動に大きなボーナスがつく。主に戦間期にもっとも浸透戦術を重視した日本が取る。
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