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田中将大(たなか まさひろ、1988年11月1日-)とは、兵庫県出身の日本人メジャーリーガー(投手)である。現在はニューヨーク・ヤンキースに所属。
愛称は「マー」「マー君」「まさお」など。一部のファンには「まーりゃん」「ドルオタピッチマン」と呼ぶ者もいる。
偉大な功績からもはや「君」呼びなど畏れ多いということからネット上では「マーさん」と呼ばれることもしばしば。
ニューヨーク・ヤンキース #19 | |
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田中将大 Masahiro Tanaka |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県伊丹市 |
生年月日 | 1988年11月1日 |
身長 体重 |
188cm 93kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2006年高校生ドラフト1巡目 |
経歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | ![]() |
五輪 | 2008年 |
WBC | 2009年、2013年 |
メジャーリーガーテンプレート |
小学校時代は坂本勇人とバッテリーを組んでいた(別に親友とかではなくチームメイトの一人)。
ちなみに当時は、坂本が投手で田中が捕手であった。
北海道の駒大苫小牧高校に進学。2年生時、事実上の主戦投手として甲子園連覇に大きく貢献。決勝戦で投じた最後の一球が150km/hを計測し、俄然プロから注目を浴びる。
3年次はエースとして3連覇に挑み、決勝で早稲田実業の斎藤佑樹と延長15回引き分け再試合という熾烈な投げ合いを演じて甲子園を大いに沸かせた。結局再試合で敗れ3連覇はならず。
ちなみに愛称の「マー君」は日米選抜大会に出場した際に、斎藤からこう呼ばれていたと明かしたのが由来。
斎藤が早稲田大学への進学を表明したこともあって、その年のドラフトでは高校生最大の目玉として横浜ベイスターズ、オリックス・バファローズ、東北楽天ゴールデンイーグルス、北海道日本ハムファイターズから1位指名を受け、くじ引きの結果楽天が交渉権を獲得。契約金1億、年俸1500万という最高額で契約を交わした。
▲魔球とも称される縦の高速スライダーは独特の変化を見せ、解説者が球種を間違えることも少なくない。そのため田中のハイライト動画においては、投げた球種について意見するコメントが集中しやすい。
楽天時代は、駒大苫小牧時代の活躍もあって日本ハムファンにも人気がある。2008年に札幌ドームでの日本ハム戦で勝利した際、特別にヒーローインタビューが場内に流され(普通は敵チームのヒーローインタビューは流されない)、日本ハムファンからも温かい拍手を浴びた。
2006年甲子園決勝の一件があるためか、何かと斎藤佑樹の比較対象となる。
田中本人も以前は嫌がっていたが、スルースキルを覚えたことにより対処できるようになった。
投手陣が手薄なことと、当時の楽天・野村克也監督の「マーくんは、実戦でドンドン経験を積ませていった方が、絶対に伸びる」という方針から、高卒ルーキーながら開幕から一軍のローテーション入り。
公式戦初登板では福岡ソフトバンクホークス打線にメッタ打ちにされる(でも打線の援護で黒星は消えた)。が、登板4試合目でソフトバンク相手に完投で初勝利を挙げリベンジを果たすと、その後はソフトバンクを完全にカモにし、結局この年ソフトバンクから5勝を挙げた。ちなみに「四本柱」と呼ばれるソフトバンクの4投手(斉藤和巳、杉内俊哉、和田毅、新垣渚)の全員に投げ勝っている。
一時期、リードを許して降板したものの、その後打線が奮起し田中の負けを消してしまうことが多く、野村監督から
「マー君 神の子 不思議な子」とまで言われた。
1年目ながらオールスターに出場。だが散々打たれて敗戦投手に。
結局高卒ながら11勝(7敗)し、同じく11勝した西武ライオンズの岸孝之を抑え新人王を獲得した。
高卒投手の新人王は松坂大輔(西武)以来である。
北京オリンピック野球日本代表に選出。本大会では3試合7イニングを無失点に抑えた。
一方でペナントの勝ち星はムエンゴが多く惜しくも9勝どまりで、二桁にはあと一歩及ばなかったが、岩隈久志に次ぐローテーションの柱としての地位を確かなものにした。
WBC日本代表に最年少で選ばれる。先発ではなく中継ぎでの起用が中心だったが役割を果たし、連覇に貢献する。
ペナントが開幕すると、いきなり『4試合連続完投』+『4連勝』で4月を終え、初の月間MVPに輝く。
その後連勝記録は7まで伸びたが、8勝目を得た後は勝ち星が遠のいた。
しかし、9勝目を得てからは再び勝ち星を積み重ね、8月には二度目の月間MVPに選ばれる。
クライマックスシリーズでは第1ステージ、第2ステージともに先発し、完投勝利を挙げる。
シーズン成績は15勝6敗、防御率2.33。
シーズンオフの契約更改では1億500万円増の1億8000万円で更改。
シーズン開幕前に沢村賞宣言をするも、ムエンゴに悩まされる。神の子とは何だったのか。
更に6月には大腿の肉離れ、 8月末には右大胸筋部分断裂によりシーズン終盤を棒に振るなど故障にも悩まされる。
シーズン成績は11勝6敗、防御率2.50だったが、奪三振と投球回は過去4年で最低の成績を記録。
シーズンオフには里田まいとの交際も発覚。ちなみに楽天のチームメイトは全く気付かなかったらしい。
2010年同様、キャンプ時に沢村賞宣言をする。同時に2011年はスペらないことも宣言した。
更に岩隈久志から開幕投手の座を奪うことも宣言。
シーズン開幕後は2010年に続き、再度ムエンゴに悩まされる。
一方で新たに習得したSFF(前年の週刊ベースボールの変化球特集に載っていたファルケンボーグ(ソフトバンク)のSFFについて語った記事を見てボールの握り方をモノにした)による奪三振率の増加、防御率の改善(統一球の影響もあるが)など投球内容が大きく向上。6月15日終了時には防御率一位になる程に。
江夏豊以来となる(高卒)ルーキーイヤーからの5年連続100奪三振の記録も達成。
8月27日に首位ソフトバンクから18奪三振を奪い完封勝利。1試合18奪三振は、1995年の野田浩司(オリックス)が記録した19奪三振に次いで歴代単独2位。
シーズン終了時には新人王以来となる最多勝、最優秀防御率、最優秀投手のタイトルを獲得。
完投数、奪三振、イニング数、完封数、無四球数ともに自己最多の記録を更新した。
防御率に至っては1.27と1956年の稲尾和久の1.06に続くパリーグ2位の記録を樹立(2リーグ制以後歴代5位の記録でもある)。
11月4日にはキャンプ時の宣言通り沢村賞も受賞。[外部]
名実ともにプロ野球界を代表する投手の一人になった。
兼ねてから交際していた里田まいとの婚約を発表。ところがその直後に自動車の接触事故(人身事故)を起こすというアレな展開(俗に沢村賞の呪いと言われる)で2012年の始まりを迎える。
開幕投手を務めるも敗戦し、更に腰痛で離脱する。
復帰後はエースの意地か、登板時には積極的に長いイニングを投げ、シーズン終了時には両リーグトップの8完投を記録。
最終的には2011年よりも成績は悪化したが、最多奪三振のタイトルを獲得。
WBC日本代表に選出される。背番号17。序盤は打ち込まれ中継ぎに転向したが、WBC球に慣れていき、決勝戦での先発登板が予定されていたが、決勝ラウンドの準決勝で敗れたため、登板はなかった。
レギュラーシーズンでは開幕から連勝記録を重ねる。8月2日の北海道日本ハムファイターズ戦でプロ野球タイ記録となる開幕15連勝を達成。さらに8月の月間MVPを受賞したことで、両リーグ初の4ヶ月連続月間MVPも達成し通算11度目はオリックス・ブルーウェーブ時代のイチローを抜いて両リーグ単独最多となった。9月6日の北海道日本ハムファイターズ戦を勝利し開幕20連勝を飾り、稲尾和久の単独シーズン20連勝のプロ野球記録に並び、1912年にルーブ・マーカード(ジャイアンツ)が記録した開幕19連勝を超える“世界記録”も達成。9月26日の埼玉西武ライオンズ戦ではリリーフで登板。ランナーを二人抱えたが、栗山巧と浅村栄斗をストレートで討ち取り、楽天史上初の優勝を決め、田中は胴上げ投手となった(詳細は田中の8球を参照)。最終成績は24勝0敗1セーブ、NPB歴代新記録の勝率1.000、防御率1.28、WHIP0.94を記録し、二度目の沢村賞を受賞。
ポストシーズンでも負けなしで勝ち進んだが、読売ジャイアンツとの日本シリーズ第6戦目。日本一に王手をかけマウンドに上がったが、対策を練ってきた巨人打線に打ち込まれ、その後9回まで160球投じたが、初めて敗戦投手となる。その後マウンドに上がることはないと思われたが、なんと翌日の第7戦の9回のマウンドに上がった。ランナーを背負ったが、巨人打線を無失点に抑え、楽天は球団初の日本一を達成。田中はレギュラーシーズン、クライマックスシリーズに引き続き、3期連続で胴上げ投手となった。
12月25日、MLB入りを目指すため、ポスティングシステムが申請された。
田中の移籍先の最終候補としてニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・ドジャース、シカゴ・カブス、シカゴ・ホワイトソックス、アリゾナ・ダイヤモンドバックスの5球団が有力視されていた。この頃になると、アメリカメディアは田中の動向に敏感になっていて、田中がツイッターで「(Twitterのアイコンをどれにするか)決めれん」とつぶやいたところ、なぜか「決まった」と誤訳され、「ついに球団を選んだ!」と勝手に解釈され大きく報道されるなどの事件も起こった。