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立浪和義とは、素晴らしい先輩である。中日ドラゴンズに所属していた元プロ野球選手であり、ポジションは二塁、遊撃など。外野を守ることもあった。背番号はキャリアを通して『3』。 3代目ミスタードラゴンズ。
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1987年、PL学園高校で主将を任され、第59回選抜高等学校野球大会、第69回全国高等学校野球選手権大会の春夏連覇を達成した。同期には片岡篤史・野村弘樹・橋本清らがいる。
1987年のドラフトで中日ドラゴンズに1位指名で入団。1988年はルーキーイヤーながら2番遊撃手に選ばれ、宇野勝が二塁にコンバートされることとなった。高卒ルーキーで開幕先発で出場し、22年ぶりの快挙を成し遂げた。また、この年の開幕戦では二塁打を放ち、後に福本豊の記録を塗り替えることとなる。110試合に出場し、打率は2割台前半と低かったが、21犠打を打ち、22盗塁を稼いでいる。オールスターゲームに遊撃手部門でファン投票選出され、3試合連続出場。中日はこの年に優勝したため、日本シリーズに全試合先発出場した。
1989年は故障のため、不振に終わったが、1990年代になると、彼の全盛期がやってくる。1990年に初の3割をマークし、1991年には600打席出場を達成する。この頃から中距離ヒッターとして、ホームランも10本塁打以上放っていた。
1992年に二塁手にコンバートされる。1993年~1994年までの間に守備機会712回連続無失策を記録した。1995年に2度目のゴールデングラブを受賞。1996年シーズンは打撃も好調で、130試合に出場し、打率は自己最高の.323、本塁打10、打点62を記録。
1997年にナゴヤドームが開場すると、開幕戦で横浜の盛田幸妃からナゴヤドーム初ホームランを放つ。
1998年はかつて高校時代に「東の久慈、西の立浪」といわれていた久慈照嘉とチームメイトになり、久慈が内野を任されたため、外野にコンバートされ、レフトでの守備機会が多くなる。しかし、外野手としてはこの年限り。
1999年、内野に復帰し、5番・二塁で開幕戦出場。この年の中日優勝に貢献したが、打率が思うように伸びなく、監督の星野仙一に『最後通告』を受け取った。だが、日本シリーズではチームで唯一奮闘した。
2000年、ナゴヤドームの横浜戦にて、球審の橘高淳に抗議をして胸を突き、大西崇之が橘高の肋骨を折ったことで、ファンから星野、大西と共に刑事告発されるが、起訴猶予処分となった。
2001年終盤から三塁手にコンバートされる。この年はプロ野球選手会の理事長に就任した。2002年、自身初のサヨナラ満塁ホームランを放つ。この年は久々に打率3割台をマークした。レオ・ゴメスの帰国により、2003年まで4番を任されることとなる。この年は三塁でゴールデングラブ賞を受賞し、3つの異なるポジションでゴールデングラブ賞受賞という快挙を成し遂げた。
2003年7月5日の巨人戦で、8回表に巨人・林昌範からライト前ヒットを放ち、2000本安打を達成。同試合後に名球会入りの記者会見を行い、後日、名球会のブレザーが手渡された。
2004年、5月、6月の月間MVPを獲得し、落合博満監督の下、5年ぶりの優勝に貢献。日本シリーズでは、松坂大輔からホームランを放ったが、チームは3勝4敗で敗れた。
2005年5月19日、交流戦・対北海道日本ハム戦にて、金村暁から450本目の二塁打を放ち、福本豊の449二塁打を抜く記録を達成した。6月4日には、高木守道が記録した球団通算最多安打の2274本を超える2275本目のヒットを放ち、球団通算最多安打の記録も作った。
2006年、後半戦に森野将彦が三塁手の座を奪われたが、チームの優勝に貢献した。10月12日の阪神・片岡篤史の引退試合では三塁手として先発出場し、試合終了後、片岡を胴上げした。
2007年に中村紀洋が入団して以降出場機会が減り、主に代打として出場しするようになった。代打の年間最多試合出場を記録。同年に打撃コーチ兼任となり、2008年以降は代打で出場しながらも、打撃コーチ兼任としてチームの打撃育成指導を行っていた。
2009年、プロ野球史上7人目の通算10000打席を達成し、同年引退。コーチとしても退団した。東京ドームでのクライマックスシリーズ第4戦が最終打席となった。結果はマーク・クルーンから外野フライだった。
2010年、背番号『3』を森野が背負うこととなっていたが、永久欠番にする署名が行われていたため、森野が背番号『3』を辞退し、同年は欠番扱いとなった。2月27日のオープン戦・ロッテ戦にて、引退試合を行い、その後日本テレビの解説者に就任した。
ちなみに、2008年のナゴヤドーム最終戦の試合は名古屋の各テレビで中継が行われたが、CBCテレビの放送は最終打席の、それもバットがボールに当たった瞬間に中継終了という奇跡的なタイミングの悪さを披露し、一時期話題となった。
2007年の『燃えよドラゴンズ! 2007』では、2小節で2回コールされている。これは現在、歴代『燃えよドラゴンズ!』の中でも、彼一人のみである。
通算本塁打は171本であり、これは日本プロ野球界の通算安打数10傑(2015年シーズン終了時点で、張本勲、野村克也、王貞治、門田博光、衣笠祥雄、福本豊、金本知憲、立浪、長嶋茂雄、土井正博の10人。なお、MLBでプレーしたイチロー、松井秀喜、松井稼頭央の3名は含めないものとする)に入る選手の中では最少であると共に、その中で200本塁打に到達していないのは立浪のみである。また、シーズン20本塁打に到達したこともない(シーズン最多本塁打は1993年・2002年に記録した16本塁打)。このように決して長距離打者とは言えない(通算安打数10傑の中では最も本塁打と縁遠いように見える)が、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。
上記の輝かしい成績から2013年のオフには高木守道監督の辞任時に「立浪監督」待望論が囁かれる(結局実現せず、谷繁元信が選手兼監督に就任した)など、中日のチーム内外から次期監督候補として期待が寄せられる上、本人も著書にて将来的に中日で監督を務めることに意欲を示している一方、白井文吾オーナーや落合博満GMとの不仲説や後述の「黒い噂」が監督就任を妨げているのではないか、という指摘もある。
ネット上では、2004年10月18日号、11月5日号、10/29日号の『週刊ポスト』にて「中日・立浪和義 レイプと黒い交際」というタイトルで、強姦・脅迫事件で刑事告訴されたと報じられたことから、「レイパー立浪」と呼ばれる場合もある。また、2008年にも『女性自身』『女性セブン』で梅宮アンナとの不倫疑惑が報じられている[外部]。
なお、結局立浪は前述の2004年の事件では逮捕・起訴されておらず、2015年現在のところ真偽は不明である。
通算:22年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 2586 | 10033 | 8716 | 2480 | 487 | 171 | 1037 | 135 | 96 | 69 | 1086 | 66 | 1007 | .285 | .366 |
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