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菊池義武


ヨミ: キクチヨシタケ

菊池義武(きくち・よしたけ 1505 ~ 1554)とは、肥後戦国大名である。菊池26代当大友時代の名前大友重治重宗菊池時代はの名前義宗よくわからないのは義綱武宗がある。

大友義長の次男。大友義鑑。子に菊池高鑑、菊池則直、大友親貞(一説)がいる。

尚、長男・高鑑と次男・則直についても本稿で記述する。


生涯


1518年にが病死すると督を継いだ・義鑑により自身を菊池氏を継がせようと論む。もこの件に関してはの代から行われていた密約であり、菊池氏当菊池武包はこれを了承していたという。

いつごろ肥後に入したのかわからないが、1520年に武包により督を譲られて菊池氏の当となった。当初はの方針に従い菊池氏譜代の臣を排除して大友氏から連れてきた臣を重用する。

しかし、1534年になるとに叛旗を翻して大内義隆や相良義滋らと同盟を結んで独立を果たした。原因は詳細になっていないが、自らが大友氏の棟梁となる野心を持っていたのだろう。大内氏の援軍を得ながらと戦うが、室町幕府の仲裁で大友大内両氏が和すると敗北は決定的なものとなり、肥前へと逃れ、更に相良義滋への下へと落ち延びた。

義鑑が肥後の直接統治を試み、肥後守護を獲得するも二階崩れの変で死亡するとその混乱の最中にを奪還する。義武は義鎮の量を侮り中統一は時間がかかるものだと思っていた。だが、義鎮が中を統制して義武討伐の兵を挙げるとこれを支えきれずには落し、原へと逃亡した。

暫くは再び相良広の護下に入っていたが義鎮の和という名の帰要請を受けて豊後へと向かうが、義鎮の差し向けた兵により謀殺された。これにより肥後に長年勢を広げていた名門・菊池氏は滅亡してしまった。ただ、大名としての菊池氏は滅亡したが、次男・則直は健在であったし、嫡流筋であった菊池能運子供たちは日向にいたため菊池氏の血筋自体は途絶えることはなかった。


補足


信長の野望」(PCシリーズにおける菊池義武の力一覧。

天翔記こそヒャッハー!立ち戦闘であったが、すぐに戦闘面での評価がガタ落ちし、使えない武将へとなってしまった。だが、信長の野望・創造 戦国立志伝では菊池氏再というロマンはあるだろう。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 野望
武将風雲 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 144(A) 智才 32(C) 政才 78(C) 68 野望 78
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 22 戦闘 43 智謀 36 政治 28
世記 采配 34 智謀 20 政治 16 野望 86
蒼天 統率 28 知略 18 政治 16
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 27 武勇 56 知略 23 政治 43
創造 統率 33 武勇 57 知略 32 政治 45

関連動画


菊池義武に関するニコニコ動画動画紹介してください。


長男・菊池高鑑


菊池高鑑(きくち・たかあき ? ~ 1554)とは、肥後戦国武将である。菊池義武の長男。別名・則治

1538年に元に従い大友義鎮と争うが敗れて相良氏の下へと逃れる。その後義鎮より和と称して帰の誘いを受けて豊後へと向かうが、義鎮が差し向けた兵によりと共に謀殺された。

1538年に元したということなので生年は1520~25年あたりと推測される。


次男・菊池則直


菊池則直(きくち・のりなお 生没年不詳)とは、肥後戦国武将である。菊池義武の次男。子に菊池武益、菊池がいる。別名・

大友義鎮に謀殺された時はと共に相良広の下にいたため、難を逃れた。これ以降則直流菊池氏は代々相良氏に仕え、江戸期では人吉の重臣として中枢を担った。


関連項目



最終更新日: 16/03/21 13:36
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