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蒋欽とは、
ここでは1について説明。
字は公奕。九江郡寿春(安徽省六安市)の出身。周泰と共に、袁術に属していた頃の孫策に仕え、別部司馬として各地で戦功を立て、異民族の討伐など江東の平定に携わった。合肥で孫権が張遼に攻められ窮地に陥った時は蒋欽の奮戦で危機を脱し、それを孫権に評されて盪寇将軍及び濡須の督のち右護軍となった。
予章で蒋欽が賊軍討伐にあたっていた頃、徐盛が蒋欽の配下を罪に問おうとしたが孫権がこれを許可せず、徐盛は蒋欽を避けるようになった。曹操が濡須に攻めてきた時、蒋欽は徐盛と共に軍勢を指揮したため徐盛は以前の報復をするのではないかと蒋欽を恐れていたが、蒋欽は徐盛の事を褒め称え、その事を疑問に思った孫権には「公務では私怨を挟まないものです。どうして私怨で賢者を隠したりするものですか」と答えたため、徐盛は蒋欽に心服し、人々は蒋欽を褒め称えた。
219年(建安24年)、荊州の関羽を攻めて凱旋途中に病のため没。孫権は喪服を着て哭礼を挙げ、蒋欽の遺族に援助を与えた。蒋欽の長男の蒋壱は宣城侯の爵位を継承して父の軍勢を継ぎ、夷陵の戦いで関羽の仇討ちに来た劉備の軍勢を防いだが、魏の曹丕が攻めてきた時の守備軍として従軍中に病没。その弟の蒋休が後を継いだが後年罪を犯して資産を没収された。
孫権に学問に励めといわれ発奮し、大成した「呉下の阿蒙」のエピソードは呂蒙ばかり有名になっているが、孫権は呂蒙と一緒に蒋欽にも学問を薦めている(正史の注にある『江表伝』より)。そして孫権の発言として「人間は年をとると長ずるものだが、呂蒙と蒋欽には及ばぬものだ。学問を好み道義を尊び然るべき行動を取ったため、いずれも国士となった。素晴らしいことではないか」と記録されている。
呂蒙だけでなく、蒋欽もまた孫権を感心させる程に一武将から名将へと成長したといえよう。
もともと周泰と共に水賊をしていたが、いつも畏れていた孫堅の子の孫策が挙兵したと聞き孫策の元に馳せ参じ、その後は呉の将軍として各地で活躍する。
正史で関羽の最期に関係した人物は軒並み関羽の呪いで尋常ではない死を遂げているが、蒋欽の死については何も描写がない。
呉下の阿蒙イベントではハブられる存在だったが、三國志11など彼のステータスも呂蒙と一緒に上昇する作品もある。ようやく正当な評価を与えられたということか。
孫呉デッキの友の一人として愛用するプレイヤーも多いのだが、どう見てもランボーです、本当に(ry
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