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西郷隆盛


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西郷隆盛とは


概要


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大久保利通木戸孝允と共に「維新三傑」と称される。幼名小吉。通称吉之助。変名大三右衛門、菊池島津左仲など。号は南州。

文政10年(1827年)12月7日薩摩鹿児島下の下鍛冶屋(しもかじや)町にて、御小姓与(おこしょうぐみ)西郷兵衛長男として生まれる。幼少期は薩摩特有の師教育である郷中(ごじゅう)教育を受けて育つ。

郷中とは地域もしくは地域集団を意味する。戦国武将・新納忠元少年紀をめるために作った咄相中(はなしあいじゅう)という集団を基として、江戸時代教育課程の一種として発展したのが郷中教育である。

保12年(1841年)、郷中教育の一環である妙円寺詣りの最中の喧により右腕に傷を負い、後遺症が残ったため武芸のを断念し、以降は学問に打ち込む。

後、郷中の二才組に入り、化元年(1844年)にに出仕。方書役助(役所の書記係)を勤め農政に携わる。

嘉永3年(1850年)、の座を巡る対立を発端として、世子・島津斉彬を支持する士・高崎五郎右衛門、負らが、対立する島津久光を排斥する動きを見せたとして処罰を受ける事件が発生した。高崎山は切腹となり、山と知り合いだった西郷・吉兵衛が介錯を務めた。山に敬意を持っていた西郷からその最期を聞かされ、血に染まった肌着を受け取ると通し泣き続け、斉彬をにと望むようになる。

この時期、大久保正助(利通)、吉井仁左衛門(友実)、有村俊斎(海江田信義)、地知右衛門(正治)、次郎(地知貞)らと『近思録』の研究会を開き、事について論じ合う。これが後に精忠組と呼ばれるグループで、薩摩内部の有の一として台頭していき、西郷はその中心人物となる。


幕末



島津斉彬との出会い


である島津を強制的に隠居に追い込むことでの座についた斉彬であったが、自らを追い落として異の忠教(久)をに据えようとした一に対する処罰はほとんど行わなかった。訝しんだ西郷は、斉彬が出した建書の募集に応じて「反斉彬を厳重に処罰するべき」という内容の他、農政に関する建書を提出した。これに対し斉彬は「親に対する孝の立場からそれはできない」との返事を出す。だが建書の内容を気に入った斉彬は数年後に西郷を自身の庭方役として召抱えることになる。

安政元年(1854年)、西郷は斉彬の参勤交代に随従して江戸に出府。

4月、庭方役を仰せつかった西郷は初めて斉彬にお見えを許される。西郷の資質を見抜いた斉彬は以来様々な導を行った。越前福井松平慶永の記録として斉彬の西郷評が以下のように伝わっている。

「私、来多数あれども、も間に合うものし。西郷一人はの大宝なり。然しながら、彼は独立の気あるが故に、彼を使うもの私ならではあるまじく
(『松平春嶽伝』)

また、同僚の紹介により水戸の重鎮である藤田と面会し、その人格と学識に感銘を受け、江戸滞在時盛んに藤田のもとを訪れ交流している。

「東先生のお宅に伺いますと、清水に浴したようで、心中一点のなく、ただ清浄な気持ちとなり、帰りを忘れるほどです。お察し下さい
(『方の叔父宛 西郷隆盛書状』)

更に越前福井士・橋本左内をはじめとする当時の名士達とも交流を得、斉彬の連絡係を勤めて行く中で事に覚め、その資質を開させていった。


京都手入れ


安政に入ると、将軍としてのに問題のある徳定の後継をにするべきかが政治問題として浮上し始めた。島津斉彬松平慶永伊達宗城山内豊信等の大名の他、幕府内部の少壮官僚達は水戸徳川斉昭の七男であり、御三卿・一に養子に出されていた徳川慶喜を次期将軍に据えようと運動を開始し始めた。

斉彬は内部からの切り崩しのため、一門から養女に迎えた篤姫定の正室にあてがう一方、工作諜報活動のために西郷京都に送り込む。

斉彬の掲げる合体策と徳川慶喜擁立の為に盟友・橋本左内僧侶照と共に朝廷工作に奔走した西郷だったが、合体策は在野の尊攘志士達に、徳川慶喜擁立は大老・井伊直弼の謀臣である長野主膳に阻まれてしまう。

更に井が勅許を得ずに条約調印を強行し、一の幕臣や大名に対して弾圧を加え始めると、斉彬は挙兵の決意を固め、京都兵する計画を立て始めた。

安政5年(1858年)7月京阪で斉彬率いる薩摩軍のために準備を進めていた西郷の元に、斉彬急死の知らせが届いた。斉彬を崇拝していた西郷は悲嘆のあまり殉死を考えたが、照に諭されて思い止まる。

斉彬の急死について、西郷はかつて島津久光を擁立しようとした島津や、久の生であるお由羅の手によって殺されたのではないかという疑いを生涯持ち続け、その事が久に対する軽侮の要因となる。


最初の遠島


安政5年(1858年)8月西郷照の活動により、朝廷から幕府に対する問責と幕政革を促す勅書「午の密勅」が水戸に下された。

これに激怒した井伊直弼は、京都に老中・間部詮勝を派遣し、在野志士や反幕府的な活動をしていた卿に対する弾圧が始まり、西郷にも追っ手が迫ったため、薩摩に帰還。照も西郷を頼って鹿児島にやってきたが、命により滞在できず、日向に退去するよう言い渡された。

事態を悲観した西郷照は、日向に向かう途上の船上から飛び降りて心中を図ったが、同船していた平野臣らに救助され、西郷だけは息を吹き返した。

「私事、土中の死にてぶべからざる儀をびまかりあり次第、御聞き届け下されはん、地に恥ヶ敷儀に御座候え共、今更にまかり成ては、皇のためにしばらく生を貪り居り事に御座候
(『安政五年十二月十九日 長岡監物宛 西郷隆盛書状』)

自分だけ自殺に失敗して生き残ったことを深く恥じ入り、自らを「土中の死」つまり一度は死んだ身だが、生き残ったのはまだこの世で何かやるべき事が残っており、自分は命によって生かされたのだと考えるようになっていった。

その後幕府からの追及を逃れるため、命によって名前を菊池に変えられ、奄美大島郷という村に流されることになった。

流しとはいえ罪人ではなかったためから扶持を出され、鹿児島大久保ら精忠組同志達との手紙のやり取りも許されており、生活には特に不自由することはなかったものの、に着いてしばらくの間は民に対する侮蔑感を手紙に書いたり、中に奇を上げるなど荒んだ精状態だったが、民からの依頼で子供たちに学問を教えたり交流を重ねる中で次第に落ち着きを取り戻していった。

安政6年(1859年)の末ごろ、村の有者である氏から、とま(加那)という一族のとの縁談を持ちかけられて結婚。一男一女をもうける。

大久保達とのやり取りの中で、かつて京都で共に活動した橋本左内が安政の大によって処刑されたことや、井伊直弼桜田門外で暗殺されたことを知る。中央政局への関心を持ちつつ、子供たちに学問を教えたり魚釣りに励む穏やかな生活を送っていた。

文久元年(1861年)12月20日、自宅の新築祝いで民を招き皮線太鼓にじていた西郷の元へ、から帰還するようにとの命が下された。当時薩摩内では島津茂久の実でその後見役となった島津久光が権握し、義斉彬の遺志を継ぐと称して卒兵上計画を立てており、その段取りに奔走していた大久保利通がかつて京都工作活動に携わっていた西郷を人材として抜することをめたためであった。


島津久光との因縁


文久2年(1862年)2月12日鹿児島に帰着。翌日、家老小松帯刀から呼び出しを受け、小松の屋敷に赴いた。屋敷では小松の他、御小納戸に昇進していた大久保一蔵(利通)、同じく御小納戸の中山尚之介の三人から、卒兵上計画への協められた。三人共西郷がすんなり協してくれるものと思っていたところ、予想外の答えが返って来た。

西郷「趣旨は分かりもしたが、勅許を頂くには朝廷への手蔓が必要でごわす。島津と縁故の深い近衛には依頼済みでごわしょうな?友好的な幕閣や諸との事前の打ち合わせは?(  ◕ω◕  )」

大久保「それは全く手をつけていないでごわす(失敗したとは言えんでごわす・・・)」

西郷「・・・仮に勅許が下りたところで幕府が引き伸ばしに出た場合のことは考えておりもすか?幕府が勅許に従わなかった場合、これを征伐する必要がありもすが、諸と連携がとれてない以上薩摩が単独でやることになりもす。その覚悟が久にありもすか?(  ◕ω◕  )」

小松「そいじゃからおまんさを待っちょいもした。是非協を・・・」

西郷「そげん準備不足で下の事を尽くそうとは、実に怖じず、とても出来ることではごわはん!ことわりもす!( `◕ω◕´ )」

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薩摩の文久新参達を容赦なく批判する安政古参西郷だったが、三人と話しても埒があかないと思い、数日後に控えた久との謁見の場で直接話すことに決めた。

2月15日西郷は久と初めて面会した。事前大久保小松から「慎重に話すように」と釘を刺されていたが、全くひるむ事なく本音をぶちまけた。

西郷「御前(久)は順院(斉彬)様の遺された策を実行されるとの事ですが、当時と今日とでは状況が異なっておりもす。当時の策が今日においてもそのまま通用するか疑わしく思いもす。院様であればこのような状況に適応できる策を巡らせることも出来ましょうが、それでも朝廷や幕府へ手蔓を作り、諸とも連携し、用意周到に準備をした上で動かれたことでしょう。然るに御前は官、諸大名との交際もい、恐れながら申し上げればジゴロ(田舎者)でごわす。準備も整っておらず、とても武周旋など出来るものではごわはん!( `◕ω◕´ )」

「( `_ゝ´)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

中山大久保小松(「( ;゚;;゚;)ちょwwwwwwwwwwおまwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」)

が怒りを抑えたためその場は取り繕えたが、再度の諮問にも西郷は計画の中止もしくは大幅な変更をし、そのまま宿の温泉に引っ込んでしまった。

一方、薩摩が動き始めるという情報を得た各地の浪士達が「武者震いがするのう!!」と薩摩に続々とやって来た。浪士たちの動きに不安なものを感じた大久保は、彼らの動きを統制するためにはやはり知名度が高くのある西郷が必要だと考え、温泉から戻った西郷の説得に努めた。

大久保の説得に心を動かされた西郷はようやく協に同意。幕府のをそらすため大島三右衛門と名を変え、3月13日村田新八同志数人を伴って出発した。


激派鎮撫


出発の前、西郷は久から下関で待機するよう命じられていたが、23日に下関に到着し、薩摩の御用商人である白石正一郎の屋敷で平野臣と再会。平野と話すうち、久の上に合わせて決起しようとする人々が大阪に集まりつつあることを知り、「私死地に入らずはでは死地の兵を救う事出来申すまじく」 」と判断。久の命視してすぐさま大阪に向かった。

27日、大阪に到着。薩摩士・柴山次郎、橋口壮助ら久到着後の決起を論む人々に会い自制を促した。また、当時京都で「航遠略策」の周旋をしていた長州士・長井雅楽の噂を聞いた西郷は「朝廷を軽んじ、幕府に利して自らの栄達を謀ろうとしている」と判断し、長井の説に同調していた精忠組同志次郎を「長井に同調したからにはらねばならぬ」と脅しつけた。

「これは畢竟幕の痛いところを程よく致しなし、自分の功を立て、下のを取るべき計謀と察せられ申し
(『木場伝内宛 西郷隆盛書状』)

同じ長州久坂玄瑞との面会に際しては「長井るべし」と進言し、長井を憎む久坂もそれに同意する。

西郷がそのい一面を大阪で発揮していた頃、下関に着いた久西郷の命視に怒り、更に姫路に着いた際、次郎と海江田信義(有村俊斎)を引見すると、二人から「西郷過激派を率いて決起を企てている」と聞かされ、ついに厳罰を下すことを決めた。

一方、西郷の身を案じて久より先に大阪に着いた大久保一蔵(利通)は、西郷に面会して徒鎮撫に努していることを確認すると安心して久の元に戻ったが、海江田の報告で既にを決めた久を動かすことは出来なかった。

このままでは最悪切腹もあり得ると考えた大久保は決死の覚悟を持って西郷辺に呼び罪受け入れを促した。


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最終更新日: 17/04/08 22:38
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