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護良親王(1308?~1335)とは、後醍醐天皇の皇子である。別名「大塔宮」。
尊良親王、世良親王の弟とされるが、彼を長男とする見解もある。さらに母親の出自についても北畠師親娘説、日野経子説があり、要するに母親の出自さえよくわかっていない、皇位継承者として想定されていない皇子だったのである。
さらに彼の生い立ちについてもよくわかっておらず、1323年ごろ比叡山延暦寺の末寺である梶井(梨本)門跡に入室したらしく、尊雲法親王と称した。そこで彼は順徳天皇の孫・承鎮法親王の弟子となり、加えて子房「大塔」の祖師・澄覚法親王は後鳥羽院の孫で雅成親王の子であることから、非常に反幕気質の強い環境で育ったようだ。
1325年護良親王は梶井門主となった。そして1327年には天台座主となり、その後短期間で何度かやめたり務めたりを繰り返している。しかし彼は仏道修行が合わなかったのか武芸に明け暮れ、赤松則村の三男である赤松則祐との縁も出来ている。結局天台座主は弟である尊澄法親王(宗良親王)が代わり、後醍醐天皇の仏教勢力への支持と戦力は彼らに託されていった。
▲そしてついに吉田定房が討幕計画を密告したことによる元弘の変が生じ、これに抵抗する後醍醐天皇らによる元弘の乱が開始された。しかし後醍醐天皇はあっさり敗北して捕らえられ、後醍醐は隠岐、尊良親王は土佐、尊澄法親王(宗良親王)は讃岐に流されていった。さらに楠木正成の一度目の挙兵も失敗している。この際護良親王は花山院師賢とともに比叡山で囮を務め、味方に後醍醐天皇の不在がばれると脱出している。
護良親王は一度楠木正成と合流するもやがて奈良の般若寺に潜伏。赤松則祐や村上義光らと山伏に紛争し熊野を目指すが、熊野は幕府方だったため十津川に潜伏する。護良親王と名乗るのもこのころからである。そして様々なピンチを切り抜け吉野入りを果たし、ついに挙兵する。
吉野での挙兵後幕府軍に囲まれるが、村上義光の犠牲によって高野山に逃走することに成功。動けない後醍醐天皇に代わり全国に令旨をばらまいて協力を仰ぐ。さらに楠木正成との連携や、伊予での土井、得能、忽那氏の挙兵、肥後での菊池武時の蜂起、播磨での赤松円心の挙兵など協力者も続々現れた。そしてついに後醍醐天皇が隠岐を脱出、名和長年や塩冶高貞らが協力する。
ここまで見てきたように討幕勢力は健闘していたものの、全国の半分を独占する北条氏に勝てる見込みもないまま消耗を強いられた。しかしここで幕府軍の名越高家が赤松軍の放った矢で死亡、もう一人の大将である足利高氏は反転して六波羅探題を攻め落とす。さらに足利一門である新田義貞の挙兵で鎌倉も陥落し、その後鎮西探題滅亡、長門探題降伏、と連鎖的に形成が大逆転したのだ。まさに奇跡が起こったのである。
▲こうして鎌倉幕府に勝利した宮方であったが、この時点から護良親王は足利高氏を一方的に嫉妬していたようだ。後醍醐天皇の帰京によって建武政権が成立するも、護良親王は依然として信貴山に籠城して臨戦態勢にあった。後醍醐天皇は彼を征夷大将軍にすることでなだめ、ようやく護良親王は武装解除して入京したのである。
彼はそれだけでなく兵部卿を兼ね、和泉・紀伊の知行国主にもなった。しかし令旨は無効化され、わずか三か月ほどで征夷大将軍も解任されてしまう。護良親王の勢威は急速に衰えていったのである。
しかしこれにもめげず護良親王は、後醍醐天皇の陸奥将軍府設置を逆手どりし、足利尊氏に何とか対抗しようとしていった。
しかし一方で足利氏はまず足利尊氏が三河・上総・伊豆・武蔵の守護に加え、駿河・伊豆・武蔵・常陸・下総を知行国とし、足利直義も遠江を知行国とした。
さらに被官や一門衆に至っても雑訴決断所に上杉憲房や高師泰が、窪所や武者所には高師直が入り、地方には奥州に斯波氏の一族が向かい、遠江では今川範国が守護に、越前でも斯波高経が守護になっている。さらに言えば鎌倉将軍府はほとんど足利氏勢力の独占状態であり、護良親王は大きく水をあけられていたのである。
焦った護良親王が足利尊氏を暗殺しようとしている風聞もたつ中、ついに失脚の日が訪れる。1334年10月に結城親光、名和長年らに捕縛され、やがて細川顕氏に引き取られて、鎌倉の足利直義のもとに送られた。このとき彼のかつての協力者だった楠木正成は飯森山での北条氏残党討伐のために不在であった。さらに護良親王の協力者にもその手はおよび、代表的なのが赤松円心が播磨守護を失ったことである。
護良親王の嫉妬に始まった政争は、彼の足利尊氏暗殺未遂という現実的な手段での訴えによってついに親王の失脚という形で終わったのである。
そして彼に最期の時が訪れる。護良親王は、中先代の乱によって鎌倉が混乱する中、どさくさ紛れに足利直義に命じられた淵辺義博によって殺されてしまったのである。直義に深い考えはなかったかもしれないが、これが後々足利尊氏を追い詰める一つの原因となったのは歴史が示している。
護良親王の息子である興良親王は、大塔若宮と称され同じ南朝である近衛経忠による分派行動で担ぎ出されて、北畠親房優位だった関東戦線を混乱させたり、赤松宮と称され赤松則祐が一時期本気で入れ込んだものの、結局則祐が尊氏側についたために見捨てられたり、そのことに憤慨した則祐の弟赤松氏範とともに南朝に反乱を起こしたり、といった具合に南朝の反主流派の旗頭として彼もまた波乱の生涯を送るが、それはまた別の歴史である。
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