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近江屋事件


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近江屋事件とは、慶応3年11月15日(西暦1867年12月10日)、土佐脱浪士・坂本龍馬中岡慎太郎及び、坂本の付き人山田吉が殺された事件である。


概要



事件当日から明治3年まで


当日午後8時~9時頃、京都河原町通り薬師にあった醤油商・近江屋に来客があり、吉が応対した。来客は「十津川郷の者」と名乗り、「才先生(坂本龍馬)に面会したい」と伝えた。

吉が取り次ごうと階段を上ると後ろからられて重傷を負った。物音に気づいた坂本が「ほたえな(騒ぐな)」と注意した。刺客達は2階の部屋に乗り込み、坂本の額をりつけ、坂本は応戦しようと立てかけてあったを取ろうとしたが背中られた。刺客が更にを振った所をで防いだがそのまま頭をられて倒。一緒にいた中岡も短で応戦したが敵わず、頭部や体に10数箇所の傷を受け、右手は切断しかけるほどの重傷を負った。刺客の一人が「もうよい、もうよい」と言い、刺客達は立ち去った。

その後坂本が意識を取り戻し、「慎太、慎太、どうした手は利くか」と問いかけ、中岡が「手は利く」と返した。坂本は階下の人に医者を呼ぶよう言ったが、「をやられたからもう駄だ」と言い絶命した。中岡は物干しに這い出て人を呼ぶが返事がなく、隣屋根まで這ってから気絶した。

人の近江屋新助は土佐邸に通報しようとしたが表口に見りがいたため裏口から出て土佐邸に救援をめ、下横嶋田作が駆けつけ、軍鶏を買いに行った菊屋峰吉も戻ってきた。二人で近江屋2階に上がると坂本中岡吉が倒れており、中岡を隣屋根から部屋に運んだ。

その後、土佐士・や土佐脱浪士の田中顕、土佐医の川村進(えいしん)が駆けつけ、襲撃時の模様を中岡から伝え聞いた。

事件現場の近江屋には犯人のものと思われると「瓢亭(ひさごてい)」と書かれた下駄が置いてあり、新助が瓢亭に行って聞くと「昨日新選組のものに貸した」と言し、についても御陵衛士が「新選組原田左之助のものだ」と言した。また中岡から聞いたという刺客の発した「コナクソ」という言葉が伊予松山方言にある事から、伊予出身の原田が疑われた。襲撃時の模様を言した中岡は事件から2日後の17日、吉は16日に死亡した。


以上が岩崎英重『坂本龍馬関係文書』(大正15年)による事件発生時の状況で、発生直後には新選組原田左之助っ先に疑われていた。土佐から抗議を受けた幕臣の永井尚志は新選組近藤勇に事情聴取したが、近藤は自分達ではないと回答した。

援隊・陸援隊関係者は収まりがつかず、いろは丸事件で賠償支払いに応じた紀州新選組に殺させたのだと思い込んで紀州士の三浦太郎を襲撃した。(満屋事件)

慶応4年(1868年)4月流山で捕らえられた新選組局長近藤勇は土佐士のらから厳しい追及を受け、1月25日刑法事務局による暗殺禁止令[外部]で同日以前の暗殺を含む務については不問とされたにも関わらず、切腹も許されずに斬首された後に首という極刑に処された。これは表向き反乱軍の首謀者としての処罰だったが、坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられていたための極刑とも言われており、実際は死ぬまで犯人新選組とみなしていた。

ところがその後新選組隊士が捕縛され、その自供によって容疑の対が変わりだした。同隊士の大石鍬次郎は捕縛された当初拷問に耐えかねて新選組がやったと供述したが、その後あれは京都見廻組がやったことで新選組は関わっていないと言を翻した。

且つ同年十月、土州坂本龍馬石川清之助(中岡慎太郎)両人を暗殺之儀、私共の所業には之、是は見り組海野某、高橋某、今井信郎人にて暗殺致由、勇(近藤勇)より慥(たしか)に承知仕先達加納伊豆太郎に被召捕節、私共暗殺に及び段申立得共、是は全く彼の拷問を逃れ為にて、実は前に申上通に御座候

戦争榎本軍として戦い降伏した元新選組隊士の相馬肇も、兵部省での尋問で新選組関係であり、実行したのは京都見廻組であると自供した。

坂本龍馬儀は私は一向存知不申得共、隊中へ文を以て右之暗殺致嫌疑相趣全組にて暗殺致由之趣初承知仕

これらの言によって坂本中岡の暗殺実行犯の内の一人と名しされた今井信郎に容疑がかけられた。兵部省において今井に尋問がなされ、以下の自供を行った。

坂本龍馬を殺の義は見組与頭佐々木唯三郎より図にて、事不軌(謀反)を謀りに付、先達て(寺田屋にて)召捕に懸り所取り逃がしに付、度は屹度召捕申すべく、万一手に余節は打果し申すべく旨達し有之。

私義は上々の事故、委細の義は承知仕らず得共、佐々木唯三郎先立、渡辺吉太郎高橋安次郎之助・土肥仲蔵桜井大三郎・私共都合七名にて瓦町(河原町)三条下ル館(近江屋)へ参り同人留守にて、其五ツ(8時頃)再び参り処在宅に付、佐々木唯三郎先へ参り跡より直に之助・渡辺吉太郎高橋安次郎弐楷へ上り、土肥仲蔵桜井大三郎は下に扣(ひかえ)居候処、弐楷の様子は存知申さず得共、二楷より下り申し聞かせには、召捕申すべく之処、両三人居合わせ間、拠(よんどこ)ろく打果し旨申聞、直に立退けと申事故、一同右場所立退、二条通りにて高橋渡辺両人は見組屋敷へ帰り、佐々木は帰り、外私共は宿に居り間、宿へ帰り申

明治3年(1870年)2月21日今井相馬大石らと共に刑部省に身柄を移送され、更に以下のように自供した。

(前略)十月ごろ与頭佐々木唯三郎宿へ呼び寄せに付き、私並びに見渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助土肥仲蔵桜井大三郎、六人罷り越しところ、三郎申し聞けには、土州坂本龍馬儀、不審の筋これあり、先年伏見において捕縛の節短筒を放じ、捕り手のうち伏見奉行所同心二人打ち倒し、その機に乗じ逃げ去りところ、当節河原三条下ル町、土州邸向かい町宿罷り在りに付き、このたびは取り逃さぬよう捕縛致すべく、万一手に余りえば、討ち取りよう御差図これあるに付き、一召し連れ出張致すべく、もっとも儀、宿二階に罷り在り、同宿の者もこれありよしに付き、渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助二階へ踏み込み、私並びに土肥仲蔵桜井大三郎は台所辺りに見り居り、助致し者これありわば差図に応じ、あい防ぐべき旨にて手あい定め、同日八ツ時ごろ一宿へ立越節、桂早之助儀は三郎より申し付けを請け、一足先へ立ち越し偽言を以て在宅有あい探りところ、留守中の趣に付き、一同東山辺り逍し、同五ツ時ごろ再び罷り越し、佐々木唯三郎先へ立ち入り、とか認めあるの偽名の手札差し出し、先生に面会あい願いたく申し入れところ、取り次ぎの者二階へ上がり跡より引き続き、かねての手のとおり、渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助付け入り、佐々木唯三郎二階上り口罷り在り、私並びに土肥仲蔵桜井大三郎はその辺りに見りおりところ、の間に罷り在り内の者騒ぎ立てに付き取り鎮め、右二階上り口へ立ち返りところ、吉太郎、安次郎、之助下り来たり、その他両人ばかり合宿の者これあり、手に余りに付きは討ち留め、ほか二人の者切り付け疵は負わせえども生死は見留めぬ旨申し聞きに付き、左えば致し方これなきに付き、引き取りよう三郎差図に付き立ち出で、銘々宿に引き取り、その後の始末は一切存ぜず、もちろん儀旧幕にていかようの不審これある者にや、全件の通り新役の儀に付き、更に承らず、かつ旧幕にては閣老等住職の命を御差図とあい唱えに付き、その辺りよりの差図か、または見組は京都守護職附属に付き、肥後よりの差図にやこれまた承知仕らず、その後宿引き払い二条へ引き移る。(下略)

要約すると以下の通り。

という内容で、この供述により真犯人京都見廻組である事が判明し今井は禁錮刑に処されたが、明治5年(1872年)に特赦によって解放された。判決内容については何故か表されず、世間では暗殺犯は新選組という説が流布し、通説となった。


関係者の証言


事件から30年以上が経過した明治33年(1900年)、今井信郎友人自称新選組結城二三の子息である礼一郎が今井と面会した際、二三から「この人が坂本龍馬った人だ。参考までに話を聞いておきなさい」と言われた。今井は「話すほどのことではない」と言ったが、礼一郎の要に応じて聞き取りが行われた。その内容が『甲斐新聞』に掲載されてから京都で発行されていた『近畿評論』という雑誌に載った。『甲斐新聞』元編集長の岩田という人物が退職して京都に戻った際に結城断で転載したのである。

今井信郎証言一

この中で今井明治3年(1870年)の供述調書とは異なる言をしている。

上記の言と共に近江屋2階の図面を書いており、火鉢を机と誤認するなど細かい間違いがあるものの、近江屋2階の間取りに近似したものだった。今井明治3年(1870年)の供述では渡辺吉太郎高橋安次郎桂早之助の3人が2階に上がり、自分は見りだったと言っていたが、この言では自分が実行犯という事になっていた。また、以前は自分以外全員戦死したと言っていたのが「もう1人生き残りがいる」とも言した。これがに通知され、憤慨した明治37年(1904年)から明治39年(1906年)にかけて、雑誌の講演会などで次のようにった。

谷干城証言

なお自身は兵部省・刑部省で取られた供述や判決文については全く知らなかったと思われる。

田中光顕証言

と共に現場に立ち会った田中顕も後年いくつかの言を残している。

田中は晩年「今井信郎言は信用できない」としながら「最近の調では小太刀名人早川之助(桂早之助)、渡辺太郎(渡辺吉太郎)が有」という談話を残している事から、京都見廻組が怪しいという考えであったと思われる。

井口新助証言

近江屋新助こと井口新助も明治33年に子息による口述筆記で反論している。

そして「々」「書生が3人々」は全く間違いであるとした。

菊屋峰吉証言

坂本に頼まれて軍鶏を買いに行ったという菊屋峰吉も何度か言している。

今井信郎証言二

今井の反論については特に何も談話を残していないが、その後もいくつかの言が確認されている。


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最終更新日: 16/05/13 23:11
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