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陶晴賢


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「陶晴賢」(すえ・はるかた - 1521 ~ 1555)とは、日本戦国武将である。当初の名乗り陶隆房(すえ・たかふさ)であり、晴賢と名したのは晩年。


概要


周防大内氏庶流の陶氏の生まれ。大内の重臣(周防守護代)として大内義隆の下で重きを為した。は、同じく大内の重臣だった陶房。は右田詮の。子息は陶長房陶貞明。(寿丸という末子がいた説もある)

をも上回る武勇と軍事的才覚を発揮し、西無双大将とまで呼ばれる。敵対する出雲尼子しい抗争を繰り広げ、大内軍事面で支えた。

だがその強権的な政治手法と独善的な性格が周囲の反感を買い、次第に大内中で孤立。遂には自身を抑え込もうとした当大内義隆を討ち、事実上の大内の支配者となる。(大寧寺の変)

斜陽大内を復させるべく各地に遠征を行ったが、義と同盟関係にあった毛利元就に反旗を翻されて対立。毛利を討つべく軍を発したが、元就の策略に翻弄され、厳島にて敗北。自した。


生涯


第1章『栄光の初陣と出雲遠征』

1521年(大永元年)、陶房の次男として生まれる。
陶氏は大内の庶流であり、代々大内氏の重臣を務める名であった。元後は大内義隆から一字を賜って房を名乗り1539年(文8年)にが死去したため督を継いだ。(がいたが、既に戦死していた)

である陶房は大内の重臣であり、武勇に優れた名将であった。房は上昇志向の強い性格だったために父親に追いつき追い越すことを常に志していたという。
それに加え、大内は当の代替わりごとに御家騒動を起こしてきた経緯があった。幸い(?)なことに、大内義興から義への権継承時には何も起きなかったが、後年になって表面化する武断と文治の対立は、既に大内中で燻りつつあった。このような状況下で、一刻もく権を握りたい房は、尋常でないほどの功名心と権勢欲に取り憑かれていったのである。

そんな房に、渡りに船とばかりに戦乱の種がもたらされる。
1540年(文9年)、尼子晴久率いる尼子軍3万が、毛利元就の籠もる吉田を攻撃。当時、毛利と同盟関係にあった(事実上の大内配下としていた)大内義隆だったが、尼子軍が大軍であることを理由になかなか援軍を出そうとしない。これを房は強引に説得し、毛利への援軍1万を率いて出する。これが、房の初陣であった。
戦いは翌年まで続き、房は見事に尼子軍を撃退することに成功。滑り出しは好調であった。だが、若くして大成功を収めた房は増長し、尼子軍の追撃と尼子領への遠征を企図する。この遠征計画を、毛利元就謀だと諌め、当である大内義隆も乗り気ではなかったが、房は強引に進軍計画を進めてしまう。

1542年(文11年)、大内義隆を総大将とする出雲遠征軍が出する。房は軍監として、義からほぼ全権を委任された。毛利元就を始めとする安芸や備後の人領らも、これに従った。
遠征は緒戦こそ順調だったが、やがて尼子の強い出雲内に戦場が移ると、次第に進軍が滞るようになっていく。元々、諸族の連合軍という側面の強い大内軍側は、戦意が低かったのだ。やがて年が暮れると、である出雲舞台だったこともあり、大内軍は降に悩まされた。
それでも大内軍は、尼子の本拠・月山富田城を包囲することに成功する。だが、そこまでだった。かねてより疲労の蓄積していた諸族の軍は、尼子側の調略を受け、次々と寝返ったのである。(特に、族の1人だった吉川興経月山富田城に攻め込むと見せかけて、そのまま内に飛び込んでしまったという)

出雲遠征は全に失敗に終わり、大内軍は瓦解・潰走した。房自身も命の危険にされ、撤退中はの肝のみを啜って慢するほど凄惨な帰路となった。

ここで大内を、2つの不運が襲った。まず1つは、大内義隆が寵愛していた養嗣子・大内持が、撤退中の混乱によって船から落ち、溺死してしまったこと。この出来事は、義を落胆させ、以後の彼から覇気を奪い、極度に厭戦的な思考に陥らせてしまう。そしてこれこそが、後の大内滅亡の遠因ともなった。
そしてもう1つが、安芸の謀神毛利元就憤怒を買ってしまったことである。謀な遠征計画に付き合わされて命の危険にされたばかりか、大内軍の一員として最後まで戦い抜いたにもかかわらず、何の返礼も寄越さない大内に、元就想を尽かしたのである。
これ以降、毛利は、安芸内における大内が減退したこともあり、独自の動き(吉川小早川乗っ取りなど)を見せていき、やがては独立となっていく。

斜陽期を迎えた大内を、房は何とかして支えようとするが、内外で芽吹き始めた戦禍の火種を摘み取ることは、彼といえどできなかった。

第2章『大寧寺の変』

出雲遠征の失敗により、大内は著しく勢を縮小させた。当・義は、寵愛していた養嗣子を失ったことで政治を顧みなくなり、代わりに政治を取り仕切る文治の官吏・相良武任が幅を利かせるようになった。対する武断の頂点に立っていた房は、遠征が失敗したこともあって中央から遠ざけられた。これは権勢欲と自尊心の強い房にとって、耐え難い屈辱だった。
1545年(文14年)、義に待望の実子である義尊が生まれた。これを契機として、房は相良武任を暗殺して大内の中枢に返り咲こうと画策する。そして一時は武任を追放することに成功したが、当・義は武任を重用しており、彼の裁定によってすぐに武任は復帰してしまう。
一方の房は、武任暗殺未遂の嫌疑を掛けられて詰問を受け、中で孤立する羽になった。(この時は、両の仲裁役を果たしていた冷泉隆豊の取りなしによって、房は事きを得た。だがこれがきっかけで、房と義の関係は決定的に悪化していくことになる)

大内中で醜い政争が繰り返されている間も、領の財政は日毎に悪化していった。義による過剰な文化振策によって、山口には多くの文化人や公家衆が集い、山口は「西の小京都」と呼ばれる大文化都市となる。だがその一方で、文化振費や寺社の修繕費、公家の遊費がかさみ大内の財政は火のとなってしまった。
大内の衰退と滅亡が現実味を帯び、房の焦燥感は頂点に達しようとしていた。

1550年(文19年)、半分隠居状態にあった房は、大内革して復を果たすため、現在の当である義し、文治を直接排除することを決める。事実上のクーデターである。その年の暮れには、中で「陶隆房が謀反を起こす」という聞が流れるまでになったが、義策だった。
1551年(文20年)、房は遂に軍勢を率いて、大内の本拠・山口を包囲した。義は、房による謀反の噂を最初から信じておらず、彼が兵を挙げたと聞いてもなかなか信じようとしなかった。だが山口館が包囲されて火がかけられそうになると、義はやっと現状を把握し、大寧寺へと避難した。義に追従した重臣・冷泉隆豊は、房と対話による解決をしようと模索したが、房はこれを許さなかった。
進退窮まったと悟った大内義隆は、息子の義尊と共に自した。これが、後世で言う「大寧寺の変」である。(まだ幼児だった義尊については、房は殺すつもりではなかったとされる。また同時に、相良武任や冷泉隆豊といった文治や親義の武将達、三条頼や小槻治などの公家衆も殺された)

こうして大内の実権を握った房は、九州大友から、大友宗麟にして義の子である大友晴英大内義長)を迎え、新しい大内へと据えた。同時に、房は英から一字を賜り、「晴賢」を名乗った。形式的な名ではあるが、これは従来の義体制との別を示したものとも言える。
名をめた房もとい晴賢は、大内の文治体制を見直し、一気に武断政治へと転換を図る。だが、大内を覆う暗晴れることはなかった。対外的には名君として通っていた義を討ったことで、大逆人である晴賢への反発と非難、不満が各地で噴出したのである。

第3章『厳島の戦い、そして終焉』

1554年(文23年)、義を正室としていた石見の族・吉見正頼が、反晴賢の兵を挙げる。晴賢は直ちにこれを制圧しようとするが、これと同時に安芸では、かねてより独自の行動を見せ始めていた毛利元就が、独断で大内領の攻略。安芸を乗っ取ってしまっていた。
実のところ、晴賢は義を討つ前に、元就と密約を結んでいた。その内容は「義を討った際に生じるであろう各地の争乱の鎮定に、毛利も加勢してほしい。見返りに、安芸内の施政権を認める」というものであった。

元就の独断を見かねた晴賢は詰問状を送り、同時に吉見正頼討伐に協するよう要請するが、元就はこれに「毛利は、先代義の代から安芸の裁定自由を認められている。それを、晴賢殿も追認なさったはず。今更、毛利を抑えようとなされるのは明確な協定違反だ」と返答した。
晴賢はこれに激怒し、毛利と陶の関係は急速に悪化していく。(実際に晴賢に返答の書状を送ったのは、元就長男毛利隆元だったとされる。隆元は義に恩義を感じており、その義を殺した晴賢にしい敵意を抱いていたことが確認されているため、文面も隆元が考えたものである可性が高い)

1555年(治元年)、晴賢は2万(3万~5万?)の大軍を出させ、安芸に向かった。
だがそこで、晴賢は進軍ルートで悩んだ。陸路で安芸に侵入するルートは既に封鎖されており、強引に突破を図った先遣隊の宮川房長は敗退していた。(折敷の戦い)
一方、路で安芸に侵入するには、軍事的・経済的拠点である厳島を攻める必要があった。厳島には、既に毛利軍がを建設し、そこには元・陶軍武将(裏切り者)だった新里宮内らが籠もっていたためである。毛利側に威圧を加えるためにも、厳島は何としても奪還せねばならなかった。
だがその路案に、重臣だった江良房栄が強硬に反対した。厳島は狭く、大軍が行動するには不利なので、敵の奇襲の危険がある、というのである。だが、晴賢は房栄の諫言を聞き入れるどころか、逆に房栄を「毛利軍に内通している」という嫌疑をかけて処断してしまったのである。

晴賢の元には、毛利方の動向を知らせる様々な情報が入ってきていた。

厳島の防備は薄く、兵も少ないので攻められると困る」
「江良房栄は、元就の知己であり恩もあるので、毛利軍に内通している」
「陶軍が厳島を攻めれば、その隙に吉田を奪取する」(毛利の重臣・元澄より)

晴賢はこれらの情報みにして、路を経由して厳島を攻めるを選んだ。
晴賢が直率する陶軍は、厳島に上陸。毛利軍の抵抗は極めて軽微で、厳島に建てられた要である宮ノ尾も、晴賢の率いる大軍の前に前の火となった。晴賢は、自身の勝利を疑わなかった。このまま厳島を攻め落とせば、まだ諸族の連合体に過ぎない毛利軍など、晩に瓦解する。そう信じていた。

だが晴賢は、自分が既に死地に立っていることを知らなかった。

江良房栄が危惧した通り、毛利軍は奇襲を仕掛けてきたのである。暴風雨に紛れ、密かに厳島に上陸して反抗の機会をっていた毛利3000(異説アリ)が、厳島の狭い地に固まっていた陶軍を直撃したのである。
まさか毛利軍が、暴風雨を突破してまで襲撃してくるなどとは夢にも思わない陶軍は、突然の襲撃によってたちまち揮系統を崩壊させ、潰走する。晴賢自身も危険にされたため、本を捨てて逃走。厳島を脱出して再起を図ろうとしたが、脱出用の船は既に兵達によって乗り逃げされるか、毛利軍に味方した村上軍の手によって沈められてしまっていた。
晴賢はその時になってやっと、自分が元就の策略によって踊らされ、自ら死地を作ってしまったことを悟った。

観念した晴賢は、大江(高安原との説も)にて自した。享年35歳。介錯は忠臣だった香賀正が務め、その後正は毛利軍と差し違えて戦死。
晴賢の首は、履取りだった若という少年が岩場に隠したが、毛利軍によって捕らえられたために、隠し場所は程なく判明。晴賢の首は元就の手に渡り、首実検の際にかれた。

 

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

晴賢の辞世の句
大内未来のためとはいえ君を討ったこと、権勢欲に囚われてしまったことなどを後悔し、こうなったのは当然の報いだと達観しているようである。
晴賢のような聡明な武将が、何故元就の策略にこうも簡単に弄ばれてしまったのだろうか。権勢欲と焦燥感に取り憑かれた気性の荒さを、元就に見透かされていたのだろうか。いは、遠からずこうなるであろうことを既に悟りつつも、敢えて火中に飛び込んだのだろうか。相は闇の中である。


晴賢の死後


大内の筆頭臣にして、事実上の支配者だった陶晴賢が死亡したことで、大内は著しく衰退。やがて中国地方の盟の座は、毛利が取って代わっていくことになる。

晴賢が死んだ後、陶督は嫡男の長房が継ぐ。だが、晴賢がいなくなった事による政治空白が埋まるはずもなく、元就の調略も相まって大内は内乱状態となる。
晴賢によってを殺されたが、陶の居だった富田若山を攻撃し、長房はの貞明と共に自。長房の遺児・寿丸(晴賢の末子との説も)は救出されるが、後の大内滅亡に伴って臣に殺され、陶の嫡流は断絶した。(陶綱などの傍流は生き残り、毛利臣となる)

厳島の戦いから2年後の1557年(治3年)、毛利元就は防長経略を行い、大内底的に攻撃。晴賢の友だった内藤盛の孫・世などが奮戦したが戦死し、傀儡当だった大内義長も自。およそ150年の長きに渡って、中国地方を支配し続けた大大名周防大内はここに滅亡した。

その後も、大内義隆従兄だった大内などの残党が決起、御を図るものの、結局は毛利軍によって鎮圧されてしまい、旧領回復は果たせなかった。


人物総評


後に『西無双大将』と謳われるほどの勇将であった。最盛期(出雲遠征の失敗前)には義の寵もあって、軍事部門において独裁的な権限を持つほどだった。
だが、それ故に武断・軍事偏重の政治手法となり、独善的な性格も相まって各所で敵を作りやすかった。その弊出雲遠征失敗後にくも表れ、義の寵を失うと途端に権威を失墜させ、失脚してしまう。


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最終更新日: 15/12/23 15:16
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