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雷電爲右エ門


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雷電爲右エ門(雷電為右衛門)とは、江戸時代力士である。最高位は大関。「力士


概要


相撲ファンにとっては知らないものがいない、江戸時代力士
歴代最強力士を選ぶとなると、必ず名前があがる記録(生涯最高勝率)を残している

本名  : 関太郎吉(せき たろうきち)
生没年 : 1767年-1825年(享年59
出身   : 信濃小県大石村  (当時の小諸現在長野県東御市
所属   : 浦風部屋  ただし、谷風(実質的初代横綱) の預かり子として 6年間修行の後、初土俵
現役期間 : 23歳~44歳 (江戸相撲は年2場所制。江戸時代には大坂相撲京都相撲も存在し東西の交流も盛んでそれらを含めれば年5場所となるが、本項に示す雷電の記録は江戸相撲のものに限る)
生涯成績 : 254勝10敗2分14預5勝負(41休) (生涯勝率 9割6分2厘)
最高位   : 大関    (在位 24場所/36場所中)
体格    : 197センチ 172kg (現役時、ただし異説あり 巨体で知られる大関把瑠都とほぼ同じ)

のお抱え力士(しかも初土俵前)。引退後は相撲頭取、後に財政緊縮のため解任。

雷電爲右エ門が横綱になれなかったのは、相撲歴史上の最大のとされる。もっとも、明治末期までは横綱は番付上の地位ではなく、番付上の最高位であり力士最強者である大関の中で、横綱土俵入りを許された力士が特別に名乗る名誉称号にすぎないものであった。このため、現代の感覚で「強かったのに横綱になれなかった」という視点でこの問題を考えると本質を見誤ることになる。
幾つかの説があるが、最も有なのは、
雷電をお抱え力士としていたと、横綱免状を発行する吉田の仕える熊本細川との確執があったから」 と言われる

富岡八幡宮に歴代横綱力士の碑が立てられており、現在でも新横綱誕生ごとに追加されている。
その中に一人大関として 雷電爲右エ門が「力士」として顕されている。
そのため、横綱と同列に扱われる場合がある。 


記録


その巨体を生かしたあまりの強さに「突っり」「り手」「閂」「折り」を禁じられたと講談などで広く伝わり後の世に書籍でも書かれるほど信じられているが、信憑性に強い疑問があり、雷電の現役時代の相撲を見た者が後にその孫に伝えた雷電相撲は突っりを体とする取り口であったという。雷電の勝負結果に、両者がっぷり四つになって動かなくなったときに宣告される「引分」が、江戸時代力士としては極端に少ないことからも、突き押し相撲であったことを推測させるものとなっている。

大相撲において優勝制度が導入されたのは明治末期のことであり、それまでは「一場所の中で個人成績の優劣を争う」という思想そのものがなかった。したがって勝敗も「番付の昇降を決める要素」以外のものではなく、本場所中に突然場所を中断して江戸城での上覧相撲が開催されたりもしている。「優勝相当成績回数」とはそのような前提の下で便宜的に「その場所で最も優秀な成績を上げた力士」をカウントしたものであり、当の力士たちがそのようなことを意識せずに相撲を取っていたことに留意する必要がある。明治以前の大相撲においてやたらと「引分」「預り=際どい勝負で検役が勝敗を預かる」「勝負=際どい勝負で行が軍配を片方に上げない」が多いのは、力士を抱える大名のメンツを立てるという意味が大きいが、「なにをもって成績優秀とするか」の判定を困難にするこれらの勝負結果が多発するゆえに、優勝制度による最優秀成績の表などは大名のメンツ以前に、理屈としてとても導入できなかった。また、優勝制度がない故にこの当時の力士は、体調や気分がすぐれなければ翌日の対戦が決定された後でも気軽に日単位で休場し、それを不戦敗として成績に算入することもなかった。


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雷電爲右エ門は非常に教養が高く、日記をこまめにつけていた。
後に「雷電日記」と呼ばれる。当時の文化を知るための資料としても評価が高い 

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最終更新日: 21/01/22 14:54
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