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韓国史


ヨミ: カンコクシ
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この記事では、大韓民国、及び過去朝鮮半島に存在した歴史について取り上げています。


先史時代



旧石器時代


紀元前約70万年前から始まる。代表的な遺跡は咸雄基里(ハムギョンプクドウンギグンクルポリ)、安南祥原隅里洞窟(ピョンアンナムドサンウォングンコムンモルトングル)、里(キョンギドヨンチョングンチョンゴンニ)、忠清南石壮里(チュンチョンナムドコンジュシソクチャンリ)などである。

狩猟のために握、石頭器を作り、食べ物を作るために、石、削器、掻器を作った。木器や器を作ることもした。食べ物は植物の実や球根を採集して食べた。

住居は洞窟住居があった。や石にの絵を描いているものが遺っている。


新石器時代


紀元前6000年頃より磨製石器と土器を使い始めた。代表的な遺跡は、安北義州里(ピョンアンブッドウィジュグンミソンニ)、凰山里(ファンヘドポンサングンチクムニ)、ソウル特別市江東区岩寺洞(カンドングアムサドン)、江原襄陽山里カンウォンドヤンヤングンオサンリ)、釜山広域区東三洞(ヨンドクトンサンドン)。に大きなの流域やで発見されている。

、石、石鏃などの磨製石器と釣り針が見つかっている。初期は文土器と起文土器、後期は櫛文土器を使用した。櫛文土器は単純な模様から次第に複雑で麗な模様に変わった。

生活は、に住んで器の釣り針や網などでを捕まえたり、矢などで狩猟をした。木の実や球根を掘って食べていたが、後には・ヒエを栽培し、石器ので刈り入れをし、農業を行った。穀物は石臼でひいた。紡で糸を紡ぎ、布を織り、の針で衣服を作った。

住居は、住居で、血族中心に集住し村を作り、更に数個の種族が集まって部族を作った。

植物自然の絵が残っており、特定動物を自分たち部族の守護と見なして崇拝するなど、アニミズムを信仰していたとされる。


古朝鮮時代



青銅器時代


紀元前10世紀頃、器時代が始まった。

代表的な遺物として、青銅鏡があった。から細形へ発展した。青銅鏡は粗文から細文へ発展した。鋳も発見されている。

文土器が代表的な土器である。支石墓から磨製石器とともに発見されている。

墳墓は支石墓と石墓がある。副葬品として器と文土器が出土している。

生活はに農耕である。堅い木の農機具を利用し、石包丁で収穫、石臼で穀物を加工した。栽培作物は稲、麦、豆、である。

住居は長方形の住居で、新石器時代より浅くなり、規模が大きくなっている。に沿う野山や丘陵地帯に住み、丘陵周辺を開墾した。

経済が発展し、人口増加に伴い部族を単位とする政治社会が成立した。部族を統率する君長は、農業生産増大と器を用いて他部族を征するなどした。

君長はの祭を行うなど、宗教儀式も執り行った。祭政一致の社会だった。君長が亡くなると、支石墓や石墓を作り、青銅鏡を共に埋めた。

檀君の建国神話

満州遼寧地方半島西北地方に、君長が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合した古朝鮮を建した(檀君朝鮮)。檀君王倹の古朝鮮(紀元前2333年)に関しては『三遺事』にその内容が記されている。

殷周時代(紀元前1000年代?)の辺りに、殷の王族である子が朝鮮を建てたという伝説がある(朝鮮)。これも逸話のため詳しくは不明で、韓国歴史教科書には記述がない。


古朝鮮


 古朝鮮は、器文化の発展につれて次第に政治的文化的中心の役割を果たしながら勢を広げた。紀元前4世紀頃には遼寧地方を中心に満州半島北部を結ぶ広い地域を統治する連盟王として発展した。
 しかしこの時、中国を接し、頻繁に衝突した。またも高祖の皇后・呂后の時代になると王取り潰しが始まり、を領有していた綰は匈奴へ亡命。その時に使えていた満が朝鮮へ行く。韓国の教科書では衛満(実際は難しい漢字)が準王を追い出して古朝鮮の王となった(衛氏朝鮮)とされる。『史記』『書』には衛という姓は見られず、満は本来、姓がなかった=人・人ではなく朝鮮人であったという意見、出身地を離れてに使えていたものが、戻ってを開いたという意見もあり、実際韓国歴史教科書では元は朝鮮人であった説に沿って書かれている。
 満の時代、器文化が広がり、衛氏朝鮮は勢を広げた。他に半島南部の諸小国との間で中継貿易を進め、富強になった。
その後時代が下り、武帝は古朝鮮首都王倹を包囲した。衛満の孫、右渠王は約1年闘ったが、王倹は陥落し、古朝鮮は滅亡した(紀元前108年)。は古朝鮮の一部に楽浪を始め県を設置する。楽浪については韓国の教科書で詳しく説明されていないが、四各々の群名、位置、設置時期、設置理由は載っている。

 古朝鮮社会は、私有財産制が増えていくとともに貧富の差が生じ、政治軍事的業務を受け持つ支配層と生産を担う被支配層に分かれた。
 また、統治組織が確立されて王の下には相・大臣・将軍のような官職が作られた。8か条の法律がこの当時作られてそのうち「人を殺したものは死刑に処し、他人を傷つけたものは穀物で償い、盗んだものは捕まえて婢にするが、許してもらおうとするならばたくさんのを出さなければならない」という3か条だけは残っている。

 尚、今まで「朝鮮」と言っては来たが、実際は李氏朝鮮李朝)になってからの呼称(号)であり、それまでは「」や「衛」が名だったと推測される。
ちなみに半島は「」と呼ばれていたらしい(後述)。


高句麗・沃沮・東ワイ・三韓



高句麗


前漢の衰退に従い、楽浪以外が放棄されるのと時をほぼ同じくして、高句麗が建される(紀元前37年頃?)。
前漢崩壊→新→後漢成立~衰退の辺りでは高句麗はに攻めたり攻められたりを繰り返している。


沃沮・東ワイ


 咸平野を中心にした咸地方に沃があり、その南には東ワイに歳)があった。この二は王はいなく、君長により統率されていた。


三韓


 古朝鮮が発展していた時、江以南ではと呼ばれた国家があった。その後、古朝鮮地域から移住してきた人々によって器が普及して社会も変化した。器を使用し始めた部族が各々小国を作り、その小国が地域的にまとまった。これが紀元前の終わり~4世紀ごろに、と呼ばれる地域で、それぞれ小国群のようなものを形成していた。これらはと呼ばれている。には54があり、と弁には各々12カがあった。


三国時代


 初期の々の中で中央集権体制を進めて発展していったのは、高句麗・済・新羅の三であった。これにより従来の君長をはじめとする支配者は、次第に独立性を失い中央政府貴族や官僚に吸収された。王位子相続の形で世襲されて国王の権は強大になった。
 また三仏教を積極的に受け入れ、王権の強化と護思想として活用した。伽耶を巡り済と新羅が争い、結果として新羅が伽耶を領有。三時代が完成する。


高句麗


 高句麗は王族である婁部をはじめとした五部族の貴族が王と連合し、政治導した。この内王族である高氏は婁部出身で代々王位を世襲し、絶部下らは王妃を出した。太祖王の時よりの体制が整備された。しかし以後は苦難の時代で、北方ではに敗れ、南方では済に大敗して平壌で高句麗王が討ち取られるなどしていた。その後広開土大王の時代に半島満州、さらには朝鮮半島南部にも進出し、一時期は済・新羅も臣従させた。次代の長寿王は北朝鮮平壌首都を移し、号を「高麗」にめ、政治体制も一新させ最盛期を迎えることになる。小王の時には、国家体制革のために仏教を受け入れ、を発布した。

 対外関係

3世紀の東王の時、と楽浪を結ぶ西安を攻撃するが、この時は反撃を受けて首都も陥落する苦難を経験する。4世紀始め、美王の時、楽浪を攻撃し、古朝鮮の故地を取り戻す(313)。しかし故原王のときには前済の侵略を受ける。4世紀後半、小王の時、前と外交関係を結ぶ。これを土台にして広開土大王は領土を大きく広げ、全盛時代を開く。この時の高句麗は満州を占有し、済とそれを後援する倭や任那加羅、安羅を征伐、江以北の土地を占有した。また5万の兵を新羅に送り、侵入した倭軍を東江流域で撃退した。特に396年の親征では王都のを遅い、王に忠を誓わせ、五八を奪取した。長寿王は、首都平壌に移し(427)、南進政策を推し進め、済を撃ち、江流域を奪って三間の抗争で導権を握った。

 この敗戦をきっかけに倭は騎技術を半島南部を通じて学ぶことになる。


百済


 に当たる江流域の慰礼で高句麗系統の流民である温祚によって建てられた(紀元前18年)。済では王族である扶余氏と8つの貴族門が中心になって政治導した。初期には王族である扶余氏と王妃族である氏・解氏が政治導したが、後期には沙氏・氏勢が大きくなり、貴族中心の政治を行った。流王の代には東より仏教を取り入れ、同時期には倭交を結んで、他と対抗した。

対外関係

 王は、伽耶地域への進出に強い意欲を持っていた。541年に新羅と和を結んでおき、その一方で同年と5444年に伽耶諸の首長や、倭が安羅に派遣していた吉備臣らを招集して会議催し、反新羅を訴えたが、有効な策は打ち出せず、伽耶地域で劣勢をしいられた。王は一転して551年には、新羅と連合して高句麗を攻撃し、の故地を回復した。しかしその翌年には新羅によってその地は奪取され、新羅討伐に出した王は、554年管山の戦いで敗死した。伽耶地域は結局562年に新羅によって全に滅ぼされ吸収されることになった。


新羅


 新羅は慶州平野赫居世によっての一である斯を中心に建てられた(紀元前57年)。・昔・氏の三姓が貴族として政治導した。初期にはこの三姓が交代で王位を継承したが、奈囲碁氏が王位を世襲したことにより王権が安定した。法王代には、を発布して中央集権体制を進め、仏教認した。また歴代中国から冊封を受け、他と対抗している。

対外関係

 王の時に、高句麗と伽耶を攻撃し、領土を広げた。そして済と連合して、高句麗を撃ち、江上流地域を占領し、済が取り戻した江下流地域までおさえ、江流域を新羅の領土とした。つづいて伽耶連盟の盟であった大伽耶を征し、東江流域をおさえ、元山湾まで進出し、東ワイの故地を占領した。


伽耶連盟


 東江の下流地域似合った弁では、伽耶諸が成立した。三がそれぞれ中央集権国家化している頃、伽耶は連盟王となっていた。初期には官伽耶が、後期には高霊の大伽耶が、伽耶連盟を導した。5世紀後半に大伽耶の国王は、斉の南に使節を送った。

伽耶と倭国

 戦前日本では弁の後身である伽耶諸日本が「任那日本府」を設置して支配していたという説が支配的で、この説は戦後70年代まで通説の地位にあったが、80年代以降、研究が進展した今日では倭による伽耶支配は否定されており、「任那日本府」の実態も倭から伽耶諸中の安羅に居住していた倭人たち、あるいは倭から派遣された使者という二説が有となっている。

 6世紀半ばに済・新羅は南下して伽耶諸に侵攻、次々とこれらを併していくことになる。この事態に対して倭済を支持したり、時には伽耶諸中の友好、安羅を支持して済と争う姿勢をみせるなど政策に一貫性がなかった。倭済・新羅と話し合うため使者の「近江毛野」を送ったりもしたが、両とも応じず、新羅に至っては軍隊を送りこんで近江毛野を威圧し、身の危険を感じた近江毛野は役を果たせないまま帰した。


三国の統一



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最終更新日: 17/04/24 00:43
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