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「項燕」(こう・えん ? ~ 紀元前233年)とは、中国の戦国時代末期の楚の国の武将であり、滅亡へと進む楚の国を支えた大将軍である。
秦始皇帝没後に楚を再興した「項梁」「項伯」の父であり、西楚の覇王「項籍(項羽)」は孫にあたる。
楚の国に仕えて項の地に封ぜられた事から「項」氏を姓とした武家の出である。
紀元前225年、秦王「嬴政」は、大将軍の「李信」と「王翦」に楚の国の攻略に必要な兵の数を聞き、王翦が60万と答えたのに対して李信が20万と答えた為、王翦は耄碌したものと思って李信に20万の兵を与えて楚攻略を命じた。
「蒙恬」と共に20万の秦軍を率いて楚に侵攻した李信が二手に分かれて楚の城を次々おとしていった為、項燕は二手に分かれていた李信と蒙恬の軍が合流したところを狙って奇襲し、7人の敵将を倒して李信と蒙恬率いる秦軍を破った。
紀元前224年、今度は王翦が60万の秦兵を率いて楚攻略を開始した。
王翦のガードを固めて不用意に出撃しない戦法にとった為、秦兵は攻めてこないと楚兵の心に隙が出来たところに王翦の奇襲をうけた項燕は敗れた。
※史書によってはこの際に、楚王「熊負芻」が捕虜になり楚が滅亡した事になっている。
逃げ延びた項燕は、秦に仕えていた楚の公子「昌平君」を楚王に擁立して秦に対して反抗したが、紀元前233年に王翦と「蒙武」が率いる秦軍の攻撃をうけて敗れ、昌平君は戦死し項燕は自殺した。
※史書によってはこの後に、楚王「熊負芻」が捕虜になり楚が滅亡した事になっている。
統一を果たした秦に対して蜂起した陳勝・呉広らが、当初自らを項燕・公子扶蘇(始皇帝の長男で謀殺された)と詐称したことからも、彼が楚の人々に慕われていたことが知れる。
項燕の遺志は、武信君「項梁」と西楚の覇王「項籍(項羽)」に引き継がれ、秦始皇帝となった嬴政が死した後に楚王の血族を探し出して新たな王に立てて楚を復興させ、秦を滅亡させた。
※その他「項燕」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照[外部]
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