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「省エネ電車」として登場したものの製造コストに難点のあった201系に代わり、1985年に登場。抵抗制御をベースに製造コストを抑えつつ省エネ効果のある回生ブレーキに対応した界磁添加励磁制御を採用。老朽化が著しい101系や103系初期車の後継形式として投入された。
界磁添加励磁制御の他にもボルスタレス台車、電気指令式ブレーキ、軽量ステンレス車体など国鉄初となる技術が多数採用されその後の通勤形電車に大きな影響を与えている。これらの技術はもともと80年代前半に新型近郊形電車用に開発されていたもので、そちらはのちに211系として陽の目をみることとなる。
先行量産型は2段窓(上段下降、下段上昇)を採用しており、量産型は1段下降窓を採用しているので先行量産型と量産型の識別は容易である。量産車の1段下降窓は、同時期に製造されていた横浜市営地下鉄2000形に範をとったといわれる。
▲1984年に山手線(1985~2005)向けの量産先行車4本が落成、翌年3月から運用を開始した。同年秋には側面窓を二段窓から1段上昇窓に変更した量産車が登場し、103系を置き換えていった。民営化後の1991年には混雑緩和の一環としてJR初となる6ドア車の連結が行われ、従来の10両編成から11両編成となった。
民営化後は1988年に横浜線(1988~2014)へ、1989年に南武線(1989~)、中央・総武緩行線(1989~2001)、埼京線(1989~2016)、京浜東北線(1989~1996)へ、1990年に京葉線(1990~2011)へ、1991年に武蔵野線(1991~)、相模線(1991~)へ投入された。
横浜線所属車は当初7両編成だったが1994年に6ドア車を増結し8両編成となった。この際組み込まれたサハ204形100番台は既に製造が始まっていた209系の仕様を取り入れた折衷仕様だった。なお根岸線経由で横須賀線の逗子駅まで足を伸ばす運用もあったが、2008年に廃止となった。
中央・総武緩行線への投入予定はなかったが(国鉄時代には存在した)、1988年の東中野駅追突事故による廃車の補充のため、急遽投入された。色の似ていた地下鉄東西線直通車との誤乗防止のため、地下鉄直通用の103系1200番台と301系に対し、黄帯から青帯への塗替えが行われている。
京葉線の生え抜き車は「メルヘン顔(※)」と呼ばれる前面デザインが採用された。このデザインの編成は最高速度110km/h走行に対応するためにブレーキの改良工事が行われており(一般車は100km/h)、内房線、外房線にも乗り入れていた。相模線電化用として投入された500番台にも、独自の顔が採用されている。
※メルヘン顔という呼び名はあくまで俗称。京葉線で「メルヘン号」という列車は実在したが、使用されたのは167系であり本形式ではない。そのため誤用として嫌うファンもいる点に注意。
少数派だった京浜東北線のグループは、209系の増備と埼京線・横浜線への転属で103系よりも早く1996年に撤退した。横浜線への転属車はラインカラーを塗装で上塗りしたため、長らく水色の部分が見えると有名だった(現在は張り替え済)。埼京線で最後まで残った1本も京浜東北線出身だったりする。
2003年、山手線へのE231系500番台投入に伴う置換えが始まり、205系は各地へと大移動を始めた。なお山手線では11両だった編成を短くするために先頭車やモーターつき車両が不足したため、改造工事が行われている(後述)。改造工事を終えた車両から随時新天地へと旅立って行き、2005年4月をもって全編成が山手線から撤退した。
京葉線:中央線からやってきた201系と共闘して103系を一掃
武蔵野線:電動車をVVVF化し超パワーアップした上で103系を一掃
仙石線:トイレをつけたり寒さへの対策をした上で103系を一掃
と、103系キラーっぷりを炸裂。実際、JR東日本管内で最後に残った103系(仙石線RT235編成)も、南武線から移った205系で置き換えられており、103系に引導を渡した形式と言っても差し支えないだろう。
おまけに後述のインドネシアへ渡っていた103系をも本形式で置き換えることとなり、ジャボタベックの103系が2016年1月に廃車回送された。まさか海外でも103系キラーになるとは。
そんな205系だったが、ついには自らが追われる立場となる。2008年に編成から外れた余剰車と事故による損傷で使用不能になった車両が廃車になったのを皮切りに、半端になっていた余剰車から少しずつ廃車が行われた。京葉線へE233系が投入されて以降は編成単位での廃車も行われている。
2012年にはE233系の投入により京葉線から撤退。2012年に量産先行車を含む編成が富士急行に譲渡され、6000系として活躍を開始した。また生え抜き編成に関しても2012年9月に日光線・宇都宮線への転属が発表され、2013年春より600番台へ改造された上で宇都宮線の小金井~黒磯間と日光線の運用に就いている。これにより、107系は日光線から撤退した。
2013年~2014年には埼京線にもE233系が投入されたため撤退……したかに見えたが、1編成のみ運用復帰し(ATACS工事による予備車確保のため)、2016年に今度こそ本当に撤退した。2014年には横浜線から撤退。南武線も同様にE233系が投入され、2016年に本線から撤退した(浜川崎支線は現在も運用がある)。
そして残る車両は多くが廃車・解体か…と思いきや、2013年にまさかのインドネシア行 きが報じられた。まとまった車両数があるため大量譲渡に適しており、かつ譲渡するにも妥当な経年の車両ということもあって、第一弾として埼京線から180 両、2014年度には第二弾として横浜線から176両、合計356両もの205系が廃車・解体を逃れて海を渡ることとなった。また、2015年度には第三弾として南武線で使用されていた120両が譲渡される予定である。
2016年度からは東京メトロ6000系の譲渡が再開され、205系は再び廃車解体される方針へと変更された…かに見えたが、2018年度からは武蔵野線所属車両のほぼ全てがインドネシアへ譲渡されるとのニュースが流れた。最終的には合計800両前後もの車両がインドネシアへと渡る計算となる。既に海を渡った編成は東京メトロ6000系と共に逼迫するジャカルタ首都圏鉄道網の救世主として活躍中であり、205系の使命はまだまだ終わらない。
仙石線では当分の間安泰と思われるが、東日本大震災で津波により大破したM9編成は現地解体、機器が冠水したM7編成も修理されず2014年12月25日付で除籍されており、都合2本8両が廃車となっている。なお、仙石線は2015年5月に全線での運転を再開したが、仙石東北ライン開業に伴い運用が減ったため205系の補充は行われていない。
▲西日本に投入された205系は、国鉄時代の7両編成4本とJR西日本の4両編成5本、計48両という小所帯である。前者は京阪神緩行線(東海道・山陽線 1986~2006・2011~2013)、後者は阪和線(1988~)に投入された。帯色はどちらも水色である。
京阪神緩行線には1986年に投入され、201系・103系とともに普通電車として活躍。民営化後の103系の置換えは207系で行ったことから、205系は増備されなかった。運行路線はJR京都・神戸線のほか、福知山線(JR宝塚線)、琵琶湖線、湖西線にも足を伸ばしている。民営化後の1988年には阪和線へ110km/h走行に対応した1000番台を投入したが、4両編成5本の計20両のみで製造が終了した。
2005年、京阪神緩行線へ321系の導入とそれに伴う201系・205系の置き換えが決定。205系は201系よりも一足先に撤退し、編成を6両編成2本、8両編成2本に組み替えて阪和線へと転属した。103系天国である阪和線ならばしばらく安泰…と思われていたが、近郊型の225系に追いやられるという不測の事態が発生。0番台は全車運用離脱。1000番台は残留したものの、2011年3月ダイヤ改正で日中の運転系統が白紙改定されたことで、天王寺~鳳間でしか見られなくなった。
その後0番台は2011年3月からJR東西線のホームドア設置によっておおさか東線の直通快速が223系から207系・321系に振り替えられた煽りを受け、 朝ラッシュ時の東海道本線の普通列車用車両を補充するべく急遽里帰りすることとなった。その際、207系や321系と同様の、濃紺とオレンジの塗り分けで登場しファンを驚かせた。2012年3月からは体質改善工事も始まり、外観どころか車内までもが321系に近い配色になった。1000番台についても同時期に体質改善工事が開始されている。
しかし207系・321系よりも最高速度が低いため平日朝ラッシュ時以外 は車庫で待機と隠居同然の扱いを受けており、かの201系よりも不遇とさえ言われる始末。結局2年後の2013年3月に再び阪和線へ出戻ることになった。しかし、阪和線での通勤形車両の8連運用は既に消滅していたため、不要となったサハは全て外され6両編成で運用された。この時抜かれたサハ4両は保留車となっていたが、2015年9月に全車廃車されてしまった。いくら古い車両を大切に使うJR西日本と言えども、使い途がなくなってしまった以上どうしようもなかった様子である。本形式は1986年製造車であり、事故などに遭っていない車両が製造後30年に満たずに廃車されることは、JR東日本では当たり前JR西日本では非常に珍しいことである。
阪和線でもしばらく濃紺とオレンジのままだったが、2013年年末より水色(前面に黄色帯2本)という転属前とほぼ同じ塗り分けになり、1000番台ともども普通を中心に運用されていた。
そして2016年度からは再び225系の増備が始まり、103系共々阪和線からの撤退が発表された。同年末に一足早く運用を離脱した1000番台は長期の休車状態を経て、翌2017年10月から奈良への転属が開始された。4両編成であることから、当時より奈良線への投入が確実視されていた。2018年2月には編成番号が振り分けられ、同年3月のダイヤ改正で予定通り奈良線での運用が開始された。
また、この時1000番台の編成番号は末尾5~9が割り当てられていたため、末尾1~4には0番台4本が割り当てられるのでは?と噂されていた。そして、その噂通り2018年7月より吹田から4両編成に短縮された0番台が出場し、奈良へと旅立っていった。この時に余剰となった中間電動車4組8両は体質改善車であるにも関わらず全て廃車解体された。
▲205系の中で最もスタンダードなグループで、国鉄時代の1984年より製造を開始し民営化後はJR東日本により1000両近くが製造された。製造途中にはドア窓の拡大や6ドア車の連結などのわかりやすい変更のほか、実はモーター点検蓋やドアレールの本数、ドアコックの位置などなど細かい点の差が多数存在する(細かく見ていくほど沼になるのは205系に限った話ではないが…)
阪和線増発用として1988年に製造。最高速度を引き上げて高速運転に対応したほか、前面の窓の配置が変更された。車外スピーカーの存在も目立つ。登場時は車内に生け花が飾られていた。
相模線電化用に1990年製造。行き違い待ちなどが多いためドア開閉ボタンが設置されている。編成として新造された最後のグループであり、前面形状の違いも目立つ。
近年、車内照明がLED照明に交換されるなどの改修工事が行われている。