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III号突撃砲とは、第二次世界大戦でドイツ軍が開発・運用した兵器である。
当記事では「突撃砲」の全般についても記述する。
第一次世界大戦にて初めてその姿を現した「戦車」は、歩兵部隊の戦闘を支援するための兵器として登場した。第一次大戦後の戦間期においても、世界各国はこの概念を元に新型戦車の開発を続けていった。
一方ドイツでは、複数の戦車をもって編成したものを「戦車師団(機甲師団)」と名づけ、歩兵部隊とは別に独立して作戦行動を行うことができる機動力のある部隊を生み出した。その中で、より本格的な歩兵支援のための兵器として新たに開発されたものが「突撃砲」である。
開発は1936年中旬よりダイムラーベンツ社にてスタートし、1939年末に制式採用されアルケット社での生産が始まった。「III号突撃砲」という名前は大戦後期にIV号突撃砲が開発された際につけられたもので、それまでは単に「突撃砲(Sturmgeschütz、シュトゥルムゲシュッツ)」と呼ばれていた。ドイツ国外では専ら「自走砲」として扱われた。
▲本車が開発される発端となったのは、第一次世界大戦終結からおよそ10年後のことであった。
強力な榴弾を発射できる「野砲」は歩兵では撃破が困難なトーチカの攻撃に役立ったものの、間接射撃では命中精度に難があり前線への進出が望まれていた。しかし強大な火力ゆえの重量や、地形の状況や人馬に頼らざるを得ない機動性、さらに銃砲飛び交う前線における砲兵の安全性に関する問題も同時に生じていた。
そこでドイツは、民間向けのキャタピラ式トラクターに第一次大戦後期に活躍した77mm野砲各種(7.7cm FK 96 nAや7.7cm FK 16など)を搭載したオープントップ式の車両を作り上げ、機動性の問題を解消した。さらにその後は乗員を守るために様々な部位に装甲板を施し、最終的に戦闘室は完全に密閉された。
こうして生まれた兵器が、歩兵部隊の「突撃」のために高火力を提供する自走式の「砲」、「突撃砲」である。第二次世界大戦で使用された突撃砲は本格的な戦闘車両である戦車がベースとなっているが、先述した開発経緯をもつため運用兵科は砲兵部隊であり戦車部隊ではない。
当時のドイツでは同じ75mm短砲身砲を搭載する車両としてIV号戦車が存在するが、これは対戦車戦闘を主任務とする「主力戦車」として開発されたIII号戦車に対し、機関銃座やトーチカなど歩兵部隊の脅威となる障害物を排除することを主任務とする「支援戦車」として開発されたものである。
IV号戦車とIII号突撃砲は同じ砲を備えその目標も同一であるため一見運用法の違いが分かりにくいかもしれないが、IV号戦車の役割が「先陣を切り後続する歩兵部隊のために道を切り開く」ことに対し、III号突撃砲は「歩兵部隊と行動を共にし相手にとどめを刺す」という考え方である。IV号戦車が全周旋回砲塔を生かした機動戦闘を行う一方でIII号突撃砲は砲塔を持たない代わりに火力と装甲を強化し、文字通り歩兵部隊の「盾」の役割を果たした。
先述の通り当時の世界各国における戦車は歩兵とセットで揃える「歩兵直協」という概念が当たり前となっており、そのような中で生まれたドイツの発想は斬新かつ優れたものであり、電撃戦による華々しい勝利に繋がったのである。
独ソ戦が始まると歩兵部隊にとっての最大の脅威はコンクリートで固められた頑強な陣地である「トーチカ」ではなく、より高い火力と防御力、そして何よりも機動力を備えどこにでも弾を撃てる「戦車」へと変わっていった。また同時期に主力戦車の対戦車戦力にも不足が目立ちはじめたため、それと並行する形で長砲身化が進み「駆逐戦車」へと変わっていった。
射角に限りがある点は変わらないが、戦車型よりも防御力や生産性に優れた本車は特に大戦後期になって増えてきた防御戦闘においてはかなり重宝された。それ故に「どの部隊で運用すべきか」という議論まで発生し、本車の配属先を巡り機甲科と砲兵科で取り合いとなったこともあるほどであった。
こうして「突撃砲」は本来の歩兵支援任務ではなく対戦車戦闘任務が主体となってしまった。しかし決して歩兵部隊が見捨てられたわけではなく、正式な歩兵支援専用車両も別途開発されている。これについては派生型の項目で解説する。
▲フィンランドとソ連の間で繰り広げられた継続戦争を描いた戦争映画「Tali-Ihantala 1944」の序盤にT-34と戦闘を繰り広げるシーンがある。ここで登場するG型は機銃の変更や雑具箱が追加されたフィンランド仕様となっている。
動態保存されていたG型を用いて実戦の様子を模擬的に演じた様子を映した映像。対戦車戦闘に適した低いシルエットと歩兵直協の様子がよくお分かり頂けるであろう。
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