加藤清正について語るスレ


31ななしのよっしん :2013/02/14(木) 01:47:51 ID: LfPwoPczSP
朝鮮戦争→滅亡の遠因。彼らが駄に頑ったせいで勢落ちた忠臣じゃない。
朝鮮戦争講和秀吉の意思は視。かといってめるわけでなくこそこそ隠れるように交渉。忠臣じゃない。

朝鮮戦争じゃあ判断できないだろうな

32ななしのよっしん :2013/02/19(火) 23:44:44 ID: b7nDmyOqzT
朝鮮戦争じゃなくて朝鮮出兵(文・慶長の役)な。全く意味が変わってしまうぞ

武人なら戦で手柄を立ててなんぼだからなあ
が衰退するとわかってても戦を推し進める奸臣悪臣の類じゃなくてただ単純に思慮が足りん

33ななしのよっしん :2013/02/20(水) 06:48:48 ID: LfPwoPczSP
あ、ミス。まるで特需でも起きそうな名前に・・・
でも朝鮮出兵で頑ったら思慮足らんて
鬼島も西無双もみーんな脳筋扱いになっちまうん?

34ななしのよっしん :2013/02/20(水) 13:44:50 ID: b7nDmyOqzT
秀吉子飼いの臣たちと臣従している大名では戦の意味が違うんじゃないかね
前者からすれば武功を立てる好機到来、活躍して新しい領地を貰える大チャンスだろうが
後者からすれば頑らなければ下手すれば領地削減、易も伴う忠心を試される場所だろうし

35ななしのよっしん :2013/02/20(水) 13:49:07 ID: b7nDmyOqzT
途中送信すまぬ
逆に手な活躍を見せておけば領地は安泰だろうし
強いと思わせることができれば闊に手出しを出来なくすることもできるだろう。関ヶ原の島津みたいに

36ななしのよっしん :2013/02/22(金) 06:57:29 ID: LfPwoPczSP
子飼いは下手すれば領地削減、易も伴う忠心を試されるリスクを背負ってないなんて
ラスボス化した秀吉には言えない
実際清正自身チクられて居してるわけだし

37ななしのよっしん :2013/02/22(金) 13:04:37 ID: b7nDmyOqzT
リスクがある々じゃなくて心情的にはこんなもんだろうと言いたかったんだすまない
最初から下にいれば上をすだけだろうが、途中加入ならまずは自分の地位を保つことが大事だろうしね
個人的に「晩年の秀吉が狂っていたから」ってだけの理由で朝鮮出兵が起きたっていう説にはイマイチ懐疑的だからこそ出てくる考えかもしれないけど

38ななしのよっしん :2013/04/08(月) 18:14:46 ID: iggyt9TkLz
まぁ実際のところ三成襲撃も家康養女との婚姻秀吉の遺言違反だからな。秀吉死後較的速い段階で豊臣を見限ってたんだろう。パワーバランスが日に日に家康側に傾いていくなか本気で豊臣の為なんて考えるほどバカな人ではないだろうし。

39ななしのよっしん :2013/07/31(水) 18:22:46 ID: 2Ta8SLwQZ5
幻の大河ドラマ第14作「火の」の主人公予定だった
原作者の池波正太郎と清正役の加藤剛の両氏にも了承済みだけど当時の総放送局長だった坂本一氏の「スケールの大きさが足りない」という反対でボツになった
その後加藤氏の「平将門演じてみたい」という希望から音寺潮五郎氏の「平将門」、さらにダブル主人公として藤原純友役(演じたのは緒方拳氏)の「と」を合わせた大河ドラマ第14作「と」が完成することとなる

40ななしのよっしん :2013/08/22(木) 00:04:35 ID: rhPqpuxYPd
清正が生きてたら大坂の陣はどうなってたかな?

41ななしのよっしん :2013/09/20(金) 13:35:02 ID: fHz9HvGCNW
>>38
でもそのあと豊臣と徳の間を取り持ったりはしてるから見限ったは言い過ぎじゃないかな
ただ現実問題として豊臣下は難しいぐらいは思ってたんだろうけどね

42ななしのよっしん :2013/10/05(土) 00:45:44 ID: iggyt9TkLz
>>41
清正は取りもった、というほどの事はしてないよ。
秀頼と家康二条での会見も片桐且元織田有楽斎あたりが
奔走しただけで清正はただ当日の接待役に選ばれただけだし。
清正も慈善事業で大名やってるわけじゃないんだから
勝ち組に擦り寄ろうとするのは当然でしょ。

43ななしのよっしん :2013/10/20(日) 12:40:45 ID: XyepS45teY
関ヶ原後の豊臣は徐々に徳幕府への臣従外交を進めてるしな
公家豊臣関係の寺社の資料読むと、清正が生きていた頃は、
高台院の方も片桐も有楽斎も、豊臣下はとっくに諦めて一大名として豊臣を残そうと努してるのが分かる
これなら清正も徳幕府に仕えることに抵抗感はなかったんじゃないかな

44ななしのよっしん :2013/11/03(日) 14:51:51 ID: qwURPkjMZy
熊本での清正の人気って実際どんなもんなん?
熊本市内出身の知り合いは加藤加藤言ってるけど
球磨や山都出身のヤツは相良万歳、大宮万歳って言ってた。

テレビで言うような熊本全土がせいしょこさんを慕ってるワケではないってことなんかね?

45ななしのよっしん :2014/01/14(火) 22:20:46 ID: fTncxU43Kn
>>43
じゃあ豊臣の筆頭は実は秀頼だったわけ?

46ななしのよっしん :2014/02/25(火) 20:34:24 ID: XyepS45teY
>>45
確信はないけどそうだった可性はあると思う
まず秀頼以外の豊臣運営が徳に従おうとしてたと考えたのは、関ヶ原合戦で徳覇権を握った後に、
1.片桐且元は徳臣の立会で豊臣所領の検地を行ってる
2.家康に味方したあの小早川秀秋が秀頼の代理として、秀吉られてる豊社に参詣した
まあ家康は立場的には秀頼の代理として関ヶ原を戦ったから豊臣が徳と争う理由はないんだけど、検地の件は露というか
上記の事柄について片桐寧々様やの方が不満を持ったという資料は探してみたけど見つからなかった
の方は具体的な行動が不明でたまに記述あっても秀頼と一緒に寺社に献してる程度
表向きのことは寧々様が大坂城を出た後もやってたみたいだし内を仕切るのは大蔵卿局の仕事だったし
寧々様は大坂の陣の後も徳から護受けてるから正面切って徳と敵対したことはないだろうし、そうなるとやはり秀頼が導者だった気がする
他となると片桐が出てった後に重臣筆頭になった大野治長や、浪人出身では後藤又兵衛明石全登がすぐ大坂城へ入ったし元陪臣から軍団トップに抜されてるから怪しいのかな

47ななしのよっしん :2014/02/25(火) 20:49:27 ID: XyepS45teY
秀頼は学問や武芸で一流の講師から英才教育受けた人で、片桐且元に相談しながら自分で大名の仕事してたことは記録に残ってる
なので成長後は名実ともに大坂城だったと考えてよいかと
まあ秀頼自身の意志ではなく、徳幕府に口出しされて怒った朝廷や各産業界や浪人たちの民意をんだ結果かもしれないけど
大坂の陣で、一部の公家たちが大坂城に入って幕府と戦おうとした事件も起きてるし

ただ気になるのは、豊臣片桐退去後から徳軍が来るまでの短い期間で大軍集めて部隊割もしっかりできたことなんだよね
史書の通りなら8万~10万で、これは片桐や大蔵卿局を駿府へ送り出した直後から準備始めてたんじゃないかと疑ってしまう
遠方から大坂城に駆けつけてる武将も、浪人や出奔者ばかりだけど少なくなかったし
もしそうなら秀頼は人を騙せるタイプで、秀頼と対面した家康が秀頼を大物だと見抜いたという逸話は作り話だとしても真実を突いているのかなと
まあこちらの話は想像に過ぎないけど、清正の最後の御奉が藪だったとしたら辛いなあと思ってしまった

清正がどんなに頑っても結局反徳の人々が豊臣を押し上げてしまったのかな?

48ななしのよっしん :2014/03/15(土) 01:56:15 ID: MNqULSHKrT
清正や正則は「自分は秀吉来であって豊臣来ではない」という意識を持っていたのかもな

49ななしのよっしん :2014/03/31(月) 22:19:17 ID: xbROk2Bl0R
SKY EYE~からのメッセージ~ と戦国無双コラボが面すぎる
http://www.ideorobo.com/20131020-1/[外部]

「歳はどうでもいい」で毎回吹く

50ななしのよっしん :2014/05/10(土) 19:54:27 ID: KLkjDaHJ5T
なんでへうげものの清正は具志堅用高みたいになったんだろう

51ななしのよっしん :2014/05/24(土) 11:30:24 ID: XXcP0SAs0w
>>50
現存する肖像画を見ると分かるかも知れない

52ななしのよっしん :2014/05/24(土) 18:31:04 ID: GECgYsQvIo
内で人気なのは町の建設者だからかな。
あと、細川歴史興味ない人間にも
そこそこ知られてる。



53ななしのよっしん :2014/08/23(土) 12:49:19 ID: PltdbJirM9
50万石以上の大領を持っていたから、仮に幕府にしっぽを振って従順であることをアピールし続けてたとしても、清正や正則のは結局取り潰されてしまうのかなあ

54ななしのよっしん :2014/09/02(火) 15:34:32 ID: GECgYsQvIo
今年の大河は黒田親子が軸だから
長政の戦友ないしは同僚の清正も
クローズアップされると思ったが。
もう少し出番が欲しい所だな。

55ななしのよっしん :2014/09/10(水) 07:36:40 ID: 2B52+nPFa0
>>53
肥後加藤が取り潰されたのは、清正が死して跡継いだ忠広(当時11歳)が臣団握できず統治なしと見なされた(要するにクビ)だけで、豊臣恩顧々はあまり関係ないと思う。
正則に至っては、広島修復の一件で幕府から手続きの不備を摘された時の対応ミスった上にその後も不手際連発で、そういう規則的なことに厳しい気質な秀忠ブチキレて勢いで易食らったのが相らしい。というわけでこちらも豊臣恩顧々は関係なさげ。

というか、この時期は外様大名も親藩・譜代大名も戦国の感覚抜けてないから御家騒動ヒャッハーやらかした政がアレだったりと問題起こしまくりで、しかも将軍委員長タイプ秀忠なもんだからしょっちゅうブチギレさせて易食らってる。
有名どころだと松平忠輝松平忠直最上などがこのパターン

56ななしのよっしん :2014/09/12(金) 11:57:30 ID: ruDtpVLno5
>>55
うん、どう見ても恩顧含めて邪魔そうな連中片っ端から難癖付けてただけにしか見えないね
恩顧以外の大名が易されてる事と恩顧だから易された訳ではないはイコールにはならないでしょう

57ななしのよっしん :2014/10/02(木) 15:08:25 ID: 09el3hHiPJ
そういえば戦国無双藤堂高虎と「石垣には反りをいれるべきだ!」「いいや、いれるべきじゃない!」とか言い争うイベントがあったけど、
史実でふたりがそれぞれ石垣に反りをいれるかいれないかのこだわりを持ってるっていう旨の逸話あんのかな?

無双創作っぽくもあるけど、無双ってよく細かい逸話を拾ってきたりもするから、が知らないだけでなんかあるのかもしれないと思ったり。

58ななしのよっしん :2014/10/07(火) 00:29:02 ID: 58AwJr14Qw
>>57
詳細はわからないけど、二人とも著名なの縄りをしてるし、その辺を取り入れたんじゃない?
高虎と清正の築した石垣とかべるとわかるのかもしれないね

59ななしのよっしん :2014/10/26(日) 03:51:44 ID: FlPYEzPN89
>>57
高虎の方は知らないが、清正の方は熊本城の武者返しのことを言っているのかと
熊本城石垣ははじめは緩やかだから攻め手が登って来るんだけど、上にいくほど急勾配になって結局登れないようになってる
この石垣が西南戦争で役に立ったとか聞くね

60ななしのよっしん :2014/11/03(月) 16:34:50 ID: V2RUI+R3mH
音寺さんの著書は熊本城石垣についてたびたび触れてるね。
下の方は勾配がなだらかで簡単に駆け上がれるが上がるにつれて頭上に石垣がくつがえって来ても見えなくなるとか。
ロッククライミング用の装備でもなきゃ登れなさそうだな・・・

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