概要
部分化された再教育の現場(ブブンカサレタサイキョウイクノゲンバ)とは、ニコニコ生放送に眠る狂気が現代社会に露出した時に生じるリアル狂気の類である。
状況1:社会は部分化されている
たとえば、ある人の携帯電話が壊れて、あるケータイショップに立ち寄ったとしよう。乗組員は訪問者に対し以下のように質問するだろう。
我々は「当然に人間だし、同時に宇宙に住んでもいる。だからその質問は無効です」と平気な顔をして答える。すると、ショップ店員(乗組員)は突然顔を上気させて、けたたましい声を上げるのである。
修理にきたならそう言えよ!!!
激怒する店員(乗組員)をなだめ、なんとか受付の席に着かせると、店員はデスクの上に両脚を放り出し、舌打ちを繰り返している。事情はどうあれ、携帯電話を修理しないことには、情報が孤立してしまう。
店員は、客をモンスターと罵り、壊れている携帯をさらに床に投げつけて粉々に破壊しようとする。それほどに機嫌が悪いのだ。
ふと隣を見ると、お婆さんが全裸になり、立腹する店員に土下座をしている。パスワードを忘れてしまった、メモをしていたものもなくしてしまった、そもそも、パスワードが何なのかわからなくなってしまった、それだけを繰り返し、涙を流している。店員は「勝手に一方的に謝ってそれでいいっていうスタンスなの?」「そんなに大事なの?」とますます機嫌が悪くなる。
状況2:道徳は相対化されている
今度はあるホテルの和室において、老夫婦が揃ってヘルメットのお兄さんに泣きついている。お願いだから娘を許してくださいという。話を聞くと、お兄さんは普段から猛スピードでバイクを走らせる趣味があり、ハンドル操作を誤って老夫婦の一人娘(大学4年生)をはねて4なせてしまったのだという。就職活動中とはいえ、一時の不注意から罪のないお兄さんを人56しにしてしまったとあって、夫婦は絶望的な心地でお兄さんに許しを乞うているのだ。命にかかわることだけに、携帯の故障のレベルでは済まない。バイクのお兄さんは「一体どうしてくれるのか?」という軽蔑の眼差しで夫婦を見つめている。
涙を流せば相手の感情はやわらかくなるだろうと思い込んでいるようですが、腹の底では「自分の娘は命を落としているのだから、何も悪くない」と思っていますよね?私はそんなあなた達の卑怯さに腹が立って仕方がない。きっと私がもっともらしい顔をして娘さんもあなたたちのことも許すといって帰った途端にけろっとした顔をして「めんどくせーやつだったな(笑)」と大笑いするのでしょう。あなたたちは「あー、娘が誰かを人56しにしちゃった(笑)」くらいにしか思っていないのかもしれないが、私にとっては大問題なのです。今後の私の人生にかかわる問題ですからね?そのことを本当にあなた方はわかっているのですか?しかもさっきから言葉の端々に「私たちにとっては大切なかけがえのない娘だったのです。それを失った悲しみもどうかわかっていただけませんか?」なんて言っている。どれだけこちらが怒りに震えているかわかりますか?本当にそこまで大切だったんでしょうかね。それほど大切だったならどうして猛スピードでバイクを走っている人に注意するように教え込まなかったんですか?あまりにも虫が良すぎるでしょう?
お兄さんの怒りの言葉はとまらず、夫婦はただただ顔を伏せて聞くばかりであった。もっとも、初めからこのような状況であったのかは少しわからず、当初は老夫婦が「娘を失った悲しみ」のままに相手を押しきる魂胆でいたようでもあった。ヘルメット姿の男性がバイクから降りる様を見て、竦み上がってしまったようでもある。強い者が弱い者をいたぶる様はいつも痛ましい。
状況3: タブーは歓迎されている
小学校で給食を食べる。学校の話題は毎日変わっている、近頃流行しているのは、いじめっ子といじめられっ子の役割分担の話である。
あのさ、そろそろやめてもいいかな?
いじめられることが退屈だから、そろそろ少しずつでも他の人に自分の分をいじめられてほしいというのである。いじめっ子は顔を曇らせながら大きい声で返事をする。
だめだ。お前まだいいやつのままだから。
もう少し教師を裏切ったり、悪いことを繰り返して卑怯が板についてきたら、誰かに代わってもいいんじゃないか、ということだった。それが難しいのに、といじめられっ子はため息をついた。
一方、二人の父親は会社で「ざっくばらんなワイガヤ会議」を開いていた。ビールを片手に、会社が利益を出すにはどうしたらいいかを語り合う、というものだ。ところが、「会社の利益」の本体がつかみにくい(たとえば、会社の利益を考えるのであれば、社会を悪くしなければならない、とか、社員の幸福が会社の利益であるなら、会社がなくなった方がいいとか)せっかくの「ざっくばらんさ」もワイガヤな雰囲気でますます重苦しくなっていく一方であった。そこでワイガヤの片割れ(いじめられっ子の父親)が口火を切った。
誰かに犠牲になってもらおう。口から出してもらうために、新しい社員を犠牲にしよう。
そして、入社して1年の社員を会議の場に呼び寄せた。紙に書かれた言葉を読み上げればよいというが、それは読み上げるのではなく、心の中から出た言葉として言わなければならない、ということだった。社員はこの1年業務を与えられず、窓際の席で毎日ただ時計を眺めて過ごしていたため、初めて与えられたその責任に悦び、全力で取り組むことになった。そして、その場の二人に力一杯の感動を込めて、その言葉を繰り返し、その場で息を引き取ったのである。
対策:部分化された再教育の現場に立ちあったら
1、決して音を立ててはいけない
そこは正常だと思い込むことが第一である。最優先することは「生存」その2文字であると念頭に置くこと。できることならば、一時完全に狂気を取り込むことも必要かもしれない、と思っておくこと(ただし、実際に取り込むことは精神衛生上負担が大きくおすすめしない)
2、風景だと思わない
若者はとくに、ある狂気の現場にいるとき、眼前に広がる光景は自分とは別次元のものであり、そこに生息するのは別種の存在であると思いがちである。それをあたかも風景画の一描写か、映画の1シーンのように俯瞰しただ黙想する、そういった境地に至ってしまうことが多い。そうしているときに、不意に敵意を持たれることがある。
3、人生は一度と考えない
実際の所、幾種もの個体が同時進行することにより、自己と同等の精神過程を辿る無数の人生が存在している。したがって、自己の人生を安易に使い切ることにより、新たな人生を模索する、といった希望は持たない方がよい。それが人生の一場面であるかどうかはわからないからだ。
部分化された再教育の現場に警鐘を鳴らす社会の正道コミュニティ
関連項目
- 眼球にかけて(ちーめろでぃ)
- 《へイどろ兄貴の、》おまたせ(*)こんやのキ分はNew Look up!!
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