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ホルヘ・ロレンソとは、スペインの離島パルマ・デ・マヨルカ出身のオートバイレーサーである。
1987年5月4日生まれ。
2002年5月4日に史上最年少の15歳1日でMotoGPの125ccクラスにデビューした。
2006年と2007年に250ccクラスチャンピオンを獲得。
2008年から2016年までヤマハワークスで最大排気量クラスに参戦、3回のチャンピオンを獲得した。
2017年と2018年はドゥカティワークスから参戦し、3勝を挙げた。
2019年からはレプソルホンダから参戦する。
2002年の125ccクラス時代から2008年シーズンまで、48番のゼッケンを使用していた。
当時の個人マネージャーであるダニ・アマトリアインが現役時代に付けていたのが48番で、
その番号を授けられていた。
2008年シーズン途中にダニ・アマトリアインとの関係が悪化、ホルヘは心機一転するために
新しいゼッケンを公募することにした。23と99が最終候補に残り、ホルヘは99を選択した。
2009年からは99番を使用している。
2010年に最大排気量クラスチャンピオンを獲得したので、翌2011年はゼッケン1番を付けた。
このときのデザインはこんな感じで、ホルヘ・ロレンソの頭文字JとLを組み合わせたものとなっている。
2013年や2016年もゼッケン1番を付ける権利があったが、ホルヘはその権利を行使せず、99番を付けた。
ライダースーツはアルパインスターズと契約している。
同社はイタリア北部のヴェネト州アーゾロで1963年に起業した。アルプス山脈沿いの山地で、
スキー用の靴や登山用の靴を作っていたのが始まりである。
アルプス山脈をイタリア語でAlpiという。社名もアルプス山脈が由来となっている。
アルプス山脈に生えている花にエーデルワイスというものがあり、そのイタリア語名がStella Alpina。
それを英語風にAlpinestarsと表現し直して、社名にした。
エーデルワイスの形は星(star)に似ている。アルパインスターズのロゴに星があるのはそのため。
2002年から2006年までスペインのヘルメットメーカーNZIと契約。
2007年から2012年までX-liteと契約。これはイタリアのNolanの傘下ブランドである。
2013年から2015年までは韓国のヘルメットメーカーHJCと契約していたが、内装部品がずり落ちる、
シールドが曇る、などのトラブルがたびたび起こっていた。
2016年からはフランスのヘルメットメーカーSHARKと契約している。
ヤマハ時代は左の9がツノ(悪魔)、右の9が輪っか(天使)というデザインを採用していた。
もともとは悪魔モチーフのゼッケンを付けようとしたが、ヤマハワークスのボスである
リン・ジャーヴィスに「悪魔というのはちょっと・・・あんまり嬉しくないな」と言われた。
そこで、半分だけ天使のデザインに変更したのだった。
ドゥカティに移籍してからゼッケン99のデザインは角が生えたものになっている。
Twitterでも可愛い悪魔の絵文字を多用していて、その絵文字をライダースーツの尻に付けている。
2017年オーストリアGPでは悪魔モチーフのヘルメットを被っている。
10歳の頃から2008年までスペインバルセロナの製菓企業チュパチャップスと契約していた。
チュパチャップスデザインのヘルメットを被り、表彰台にチュパチャップスを咥えながら登壇していた。
このチュパチャップスもダニ・アマトリアインが紹介してきたスポンサーであった。
ダニ・アマトリアインとの関係が非常に悪化し、彼の記憶を消し去る必要に追われたホルヘは、
2008年シーズン末にチュパチャップスとの契約を打ち切った。
2009年以降のヘルメットデザインは、黒地・白丸・赤バッテンのものである。
このデザインは正式にはスペイン語で「Por Fuera」という。Porは前置詞で、Fueraは外という意味。
つまり「外から」という意味である。
ホルヘのキャリア初優勝は2003年第12戦のブラジルGPである。このときケーシー・ストーナーと
ダニ・ペドロサを外から一気に抜いていって、鮮やかに勝利した。
この、外からぶち抜いていった勝利のことを記念して、ぐるっとコーナーを回る様子をデザイン化して、
「外から」という名前を付けた。※この記述の情報源はこちら
白い○を描いているのは、ブラックマンバという蛇である。
白っぽい灰色の外見をしている。なぜブラック(黒)と呼ばれるかというと、口の中が真っ黒だから。
ブラックマンバは世界最強の毒蛇として知られている。
たまにホルヘがヘビポーズをして遊ぶことがあるが、それはブラックマンバをイメージしている。
画像検索すると、ブラックマンバをイメージしたヘルメットをしばしば被っていることがわかる。
ホルヘ・ロレンソのシンボルというとスパルタ兵士である。
古代ギリシャにスパルタという国があり、そこでは青少年へ厳しい教育をして、軍人を作り上げていた。
これがスパルタ教育の語源となった。そのスパルタの兵士というとこんなイメージで描かれる。
モヒカンがついている兜を被って戦場で戦うのがスパルタの兵士である。
スパルタのモヒカン兜の横に翼を描くというのも定番のデザインであるらしい。
ホルヘはこれを見て気に入って、スパルタ兵士風のデザインを自分のデザインにした。
モヒカン兜に翼、と、まるっきりのスパルタ兵である。
ホルヘは父親にスパルタ教育を受けて育てられてきて、ホルヘ自身も「僕はバイクに乗って勝つことを
使命として生まれてきたんだ。スパルタ兵士が戦うために生まれてきたのと同じようにね」と言っていて、
スパルタ兵士と自分を重ね合わせている。
ハンマーとバターは英語でhammer butter、スペイン語でmartillo mantequilla という。
これはホルヘが幼い頃の記憶から着想を得た。
元2輪レーサー(モトクロス)の父親はしばしばハンマーを使ってバイクを叩いて直していた。
母親はバターを器用に滑らかにパンに塗っていた。
そうした両親の姿を思い起こし、両親の良さを引き継ぐため、ハンマーとバターを自分のデザインにした。
時にはハンマーのように力強く、時にはバターを塗るように滑らかで丁寧に、という意味。
※この記述の情報源はこちら
2010年のころにはブレーキレバーにmartillo、クラッチレバーにmantequillaと文字を刻んだ。
ブレーキは力強く握るのでハンマーがぴったり。
クラッチはギアチェンジの時に滑らかに丁寧に握るので、バターがぴったり。
バターの絵が入ったサインボードがたまに掲げられた。画像1、画像2
2018年カタルーニャGPでは、軽い材料で精巧に作られたダミーのハンマーを優勝した後に渡され、
楽しそうに振り回していた。画像1、画像2、画像3、画像4
ホルヘ・ロレンソのライディングは2016年までと2017年以降で変化している。
2016年のヤマハワークス時代まで、コーナーリング速度を目一杯高める走りだった。
ブレーキングはさほど頑張らず、攻めすぎないように常に心がける技巧派のライダーであった。
この走り方がヤマハのマシン特性にぴったり合致し、9年で3回のチャンピオンに輝いている。
コーナーリング速度を高めていく乗り方は「250乗り」と言われ、最大排気量クラスには向かないと
言われている。「250乗りは大成しない」など、そういう位置づけである。
レプソルホンダの中本修平HRC副社長はアルヴァロ・バウティスタについて「彼は250ccクラスの
乗り方のままだ、あの乗り方は今ひとつだ」とコメントしており、普通は250乗りは忌避される。
ところがホルヘ・ロレンソは250乗りで大成した希有な例なのである。
ホルヘはマックス・ビアッジの大ファンで、ビアッジの速いコーナーリングに憧れていたと語っている。
また、125ccクラスの頃からコーナーリング速度を稼ぐように意識していたようだ。
コーナーリングする時はバイクを傾けタイヤのエッジ部分を使う。タイヤの性能が問われる走行になる。
ゆえにホルヘは「タイヤの良さを引き出す走り」と評される。
ホルヘはタイヤメーカーに対する批判の多さが他のライダーより多い印象があるが、
良くも悪くもタイヤに頼った走りになっているからそうなるのである。
2013年のマルク・マルケスは、ホルヘ・ロレンソについてこう語っていた。
「ホルヘの後ろについて観察しましたが、毎周全く同じ走行ラインを通っているのでびっくりしました。
僕は周回ごとに走行ラインが少し変わるんですが、ホルヘは毎周同じなんです」
チーフメカのラモン・フォルカダによると、ホルヘはマシンが動くのをとにかく嫌っていたという。
タイヤをスライドさせず、綺麗な走行ラインを正確になぞっていく、精密機械のような走りだった。
走り方を大きく2つに分けると、タイヤをスライドさせつつ曲がっていくスライド走行と、
スライドをさせないでタイヤをがっちり路面にグリップさせて曲がっていくグリップ走行がある。
ホルヘは典型的なグリップ走行だった、ということになる。
鉄道がレールの上を走るかのような走り、と表現されることが多かった。
ホルヘの走行ラインはかなり独特で、インをガバガバに開けて走る姿が多く見られた。
そうすることでコーナーリングスピードをより高める狙いがあったのであろう。
インをガバガバに開けるので、後続のライダーが思わずインに突っ込む。
そこに、とんでもない速さでコーナリングするホルヘが一気に接近していく。
ホルヘが危険に気付き、マシンを立ててコーナーリングを中止して、なんとか難を逃れる。
レース後にホルヘが「危ないだろう!もうちょっとで転倒だったじゃないか!」と怒りまくるが、
インに突っ込んだライダーは「いや・・・あれだけインが空いてれば入りたくなるでしょ・・・」と言い、
レース運営も「・・・まぁ、お咎めなしって事で良いんじゃないか」と裁定を下し、
それに対してホルヘが「ひどい運営だ!」と怒る。こうした光景が、しばしば見られた。
最も有名なのが2016年サンマリノGPのこのシーンであろう。
足出しをまったく行わないことで有名だった。
2009年頃からヴァレンティーノ・ロッシがコーナーリング最中にイン側の足をぶらぶらさせる
足出し走法を始め、他のライダーもそれを真似るようになり、足出し走法が大流行した。
ところがホルヘ・ロレンソはどれだけ足出し走法が流行しようが一切それに染まらなかった。
このシーンは象徴的な映像と言える。足出しをするロッシと、足出しをしないロレンソ。
2008年から2016年までの9年間、リアブレーキを一切使わなかったとはっきり語っている。
タイヤを滑らせるスライド走行をするときにリアブレーキを使うのだが、ヤマハワークス時代のホルヘは
タイヤを滑らせずに走ることを最重視していた。そのためリアブレーキを使う必要が無かった。
ホルヘ・ロレンソの走り方を絶賛するヤマハの関係者は多い。
「ヤマハサテライトのTECH3にいたときは常にロレンソの走りを観察してお手本にしていた。
彼は最高のライダーの1人だ」カル・クラッチロー
「ヤマハのマシンを速く走らせるには、ロレンソの走りを真似すれば良いんです」ヨハン・ザルコ
「ハフィズ・シャリーンにはロレンソの走りを真似するようにと教えました。
ロレンソがヤマハを去って1年経ちますが、いまだにヤマハにとってのお手本はロレンソなんですよ」
TECH3チーフメカ ニコラス・ゴヨン
「マーヴェリック・ヴィニャーレスにはロレンソの走り方を学ぶように言った。
ヤマハのマシンの良さを引き出すにはそうするのが良い」
ヤマハワークスチーフメカ ラモン・フォルカダ
2017年にドゥカティワークスへ移籍した後は、必死に努力して乗り方を大幅に変え、
ブレーキングをハードにして、リアブレーキを使いリアタイヤをスライドさせる走法に変化していった。
「長年やってきた乗り方を変えるのは大変だ」とコメントしながらも努力を続け、
2017年シーズン後半には少しずつ適応して成績を上げてきている。
2018年フランスGPまでのホルヘはレースの後半になるとペースが落ちていた。
エンジンタンクの形状がホルヘに合わず、それで体力を無駄に消耗していた。
2018年イタリアGPでドゥカティの工場から新しいエンジンタンクが届いた。
そのタンクの形状はホルヘにぴったり合致し、ホルヘはそのレースから快進撃を続けるようになった。
ヤマハワークス時代はリアタイヤを流してコーナー進入することをほとんどしなかったが、
ドゥカティワークス時代はリアタイヤを流してコーナーに入っていくようになった。
カタルーニャサーキット1コーナーの進入の様子を見比べてみよう。
2014年ヤマハ時代のホルヘはリアタイヤが滑っていない。
2018年ドゥカティ時代のホルヘは、ずるっとリアタイヤを滑らせてからコーナー進入している。
2014年のレプソルホンダの両雄は2人ともリアタイヤを滑らせて進入していた。
ホルヘはこういうスライド大好き人間たちの仲間入りを果たしたのである。
足出し走法を全くしてこなかったホルヘ・ロレンソが初めて足出しをしたとされるのが、
2018年オーストリアGPである。このシーンを見たMotoGP観戦者たちに強い衝撃を与えた。
こちらの画像は2018年サンマリノGPの1コーナー進入の様子。画像の左半分は鏡である。
やっぱり、リアタイヤを滑らせてコーナー進入する走りをしていると、足出ししたくなるのだろう。
ヤマハ時代のホルヘは、早めのタイミングでブレーキングを開始していて、ブレーキングは弱めだった。
ドゥカティ時代になり、2018年のカタルーニャGPあたりになると、ホルヘのブレーキングが
とても強くなった。短い制動距離で一気にマシンを止めるレイト・ブレーキングをするようになった。
ブレーキングの強さに定評があるアンドレア・ドヴィツィオーゾやダニロ・ペトルッチよりも
強くて深いブレーキングをたびたび披露し、ドヴィやダニロをビックリさせていた。
スタートダッシュが上手く、最初の1周で一気に引き離して先頭を走ることができる。
2009年頃までは他のライダーと同じ程度のスタートダッシュで、レース後半に追い上げるタイプだった。
そんな中、自分と年齢が近いケーシー・ストーナーのスタートダッシュを見て、
「ケーシーができるのなら、自分もできるはずだ」と思い、あれこれ試行錯誤していったという。
2010年にはケーシー並みのスタートダッシュ技術が完成し、1周目から速く走れるようになった。
わりとクリーンなライダーで、パッシングも上手く、他のライダーに迷惑をかけることが少ない。
250ccクラス時代までのホルヘはアグレッシブすぎる走りをする乱暴なライダーだった。
「どけどけ!どかんと危ねえぞ!」と言わんばかりの突撃野郎だったのである。
2005年の日本GPでもその調子で走っていたが、アレックス・デアンジェリスを転倒させてしまい、
次戦出場停止の厳しい処分となった。
このとき、ホルヘは初めて自分が悪いと思い、改心した。
出場停止処分を経てから走り方を完全に改め、相手を気遣うクリーンなライダーに生まれ変わった。
このためホルヘは、何かをやらかしたライダーに対していつも「出場停止にしろ」という。
「次戦最後尾スタートじゃ甘すぎる。反省させるためには出場停止にするのが一番」というのである。
2012年のバウティスタ事件、2013年のマルク・マルケス事件、2016年のイアンノーネ事件、と、
一貫して全く同じ主張をしている。
ホルヘ・ロレンソはチャンピオンライダーで、どこのサーキットでも速い。
ザクセンリンクではキャリア通算でまだ1勝もしていない。
ただし、2009年から2012年まで4年連続で2着に入っており、全くダメではない。
このサーキットはホンダが強すぎるので、なかなか1着になれない。
近年、明らかに苦手になったのがTTサーキット・アッセンである。
2010年までで4勝、2着1回、3着1回。ここまでは良かった。
2011年は決勝1周目の5コーナーでマルコ・シモンチェリにぶつけられ、
2012年は決勝1周目の1コーナーでアルヴァロ・バウティスタにぶつけられた。
そして迎えた2013年6月27日木曜日、この日は雨が降っていた。
12コーナー(Meeuwenmeer)を過ぎた直後にハイサイド転倒し、左鎖骨を骨折してしまう。
時速238km走行中の恐るべき大転倒であった。
この転倒がトラウマとなり、翌年以降のアッセンはまるで走れなくなってしまった。
2014年は「ここを走るのが怖かった」「濡れた路面でタイヤが滑ると怪我の記憶がよみがえってきた」
と正直に告白しており、後遺症の根深さがうかがわれる。
2013年6月27日木曜日にオランダ・アッセンで転倒したホルヘ。
転倒直後はこんな感じに左腕を右腕で支えている。そうしないと左腕がずり下がって左鎖骨が痛む。
腕というのは結構重いので、鎖骨が折れたら反対側の腕で支えなければならない。
この後すぐに車に乗り、アッセンからスキポール空港まで移動して、すぐに飛行機へ飛び乗った。
折れた状態はこんな感じで、このまま飛行機に乗ったわけである。
飛行機の離着陸で気圧が低下し、骨折したところが死ぬほど痛い。
向かった先はMotoGPライダー行きつけの病院であるバルセロナ市内のキロン・デシェウス病院で、
おなじみのハヴィエル・ミール医師に鎖骨をチタンプレートとチタンボルトで固定してもらい、
また飛行機に飛び乗ってオランダに戻ったのである。
治療後の鎖骨の様子はこんな感じ。ボルトびっしりで超痛そう。
そして土曜日の決勝に強行出場、死ぬほど痛い中を根性で走り5位に入った。
レース後はあまりの痛さに涙を流し、ドルナCEOカルメロ・エスペレータが駆けつけるほどだった。
ホルヘに降りかかる災難はこれだけではなかった。
2週間後の2013年7月12日金曜日、今度はザクセンリンクの10コーナーでハイサイド転倒してしまう。
これで左鎖骨を再び強打し、再手術を強いられて、今度こそ万事休すで欠場してしまう。
1週間後のアメリカGPは鎖骨が痛むなか強行出場して何とか6位を確保した。
オランダGP・ドイツGP・アメリカGPの結果は5位・欠場・6位となり、この3戦の低迷が響き、
僅か4ポイント差で年間チャンピオンを逃してしまった。
合計18本のチタンボルトを左鎖骨に入れたので、これを抜く手術をしなければならない。
この手術は3回行い、手術が終わるころには2013年オフシーズンが終わっていた。
2014年はろくにトレーニングをしないまま開幕を迎えることになり、開幕戦をブヨブヨの肥満状態で
臨むことになり、前半戦の成績が低調に終わった。2013年の鎖骨骨折で2つのシーズンを失ったのだ。
ライダーのセッティング能力を測るには、ブルノサーキットの成績を見れば良い。
このサーキットはMotoGPが開催されるサーキットの中で一番セッティングを出しづらく、
セッティング巧者が繰り返し勝つ傾向が強いサーキットなのである。
ホルヘ・ロレンソはブルノサーキットで5勝、2着4回、3着1回。これは好成績と言える。
実際に、ホルヘと接するメカニックたちはホルヘを高く評価している。
「変更を施したら必ず細部まで確認する」「集中力が高く、理論的だ」とのコメントがある。
2017~2018年にチーフメカを務めたクリスチャン・ガバッリーニもホルヘを高く評価している。
「ホルヘは非常に正確で、細心の注意を払います。それに、非常に敏感にバイクの挙動を伝えます」
また、名物チーフメカのラモン・フォルカダは、ホルヘが「速く走れないが理由が分からない」とは
決して言わないと証言している。必ずどこか理由を見つけて指摘してくるとのこと。
セッティング能力イマイチとされるライダーには「速く走れないが理由が分からない」と喋る人が多い。
ホルヘはそういう面々とは少し違うようなのだ。
2010年12月31日をもってロッシとヤマハとの契約が満了し、ロッシはドゥカティへ移籍していった。
開発能力の高さで知られるヴァレンティーノ・ロッシを失ったヤマハは迷走するのではないか、
そのように予測する者も多かったが、ヤマハとロレンソは2012年にみごとチャンピオンを獲得。
開発能力の高さをしっかり証明してみせた。
マシンの開発でライダーに求められるのは、部品と部品の違いを見つけ出し、
「この部品はダメだからこれ以上作らなくて良い。こっちの部品だけ作れば良い」と言いきって、
メーカーの開発部門の負担を減らしてあげることである。
ごく僅かに違う部品を2つ渡されて片方1つをボツにすることができれば、
メーカーの開発部門の労力が50%減ることになる。
開発能力が低いライダーは「こっちの部品も良いし、あっちの部品も良い。違いがよく分からない。
両方とも捨てずに作り続けてくれ」と優柔不断なことを言うものである。
そういう言い方をされるとメーカーの開発部門は2種類の部品をそれぞれ研究し続ける羽目になり、
いつまで経っても労力が減らないのだ。
ホルヘ・ロレンソは前者のタイプで、部品を2つ渡されたらキッパリと「こっちがいいから
こっちだけ作ってくれ。あっちはボツだから、もう作らなくていい」と言うことができる。
このことは、名物チーフメカのラモン・フォルカダが次のように証言している。
「ファクトリーライダーは、2つの非常に似た仕様から1つを選択する必要があります。
ホルヘは、彼の性格から誰にも影響されることはありません。
エンジニアたちが嫌がることをハッキリと言え、何が機能しないかを伝える能力が優れています。」
ラモン・フォルカダは、「ホルヘは意志の強い性格なので、
エンジニアが嫌がること(この部品はダメだ、とボツにすること)をハッキリ言うことができる」
と言っているのである。
ホルヘは喜怒哀楽が激しく、さまざまな表情を見せてくれる。
優勝すると機嫌が良くなり、嬉しそうな笑顔になる。
基本的にチヤホヤされるとすごく喜ぶタイプなので、各種イベントにはウキウキの笑顔でやってきて、
楽しくファンと交流する。
反面、成績が振るわないと不機嫌顔になり、不機嫌モードがずっと続く。
ムスッとした表情で記者会見に応じ、コメントの量も少なくなる。
マルク・マルケスの父親フリア・マルケスは子どもたちに「いつも笑顔を忘れるな」と指導していたが
ホルヘにはそういうことを言ってくれる人がいなかった。いや、いることはいるのだが、
ちょっとした事情があってすこし離れたところに行ってしまったのだ。
この不機嫌顔の多さでホルヘは損しており、良いイメージを失ってしまっている。
また、ホルヘは後述するように相当の苦労人であり、ちょっとした人間不信に近い状態であるらしく、
「100%人を信用することができない。90%ならなんとか信用できる」と語っているほどである。
インタビューしてくる記者に対しても少し警戒心を抱くタイプのようで、
無条件で満面の笑みになることが少ない。この点でも少し損している。
ホルヘはわりと我慢強いタイプで、対話を重視するタイプである。
迷惑をかけてきたライダーに手を出すこともしない。MotoGPの世界には迷惑ライダーをどつく人や
ヘルメットを被ったまま頭突きする人がいたのだが、ホルヘはそれをしない。
ライダーに対してメディアを通じて一方的に言って反論の機会を与えない、ということをしない。
メディアを通じてライダーを批判した後、そのライダーのピットへ乗り込んでいって会談し、
相手に反論の機会をちゃんと与えることが多い。
ホルヘの父親はホルヘに対して厳しかったが、自由に反論する権利だけはホルヘに与えていた。
ホルヘはこの点だけは父親を見習っているのである。
2017年の日本GPでヨハン・ザルコと接触し、レース後に「あいつはプレステでもやってるつもりか」
とメディアを通じて批判した。この批判の後にホルヘはヨハンのピットへ乗り込み、会談している。
2011年のシーズン中盤に、メディアを通じてマルコ・シモンチェリの危険性を批判したが、
その後に公開の場でマルコと話し合いをしている。「君の走りは危険すぎる」というホルヘに対して
「そっちだって250ccの時は危険だったじゃないか、出場停止になったこともあっただろ」と反論され、
見事に「ぐぬぬ・・・」状態になっている。
ホルヘの行動を観察すると、わりと人に対して当たり散らすことをしていないことが分かる。
ただ、人に当たらない代わりに、物に当たることがときおり見受けられる。
怒りが物に向かってしまうわけだ。さすがにすべてにおいて怒りをこらえることはできないようだ。
2012年のアッセンでアルヴァロ・バウティスタにぶつけられ、グローブをブン投げるホルヘその1
2012年のアッセンでアルヴァロ・バウティスタにぶつけられ、グローブをブン投げるホルヘその2
2013年のヘレスでマルク・マルケスにぶつけられ、ハンドルを叩き付けるホルヘ
2017年のテルマスデリオオンドで転倒し、マシンを突き倒すホルヘその1
2017年のテルマスデリオオンドで転倒し、マシンを突き倒すホルヘその2
これでまたしてもホルヘはイメージを損ねてしまっているのであった。
ホルヘは暇ができるとTwitterに張り付くことがあり、マメにリプ返しすることがある。
2015年のチャンピオン獲得後もTwitterでリプ返ししていた。
このときはロッシ・マルケス接触事件の直後で、大騒動が起こっていて、ホルヘのところにも
「君1人の力で獲ったタイトルじゃないだろ!」「八百長だ!」などといった
小馬鹿にしてくるリプが多く来ていた。
ホルヘはそういうリプにもいちいち返信していた。(ブロックすればいいのに・・・)
とはいえ、ホルヘは全く怒らないというわけではない。怒るときはどーんと怒る。
どういうときに怒るかというと、「邪魔をされた」と直感したときに怒るタイプである。
こちらの動画の0分38秒あたりで、いかにもホルヘらしい怒りが見られる。
ピットに進入しようとしたら邪魔されて、「何だ!」という感じで頭を振り、手を広げて不満表明した。
2006年第3戦トルコGP250ccクラスで、青山周平がホルヘに追突し、ホルヘを転倒させた。
ホルヘは青山に対して激怒の限りを尽くしていた。
チーム関係者に怒ることがある。セッティングが何かおかしくて、自分の走りを邪魔されたと思うと、
取り乱すかのように怒る。
このシーンは2018年カタルーニャGPの一幕で、チームが取り付けたタイヤの暖まりが非常に悪く、
ホルヘが「どういうことなんだ!」という感じで、ちょっとパニック気味になって怒っている。
ただ、ホルヘと9年間一緒に仕事をしてきたウィルコ・ズィーレンベルグは、
「ホルヘは結構よく怒るんだけど、10分経ったら元通りに落ち着くんだ」とこの記事で語っている。
ホルヘの妹。たまにホルヘのTwitterに登場する。
ホルヘの母親。スペインは夫婦別姓なので結婚したときもゲレーロ姓のままであった。
ホルヘの本名は両親の姓をとって「ホルヘ・ロレンソ・ゲレーロ」である。
もともと2輪レーサーだった。画像1、画像2
シーズンオフはしばしばホルヘのSNSに登場する。画像1、画像2、画像3
たまにしかサーキットにやってこない。あまりレースは好きでないという。
2009年カタルーニャGPにやってきていたが、「もう見てられない!」という感じであった。
2010年のバレンシアGPにも来ていて、国歌演奏の時に映っていた。
ホルヘには慕われていて、「母さんはいつも僕に愛情を注いでくれた」と語っている。
ホルヘがレース活動を始める前に離婚した。なぜ離婚したかは次の項を読めばだいたい分かる。
離婚後もパルマ・デ・マヨルカに住んでいる。
ホルヘの父親。 公式Twitterアカウントはこちら。「チチョ」と呼ばれている。
Chico Lorenzoと検索してもヒットするので「チコ」と読みたくなる。
チチョはもともとガリシア州に住んでいて、そこでモトクロスのレースを行っていた。
パルマ・デ・マヨルカに移ってきてから舗装したコースのレースに転向してレースを続けたという。
ホルヘが3歳の時にバイクを買い与え、ホルヘに特訓を与える鬼コーチになる。
指導は厳しく、いつもストップウォッチを持ってタイムを計測し、上手くいかないと怒鳴っていた。
殴るなどの体罰はしなかったようで、ホルヘ母のマリアは「ホルヘはいつも父親に逆らっていた」
「叱られたら『なんでだよ!』と反抗していた」と言っている
※体罰を受けると反抗する気力が失せるものである。反抗をしていたのは体罰がなかった有力な証拠
体罰をせずに、口で罰を与えてくる人だった。理詰めで説教してくるタイプだった。
ホルヘの欠点弱点を巧みに見抜き、常に適切な目標を与えていた。コーチとしては優秀だった。
ホルヘも「今の自分があるのも親父のおかげ」と感謝の言葉を述べている。
ただ、とにかく厳しかったようだ。「親父の教え方は苦手だった」と言っている。
チチョは「酷いタイムだ!」と怒鳴りつけ、ホルヘは泣きながらも走り出し、良いタイムを出す。
するとチチョはマリアに「ほらみろ、怒鳴ると効くんだ」「あいつは厳しくすると伸びる」
と言っていたらしく、マリアは呆れたような表情で述懐している。
離婚してからは彼がホルヘを引き取り、レースの世界に送り出していった。
スペイン選手権、ヨーロッパ選手権、そしてMotoGP。
チチョは今ひとつ協調心がなく、当時のマネージャーのダニ・アマトリアインと大げんかし始めた。
また、金を要求してばかりの理学療法士を連れてきたりした。
このため2006年シーズンにホルヘはチチョにサーキット出入り禁止を言い渡し、絶縁状態になった。
ホルヘによるとチチョは挨拶もロクにしない冷たい性格であったという。優しい母親とは真逆だった。
ただバイク走行の技術やレースに対する心構えはよく知っていて、それをちゃんと教えてくれた。
チチョはとんでもなく頑固で、そのことは次のエピソードでも分かる。
2011年マレーシアGPで大事故が発生し、MotoGP関係者が悲しみのどん底に陥っていたとき、
チコは「マルコ・シモンチェリはレースに対する気構えがなっていなかった」と言い出したのだ。
言っていることは正論かも知れないが、なにもあの状況で言う必要は無いだろう。
ホルヘはTwitterで即座に「父のことを恥ずかしく思う」とコメントしている。
チチョはホルヘにとって呆れと怒りと尊敬と信頼を重ねて感じるような相手であり、
喧嘩と和解を繰り返している。絶縁したかと思えばシーズンオフのトレーニングのコーチを依頼する等、
付かず離れずの関係が今も続いている。
10年ほど前はパルマ・デ・マヨルカでバイク教室を開いていて、教え子の1人がジョアン・ミルだった。
現在のチチョは首都マドリッド近郊のこの場所で少年相手にバイク教室を開いている。
そのバイク教室にホルヘがやってきて、8の字走行を披露したこともある。
チチョは発信力がある人で、スペインのラジオ番組に出演しては何かコメントを残していくことがある。
2018年アラゴンGPではホルヘ・ロレンソの転倒事件があり、ホルヘが「マルケスに邪魔された!」と
憤怒していた。そのときチチョもラジオ番組でマルケスに対して怒りを露わにしており、
そのことをスペインの有力紙marcaに取り上げられていた。
親子そろって同じ相手に怒りを表明するという、ちょっと面白い光景になった。
2016年のシーズン前半にホルヘはドゥカティ移籍を決めたのだが、そのことについてKTMのCEOの
ステファン・ピエラが「ドゥカティはロレンソにいくら払うのかね?ホルヘは雨になるとダメだ。
そんな彼に最高のバイクを与えても無駄だろう」とキツいことを言った。
ホルヘは即座に「ステファン・ピエラとかいう人は、記憶力が悪いか、プロじゃないかのどちらか」
と言い返し、ちょっと面白い舌戦となった。(※記事はこちら)
それから約2年後に、ホルヘは雨が降るレッドブルリンクの練習走行で好走した。
レッドブルリンクはKTMの本拠地で、当然ステファン・ピエラCEOも生観戦している。
これを受けてチチョはTwitterでこう書き込んでいる。
「誰か、『ドゥカティは雨で遅いライダーに大金を払う賢くないメーカーだ』といった馬鹿野郎に
質問してやってくれ。まだ同じ事を思っているのか、ホルヘに謝るつもりはないのか、ってね」
まあまあチチョさん落ち着いて、と誰かいってあげねばなるまい。
ちなみにチチョさんはTwitterで食べものの画像をよく上げている。画像1、画像2、画像3、画像4
ホルヘが10歳ぐらいの頃、つまり1997年頃、そのときからホルヘに目をかけてマネージャーになった。
マネージャーとは契約交渉の代理人ということであり、ホルヘに契約をしたいのならマネージャーに
接触しなければならない。
アプリリアやデルビのチーム監督を務めていた辣腕の人物で、レース業界を知り尽くしている。
ホルヘにとっては2002年から2007年までずっとチーム監督であり個人マネージャーであった。
ホルヘにとっては頼もしい相棒であり、レースの世界に導いてくれた恩人だった。
しかしながら2008年頃にはホルヘにとってとんでもない頭痛のタネになっていた。
借金でだんだん首が回らなくなり、そして、法律で禁じられている化学物質に手を出した。
精神不安定になったダニ・アマトリアインはホルヘを脅迫するようになり、
2008年シーズン後半のホルヘはレースどころではなかった。
10歳の頃から21歳まで面倒を見てくれた恩師が身を崩したことはホルヘに大きな衝撃を与えた。
2008年シーズン末にホルヘはダニ・アマトリアインを解任している。
そのあともアマトリアインの脅迫は続き、ついに逮捕されるに至った。
2010年頃もホルヘの所を訪れ、金をせびりに来ていたらしい。
アマトリアインは化学物質の後遺症を治す専門施設に放り込まれ、そこでなんとか持ち直したらしい。
後にホルヘに謝罪し、ホルヘは謝罪を受け入れている。
2013年にはホルヘをスポンサーとする新たな2輪レースチームの監督に就任している。
ブラジル人で、ホルヘが通うバルセロナのジムのオーナーである。
初めてホルヘと会ったのは2002年末のことである。
ホルヘは熱心にジムへ通う人なので自然と仲良くなり、トレーナーとしてホルヘを支え続けた。
ホルヘとは喧嘩をしながらも付き合いを続けていった。
2006年に父親チチョとアマトリアインの間に紛争が起こったとき、ホルヘに向かってこう言った。
「父親も、父親が連れてきた欲深の理学療法士も、彼女もすべて捨てなさい。携帯電話も週末は没収だ」
「チチョは君の彼女の携帯で君にメールを送ってくる。彼女とは別れる必要がある」
悩んだホルヘだったが結局はマルコスの言うとおりにして、チチョたちと絶縁したのであった。
この絶縁の直後から勝ち星を積み重ねはじめ、ホルヘは2006年のチャンピオンに輝いている。
2008年シーズン末、大混乱を収束するためにホルヘのマネージャーに就任した。
ホルヘは週に25時間ほどマルコスのジムへ行くので、何でも相談できてマネージャーに適任だった。
レースにも帯同し、ホルヘの腹心となる。ホルヘが大転倒したときはホルヘを抱きかかえている。
「今あるマシンとメカニックで何とかしようと考えるんだ。欲しがってはいけない」
というアドバイスも送っており、メンタルトレーナーとしても役割をこなしていた。
2012年シーズン途中に、ホルヘはマルコスを解任した。
この解任は憶測を呼び、「ホンダが提示した高額契約を握りつぶしたからだ」など噂されたが、
これはマルコスが否定している。
マルコスはホルヘに対して献身的に仕事する人であったが、けっこう気難しく、
パドックでの嫌われ者であったらしい。ヤマハの上層部からの受けも今ひとつだったようだ。
喧嘩腰で立ち向かい、喧嘩の後に和解して前進する・・・こういう感じの人物だったからである。
ホルヘは「マルコスとは喧嘩別れではない。またトレーナーをやってもらうこともありうる」と
コメントしている。
ホルヘの友人で経済系の大学卒、1984年生まれでホルヘよりも3つ年上なだけの若者。
この人は前任者や前々任者とは違って穏健で、さしたるトラブルも起こさず、堅調に仕事をこなしている。
公式Twitterアカウントはこちら。Instagramアカウントはこちら。
ホルヘのピットにいつもいる。ホルヘが表彰台に乗ったとき、パルクフェルメで出迎えている。
2013年アッセン大転倒の時もピットにいた。白いシャツを着て苦笑いしているのがヴァレーラ。
ホルヘのSNSにもしばしば登場する。画像1、画像2
現在はアレイシ・エスパルガロやホルヘ・マルティンのマネージャーを兼務している。
マルティンがチャンピオンを獲得した瞬間にファウスト・グレッシーニ監督と抱き合っていた。
かつてのホルヘは「コース上で出会うライダーは全員敵だ!」というタイプで、
ライダーの友人を持たなかった。
その中でたった1人例外的にホルヘが親しくしていたMotoGPライダーがいた。
それはリッキー・カルドゥス(Ricky Cardus)であった。
彼もホルヘと同じくダニ・アマトリアインに育てられたライダーで、そのためホルヘと親しくなった。
日本語版Wikipediaによればリッキーは1988年3月生まれで、ホルヘと同学年である。
ホルヘはワークスライダーで羽振りが良く、リッキーにM3やSLSといった高級車に乗せてみたり、
一緒にパーティーに連れたりしていた。また、リッキーがレースに出られるよう資金援助もしていた。
また、リッキーとホルヘは何年も同じ家に住んでいた。
このため「2人はデキている」と言いたい放題なことを言われている。
ライダーの友人はリッキー1人、という状況が長く続いたが、それが変わったのは2012年に
アルベルト・ヴァレーラを個人マネージャーとして招いてからである。
先述のようにヴァレーラはアレイシ・エスパルガロのマネージャーを兼務するようになり、
アレイシとホルヘは親しくするようになった。
ご存じのようにアレイシはやたらとコミュ力が高く、ライダーの友人を多く作るタイプである。
アレイシに引っ張られる形で、ライダーの友人が増えたようである。
また、ヴァレーラはホルヘ・マルティンのマネージャーも兼務するようになった。
その縁でロレンソとマルティンは一緒にトレーニングするなど親しくしている。
マルティンがキャリア初優勝を収めたとき、パルクフェルメに出向いて祝福しているのはこのため。
ホルヘにとって憧れの先輩というと、マックス・ビアッジとなる。
ホルヘは子供の頃からビアッジの大ファンで、ビアッジがロッシに負けたときは悔し涙を流していた。
ホルヘはしばしばビアッジをピットに招いており、2人の2ショット写真も多い。
ホルヘ・ロレンソはメカニックには恵まれている人で、ラモン・フォルカダという名チーフと巡り会う
ことができた。彼の作るチームがヤマハ時代の大活躍の原動力となったのである。
ホルヘ・ロレンソのメカニックというとファン・リャンサ(Juan Llansa)を紹介しなければならない。
2002年のデビュー当時からのメカニックで、ホルヘと同じパルマ・デ・マヨルカの出身で、
ホルヘにとって精神的な支えの1つである。
ホルヘがドゥカティワークスへ移籍したときにたった1人だけ連れて行ったのが彼であり、
ヤマハ時代もドゥカティ時代も、ピットウォールでサインボードを出している。
2019年以降もホルヘとともにレプソルホンダへ移籍することが決まった。
ちなみにファン・リャンサはとても愛想のいい人で、カメラを向けられるといつも笑顔で振り返る。
MotoGPファンに2ショット写真を頼まれると喜んで映ってくれるようである。画像1、画像2
ヴァレンティーノ・ロッシがホンダからヤマハ、ヤマハからドゥカティ、ドゥカティからヤマハへ
移籍したときはチームごと移籍した。チーフメカのジェレミー・バージェスを筆頭に、30人ほどが
ゾロゾロとロッシに付いていったのである。これによりロッシはお気に入りのメカニックに囲まれ、
安心して仕事できるようになった。
ただ、このロッシ方式にも欠点があり、移籍先のメーカーにメカニック達が慣れないリスクがある。
ロッシのドゥカティ移籍の時はメカニック達が「ドゥカティのマシンは複雑すぎる」と驚き、困惑した。
ロレンソのように、たった2人だけで移籍先に飛び込みマシンの扱いに熟練したスタッフに囲まれる
移籍の方が、低リスクなのである。
ホルヘはわりとチームメイトに優しいところがあり、そういうシーンがちょくちょく見られる。
2010年のヤマハワークスはロッシの要望でロレンソ側とロッシ側の情報交換が遮断され、
お互いの走行データを見ることができなくなった。
2010年シーズンを終えてロッシがドゥカティに行ってベン・スピーズがワークス昇格した途端に、
ヤマハワークスはライダー同士の情報交換を復活させている。
ロレンソは「やはりお互い協力したほうが良いよね」とコメント。
2011~2012年にロッシがドゥカティで絶不調に陥っていたとき、ケーシー・ストーナーはロッシを
思いっきり皮肉るコメントを連発していた(かつての精神攻撃の報復だった)。
そういう状況でもロレンソはロッシに何も皮肉を言わず、
ロッシは「ロレンソは俺に優しくしてくれた」とコメントしている。
2013年にロッシがヤマハワークスへ出戻りを決めたとき、ロレンソは情報交換を続けるように要請。
2010年のムジェロでロッシが骨折しレース欠場したとき、ロレンソはロッシを励ます目的で
VR46と書かれた黄色いシャツを着て表彰台に上がっている。
わりとロレンソはチームメイトに優しいのであった。
ちなみにヴァレンティーノ・ロッシはチームメイトに対してとても気難しいおじさんで、
ロレンソがVR46シャツを着ている姿を見てメディアに「あいつは偽善者だ!」と言い放っている。
復帰初戦のザクセンリンクのレース前記者会見で「ロレンソ選手がVR46のシャツを着ていましたが」
と記者に尋ねられたときのロッシの返答は「次の質問どうぞ」だった。
こういう気難しいおじさんはそっとしておくに限るので、ロレンソはロッシに
なにかエールを送るのをやめたのであった。
ドゥカティワークスに移籍してアンドレア・ドヴィツィオーゾがチームメイトになったら、
ロレンソのチームメイト応援はさらに顕著になった。
なんと、ドヴィが優勝して表彰台に立ち、自分が4位以下に終わったレースで、
表彰台の下にスタッフに混じってやってきて祝福しているのである。
これをする最大排気量クラスライダーはおそらく史上初ではないだろうか。
moto3クラスで4位以下のルーキーライダーが表彰台に上がったチームメイトを祝福するのは、
しばしば見られるが、moto2クラスでチームメイトを祝福するライダーは滅多にいない。
moto2クラスともなるとプライドも高くなり、チームメイト祝福をする気になれなくなるのである。
最大排気量クラスのライダーともなるとプライドが頂点に達し、チームメイトに負けると
悔しさでピットに引きこもるのが普通である。ロレンソのこの祝福心はなんなのだろう。
レース後の祝賀会でも、ドヴィの勝利を全力で喜んでいるのである。
https://twitter.com/lorenzo99/status/874268176363794432
https://twitter.com/lorenzo99/status/902245301175635968
どうでしょう、このパーティーの主役よりはしゃぐロレンソの姿は。
MotoGP決勝の流れというと、以下のようになっている。
ピットレーンが開いて各ライダーがピットから出て、サイティングラップを1~2周行う。
サイティングラップを終えてスターティンググリッドにつき、傘持ちお姉さんに傘を差してもらう。
このあと、必ずと言っていいほどホルヘはその場を離れてトイレに行く。
人の波をかき分けてのっしのっしと歩くホルヘがいつも国際映像で映される。
ちなみに、アンドレア・ドヴィツィオーゾもサイティングラップのあとにトイレに行く派である。
ヴァレンティーノ・ロッシはマシンのそばでうずくまってカウルの横に顔を当てる派。
ホルヘは幼い頃から演劇が大好きで、妹のラウラと小芝居をしているホームビデオが残っている。
レーサーになった後も演劇の学校に通っていたことがあり、舞台でコミカルな演技をしていたという。
ヴァレンティーノ・ロッシが「優勝後のパフォーマンス」をやっていたので、ホルヘも面白がって
レース後にパフォーマンスをしていた。
ロレンソの優勝パフォーマンスといえばこれ。
優勝したロレンソがウィニングランをしている最中に、ファンクラブの人がやってきて、旗を渡す。
ロレンソはバイクを降り、グラベル(砂)に歩いていき、旗をグラベル(砂)に突き刺す。
その旗には「LORENZO'S LAND」と書いてある。
「このサーキットはロレンソが征服した。今日からロレンソの国だ」という意味らしい。
2008~2010年のころ、ホルヘが最大排気量クラスで優勝を果たすと、必ずこれをやっていた。
ほとんどのサーキットを一通り征服したらあまりやらなくなったが、気が向いたら再びやる。
2015年のスペインGPで建国の儀式を執り行おうとしたら旗が折れてしまった。
2015年のカタルーニャGPでは、「ちょっと前のスペインGPじゃ旗が途中で折れちゃったから、
こうやって深々と打ち込まないとね」とコメントしつつ、巨大ハンマーで旗を打ち込んでいた。
2018年のイタリアGPでドゥカティ移籍後初優勝したあと、久々に建国儀式をやっていた。
2009年はアポロ宇宙船の月面着陸から40周年の記念すべき年だった。
2009年10月4日のポルトガルGPで、ホルヘはアポロ宇宙飛行士を模したヘルメットを渡された。
そのレースで見事に優勝したホルヘはコース脇で「月面で活動するアポロ宇宙飛行士の物真似」をした。
アポロ宇宙飛行士風ヘルメットの売り上げはとても良く、このことに気をよくしたホルヘは、
2010年はなんどもコース脇で「月面で活動するアポロ宇宙飛行士の物真似」をしていた。
2010年10月31日のポルトガルGPではまたアポロ宇宙飛行士を模したヘルメットをかぶり、
きっちりロッシを負かして優勝。またしてもコース脇で「アポロ宇宙飛行士の物真似」をしている。
何度も同じパフォーマンスを繰り返したホルヘはイタリアメディアに「つまらん」「もう飽きた」
とボロクソに罵られていた。
2010年マレーシアGPでチャンピオンを決めたときの小芝居はこちら。
3歳の頃からずっと頑張ってきて夢を叶えたからこれでゲームが終わったんだ、という意味らしい。
ちなみにこの衣装は日本のドン・キホーテで買っている。
2014年のザクセンリンクでティト・ラバトが小芝居をやった後にちょっと危ないシーンがあり、
そのころからドルナが「パフォーマンスはやめましょう」と言いだした。
最近では大がかりな準備をこらえた上での長い時間をかけたパフォーマンスが見られなくなっている。
年間チャンピオンが決まったときにパフォーマンスをする程度。
ホルヘが優勝すると、喜びのパフォーマンスをしてからパルクフェルメに戻っていく。
パルクフェルメに戻ったホルヘはバイクのステップバーで踏ん張って立ち上がり、さらに喜ぶ。
この「バイクのステップバーで踏ん張って立ち上がる」というのをホルヘは昔っからやっている。
2007年の動画を見てもやっている。
2015年サンマリノGPではサメになりきって遊んでいる。
2016年カタールGPでは踏ん張って立ち上がってお口チャックをしている。
2018年チェコGPではステップバーどころかシートの上に立ち上がっている。
彼は高いところから見下ろさないと気が済まないのだろうか。
ホルヘが優勝して表彰台の真ん中に立つと、いつも必ずジャンプする。画像検索すると面白い。
こんな感じにジャンプする。
アメリカのエナジードリンク。2011年と2012年に個人スポンサーとしてホルヘを支援した。
格好いい動画も製作している。
アメリカのエナジードリンク。2013年から2018年までの個人スポンサー。
オーストリアのエナジードリンク。レプソルホンダはレッドブルの支援を受けているので、
2019年からレッドブルが個人スポンサーになると推測されている。
イタリアの四輪メーカー。同社はヘビと赤十字のマークや、四つ葉のクローバーを好んでいる。
ホルヘも四つ葉のクローバーのヘルメットを被ったことがある。
イタリアの牛乳メーカー。同社は長年マックス・ビアッジの個人スポンサーを務めていた。
ホルヘはビアッジの大ファンなので、その縁で個人スポンサーになったのだろう。
ちなみにマックス・ビアッジは2019年からmoto3クラスに自分のチームを参戦させる。
そのチームのメインスポンサーがステリルガルダ社である。
ドイツの四輪メーカー。上記の画像検索の中で「1987 JLG」というナンバープレートが見られるが、
これはもちろん「1987年生まれのホルヘ・ロレンソ・ゲレーロ」という意味。
スペインの日刊フリーペーパー企業。日本語版Wikipediaあり。「ヴェイン・ミヌートス」と読む。
2012年チャンピオン獲得の年のスポンサー。
彼の地元は離島のマヨルカ島で、ここはカタルーニャ語が広く使われている場所である。
ホルヘが子供の頃のホームビデオにおいて、「ジョルジョ」とか「ジョルジェ」と呼ばれている。
彼の名前Jorgeをカタルーニャ語読みするとそうなる。 ※カタルーニャ語の読み方はこのページを参照
MotoGPの250cc時代以降はバルセロナに住居を移してレース活動をしていたようである。
アプリリアワークスから250ccクラスに参戦して2年連続チャンピオン。
ヤマハワークスから最大排気量クラスに参戦して2010年と2012年にチャンピオン。
こうした好成績によりお給料も上がっていき、個人スポンサーにも恵まれ、豪邸を買うことができた。
豪邸を購入したホルヘはウッキウキの気分で住んでいたが、個人スポンサーのMonster Energyに
豪邸を撮影され、無断で動画をYoutubeに投稿されてしまう。
不況に喘ぐスペイン国民達に「成金趣味だ!」とさんざん罵られ、ホルヘはいたく傷つき豪邸を売却、
スイスに移住してしまったのだった。
この動画は、モンスターエナジーが作った動画の再アップロード動画である。
プールサイドに寝そべる美女、2台のYZR-M1が出てくる。地下に広大なジムが広がっている。
2013年頃から現在に至るまで、スイスのルガーノという街に住んでいる。
スイスの南部で、スイスの主要都市とはかなり離れていて、なおかつ途中にアルプス山脈がそびえている。
一番近い都市はイタリアのミラノである。
Twitterで「from:lorenzo99 Lugano」とか「from:lorenzo99 #Lugano」といった文字列を
検索窓に入れて検索すると、彼の自宅画像がいくつも出てくる。
この写真で映っているのは海ではなく、ルガーノ湖である。ルガーノは湖沿いの街。
この画像は眺めが良さそう。
こちらの画像では自宅に後輩を招き入れている。
山岳地帯なので冬は雪がしっかり降る。
スペインとフランスの国境地帯にあるアンドラ公国に博物館を建てて、収集したモータースポーツ関連の
お宝を展示している。
いろんなMotoGPライダーに「見に来なよ」と誘っている。画像1、画像2
この博物館のInstagramアカウントはこちら。サッカー観戦会を定期的に開いている。
この画像は、どこかで見たような顔がチラチラ見える。アレイシ・エスパルガロとその奥さん、
ホルヘ・マルティン、マーヴェリック・ヴィニャーレス。
どうもこの日はFCバルセロナの試合があったらしく、4-1でグラナダに勝っている。
この博物館はこの場所にある。画像欄をクリックすると、見ていて楽しい画像が多く保管されている。
ガラス張りのこぢんまりとした建物である。
この博物館の中にはバイク・マシーンがあり、バイクに乗っていることを疑似体験できる。
ホルヘも夢中になって遊んでいる。
こちらの記事は博物館のことに触れている。
案の定というかやはりというか、FCバルセロナの大ファンである。
インタビューの最初で「今年のバルサは強かったね」とサッカー談義を始めることもある。
こちらの画像ではカンプ・ノウでのバルサの試合を観戦している。
2009年カタルーニャGPは、ヘルメットにバルサマークを入れ、ゼッケンを青・赤のバルサカラーにし、
さらにはお袋さんも招いて必勝を期し、渾身の戦いをした。
子供の頃からサッカー大好きだったようで、「日曜日は友達とサッカーしたかったのに、親父が
バイクのトレーニングを強要してきたんだ」などと愚痴っていた。
テニスにも興味があり、アンドレ・アガシの自叙伝を読んだだとか、同じマヨルカ島出身の
ラファエル・ナダルは凄いだとか、そういう話をすることが多い。
ジムでトレーニングするのが趣味みたいな男である。SNSにはジムの写真が多数投稿されている。
筋トレ 画像1、画像2、画像3、画像4、画像5
プール 画像1、画像2、画像3
彼のことだから、ルガーノの自宅の中にジムを作っているのだろう。
自転車トレーニングを好んでいる。 画像1、画像2、画像3
彼がルガーノに住んでいるのは山地で自転車トレーニングを積むのが目的の1つなのかもしれない。
近年のMotoGPライダーはモトクロス(凹凸のある土の路面をジャンプして走っていく競技)や
ダートトラック(平坦な土の路面を走っていく競技)でトレーニングを積む人が多いのだが、
ホルヘ・ロレンソはあまりそれらのトレーニングをしないようである。
たまに、舗装されたサーキットに出没してスーパーモタードのバイクを走らせることがある。
スーパーモタードとは舗装路面8割・土の路面2割のコースを同じバイクで走っていく競技。
この記事では、ホルヘ・ロレンソとマルク・マルケスが同じサーキットで
スーパーモタードの練習走行をしていたことが紹介されている。偶然、バッタリ出くわしたらしい。
ある少年がInstagramに、ホルヘとの2ショット写真とマルクとの2ショット写真を同時に上げて、
それで発覚した。
ワークスライダーはメーカーの広告塔として世界中のイベントに顔を出さねばならない。
ホルヘも飛行機に飛び乗って世界の果てまで旅をして、いろんな国に訪問してイベントをこなす。
フィリピン訪問、インド訪問、カザフスタン訪問、インドネシア訪問、と忙しい。
そのためサテライトチームのライダーよりも飛行機に乗る時間が長い。
飛行機に乗っている間は、暇で暇でしょうがない。そのためホルヘは読書をするのだという。
「結構僕は本を読むんですよ」と語っていたことがある。
2018年11月に読んでいた本のうちの1つは、キミ・ライコネンの俳句集だった。画像1、画像2
この俳句集の内容は、「キミ・ライコネン 俳句」で画像検索するとちょっとだけ中身がわかる。
『サーキット 狭いとこ 広いところある 場所による』
『電話 着信 鳴るのは嫌だ しかし鳴る』
『フィンランド 夏になり 釣りができるが 冬はダメ』
好きな食べものの1つに寿司を挙げている。また、ティラミスも好物らしい。
体重が増えるのを恐れていて、誘惑に負けてティラミスを食べてしまうと罪悪感を感じるという。
お奨めの店として、バルセロナのKoy Shunkaを挙げたことがある。
この店は松久秀樹さんという料理人が開いた創作日本料理店で、現地の評判が非常によく、
FCバルセロナの選手も訪れるほどの名店だが、ホルヘも行ったことがあるようである。
インタビューで「好きな曲は?」と訊かれてホルヘが答えるのは、
エロス・ラマゾッティ(Eros Ramazzotti)の Se bastasse una canzoneという曲である。
エロス・ラマゾッティは1963年生まれのイタリアの歌手で、ヨーロッパで絶大な人気がある。
日本語版Wikipediaもある。
Se bastasse una canzoneの動画はこちら。聞いてみるとわかるが、鼻声が特徴的。
ホルヘはこの曲をカラオケの持ち歌にしているらしく、スペインのテレビ番組に出たとき、
この曲を歌っていたことがある。こちらがその動画。結構上手に歌っている。
ホルヘの隣の人は鼻声を再現すべく、洗濯バサミを鼻に付けている。
ホルヘはいつも「僕は、今所属しているチームで現役を終えたいんだ」と言う。
2014年6月に「ヤマハでキャリアを終えたい」と発言。
2016年3月ごろにも「ヤマハでキャリアを終えたい」と言っていたらしい。
2018年4月に「ドゥカティでキャリアを終えたい」と言っている。
2019年になったらすぐに「ホンダでキャリアを終えたい」と言い出すはずである。
彼なりの社交辞令なのだろう。
2010年末に製作されたホルヘ・ロレンソの自叙伝的ビデオ。日本語訳あり。
ホルヘ・ロレンソに関する第一級史料である。
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最終更新:2024/04/19(金) 17:00
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