佐久間信盛 単語

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サクマノブモリ

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「佐久間信盛」さくま・のぶもり 1528?~1582年)とは、戦国時代の武将である。
織田信長に仕えた重臣だが、晩年は織田から離れて高野山に入った。

概要

愛知県西部)の有国衆佐久間の出身。
若い頃から織田信長に仕えて軍事外交で活躍した。

信長最大の敵とされる石山本願寺との抗争(石山戦争)では、佐久間信盛が現場の揮を執った。
石山戦争終結後、信長から職務怠慢を非難する折檻状を送り付けられた佐久間信盛は、長男と共に出奔して高野山へ上った。
しかし信長の命高野山から追い出されてしまい、織田に戻ることなく病死した。

下記の折檻状の内容から、近代以降の評価はイマイチな武将である。

19ヶ条の折檻状

1.佐久間子は5年も天王寺砦で戦の揮を執っていたのに手柄を立てていないので、下の人々は不審に思っている。この信長も思い当たることがあり、言葉にもできないことである。

2.おまえたちの考えを推量してみるに、本願寺は強敵だからと考えて戦わず、説得や調略も行わず、砦の守りを固めているだけで数年も経てば、相手は僧侶であるし、ゆくゆくはこの信長の威によって退去させることができると考えていたのだろう。
だが武者とはそういうものではない。このような時、おまえたちが勝敗を見極めて戦っていれば、この信長にとっても、おまえたち子にとっても良いことだったし、将兵も余計な苦労をしなくて済んだ。それなのに一つの作戦に拘ったおまえたちは思慮が浅いし、命を惜しんだことは疑いようがい。

3.丹波攻略明智光秀は大活躍して、下の人々に絶賛された。次に羽柴秀吉は数ヶ攻略して類のない活躍をした。池田恒興は率いる兵は少なかったが、荒木方のを攻め落として、やはり下の人々から賞賛された。
おまえたちは同僚の活躍を聞いて発奮し、任務に励むべきだった。

4.柴田勝家は同僚たちの活躍を聞くと、越前を任されながら手柄を立てなくては下の評判が悪いと心配して、この加賀定した。

5.本願寺と合戦することに自信がないなら、与人衆に調略を任せたり、それでも上手くいかないならこの信長たちに相談すればよかったのに、5年の間一度も相談に来なかった。油断であり怠慢だ。

6.寄騎の保田知宗が送ってきた手紙には、「本願寺を制圧すれば他の小城の一勢は退散する」と書いてあり、佐久間子の判子も押してあった。しかしおまえたちは今までこんな報告はしてこなかった。手紙を送ってきたのは、おまえたち佐久間子があれこれ言い訳して保身を図るためではないのか。

7.臣団の中で、おまえは特別な待遇を受けている。三河・尾近江大和河内和泉の者たちをおまえの与にした。根来衆もいるから、紀伊もそうだ。多数の軍勢を動員できる大身は与にはいないが、七ヶの与佐久間の将兵を結集すれば、どんな戦をしても敵に後れを取ることはなかっただろう。

8.粛清した水野信元の旧領である三河刈谷の土地を預けたので、水野臣団を取り込んで佐久間の将兵が増えただろうと思っていた。
しかし、おまえは水野の旧臣たちを雇用するどころか追放してしまった。彼らを追放して浮いた人件費で新しい臣を雇用すればいいのに、一人も雇用していない。税を貯めこみ、金銀に替えて私を肥やしているのは、言語同断である。

9.尾山崎と土地も任せたのに、この信長が言葉を掛けるほど期待した人々も追放してしまった。
これも直前に書いた刈谷の場合と同じやり口なのだろう。

10.佐久間譜代の臣たちの知行を加増したり、彼らの部下に与を配属したり、臣の新規雇用を行っていれば、こんな落ち度にはならなかっただろう。貯蓄ばかり考えるから、下の面を失うのだ。おまえたちの悪評は中国大陸ヨーロッパにまで伝わるぞ。

11.先年、朝倉軍を追撃して撃破した時、臣たちの判断が鈍く追撃が遅れるところだったので、けしからんことだと叱ってやった。ところがおまえは恐縮するどころか自分の功績を自慢した挙句、席を立ってしまった。そのせいでこの信長は大恥を掻いた。
おまえは大口いたが、あの時この信長が叱ったようなことをいつまで経っても繰り返した。この卑怯さは前代未聞だ。

12.息子佐久間信栄の罪状を書き出すときりがない。

13.まとめると、おまえたちは欲深く、気難しい上に、優秀な人物を雇用しなかった。物事を真剣に考えて取り組まなかった。要するに武のを心得ていなかったから、こんなことになったのだ。

14.与にばかり戦わせて軍役を務め、自分の臣も増やさず、領地の収益を駄にしている。卑怯である。

15.おまえの与臣たちまで、おまえを恐れて遠慮している。おまえが自分の思慮を自慢し、「可らしく振る舞う女性が、錦の中に針を隠しているかのように」相手の思惑を探るような怖い扱い方をするから、与臣たちはおまえたちを恐れて何も言えなくなってしまったのだ。

16.この信長督を継いでから、おまえは30年働いてきたが、その間に素晴らしい働きだとこのが讃えるようなことは一度もなかった。

17.この信長が勝てなかった戦いといえば、武田信玄が大軍を率いて徳領を攻撃したので援軍を派遣した時のことだ。勝敗は戦の習いではある。
それでも、大切な協者である徳川家康を助けるために派遣したのだから、武田軍に負けるにしても、おまえの兄弟を討死させるなり、譜代臣を討死させていれば、「佐久間信盛が生き延びたのは、卑怯者だからではなく運が良かったからだろう」と下の人々は考え、不審に思うことはなかっただろう。
だがおまえは佐久間勢からも死なせず、それどころか同僚の平手汎秀を見殺しにしておきながら、下に対して気な顔をしている。おまえには全く思慮が足りないことは、これで明らかだ。

18.こうなったからには、どこかの敵を攻め降して名誉を挽回して戻ってくるか、討死するしかない。

19.あるいは子ともども頭を丸めて高野山へ上り、ひたすら許しを請うべきであろう。

右のように、数年の間、全く功績がなく、お前たちが命を惜しんでいることの詳細は今度の保田のことで思い当たった。そもそも下を治めている信長に口答えする輩は信盛から始ったのだから、これをもって、終わりの2ヶ条を実行せよ。もし実行しないなら、下は二度とお前たちを許すことはない。

功績を残した宿老

上記折檻状の内容から、佐久間信盛の評判は芳しくない。
粛清されて当然の無能武将
魔王信長使い捨てられた可哀そうな人
・時代の変革者である織田信長に付いていけずした常識人

そんな佐久間信盛は、しかし織田信長の生前の事業に最も貢献した武将だった。
羽柴秀吉豊臣秀吉)も明智光秀柴田勝家も、彼には及ばなかった。

時期 織田信長を取り巻く状況 佐久間信盛の活動
1550年代 宿敵の今川義元斎藤義龍に挟まれて苦戦。
多数の族・重臣・国衆信長を見限った。
一貫して信長を支持。
軍事・調略で信長の勢拡大に貢献
1560年代 徳川家康と同盟。美濃近江南部伊勢を征
将軍足利義昭を奉じて上作戦を実行。
を援護。
外交で上作戦の根回しをして実現。
1570年代
前半
敵対勢信長包囲網を結成。
包囲網との抗争で多数の族・忠臣を失い苦戦。
各地の合戦で勝利して織田を守り、
同時に協者の足利義昭を救援。
1570年代
後半
足利義昭導の新たな信長包囲網と抗争。
石山本願寺と全面対決
信長と共に石山戦争に取り組む。
並行して近畿中国地方を転戦。
1580年 石山戦争終結。
織田の圧倒的な優勢が確立された。
石山本願寺と交渉して退去させた。
直後に折檻状を送られて、出奔。

国衆や寺社と揉め事を起こすトラブルメーカーだった秀吉や勝と違い、佐久間信盛は信長の手を煩わせない優等生だった。


<佐久間信盛の地位>

林秀貞と共に織田臣団の宿老
軍事外交における活動内容から、他の重臣たちより一段上、というより別格の地位にいたとみられる。
・上後は最重要拠点の近江西部を管轄(京都を含む足利義昭の勢圏と隣接する)
ケ崎の撤退戦の後、信長は永原近江の佐久間信盛の居)で情勢を見てから次の行動に移った。
信長織田督と居岐阜)を息子織田信忠)に譲った後、佐久間信盛の屋敷に居候した。
朝廷から平和的解決を要された織田最大の難題『石山戦争』に、信長と協して取り組んだ。
・宣教師ルイスフロイスの記述→「佐久間信盛は、織田信長に仕える最高位の軍事官」


<困った時の佐久間頼み>

信長は重要な局面では佐久間信盛に重要な任務を託すことが多かった。

時期 課題 佐久間信盛の行動
1560年代
後半
河西部の国衆徳川家康に従わない。
作戦前に徳婚姻関係を結びたい。
西三河衆を攻撃して織田に従わせた。
その後、徳を徳岡崎まで護衛。
1570年 ケ崎の戦の後、信長軍が美濃へ帰還。
その間に近江南部六角家が挙兵。
六角軍に負けると、織田は協者の足利義昭と分断されてしまう。
に籠って信長足利義昭からの救援を待つのではなく、出撃して野戦で六角軍と決戦
柴田勝家と協して六角軍に勝利
1570年代
前半
足利義昭が、敵対勢に攻撃されて危機に陥った。最悪の場合、織田は東西から挟撃されてしまう。
浅井朝倉・願寺(三重県)が邪魔で、信長はすぐに救援に行けない。
佐久間信盛が近江大和河内などの国衆を統率し、足利義昭を救援。
佐久間信盛が織田軍を率いて出張ると、敵はすぐに逃げるか降参した。
戻り次第、織田の戦に参加を繰り返す。
1572 徳川家康が、武田信玄に攻撃されて窮地。
織田が援軍に行くまで時間稼ぎが必要。
近畿の政務と軍事で忙しい佐久間信盛まで駆り出された。
佐久間が徳領に近いことが理由か。
家康武田軍に決戦を挑んだため、任務失敗。
1574年 越前武田勝頼讃岐衆(徳島香川)の攻勢で、織田軍が負け戦続き。
朝廷に後ろを頼む。
朝廷伝説級の香木『奢待』の切り取りを許可朝廷織田アピール
佐久間信盛は信長と一緒に奈良へ行き、切り取り拝領の奉行(企画責任者)を務めた。
1575年 信長が隠居。も屋敷も息子に譲り、自身は佐久間信盛の屋敷に居候した。
ただし隠居後も近畿の政務は信長の担当。
佐久間信盛は、信長に新しい居(政庁)を構えることを提案。
信長は大喜びして採用した。
これがの名安土城』の始まりである。
1575年 本願寺包囲戦の揮を執った原田直政が戦死。
明智光秀たちが敵中に孤立。
信長光秀を助けたい。
本願寺1万5千の大軍に、信長は3千の軍勢で突撃。佐久間信盛も一緒に突撃。
結果は織田軍の大勝利
1576年 信長(あるいは徳)が水野信元を排除。
水野知多半島などの重要地に推定20万石の所領を有した有大名。
水野の遺領をかが管理する必要がある。
佐久間信盛が水野領の管理を任された。
ただし信盛は居を8年前に近江滋賀県)に移しており、近畿の政務・軍事で多忙だった。
信盛個人ではなく佐久間を当てにしたか。
1578年 羽柴秀吉失策中国地方国衆が多数離反。
足利義昭を擁する毛利が大軍で播磨へ侵攻。
毛利軍は上を包囲し、野戦築を開始。
秀吉信長に救援を要請。
の救援=毛利軍との決戦となる。
信長は自ら援軍を率いて毛利軍と戦いたがったが、佐久間信盛ら重臣たちが反対。
信長秀吉は上見殺しを決断。
毛利軍は自軍に有利な戦場織田軍に決戦を挑む機会を逃してしまった。
1580年 本願寺は戦乱続きの近畿で流通を維持したり、朝廷に多額の献を行う等、功績は多大。
朝廷から石山問題の平和的解決を要された。
朝廷に幾度も窮地を救われた織田は、期待に応えなければならない。
佐久間信盛は石山本願寺に対する包囲を続けながら、信長の側近や公家衆と協して石山本願寺と交渉。
織田との長年の抗争で血を流した本願寺も、佐久間信盛たちを信じて石山から退去した。

人物

人衆・佐久間の子。
佐久間は尾南部の有な武で、織田に従っていた。
また熱田神宮大宮を務める千秋とは戚で、この千秋東海道伊勢湾交易で繁栄した商業都市『熱田』に強いを及ぼした。その熱田は織田の重要な支持層・財だった。
佐久間信盛が若い頃に佐久間父親)と織田信秀君)は亡くなった。
信盛は織田信長に仕えた。信長が孤立した時期も、信長を佐久間信盛が見限ることはかった。


<人付き合いは得意>

佐久間信盛は外交・調略でも大きな成果を残した武将だった。
大和奈良県)の筒井順慶松永久秀は宿敵の間柄で、一方を味方にすれば他方が敵に回ったが、佐久間信盛は両者と友好関係を結んで彼らを織田に繋ぎ止めた。
松永久秀足利義昭の扇動で最後の謀反を起こした際、佐久間信盛は討伐軍に参加して松永を滅ぼした。松永に従っていた柳生などとも交流があり、そのためか戦後松永領の処理に参加した。

最大の功績は、石山本願寺の退去である。本願寺の法顕如は元々織田との抗争に積極的ではかったが、後継者の教如や本願寺の軍権を握る雑賀衆は抗戦継続だった。
顕如退去から半年足らずで、佐久間信盛らは教如とも交渉して彼らを退去させることに成功した。

折檻状には与を酷使したと書かれたが、多数の国衆を従えて彼らと良好な関係を築き、それが織田近畿地方での勢拡大に繋がった。
者だったが『』の商たちと徹夜月見の会を行う程仲良くなり、官だったが公家朝廷と関係の深い僧侶とも交流した。

仕事では信長が佐久間信盛を信頼し、佐久間信盛が信長に忠実だったことは間違いない。
佐久間信盛は信長国衆の間を取り持つ取次役を務めたので、信長から国衆に「話は佐久間信盛から聞いた」という書状や、佐久間信盛が国衆に「信長によく伝えておく」といった書状は多く残っている。
しかし信長と佐久間信盛はが合う仲だったのか、逆に険悪だったのかは不明。

ただし…『信長公記』には、下記の場面が記されている。
越前朝倉を滅ぼした追撃戦の際、信長は出遅れた諸将を叱責し、そこへ佐久間信盛が違う話を持ち出して信長を黙らせた。

※この時、織田軍は逃げ朝倉軍を追跡・撃滅するために何よりも時間が重だった。

信長にとって佐久間信盛は、信頼できて相談を持ち掛けることもできる部下ではあったが、私人としては苦手な相手だったのかもしれない。

佐久間信盛の出奔

1580年、佐久間信盛の尽もあって、本願寺教団石山本願寺から退去。
そして大功労者の佐久間信盛は、息子共々19ヶ条の折檻状で信長から弾劾されてしまい、すぐ後に出奔して高野山へ入った。
信長公記』には、高野山に入った佐久間子が、信長を恐れて高野山にも居られず逃げ出したことが記されている。
佐久間信盛は織田に戻らないまま亡くなった。

佐久間子出奔は、その後に起きた他の重臣たち(林秀貞他)の失脚と併せて、魔王信長あるいは革新信長による粛清と考えられることが多い。
現代の「魔王信長」、「革命信長の根拠として必ず持ち出される実例である。


<追放ではなく出奔>

どちらも失脚という結果は同じだが、面子を重要視した戦国時代の人々にとっては大きな違いがあった。
追放の場合は追放された人物が悪い、となるが、出奔だと君に対する抗議と人々が捉える場合があった。

追放の場合、佐久間子は織田の管轄地から出ていく前に、任務や所領の引き継ぎをしなければならなかった。
このような場合、追放される者は先ず臣と与に事情を説明する。
臣には可なら族など次の仕官先を旋する。与には感状や太刀などを与えて経歴の明とする。
の受け取りに来る上使を待つ。

君の方では先ず側近(信長の場合は堀秀政菅谷長頼など)を派遣してを受け取らせる。
→彼らを臨時の取次役(連絡役)として、与たちに事情を伝える。
→その後に代官を送り込んで行政を担当させる。
という手順を踏んだ。

ところが佐久間子はいきなり出て行ってしまった。
佐久間「出奔」後、信長は佐久間信盛の与だった国衆に書状を出した。

「佐久間信盛を殺すべきだったが、追放処分で済ませてやった。佐久間子が織田の管轄地へ戻ることは絶対に許さない

信長はこの内容で国衆に下記のことを伝えたとみられる。
信長は寛大な君である。
佐久間子は自発的に出奔した(=信長抗議した)のではなく、信長が彼らを追放したのである(悪いのは佐久間子)。
・この処分は断固として覆さない。
・だから佐久間子を援助するな。

佐久間子出奔の事実の後にこのような書状が出されたことは、現地の国衆の間で混乱が生じていて、それが信長に対する不満に繋がりかねない情勢だった可性を示している。


高野山という大勢

当時の高野山は、管理地の神武東征まで遡る歴史弘法大師空海など過去の名僧達の偉業という権威、蓄えた財とそれを稼ぎ出す商業利権権益、権益を守る武を兼ね備えた巨大宗教法人・財閥だった。
高野山や下の寺社と紀伊人衆は朝廷への献も行っていて、中央政界との結びつきが強かった。
本願寺教団に匹敵する組織がもう一つ存在していた、と考えると分かりやすい。
織田軍に協して活躍した紀伊根来衆が属する根来寺も、高野グループの一員だった。

高野山は、秀吉が手を入れるまでは人の駆け込み寺でもあり、時の有者が高野山へ入る形で関係者への抗議運動を行うことがあった。
その聖地佐久間子が入った結果、織田高野山の対立が始まってしまった。


佐久間子の行動

佐久間子は高野山へ入る際、などを寄付して今後の世話を頼んだ。

佐久間信盛は下記の祈願文を納めた。

突然訳も分からずこのようなに遭わされました。のご加護織田へ戻ることができましたら、そのには感謝げて寄付を致します」

この祈願文は以下を示している。
・佐久間信盛は、織田に居られなくなった理由(折檻状に挙げられた内容)に心当たりがかった。
織田に戻りたい気持ちはあった。

信長公記』によると、信長は「佐久間子が高野山にいることは許さない」と言い、そのことを伝え聞いた佐久間子は怯えて紀伊の山逃げ込んだ。

佐久間信盛は高野山側の史料によると1581年に死去。江戸時代の史料では半年後の1582年に死去。
『多門院日記』では1581年、佐久間信盛の死後に織田が、高野山に所属する山に制裁を加えた記述があり、1581年が正しいとみられる。

佐久間信盛の死後、彼の遺産織田収しようと使者を送ってきた。高野山側は使者を殺した。

ちなみに佐久間子が逃げ込んだ紀伊和歌山県)も、実際は高野山がを及ぼす土地だった。
佐久間子は織田ずくで高野山から連れ出されるのが嫌で(まるで罪人扱いだから)、信長がその方法を検討する可性自体を潰すために紀伊へ移住したのかもしれない。

また「佐久間子は高野山へ入った後に困窮した」、「特に息子佐久間信栄は苦労した」、「そんな彼に仕え続けた忠心の従者は後に武士取り立てられた(良い話)」が江戸時代に作成された史料に記述された。
ところで佐久間信栄は大変コミュ力の高い武将で、現地の名士地たちとしっかり交流した人物だったことが、現地に遺った史料から判明している。
この辺りは九度山の真田幸村のように、後世の人々に誇されたのかもしれない。佐久間信栄は真田のように大勢の家族臣を連れて行ったわけでもなかった。


<折檻状の内容と時期>

折檻状の内容は、後世の佐久間信盛に対する評価に多大なを与えた。
しかし佐久間信盛の経歴と業績を考えると、言い掛かりに等しく、信長がもしこれを世間に広めたとすれば、大変拙い内容だった。
というのも同時代に生きる織田の敵味方は、佐久間信盛が昔からの重臣であり、功績は多大で信長を見限った前科はなし、という事実を知っていたからである。

またこの折檻状は送られた時期も拙かった。
大敵本願寺を降して重臣を粛清するには都合の良い時期と見られがちだが、本願寺退去も朝廷への報告、本願寺と今後の関係についての協議、石山本願寺門前町の整備、瀬戸内海京都間流通の担当者割り当て、摂津に送り込んだ池田恒興らの中国方面軍参加の準備など、進めるべき大事業が山積していた。
そのタイミング佐久間子が出奔してしまったため、信長高野山問題まで抱える羽になった。

その高野山と信長はそれまで対立はしておらず、高野山と組む根来衆とは上手く付き合っていた。
信長筒井順慶興福寺高野山という人脈もあり、この時期に佐久間子を利用して高野山に介入する必要もかった。


<出奔事件の原因? 石山本願寺全焼>

出奔事件で取り上げられることは少ないが、事件の前に石山本願寺は全焼した。
この重大な出来事は本願寺の坊官が記した当時の日記に記されている。

この火事の後に、信長摂津大坂府)を旅行した。
朝廷側の史料には、公家がこの旅行に参加する許可を上位の公家に願い出たことが記されている。
一団は京都を出発して摂津へ入り、要所を巡って帰路に着いた。
この旅行で一団は、石山本願寺の跡地までは行かなかった。

ところで石山本願寺は門前町に囲まれていて、その周辺の土地は河川が合流し河原と湿原が広がっていた抜の低い地域であり、現代のように視界を遮る高い建物かった。
おそらく石山本願寺が最も高く立つ建物だっただろう。
つまり、旅行中の一団から遠に見えてしまったかもしれないのだ。
火事で丸焦げになった石山本願寺の無惨な有様が。
見えなかったとしても、火事のことはすぐに伝わっていた。

当時大人数の旅行では、信長の側近たち(毛利新助服部小平太など)が方々に連絡し、参加者を募り、多忙な信長と宿泊先の寺社のスケジュール調整をした。当然急に中止できるものではなかったである。
殊に石山本願寺との抗争は、時の天皇朝廷が強い関心を寄せ、最後は公家の協で解決した問題だった。

折檻状が使者の手で佐久間信盛に届けられたのは、信長旅行から帰った直後の時期。書状が書かれたのは帰路の途中だったと考えられる。

計画時は楽しい旅行になるだったのに、石山本願寺全焼で台し。
旅行中ずっと気まずい空気
→大恥を掻いた信長が、石山本願寺受け取りの責任者である佐久間信盛に八つ当たりし、今までの憤も込めてあることいこと書かせた折檻状を送り付けた。
→恩賞の沙汰が気になる臣や与たちが注視する中で、職務に忠実な信長の使者に折檻状を読まれてしまった佐久間信盛が面を失い、信長から喧嘩を売られたと思い込んだ。
→報復のために出奔して高野山へ駆け込み、世間の注を集めて信長に詫びを入れさせようとした。
→引き継ぎも示してないのに出奔されてしまい、信長が慌てて与たちに言い訳の書状を出した。
高野山には佐久間信盛たちを追い出せと圧を掛けた。
高野山側は、佐久間子の存在を口実にして信長高野山の事業に介入してきたと疑い、対決姿勢。
信長も対抗。互いに山や使者を殺してしまい、一触即発の状況に。
→見かねた朝廷が介入して、織田VS高野山の軍事衝突を回避。

という誰得の大喧嘩が起きたのかもしない。


相はいずれにせよ、佐久間子の出奔事件は佐久間信栄の織田帰参で幕を閉じた。
かしこの事件が残した悪は後日、大きな戦を引き起こす原因となった。


高野山と秀吉

とばっちりを受けたのは、出奔事件と全く関係ない羽柴秀吉豊臣秀吉)だった。
本能寺の変の後、秀吉は諸戦を制して信長の勢と事業を引き継いだが、そのため高野山との対立関係まで抱える羽になった。
1584年、秀吉包囲網の最中、紀伊の寺社・連合軍が和泉河内摂津へ侵攻し、秀吉が拡大整備事業を進めていた大坂石山本願寺の門前町から発展)を焼き討ちした。

その後挽回を果たした秀吉は、高野山を攻撃して彼の政権に従わせた。
以後は「高野山へ上る」という行為に抗議と当てつけの意義はなくなっていった。

※ただし後年、秀吉の残した武を解体した際、存続を訴えていた臣の藤堂高虎高野山へ上った。
 また秀次事件では、豊臣秀次高野山に上って秀吉に「抗議した」説がある。
※高名な武士が自分の所在明らかにして、仕官の誘いを待つ場所として高野山は利用され続けた。


<その他>

佐久間子は、出奔事件のずっと前に名していた。
「信盛」→「定盛」、「信栄」→「定栄」
佐久間通字の構成員の名前によく用いる一字)は「盛」であり、「佐久間盛重」「佐久間盛政」などである。
「信」の字は、佐久間過去と佐久間信盛の経歴からすると織田通字「信」を与えられた可性が考えられる。
もしそうだとすると、佐久間子は何故名をしたのか、「定」の字はどこから貰ってきたのか――。
このについては、書状に書く差出人の名前を略した場合、信長と佐久間信盛の名前は似てしまったからではないか、という説がある。

織田信長  「前右大臣信長」「右大将信長」→「右 信」
佐久間信盛 「佐久間衛門尉信盛」→「左 右 信」

佐久間子の名が信長と相談してのものだったのか、それぞれが名についてどう思っていたかは不明。

桶狭間以前

佐久間の諸織田信秀が台頭すると彼の織田に属し、三河侵攻の兵を務めた。松平広忠の謀殺にも関与している。
その佐久間一門に生まれた佐久間信盛は、成長すると織田信秀に仕えた。その後は織田信秀示で織田信長に仕えた。

1555年に織田信長叔父の守山と争うと、佐久間信盛は守山家老たちを味方に付けて、信長が信頼する兄弟織田信時をに据えた。
この功績により織田信時から領地を与えられた。

翌年、織田導権を巡って対立した織田信長織田信勝兄弟が稲生の戦いで突。
晩年の織田信秀の地盤は織田信勝が継いでおり、また多くの重臣たちが織田信勝に味方した。兵数でも信勝方が有利だった。
その中で佐久間信盛は信長に加勢した。またこの時、佐久間一門の佐久間盛重は織田信勝家老だったが、信長方に寝返った。

当時、尾鳴海今川が支配していた。鳴海知多半島の付け根に位置し伊勢湾の重要拠点だった。
1559年、信長鳴海の周囲に砦を築いて同を孤立させた。
この包囲に佐久間信盛も参加。佐久間と共に、鳴海の東にある善照寺砦に駐屯した。

1560年、桶狭間の戦いが起きた。
南の丸根砦・砦は陥落。一門の佐久間盛重と、共に信長を支えた同僚の飯尾定宗が玉砕している。
『寛政重脩諸譜』には佐久間が「善照寺砦において軍功を挙げた」という記述があり、これが事実なら善照寺砦にも今川軍が襲来したことになる。
ただし信長今川を攻撃する前に善照寺砦へ行き、軍勢の集結と戦況の観察を行っている。
佐久間が挙げた武功とは「襲来した敵を撃退」ではなく、敵情視察だったのかもしれない。

今川義元が敗死すると、佐久間信盛は織田軍を率いて鳴海を攻撃。
岡部元信から退去すると、佐久間信盛は信長から鳴海代に任命された。

美濃攻め~上洛作戦

今川軍が尾から撤退すると、織田は三河の水野信元と協して三河へ侵攻。今川方の松平元康徳川家康)たちと戦った。
織田と徳の同盟が成立すると、織田美濃伊勢へ侵攻。
この時期の佐久間信盛の動向は不明だが、信長美濃侵攻と不況対策の公共事業で築したとされる小牧山の跡地から、平成時代の調で「佐久間」と記された石垣巨石が見つかっている。

1566年、三河西部で徳に従わない寺部鈴木を、佐久間信盛が攻撃して軍門に降した。
周辺の人衆も織田に従い、三河西部は織田の統治下に入った。
1567年、織田信長が、徳川家康長男信康に入りして岡崎へ移住した。
佐久間信盛は徳一行を供奉して岡崎へ送り届けた。

また佐久間信盛は、信長美濃の征遂する前から大和柳生宗厳柳生石舟斎)を通じて松永久秀と連絡を取っていた。
当時の松永久秀将軍補の足利義昭を支持し、新将軍足利義栄を奉じる三好三人衆と交戦していた。

1568年、信長美濃定。同年9月足利義昭を奉じて上作戦を開始した。
佐久間信盛は先鋒部隊に属し、敵対する近江六角家攻撃に参加してを攻め落とした。
さらに近江西部に進軍し、六角家に従う永原を降させた。
永原の居だった永原京都も近い重要拠点で、佐久間信盛はこのに入り、近江西部人衆を率いる立場になった。
※この時に近江人衆を率いることになった武将は他には柴田勝家森可成中川重政。

織田軍が上足利義昭朝廷から将軍に任命されると、佐久間信盛は新政権を支持する畿内の人衆の取次を行った。
また朝廷に人脈を持つ官の吉田兼見や商たちとも交流を深めた。
佐久間信盛は河内の安見右近にがせた。さらに佐久間一門の佐久間安政が紀伊人・保田知宗の婿になった。
安見と保田は河内畠山臣で、畠山高政は織田軍上の際に信長に味方していた。
さらに安見右近の居とされる河内交野は、織田に従った畠山高政・松永久秀三好義継それぞれの勢圏の中間に位置した。

信長包囲網~将軍追放

1569年、織田軍が伊勢北畠を攻撃。佐久間信盛も参戦した。

1570年6月織田軍は若狭・越前に侵攻したが、朝倉浅井に挟撃されて退却。
逃げ戻った信長は永原にしばらく滞在して様子を見た後、美濃へ帰還した。

7月織田近江から離れている間に旧六角承禎が挙兵。織田対決した。
この時、近江では浅井長政が一を扇動したために織田美濃まで遠回りのを強いられるなど、反織田が優勢だった。
近江に留まっていた佐久間信盛は籠ではなく出撃を選び、柴田勝家や与たちと合流。野河原の戦いで六角軍に決戦を挑んだ。
この戦いで織田軍は大勝し、南近江の統治は安定した。
もしこの戦いで織田軍が負けていたら、織田地方大名に逆戻りしていたかもしれない。


一方浅井は、朝倉軍の協を得て近江美濃国に砦群を構築し、織田の分断を図っていた。しかし南近江織田軍が勝利して健在だったため、論見が崩れた。
末、信長は大軍を動員して浅井領を東西から挟撃、砦群を排除し、近江横山を包囲した。佐久間信盛も参戦している。
浅井朝倉軍が救援の為に南下、徳軍が信長に味方して参戦、の戦いが勃発した。
双方の損は同程度だったとされるが、織田軍は横山を降させて浅井領を分断した。事実上の勝利だった。

翌1571年6月織田軍は長島一向一揆を攻撃。近江を守る佐久間信盛・柴田勝家も動員された。
織田軍は撤退するところを一勢に奇襲されて惨敗した。

同年10月織田軍は近江へ侵攻。浅井に味方する一の拠点を攻撃した。
佐久間信盛は柴田勝家丹羽長秀中川重政と共に織田軍を揮し、一を攻め落とした。

11月比叡山焼き討ちに参加。
織田サイドの史料でも全域を焼き討ちにして皆殺しにしたと記述されているが、建物の調から実際に焼かれたのは一部の施設のみだったことが判明した。
近江定戦で手柄を立てた佐久間信盛は、近江にも所領を与えられている。

この年には大和筒井順慶が、この頃は織田に味方していた松永久秀に従う人衆を攻撃した。
佐久間信盛は筒井松永の仲裁を行った。

15724月三好義継松永久秀織田から離反し、織田に味方する河内畠山を攻撃。高屋と交野を包囲した。
佐久間信盛は織田の有力武将たちを率いて救援に向かい、三好松永の砦を包囲。
三好松永勢はに紛れて退却し、それぞれので籠した。

7月織田軍が小谷を攻撃。織田信忠初陣でもあり、佐久間信盛も参戦した。

11月滝川一益平手汎秀と共に、武田軍の侵攻を受けた徳に援軍として合流。
信盛たちは浜松で籠することをしたが、徳川家康は出撃を決断。
戦闘の結果惨敗したが、佐久間勢は一人の犠牲者も出さず撤退に成功した。同僚の手は戦死している。

1573年3月足利義昭松永久秀三好義継と共に挙兵して織田対決、槇合戦が始まった。
信長はすぐに軍勢を派遣し、佐久間信盛も参戦。
将軍織田の間で和が成立し、政権運営に向けた取り決めの内容が話し合われた。
信盛は将軍側から織田代表の一人として交渉に参加するようめられた。
佐久間信盛の意見は織田信長の判断を左右すると、将軍側は見ていたようである。

織田将軍話し合いが行われていた同年4月信長織田と対立する近江済寺を包囲。済寺は近くのに篭る六角義治と協していた。
佐久間信盛は柴田勝家丹羽長秀生賢秀と共にを包囲した。
には織田軍が済寺を焼き討ちして全焼させた。済寺と距離が近いので、佐久間信盛たちが焼き討ちを実行したのかもしれない。
延暦寺「全山」焼き討ちの話は済寺焼き討ちの話が元か?)

同年6月河内の有者で三好と関わりが深い遊佐信教将軍)が、畠山昭高を謀殺して高屋を乗っ取った。

7月将軍足利義昭が再び挙兵し、槇合戦を再開した。
合戦は織田軍が勝利し、足利義昭婿三好義継を頼って河内若江へ移った。

8月織田軍が小谷を攻撃。佐久間信盛も参戦した。
救援に来た朝倉軍の撤退を信長は見逃さず猛追して勝利したが、この時先にいた諸将の動きが鈍かったことをしく非難した。
佐久間信盛はを流して「そう仰られても、々ほど優れた臣をお持ちになられるのはそうできることではないでしょう」と発言し、信長の怒りを買った。

同年10月朝倉浅井を滅ぼした織田軍は北伊勢へ侵攻。
佐久間信盛も参戦し、丹羽長秀羽柴秀吉蜂屋頼隆と協して一向一揆攻略していった。

同年11月足利義昭から出して織田討伐の為の活動を再開した。
三好義継将軍を支持したので、信長は佐久間信盛に若江を攻撃させた。
信盛は若江家老(若江三人衆)を味方につけてへ攻め込み、三好義継自害に追い込んだ。

三好家との対決

1574年に入ると越前一向一揆起して越前全域を占領。
3月には武田勝頼美濃東部へ侵攻して諸攻略
佐久間信盛は信長に従い救援に向かったが、から内通者が出て陥落し、間に合わなかった。
同時期には波・讃岐三好軍が和泉に上陸して砦群を構築。長老格の三好康長遊佐に招かれて高屋に入り、守りを固めた。

危機的状況の中で信長先に正倉院の香木奢待の切り取りを朝廷に願い出て認められ、奈良へ向かった。佐久間信盛も同行している。

同年4月佐久間信栄(信盛の長男)が包囲していた近江石部から六角承禎が退去し、佐久間勢が同を接収した。

石山本願寺が挙兵して三好軍と連携した。
佐久間信盛は織田軍を率いて高屋を攻撃した。
この戦いで遊佐信教を戦死させたものの、高屋を攻め落とすことはできず撤退。
織田軍は帰る前に河内和泉摂津に砦群を築いて本願寺と三好軍の連絡を遮断したが、畿内の状況は織田不利のままだった。

同年6月織田軍は8万の大軍を動員して伊勢へ出、現地の一向一揆を壊滅させた。
佐久間信盛も参戦していたが、8月には河内に出して三好軍と戦い、河内飯盛山などを攻略した。

1575年3月、佐久間信盛は兵糧を三河へ運び、徳へ渡した。また三河の情勢を信長に伝えるのも佐久間信盛の仕事になった。
信長家康武田軍の襲来を予測し、佐久間信盛は両者の連絡役を務めて決戦の準備を進めていたようである。

4月には信長に従い、織田を脅かす三好軍と対決。高屋攻めに参加した。
この時も決着はつかず戦いは長引いたが、織田軍が転戦して三好軍の砦を排除した結果、孤立した高屋三好康長は降した。
大打撃を受けた三好の一門は次々に降したので、この方面の敵は本願寺に絞られた。

5月長篠の戦いに参戦。
決戦では織田右翼滝川一益と共に形成して奮闘し、勝利した。

同年8月越前一向一揆討伐に参戦して勝利

年末頃に信長長男織田信忠督を譲り隠居。佐久間信盛の屋敷に押し掛けた。
信盛は督を譲ったといっても朝廷から政治を任されているのは信長だからという理由で居を持つことを勧め、喜んだ信長安土城の築を計画した。

水野信元粛清事件

1576年1月、三河の有者だった水野信元が織田信長粛清された。
水野の領地だった三河の刈谷・粉河は佐久間信盛が管理することになった。
この事件は江戸時代の史料では佐久間信盛の讒言によるものではないかとされている。
一方、同じく江戸時代の史料では、徳川信康家康長男織田信長婿)に仕える石川数正平岩親吉が、を出て寺に入っていた水野切腹させたとされている。
地元史では「長篠の戦いの後、三河統治で用済みになった水野を徳織田が共謀して排除したのではないか」とされている。

水野信元の忠重は徳に出向していた。後に佐久間信盛が失脚すると水野の旧領の一部を信長から与えられた。

ちなみに織田には刈谷水野の分の尾常滑水野監物守という人物がいた。
佐久間信盛と一緒に会に参加した記録がある。
水野監物は軍を率いた武将で、石山本願寺攻めでは佐久間和泉軍と協した。

石山本願寺包囲戦

1576年2月石山本願寺が毛利と同盟して挙兵した。
信長織田を率いて摂津へ出、佐久間信盛も参戦した。
合戦は織田軍が勝利し、本願寺領の周辺に砦群を築いた。
天王寺砦には明智光秀佐久間信栄たちが入った。

3月織田軍が各地へ帰還した隙に、本願寺の大軍が織田軍の砦を攻撃。
本願寺包囲の揮を執る織田塙直政が迎撃したが敗死、孤立した天王寺砦は本願寺軍1万5千に包囲された。
信長河内で将兵を召集したがすぐに兵は集まらず、軍勢3千のみを率いて救援に向かった。
そして天王寺砦への接近を阻む本願寺の大軍に突撃した。この戦いで佐久間信盛は先鋒を務めて信長に付き合った。
多数の死傷者を出しながらも織田軍は奇跡的に勝利して本願寺軍を敗走させ、天王寺砦の救援に成功した。

信長はさらに召集した軍勢を各地に派遣して砦を増やし、石山本願寺の補給を断つ作戦を開始。
天王寺砦には佐久間信盛・信栄子が入り、以降は信盛が対本願寺の作戦揮を執ることになった。
同砦には松永久秀・久通子も駐屯した。

1576年8月信長包囲網に参加した毛利瀬戸内軍が大坂湾へ襲来。織田方の軍と対決する第一次木川合戦が勃発した。
織田軍が惨敗したこの戦を、佐久間信盛は検分して詳細を信長に報告した。
また佐久間信盛は手勢を率いて本願寺領に侵入し、稲を刈り取った。食料の略奪は、兵糧攻めの一環であり挑発行為でもある。

1577年に入ると佐久間信盛は紀伊攻めに参加。

同年8月、佐久間信盛に協していた大和筒井順慶に対し、信長は軍備を整えておくよう示を出した。同松永久秀・久通が織田から離反。軍勢を率いて大和へ戻り、信貴山に籠してしまった。
佐久間信盛や筒井順慶織田信忠に従い、松永討伐に参戦。松永は滅亡した。
松永の旧領の処理には佐久間信盛も携わっている。

1578年4月、播磨に毛利の大軍が侵攻。羽柴秀吉の救援要請を受け、織田信忠率いる織田軍が現地へ向かった。
には信長自ら播磨へ行き決戦を実現しようとしたが、この播磨出兵は佐久間信盛など重臣たちに諌められて中止になった。
佐久間信盛も播磨に出し、毛利に味方した播磨人衆の攻撃に参加しtあ。

同年10月摂津の旗頭だった荒木村重織田から離反。
佐久間信盛はすぐに軍勢を率いて出し、荒木勢を牽制した。
信長松永の時と同様、説得の使者を送った。佐久間信盛も使者に加わっている。
説得が失敗すると、荒木村重の与だった高山右近を説得する使者団に佐久間信盛も参加した。

同年12月大阪湾で第二次川合戦が行われた。
織田軍はこの戦いで毛利軍を撃退し、石山本願寺を孤立させた。
佐久間信盛は事前和泉軍の淡輪斎と連絡を取り、毛利に味方する瀬戸内軍の動向の把握戦の準備を進めていた。

1580年に入ると加賀一向一揆の最大拠点だった金沢御坊が織田に降した。
織田石山本願寺は朝廷の仲裁で和交渉を行った。佐久間信盛は信長の側近を務める松井友閑たちと共に、本願寺と交渉を行った。
交渉の結果、本願寺の法顕如石山から退去して紀伊へ移住した。
後継者の教如が徹底抗戦して石山本願寺で抗戦を続けたが、佐久間信盛は本願寺の包囲を継続する一方で教如との交渉も行った。
同年8月、教如率いる石山から退去。教如は石山本願寺を丁寧に清掃させてから退去したが、強による失火で石山本願寺は焼失した。

本願寺の退去後、信長から今までの行いを弾劾する書状を送り付けられた佐久間信盛は、長男信栄と共に出奔して高野山へ上った。
1581年または翌年、佐久間信盛は織田に戻らないまま死去。

佐久間信栄は織田へ戻り、織田信忠、次いで織田信雄に仕えた。信盛の佐久間織田信雄に仕えた。
二人とも織田が衰退していく中で織田に従って戦い、その後は各々のを存続させた。信盛の他の息子たちもし、佐久間江戸時代に繁栄した。

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掲示板

  • 125 ななしのよっしん

    2024/03/09(土) 15:58:52 ID: uHPsNtAY4C

    一族の扱いも酷いもんだよな。要するにビッグモーター
    成果一つで中途採用でもポンポン出世できる反面、古参の管理職でもゴミみたいな扱いにもなる。

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  • 126 ななしのよっしん

    2024/03/09(土) 16:26:43 ID: sratP/rEF4

    まあそのやり方はリスクを管理できてるなら効率いいのは間違ってないんだ、んで明智というリスク管理に失敗したのも事実
    そういう意味では自分はもう若手のように働けないし、せがれも使い物にならねえ狂いなので勝手ながらお暇願い奉る、と自分から申し出ていれば、
    追放ではなく隠居という形で清州下あたりで捨扶持の余生を過ごせたかもしれないけど、所詮たらればの話

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  • 127 ななしのよっしん

    2024/03/10(日) 08:07:57 ID: uHPsNtAY4C

    茶の湯狂いって揶揄されるけど
    湯御政といって、信長本人が政治の手段として推奨してたことだから。
    それを信長から「事の外に上手なりと覚えたり」と感心されるレベルで極めていたんだから、遊びというよりは認められたい一心だよな。
    あべこべに追放の口実に使われちゃうのは皮な事だけど。

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