初陣 単語

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初陣とは、

  1. 日本における合戦に初めて参加すること。転じてスポーツ競技で初めて試合に参加する場合などにも用いられる表現。
  2. 株式会社による日本酒の銘柄の一種。同社の初代蔵元が鳥羽伏見の戦いで初陣を飾ったことに由来する。

本稿では、1について解説する。

概要

特に日本における幕末以前の合戦に武士階級の者が初めて参加することをす。

転じて野球日本代表侍ジャパン)に所属する選手や監督チームの一員として初めて試合に参加する場合など、スポーツ競技でも用いられる表現である。また、2018年には、ミュージカル『刀剣乱舞』に出演するユニット刀剣男士』がNHK紅白歌合戦に初めて出場することを報道するニュースでも同様の表現がみられた。その他、未経験の事柄に初挑戦すること全般に用いられる表現である。

北海道テレビ制作バラエティ番組『水曜どうでしょう』では、リヤカー喜界島を一周する企画の際、出演者の大泉洋が「常に初陣」の心意気だと強い言葉を吐いたことがある。

本来の意味の初陣としては、一般的に元前後の年齢で経験することが多く、その多くは敵軍よりも圧倒的な兵を持っているときなど楽勝とみられる合戦でのことであるが、いわゆる河越夜戦山内上杉、扇上杉足利古河方の連合軍側として初陣を飾った小田氏治のようにまさかの大敗北を経験した例もある。

長宗我部元親石田三成島津義久は数え年で22歳という遅い年齢で初陣を飾ったとされている。元の初陣が遅れた原因としては、若い頃は「若子」と呼ばれるほど華奢病弱であったためだと言われている。初陣となる永3年(1560年)の長浜の戦いではの扱いすらも知らず臣の寺豊後に扱い方をねたと言われるが、敵となる2500の本山軍に対し1000長宗我部軍という不利な状況下で自ら先頭に立ってを振るい、見事勝利を収めたことから「土佐の出来人」「若子」などと称賛されることとなったとされる。

また、文11年(1543年)に生まれた、のちの下人徳川家康も初陣を飾ったのは永元年(1558年)のことであり、年齢的には遅い方であった。逆に初陣がかった例としては毛利元就の次男である吉川元春がいるが、数え年で11歳という元前のことであった。生年に諸説あるが、幼年で当となり合戦に参加した例としては、数え年で5歳七尾に籠したとされる畠山王丸がいる。

織田信長の初陣の場合は数え年で14歳の頃、吉良の戦いで当時敵対していた今川方の館を焼いたとされる程度で大きな戦闘があったと思わせる文献がなく、翌日には那古野に帰しているためセレモニー的な出だったとも言われるが、老臣の反対を押し切り800の手勢で2、3000の敵勢に奇襲を仕掛けたとして評価する向きもある。

本多忠勝信長今川義元による桶狭間の戦いの前戦として松平元康(のちの徳川家康)に従い、大高の兵糧入れにて初陣を飾った。その翌年の屋根攻めのこととなるが、叔父の忠が忠勝に武功をあげさせるために敵を押さえつけ首を取らせようとしたとき、忠勝は「何故人のを借りて武功をあげなければならないのか」とこれを拒否すると自ら敵で奮戦し首をあげた。
一方で、立花宗茂は初陣にて敵を組みせる活躍を見せたが、自分の武功として誇ることはなく臣に手柄を譲ってしまったという。のちにふたりは「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と謳われる名将となるが、忠勝の実直さと、宗茂の人柄の良さがそれぞれ若い頃から備わっていたことがうかがえる逸話である。

徳川家康秀忠子が大坂の陣にて豊臣を滅ぼすと泰の時代を迎えたが、寛永14年(1637年)には原・天草原の乱)が勃発し、幕府軍は22年ぶりの大戦に挑むこととなったが、立花宗茂水野勝成などの大将格を除けば、当然この戦が初陣であるという兵士も多かった。

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最終更新:2024/04/24(水) 19:00

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