劉邦単語

リュウホウ

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劉邦とは、古代中国漢王朝の初代皇帝

字は季、号は太祖、諡号は高皇帝

 書』を注釈した顔師古先生などの容姿に関する諸注によると、顔立ちは彫りが深く、面長でと口ひげが美しかった。そのため呂后のに気に入られ、よく働く美人(ただし中国史上でも随一のヤンデレを得て、働かせて小役人や山への立てこもりをやっていた。

 つまり※ただしイケメンに限る古代であってもそう。希望もありゃしねえ。

 概要

「高祖」について

彼の号は太祖であるが、『史記』では「高祖」と呼ばれている。これは高祖という号自体があるいは殷王からあるもので、司馬遷あるいは彼が引用した書物の著者または写本者が諡号の高皇帝から誤って類推あるいは転記してしまったものだろうが、このせいで日本ばかりでなく中国でも広く「高祖劉邦」と呼ばれることになってしまった。 

出自

かつては楚のにあった豊(沛県に含まれる)の出身。農民出身であるが、が学問を行っており、劉邦自身も幼馴染盧綰とともに文字を学んだとあるため、それなりに豊かな農家に生まれたと考えられる。 

なお、において県となっていた張耳食客になっていたことや、豊が、戦乱においてに滅ぼされた後、人々が移住してきた土地であることから、劉邦一家の出身はであり、豊に移住してきたとみなす説もある。 

を思わせる立な顔つきで左股に72個のほくろがあった。他人にほどこすのが大好きで細かいところにこだわらない性格であり、遊侠の行いをして、仕事を手伝わず、女好きな上、つけでを飲んでいた。ただのごろつきじゃねえか、などと言ってはいけない。 

壮年になって始皇帝が統一して建てた王)の小役人となり、上というところの亭長(交番や出張所の責任者)となったが、豊や上を統括する沛県の役人からは軽蔑されていた。その中の一人に曹参がいたのかもしれない。 

劉邦はの都である咸陽において労働する人間たちを率いて連れて行った時、たまたま始皇帝行列を見ることがあった。この時、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやいたと伝えられる。 

ある時、沛に移住してきた持ちの呂にそのすぐれた人相が見込まれて、呂の呂雉(りょち)と婚姻を結んだ。 

また、幼馴染であり劉邦が罪を犯した時に一緒に逃げ隠れをしてくれた盧綰、沛県の御者でありながら劉邦にけがを負わされながらにつながれても劉邦をかばいつづけた夏侯嬰の精と販売を生業としており、呂雉のの夫にもなった剛勇の樊噲といった友人・子分にも恵まれていた。 

さらに、沛県の族である王陵も直言を好み、劉邦を分であると認めていた。 

劉邦の人生それなりに順調に見えた。 

転落

しかし、再び、咸陽に労働する人間を送る際に大勢の脱走者が出てしまう。法律ではこのまま到着しても全員死刑であった。劉邦は十数人とともに脱走する。 

途中、大蛇を切って劉邦を先に進んだ。この時の大蛇をあらわすの子であり、これをった劉邦はの子であったとするおつげを大蛇が告げたという伝承が史書に記されている。 

劉邦は芒と碭という地方にある山や沢に隠れ続けた。呂雉は劉邦をさがしあてて、劉邦はその支援を受けて、仲間の人数も増えていった。 

挙兵

の圧政に対し、ついに陳勝という人物が反乱を起こした。劉邦は蕭何のとりなしで、沛の県に呼ばれたが、沛の県は途中で心変わりする。劉邦が夏侯嬰を使者にして沛の人々に呼びかけると、沛の県は殺された。劉邦はに反乱を起こすために挙兵し、責任者となって失敗した時に家族が皆殺しになるのを恐れた蕭何曹参ら沛の人物に挙げられ「沛」を名乗る。 

この時、夏侯嬰樊噲、周勃、盧綰らも正式に部下となった。さらに呂雉の一族も加わり、二、三千の兵を集めた。旗は赤色を用いた。 

劉邦は沛県の上位の役所である泗水軍と戦う。泗水軍はまず、劉邦の故郷である豊を攻めた。劉邦はこれを打ち破った。そこで劉邦は、豊を雍という人物に任せ、泗水を統治する守の軍を打ち破り、守を討ち取る。 

しかし、陳勝の部下であった周巿しゅうふつ)という人物がで自立を図り、雍を勧誘する。雍寝返り、豊はの領地となった。劉邦は豊を攻めたが落とすことができず、病気となり、沛に引き返した。 

この頃、陳勝反乱軍将軍である章邯に敗れ、陳勝は戦死していた。章邯はさらに反乱軍討伐のため、劉邦のいる沛を含めた東の地へ軍を進めていた。 

張良との出会い

一気にを失った上に章邯からの侵攻を受けた劉邦は、楚王を名乗る駒という人物に従属する。しかし、攻めてきた章邯に対して、駒からの援軍とともに戦うが敗北する。 

この頃、駒のところに行こうとしていた、に滅ぼされたの宰相の子であった張良と出会う。劉邦は張良の説く兵法に理解を示し、その策略に従う。張良も初めて己の兵法を理解する人物があらわれたことに感動し、劉邦のことを「授の英傑」と評価する。 

劉邦は章邯がいなくなった碭を攻めとり、さらに五、六千人の兵を集めた。劉邦は駒から離れ、楚の名将・項燕の子である項梁に従属することに決める。項梁からさらに五千人の援軍を得て、劉邦はついに豊を奪回した。 

項梁が楚の王族の子孫を探し、楚の懐王を立てると、張良の復のために劉邦のもとから離れていった。 

項羽との共闘

項梁の武将に、項梁の甥(おい)にあたる項羽がいた。その項羽は剛勇無双の名将であった。劉邦は項羽とともに項梁の軍の武将として、章邯を敗走させた。 

さらに、項羽とともに軍の由(の宰相である李斯の長子)と戦い、打ち破る。由は曹参が討ち取った。 

劉邦は項羽義兄弟の契りをかわす。後の宿敵となる運命を知らぬまま。 

しかし、劉邦と項羽勝利に気をよくした項梁油断し、章邯の奇襲を受けて戦死する。劉邦はこのことを聞いて、項羽とともに彭まで移動する。楚の懐王も彭に移ってきた。劉邦は懐王によって、碭長、武安侯に任じられた。 

章邯は楚が弱体化したものと思い、北のを攻めるために軍を進めた。楚に対し、から援軍の要請が行われた。 

関中への進撃

楚の懐王は軍を二つに分ける。軍は義・項羽范増黥布が率い、を攻めている軍を率いた章邯・王離に向かい、支援軍を劉邦が率いることになった。(史書には劉邦はの本拠地である西に関中に向かうことになったとされているが、研究によると、当初は明らか軍の支援的である)。 

楚の懐王が「まっさき関(関中の東を守る関所)を抜けて、関中を定したものを関中王にしよう」と約束する(後世、「懐王の約」と呼ばれる)と、項羽は劉邦とともに支援軍を率いたいといったが、懐王の部下の反対があり、項羽軍の副将となった。 

劉邦は支援軍の役割を果たし、地方軍と王離の別動隊を撃破した。一方、項羽軍と戦おうとしない義をり、楚軍の将になるとに向かい、王離を打ち破り、章邯と対峙する。 

劉邦は、先ほどの「懐王の約」を果たし、項羽より先に関中に入り、関中王になろうとして、関中に向かうため西へと進軍する。(劉邦の判断なのか、懐王の示であるかは諸説分かれる。また、当初は章邯の後背を攻撃しようとしていた意図があったことも考えられる) 

途中で独立であった彭越と合流して共闘するが、なかなか前進できずに苦戦する。その苦はたずねてきた儒者の酈食其(れきいき)に救われた。儒者嫌いの劉邦は横柄に対応するが、理をさとされて、一転して酈食其を礼遇することにして、酈食其のである酈商(れきしょう)とともに重く用いることにした。酈食其の働きにより、が守る陳留は落ち、兵糧を得ることができた。 

兵糧を得た劉邦は軍勢とともに進撃し、軍に苦戦しつつ、守りが固いところを避けながら、西へと進む。項羽の配下となっていたの武将である司馬卬(司馬懿の先祖)の進撃をとめるが、軍に陽で敗北する。そこで、関から進むのをあきらめ、関中の南を守る武関を突破しようと南下する。の復していた張良とも合流した。 

項羽と戦っていた章邯は降寸前であった。すでに時間の余裕はなかった。 

しかし、項羽の奮戦により、軍の抵抗もまた弱まっていた。劉邦は宛を落とし、張良の計略と酈食其・陸賈の交渉により、武関と嶢関を突破し、関中に入ると、軍を壊滅させた。この時点の劉邦軍は二万人程度であったが、すでに、参謀に張良、補給と後方支援蕭何外交官に酈食其・陸賈、軍の揮に曹参樊噲・周勃・夏侯嬰・酈商と、テロリスト田舎役場の管理職・田舎町の変人学者・刑務官・葬儀屋・売り・商人の運転手・変人学者のといった綺羅星のような多様な人材が集まり、歴戦を重ねた劉邦の揮のもと勝利を重ねるようになっていた。劉邦は王・子の降を受け入れて、略奪を禁じる。また、樊噲張良の進言を受け入れて、の都である咸陽に入ることもせず、の財物が入った蔵を封じておいた。 

法三章

劉邦は老たちを集め、「お前たちはの過酷な法に長年苦しんできた。話し合うだけでさらし首になるような法はやめる。法は三章だけにする。人を殺すものは死罪、人を傷つけるものは罰する、人のものを盗むものも罰する、この三章だけにしよう。わしはお前たちのを除くために来たわけであり、乱暴なことはしないから恐れることはない。今、軍営を構えているのは諸侯とこのことを約束するためである」と宣言する。の人々は歓喜して、劉邦軍の兵士たちを迎えようとをもちよったが、劉邦は「民に負担をかけさせたくない」と言って断る。の人々は劉邦が関中王となることをこいねがうようになった。 

しかし、項羽が降した章邯を雍王(雍は関中の古い名で、関中王と同じ)に封じており、諸侯の軍60万人を連れて関中に向かっていると聞き、項羽が来たら関中王になれないことが不安になった。劉邦は参謀の一人の進言に従い、関を守らせ、項羽ら諸侯を関中にいれないようにして兵を集めることに決める。(史書には項羽章邯を雍王に封じたことの許可を懐王にとった記録もないが、劉邦が項羽たち諸侯を拒絶することの許可を懐王にとった記録もない。) 

劉邦は10万人の兵を集めたが、項羽をはばんでいた関は項羽の部下の黥布の奮戦により、すぐに陥落する。 

項羽の軍は途中で降した兵を埋めにして、40万人に減っていたが、兵差がある上に項羽中国史上有数の軍事の持ちである。勝ちはなかった。 

さらに劉邦の部下の曹傷が裏切って劉邦に自立の意図があったことを項羽へ伝える。 

劉邦は絶体絶命の窮地に追いやられた。 

鴻門の会

劉邦は事前に相談していなかった張良項羽おじ項伯にとりなしたことにより、鴻門の会において項羽に謝罪を行う機会が与えられた。項羽の参謀である范増は劉邦を殺しようとしたが、項伯の働きにより事、生還する。劉邦は曹傷をった。 

項羽は咸陽を焼き払い、略奪を行った。 

漢王・劉邦

項羽は楚の懐王に報告すると、懐王は「懐王の約どおり、劉邦を関中王に封じるように」という返事を行う(「懐王の約」については後述)。項羽は懐王を義としてまつりあげるとともに、その命に従わなかった。項羽が論功行賞を導して、劉邦は中・の王である「王」に封じられ、左遷させられてしまう。項羽は西楚の覇王名乗り章邯は雍王に封じられ、黥布も九江王に封じられた。王の臣下であった張良ともここで別れることとなった。 

王となり、中におもむいた劉邦は、張良の進言によって通ってきた桟を焼いて、項羽に東にもどる意思がないことを示した。劉邦の兵は三万人にまで減少していた。また、当時の中は地であり、いくことを拒み、劉邦の下から逃げ出すものも多かった。劉邦は、中原への出口を雍王・章邯ら三(滅ぼされたの生き残りが封ぜられた)と過酷な山に塞がれてしまう。 

しかし、項羽の配下の中から、劉邦の配下になるために新たに参加するものいた。その中の一人に韓信がいた。蕭何韓信天才的な軍略の才見抜き、全軍の大将推薦する。劉邦は蕭何の進言に従い、韓信を軍の大将軍に任じる。韓信は劉邦に、劉邦の長所と項羽の短所を摘し、東に帰りたがっている兵の士気を利用し、項羽覇権を争うように進言する。劉邦の決意は固まり、ついに決起した。 

まずは、の名将であった雍王・章邯が戦うことになる。 

楚漢戦争勃発

劉邦は故という使われていなかった古い桟を使って関中に侵入する。韓信の進言通りになり、かつては敗北を喫した章邯を打ち破ることができた。また、かつてとして仕えていた王陵も部下に加わわった。劉邦が関中を制覇すると、君である王が項羽に殺されて王を失った張良も劉邦を頼ってきた。 

ここに、劉邦のもとに、蕭何張良韓信という漢王朝の三傑が勢ぞろいした。元々は、田舎役場の管理職、テロリスト無職というメンバーである。 

勢いにのる劉邦は・殷・河南王を捕らえるか、降させる。項羽配下であった陳も新たに参謀に加わった。 

この時、項羽によって義(元の楚の懐王)が殺されていたことを地元の老から告げられる。劉邦は、時期的にすでに間違いなく知っていたがおおげさに芝居して、片肌をぬいで大いに泣き、喪にす。劉邦は項羽を大逆と呼び、下の諸侯に項羽の支配する楚の討伐を呼びかける。や斉も劉邦に賛同する。楚は孤立した。 

ついに、劉邦の軍勢は56万人にたっした。さらに張良の策謀も功を奏し、項羽は北の斉の討伐に赴いていた。 

劉邦は、関中を蕭何に任せ、張良・陳を参謀に、韓信大将軍に、曹参樊噲夏侯嬰・周勃・酈商らを将軍に、さらに王・河南王・殷王まで引き連れて、楚軍を撃破しながら、項羽の本拠地である彭に進撃する。 

これで敗れることはありえるはずはなかった。 

だが、覇王項羽の圧倒的大軍であった軍を撃破した実績は、決してまぐれでも奇跡でもなかった。 

危機からの脱出

 項羽は彭が落とされたと聞くと、三万の軍勢で引き返す。劉邦は彭の東と北に防衛線をってはいったが、項羽はこれをくぐりぬけて、西から劉邦を攻めた。防衛の薄いところから攻められた劉邦軍は大敗する。殷王・河南王は戦死し、20万以上の兵を失い、劉邦のと妻・呂雉は捕らえられて人質となった。さらに、王・は離反し、斉とも自立をする。

 劉邦は、呂雉との子である息子劉盈(のちの恵帝)ととともに、夏侯嬰に乗って逃亡した。絶体絶命であったが、呂雉のである呂沢が率いた軍と合流し、西への逃亡に成功する。

 さらに、随何という臣を送り、項羽配下の猛将であった今は九江王となっていた黥布を離反させ、味方につける。

 劉邦は滎陽(けいよう)に兵を集める。また、劉盈を太子にして、呂沢の協を得た。関中では、軍が章邯を攻めて、章邯自殺していた。足場を固めた劉邦は、韓信・索の間において楚軍を破り、項羽の快進撃をここでとめる。

 劉邦はここで大きく軍を分けて、韓信張耳(かつて劉邦が食客となっていた人物)を派遣し、曹参をつけて離反したを討伐させた。韓信は劉邦の期待以上の働きを行い、・代・を滅ぼし、を降させる。韓信からは降してきた兵の精鋭が劉邦のもとに送られてきた。

 また、黥布項羽の武将である且に敗北し、劉邦を頼ってきた。劉邦は時間を充分にかせがせるとともに、新たに有な猛将を手に入れることとなった。

 滎陽攻防戦

劉邦は滎陽を固めたが、項羽の攻撃はしく、兵糧を運ぶ甬を破壊させ、食糧がとぼしくなり、滎陽は楚軍に包囲された。劉邦は講和を望んだが、項羽は拒絶する。劉邦は陳の策略で、反間の計(項羽とその臣の間の仲をさく計略)を用いて工作する。項羽范増を疑い、范増項羽のもとを去り、途中で死んだ。 

劉邦はさらに紀信という配下を自分に扮して降させ、注意をひきつけている間に、滎陽から脱出する。紀信項羽に殺されたが、滎陽は周苛という部下が引き続き守った。 

劉邦は関にもどると兵を集めて、滎陽にもどらずに南の方、南陽の方に黥布とともに出撃する。項羽が攻めてきたが、劉邦は防衛して戦わず、滎陽への攻撃をゆるませることに成功する。 

劉邦はかつてともに戦い、今は独立した勢となっていた彭越を動かして、項羽の背後を撃たせ、補給を攻撃させた。項羽が東に移動して彭越を攻撃している間に、劉邦は成皐(せいこう)へと移動する。しかし、項羽彭越を破るとすぐに西にもどる。項羽が滎陽を攻め落とすと周苛は捕らえられた。さらに項羽は劉邦のいる成皐を囲む。劉邦はふたたび夏侯嬰とともに脱出した。 

形勢逆転

劉邦は、蕭何から関中の兵、韓信からはの兵を援軍として送られていたが、度重なる戦いで手持ちの兵は尽きていた。そこで間に韓信張耳の軍営を使者といつわって訪れ、彼らの軍を奪う。張耳王に任じ、韓信には斉を討たせた。 

劉邦は守備に項羽と直接は戦わないようにして、彭越盧綰賈に楚を襲わせる。また、酈食其に命じて斉を味方につけるように命じる。項羽はまた東に彭越を討ちにもどった。酈食其は斉を降させたが、韓信は劉邦から攻撃中止の命がないことを理由に斉を攻撃する。斉は攻略したが、酈食其は斉王に殺された。 

劉邦は項羽が不在のうち、項羽の武将である曹咎を打ち破る。項羽がもどってきたため、広武山に退却した。韓信もまた項羽が斉の援軍に送った且を打ち破り、討ち取った。 

形勢は次第に劉邦に傾いてきた。しかし、劉邦はさらに項羽と対峙せねばならなかった。 

講和成立

劉邦は項羽と広武山を挟んで対話する。劉邦が項羽の犯した10の罪を数えて責めると、項羽せていたを放たせた。矢は劉邦の胸に刺さったが、劉邦は、足をさすって「足のを射られた」と言って軍をねぎらい、兵士を安心させた。劉邦の傷は重く、成皐ので休むことになった。傷がいえると、関中にもどり、老たちと宴を行い、すぐに広武山にもどった。 

劉邦のもとには、関中にいる蕭何から援軍と補給が送られてきた。しかし、斉を攻略した韓信から「斉を治めるために斉の仮王となりたい」という申し送りがあった。韓信の援軍を頼みにしていた劉邦は激怒するが、張良の進言により、自立されるよりはと、韓信を斉王に任じる。劉邦は韓信の援軍が期待できなくなった。 

劉邦は黥布南王に封じる。また、戦死した兵士に衣を着せ、棺桶死体をいれて、家族のもとに返すことにした。このことにより、民からの支持が増した。 

しかし、項羽の苦はそれ以上であった。韓信項羽との和議を拒否し、楚を攻撃してきた。彭越もまた楚軍の補給を攻撃してくる。項羽は劉邦からの勧めに応じて、劉邦との講和に同意する。中国の西を劉邦、東を項羽とするもので、劉邦のと呂雉はこの時、返された。 

一時的に平和がおとずれるかに見えた。 

天下統一

しかし、張良と陳の進言により、劉邦は講和を一方的に破り、東に帰還する項羽率いる楚軍を背後から攻撃する。しかし、韓信彭越の軍が来なかったため、劉邦はまた項羽に破られる。劉邦は守りを固めながら、張良の進言によって、韓信にさらに王の地位と領土を約束し、(斉王の地位の確約説、斉王に加えて楚王にも封じる約束した説がある)、彭越にも梁王の地位と領土を約束する。 

韓信彭越の軍は果たしてやってきた。さらに、黥布賈の軍も来た。項羽の武将である周殷も項羽から寝返った。 

追い詰められた項羽下に軍を構えた。項羽の軍は10万程度であったのに対し、軍は韓信の軍だけでも30万人いた。戦いは一戦で決まった。項羽は大敗する。項羽にとっては生涯最初にして最後の敗北。劉邦にとっては、項羽に対する最初にして最後の勝利となった。 

下にこもった楚軍は四面から楚の歌が聞こえたため、戦意を失った(四面楚歌)。項羽江東に逃走しようとしたが、途中で断念して自害した。楚の地は定され、最後に魯の地が降した。劉邦は韓信の軍を奪うと、盧綰賈に命じて、(項羽に味方していた?)臨江王を攻撃して捕らえさせた。 

ついに下は統一された。劉邦は中の人の死罪以下の罪を赦免した。 

漢王朝建国

項羽を下した劉邦は韓信黥布彭越ら諸侯王に認められ、皇帝に就任することになる。ここに漢王朝が成立し、以降一度は新によって断絶するもののその後復活する。劉邦は、400年にわたる統一王太祖となった。 

当初は陽(雒陽)を都とした。劉邦は、戦乱において逃亡して山や沢に逃れていた民はその故郷に帰れば、田やを取り戻せるように、また、飢餓のためにが身を売って奴隷となった民は放免して庶民となるように、功績のある軍人たちに爵位と行賞を与えるように下に命する。 

劉邦は宴席において、自分が下をとった理由は、他人の功績に利益を与えただけでなく、張良蕭何韓信の3人の優れた活用できたことがその理由としてあげる。後世にこの三人は「の三傑」と呼ばれるようになった。 

その後、張良敬の進言により、陽から遷都して、関中の地にある長安を都とすることに決める。 

皇帝即位後の劉邦

劉邦即位後は各地で反乱が起きる。元々は臣下ではなく、各地でを有していた彼らを制御することは困難であった。反乱を起こした王・荼(ぞうと)や利畿を捕らえて処刑した。さらに、謀反の疑いがあった楚王となっていた韓信も捕らえて、陰侯に落とした。 

劉邦は、はじめは友の盧綰王としたが、その後は族を王とする方針にし、一族の賈を荊王、交を楚王、長子の肥(劉盈は呂雉ではなく、曹氏)を斉王とした。 

劉邦はこの頃、やっと功臣たちに行賞を与えたが、それはな二十余名にとどまるものであった。そのため、恩賞にあずかれない諸将は誅殺を恐れたこともあって、謀反を相談するようになった。劉邦は張良の進言によって、最も嫌っていた雍を諸侯に封じた。諸将はこれを知って安心した。 

しかし、太原に封じられていた王信が匈奴に攻められて、降し、反乱を起こす。劉邦は、自ら討伐したが、において、冒頓単于には見事にボコられ、屈辱的な講和をした。一方で、王信の乱の方は定している。後に、匈奴討伐におもむき、生き残った兵士は終身、労役を免除している。 

都は長安に定めたが、帰ってみると、丞相となった蕭何が立未央宮を建築していたので、「下の民が戦争で苦しんでいるのに、こんなものを建てるなんて」と怒るが、蕭何に「威を重くして子孫にこれ以上立なものを建てさせないようにするためです」と説得され、納得する。商人に贅沢とに乗ることを禁じ、農業を推奨する。また、関中に下中の貴族を移住させ、地方に繁栄させないようにさせ、関中を強くする政策をとる。 

また、の大臣による劉邦暗殺計画が発覚し、王であった敖(張耳息子)を侯に格下げした。 

この頃、も死去する。 

反乱討伐

において、陳豨(ちんき)が反乱を起こす。劉邦はをばらまき、陳豨の部下を切り崩した。劉邦は自ら、陳豨を討伐する。留守の間に、呂雉と蕭何から韓信謀反を起こし、韓信とその三族を滅ぼしたという報告をうける。 

劉邦は陽に帰還すると、民の過度な負担とならないように、諸侯王や諸侯が貢物を送ることを一年に一度とし、から中央に送られる税額を定めた。また、下に中央に優秀な人材を送るように詔を出した。 

今度は、彭越謀反のうたがいがあり、呂雉の進言により、彭越の三族を滅ぼした。劉邦は各地の王に自分の息子を封じ続けた。 

今までは諸侯王の反乱であったが、項羽討伐に大きな功績があった韓信彭越を疑惑だけで処刑し、三族を滅ぼしている。劉邦に対する諸王の不信は吹き荒れた。 

劉邦もまた、後継となる太子を、皇后となった呂雉との間の子である劉盈から、寵愛していた戚夫人との間の子である如意(劉盈にあたる)に変えようとして、多くの臣下の反対にあい実行できず、その孤独を深めていた。一方で、劉邦は中にともに入った兵士たちの労役を終身、免除し、その労に報いていた。 

続いて、黥布が反乱を起こした。賈は黥布と戦い戦死する。劉邦のであった楚王の交も黥布敗北した。劉邦は病をおして下の兵を率いて自ら出撃し、黥布を打ち破るが流れ矢が当たり、負傷した。 

帰還の途中で、はじめて決起した土地である沛にもどり、沛の人間たちを集めて宴を開く。劉邦は「大歌」を歌い、を流す。劉邦は沛と故郷の豊の今後の賦役(税と労役)を免じた。 

最期

黥布られ、陳豨も樊噲に討たれたという報告があった。劉邦は長安にもどった。相蕭何が民から土地を安く強引に買い、その代を払わないという訴えを聞く。劉邦は蕭何商人から財物を受け取っているものと考えてにくだしたが、後に赦免して蕭何に謝罪した。(なお、この時の蕭何行動はわざと名を汚して保身を図ったもので、本当の意味で私益をはかったものではない) 

しかし、王に封じていた幼馴染であり、劉邦の友である盧綰に陳豨と共謀した謀反の疑いがあった。盧綰は劉邦の招きに応じず、矢傷がいえない劉邦は、樊噲と周勃に盧綰を討たせた。 

反乱討伐のために長安を留守している間に、蕭何すらも全に信用できる存在ではなくなり、太子の問題によって呂雉との間にも対立が生まれていた。しかし、呂雉と蕭何漢王朝を支える重要な人物であり、その政治には劉邦は大きな信頼を寄せている。さらに、友であった盧綰も反した。劉邦の孤独は深まっていった。劉邦は次の王に自分の子を封じた。 

劉邦はさらに太子を如意に変えようとしたが、儒者の叔孫通の反対にあい、張良推薦した四人の名高い人物が太子の劉盈の側で仕えていることを知り、断念することにした。張良でさえも劉邦が自由に太子を変えることには賛成はしてくれなかった。 

劉邦は、下に「私は下のすぐれた人物や功績のあるものに充分に報い、下の期待にそむかなかった。不義があり、天子に反乱を起こして兵をあげたものに対しては、下とともに討伐するだろう」と下に布告した。一方で、劉邦が黥布の闘いで受けた矢傷は深く、その痛みはしくなっていた。 

一代の英雄である劉邦も死が近づいていた。死期間際の劉邦は、死後の戚夫人と如意の保全を気にかけていた。そのため、呂雉のを妻としていた樊噲の誅殺を命じたと伝えられる。陳の判断により、樊噲の処刑は保留され、捕らえられるだけで済み、劉邦の死により樊噲の命は助かった。 

死に間際に、劉邦は呂雉にたずねられた。 

呂雉「陛下(劉邦)にもしものことがあり、相蕭何)が死去したら、を代わりにしたらいいでしょうか」。

劉邦「曹参がいいだろう」

呂雉「その次はを代わりにすればいいでしょう」

劉邦「王陵がいいが、少し愚直なところがあるから、陳に補佐させるといい。陳の知恵は有り余るほどだが、一人に任せるわけにはいかない。周勃は重厚でやかな才はないが、周勃を大尉にするといいだろう」

呂雉「さらに、その次は」

劉邦「これからはお前の知るところではない」 

劉邦の言葉通りに漢王朝政治を預かる人間は代わり、これにより、漢王朝は存続し続け、その後も発展をとげることになった。 

ついに、劉邦は長安において死去する。群臣たちは、劉邦を「民から身を起こして、乱世を定して、太祖とおなりになった。功績はもっとも高く、高皇帝と贈り名しよう」と尊号をたてまつった。 

劉邦と呂雉の子である劉盈が次代の皇帝に即位する。これが後の恵帝となる。諸侯に劉邦のを立てさせることになった。 

その後の漢王朝

劉邦の建てた漢王朝前漢後漢あわせて400年続いた。皇帝たちはみな、劉邦の受けた命を受け継いだことを名にして皇帝に即位し、下を統治した。前漢王莽によって滅ぼされたが、王莽に対して反乱を起こした勢のほとんどが漢王朝の復スローガンとした。その一人である劉邦の子孫にあたる劉秀光武帝)が漢王朝を復し、後漢を建する。 

漢王朝は文武帝・宣光武帝・明と続々と名皇帝が生まれた。三国志劉備諸葛亮漢王朝の復を名にして漢王朝を建てて戦い続け、後漢の衰退後も多くの人々が漢王朝のさらなる存続を願った。の後を襲ったほどの勢威を誇ることはなかった。 

さらに、の滅亡後も匈奴である劉淵までもが漢王朝を受け継ぐことを名にして皇帝に即位する。 

現在でも劉邦の建した号である「」は民族をあらわす言葉として生き続けている。 

評価

 中国の王朝の中でも特に重要とされる漢王朝太祖であり、中国歴史上でも皇帝のお手本とされる。 

唐代などでは「武」といわれて人材マニアでよく知られる曹操と同列かそれ以上の評価を受けている。

 また、五胡十六時代の後を建した石勒は、「高皇帝(劉邦)に出会ったならば仕え、韓信彭越と功を争うだろう。光武帝劉秀)に会ったら共に下の覇権を取り合っただろう。曹操司馬懿司馬師司馬昭のように、欺いて下を取ったりはしない」と、

 劉邦>石勒劉秀曹操司馬懿、というような分かりやすい不等号であらわせる評価をしている。

 また、劉邦が皇帝に即位した頃、劉邦に下を支配する「命」(天帝天子に対して授ける下を統治する命)があるとは考えられておらず、乱世を終わらせた「功」と「徳」、および「下」を私物化しないという諸侯王からの評価により皇帝として推戴されたことが実態である。これは後世の皇帝たちにべると、「命」思想のをほとんど借りることができなかった時代に、純に実が認められたものと評価できる。

 劉邦の創業したは「制」という直接、が支配する「」を設置した土地と、諸侯王が支配する「」に分けた国家体制を布いていた。これはの全て直接、皇帝が統治する「県制」にべると、過程に過ぎない後退であり、劉邦の皇帝としての権は弱く、劉邦は後世の皇帝べると、諸侯王の盟に過ぎないと評価されることもあった。

 しかし、近年、は元々から「制」をしていたとする研究者が増えており、劉邦が行った「制」の確立に向けた政策や実績は積極的に評価されるようになっている。

人物

 劉邦は、気性がはげしく、学問をおさめず、傲慢で、率直に過ぎて礼儀知らずなところが多かった。その反面、はっきりした性格であり、他人の言葉を聞き入れる、門番兵士さえも昔染みのようにあつかった、皇帝としてもしみやすい性格であったと評価されている。さらに、書』によると、謀略にすぐれていたとされる。 

また、部下の進言を取り入れることが多く、そのため自分の才を活かしたいという多くの人材を得ることに成功している。本人も自分よりも部下のほうが優秀であることは認めており、韓信張良蕭何と後に三傑と呼ばれる三名に対しては自ら言及して各方面において自分より優れていることを認めている。 

定の後は、蕭何法律を、韓信に軍法を、法令規則(や度量とする説もある)を、叔孫通に礼儀を、陸賈に自分たちの記録である『新』をつくらせ、それぞれの特性を生かしている。 

劉邦は部下の特性、性格を理解し、それが生かせる地位に、軍事においても政治においても任命した。 

このについては、天下統一後も生かされ、政治や内政には軍功のあった武将たちよりも、法律や制度、儀礼に通じた人物を積極的に登用し、武将たちを抑え、官僚や地方官たちを統治に登用した。 

死ぬ間際になっても自分の死後の人材の有効活用法を皇后の呂雉に言い残し、その通りになったという逸話も残っており、人材を見抜き、活かすことに長け、また、部下の意見が正しければ直に聞き入れる人物であったことが伺える。 

部下の諫言や進言の内容に誤りがあったとしても、それを理由に罰したとする記録も残されていない。また、蒯通や欒布のように煮殺して処刑しようとするほどの怒りをおぼえた人物でも、その言葉に理屈があると認めた時はその罪を許し、欒布に至っては取り立てている。 

また、田横の部下や敖の部下のように、忠義の士を積極的に取り立てることも行っている。

劉邦について

劉邦の誅殺について

劉邦については、天下統一後に疑心暗鬼からの粛清を行ったとよく言われるが、それは正確ではない。

劉邦が粛清した、もしくはしようとしたとされる人物は、

荼・利幾・韓信王信・貫高・陳豨・彭越黥布盧綰蕭何樊噲の十一名である。

三傑と呼ばれた人物のうち、蕭何韓信、王としての功績の大きい彭越黥布、沛からの忠実な部下である盧綰樊噲が含まれているため、多くは感じられる。

しかし、荼は理由が不明のまま反乱を起こしたものであり、粛清かどうかは不明である。利幾は項羽の部下であったものが陽に呼ばれて疑心を起こして反乱を起こしたもので、これも粛清とは呼び難い。

韓信については、楚王の時に捕らえて楚王の地位から落としたことは全に疑惑だけから行ったものではあるが、粛清に関してはむしろ首謀者は呂雉と蕭何である。

王信については、匈奴との講和を独自ではかっていたら、内通していると疑われ、謀反を起こしたもので、善悪はともかく、粛清とは言い難い。

貫高は、劉邦が貫高の君である敖に対して礼な態度に怒りをおぼえて暗殺を謀ったのが処刑の理由である。陳豨も劉邦から信任をうけながら、反乱を起こしている。この二人も粛清が理由ではない。(ただし、劉邦の行動に原因がある可性が高いから、善悪から言えばこの二人を一方的に責めるのは難しい)

彭越は、劉邦の出撃要請に対して病気を理由に応えず、その後の出頭に対しても仮病をつかって出向かずに、謀反のたくらみがあることを部下から行われたもので、逮捕して調べたところ、その拠があったとされたもので、劉邦が民になることで許したものを、呂雉の進言により、処刑したものである。これは粛清とはいえるが、一方的に劉邦に非があるわけではない。

黥布韓信彭越が処刑されたことを知り、兵を集めていたところ、部下が謀反の罪を訴えたので、反乱を起こしたもので、当初は劉邦と蕭何偽を確かめようとしていた。黥布の義で長沙王でもあった芮に至っては武帝時まで王号を保っている。これも粛清とは言い難い。

盧綰は、戦争を終息させないために、匈奴と陳豨に通じていたことが判明し、討伐したところ、盧綰が逃亡したためである。確実に罰する罪があり、粛清とはいえない。また、盧綰は劉邦が死ぬまで劉邦を信頼していた。

蕭何に対してだけは、実際に劉邦が史書上でかの進言や確実な拠がないのに、疑心暗鬼三度も示している。ただし、罰したのは最後の一度だけであり、この時は民衆から蕭何が不正を行っているという訴えがあったことは間違いなく、最終的には許している。これは元々、粛清の意図であったかは不明であり、その後も蕭何に対して政務を預けている。

樊噲に対しては、部下から『樊噲は呂雉の一党であるから(樊噲は呂雉のの夫)、劉邦の死後に、寵愛していた戚夫人や如意を殺しようとしている』という進言があり、誅殺しようとしたものであり、疑心暗鬼であっても粛清とは異なる。

このため、実際に劉邦が直接的に行った粛清と言えるのは、彭越ただ独りであり、それも彭越にも罪があり、呂雉の進言があってのことである。(ただし、韓信が楚王の時に確かな拠がなく、謀反の疑いだけで捕らえて降格した事件は殺していないとはいえ、広義の意味での粛正とは言える。)

なお、樊噲の件から分かるように、劉邦晩年の疑惑の対となった人物のうち、黥布を除いた韓信彭越盧綰蕭何樊噲については、劉邦と呂雉との政治関係の問題も同時に発生していたという背景に対しても注意を要する。

 劉邦の軍事能力について

劉邦は軍事が低く、負けばかりというイメージが世間に流布している。これは、小説漫画作品がそのようになっているためであり、また、項羽が劉邦と戦った回数が72回であり、最後の一戦を除いて全て敗れているという話が「平家物語」でも採用されている。(なお、1勝72敗か、1勝71敗かは作品により異なる)。

これは元は劉邦が黒子の数に合致した72戦して下を定めたという伝承があり、これが項羽との戦いに限定されて、項羽の「七十数戦して負けなし」という発言との整合をとるためにそのような説話が生まれたものである。

実際の劉邦は、ろくに訓練を行っていなかったであろう沛の兵を率いて、泗水軍を二度も破り、雍の反乱により豊を落とせず、軍を率いる章邯に敗れたものの、碭では章邯軍の一部相手に勝利を挙げて兵を増やしている。また、項梁の援軍を得て、豊を落とし、その後は項羽とともに項梁軍のとして、章邯を撃退し、楚軍の一を担う人物の一人となっている。

当初の劉邦は攻めを得意とはしなかったようではあるが、楚の支援軍として一万人程度の兵で、王離軍の別動隊や地方軍にも野戦では勝利している。咸陽進撃も、少しずつだが進んでおり、軍からの敗北時も致命的な打撃は受けていない。

張良を得てからは快進撃を続け、軍を破って、咸陽を落としている。この頃の劉邦軍は2万人程度であったが、鴻門の会直前には10万人に増えていたので、関中を守る軍は劉邦より圧倒的多数であったことが分かる。

戦争でも、雍王となった章邯項羽要な武将である且や曹咎、鍾離昩勝利しており、軍を壊滅させた項羽余りにも強すぎただけだとわかる。その項羽にも、途中からは防衛姿勢をとることで次第に単身での逃亡にいたるほどの敗戦はしないようになっている。

その後も冒頓単于には大敗してはいるが、冒頓単于は、東西南北にいた敵を滅ぼして従属させ、匈奴広大な土地を有する大にし、騎民族の組織の基礎の創始者となる原の英雄なるほどの稀有な軍事を有した人物である。

また、較対になりがちな配下の韓信もまた、中国史の名将である。

中国史に詳しい人でも、項羽韓信冒頓単于中国史や二十の名将にか一人以上を挙げる人は多いであろう。時代ごとの較は困難だが、これほどまで他の人物と圧倒的な差をつけた軍事を有する名将が同時代に三人も存在するのは稀有である。

また、劉邦が一度敗北した章邯複数の人間の合意によって話し合われる場所で、中国史名将100選の一人に選ばれたことがある。 劉邦は天下統一後も反乱討伐に追われたが、韓信不在でも基本的に有利に反乱討伐を行い、荼、利機、王信、陳豨、黥布といった戦歴豊かな相手の反乱討伐に成功している。また、この時には攻めは不得手としていない。

劉邦の軍事は、黥布が「劉邦は年だから自分で兵を率いてはこない。韓信彭越はもういないから恐れるに足りない」と発言しており、黥布もかなり警していたことは分かる。少なくとも、黥布曹参樊噲・周勃・・酈商よりも劉邦を高く評価していたようである。 

また、劉邦は項羽相手に苦戦しているが、楚戦争自体は約5年間で終わっていることに留意すべきである。(光武帝は即位から天下統一まで約12年、淵・李世民も決起から天下統一まで約12年間である)。 

「懐王の約」における扱いについて

「懐王の約」とは、本文で述べた通り、楚軍をへの援軍として送る際に、楚の懐王が「まっさき関(関中の東を守る関所)を抜けて、関中を定したものを関中王にしよう」と諸将とした約束のことである。

このことについて、学説の中でも、「単なる楚の懐王の実効性のないスローガン」説と「を除く下の諸侯の盟となっていた楚の懐王が楚の諸将だけでなく、下の諸侯に対して行った約束」説と大きく二つに分かれる。

前者の場合、劉邦と楚の懐王が「懐王の約」を後から大事な約束のように言い換えて、項羽政治的に追い詰めるための具にしたことになり、項羽の方に正当性が存在することになる。

後者の場合、下の盟となっていた楚の懐王が諸侯にした約束を、項羽一方的にやぶり、劉邦に不当な扱いを行い、中に左遷したあげく、邪魔になった楚の懐王を殺したことになり、劉邦の方に正当性が存在することになる。

もちろん、漢王朝のもとで書かれた史書は後者の考えで書かれており、項羽が「懐王の約」の履行を迫る懐王に対して苦慮し、諸侯を納得させるために様々な言い訳や理由をつけたとされ、かつ、劉邦に項羽を討伐する大きな大義が存在したとされる。

劉邦に正当性が存在すると仮定した場合、大義を説明せずに関を封鎖するなど、劉邦側に不自然な動きも多いが、学説でも劉邦側により正当性が存在するという意見がかなり強いということは注意を要する。 

劉邦の統一後の政治について

劉邦は統一後、の制度や政治の多くを継承したが、のような代々の国家の形成や代々の忠実な臣が存在しないため、始皇帝のような絶対的な権者になることはできなかった。

劉邦自身も劉邦の皇帝としての立場は、劉邦に対する個人的な人望と、地位と領土の保全を的とした諸王や臣が、自分を支持していることに支えられているに過ぎないことを自覚していたようである。

そのため、劉邦は漢王朝運営への協を諸王と臣にもめ、漢王朝の存続を阻むものに対しては共同して討伐するように要請し、の失敗をかえりみつつ、の政策との大きな転換を漢王朝において行っている。

一つは、官吏が民に対して厳しい法を適用して政治を行うことを警し、法治をゆるめ、民の安定を重視する政策を積極的に行ったことである。

二つは、各地のすぐれた人物を集めて、漢王朝の建への積極的参加をうながし、取り込みをはかったことである。

三つ目は、「制」の施行である。直轄地を下の3分の1程度にして、各地をその土地に封じた諸王に任せる政策を行う。諸王には、劉邦に反抗的な人物が多かったが、次第に劉邦の戚を封じ、より安定的に下を運営することに成功している。

四つ目は、匈奴や南越など外に対する柔軟な政策である。のような強引な討伐や戦争を行わず、外交によって、(時には屈辱的な手段を駆使してでも)、平和裏におさめるような政策をとっている。

三つ目四つ目は、前漢武帝の時代まで。一つと二つは、理念上では漢王朝が終わるまでその政策がとられている。

功臣の恩賞について

劉邦の皇帝即位時点で諸侯王に封じられていたのは、

楚王:韓信

王:張耳死亡後、子の敖が王となる)

王:荼(謀反の後、討伐され、盧綰が王となる)

王:王信(上述の韓信とは別人)

梁王:彭越

南王:英布黥布

長沙王:

である。

劉邦が死去した時には、諸侯王は全て、芮以外は全て(盧綰も含む)、劉邦の縁戚である氏に代わっている。

また、功臣の中で上位にあるものとしては、

功第

1位 蕭何2位 曹参、3位 敖(張耳の子)、4位 周勃、5位 樊噲、6位 酈商、7位 奚涓、8位 夏侯嬰、9位  10位 傅寛、11位 靳歙、12位 王陵13位 武(陳武)、14位 王吸、15位 薛欧、16位 周17位 丁復、18位 蠱央 があげられる。

奚涓や薛欧、丁復、蠱央のような、ほとんど史書にも事績が書かれていない人物も含まれる。

なお、陳47位、張良62位と低く、この理由について様々な議論がされている。この功第の順は、呂后(呂雉)統治時代に再編されている可性があることも注意する必要がある。

なお、劉邦がい段階で功臣として封じた人物は、封じられた順に、曹参・陳樊噲・丁復・靳歙・陳・呂・王吸・呂沢・周.夏侯嬰・呂釈之・武儒・傅寬・張良・董緤・召欧・項伯・孔聚・薛欧・蕭何・陳賀・陳濞・酈商・陳豨・周勃・周竈の29名である。

王に封じられた人物も含めて、以上に挙げられた人物が、劉邦の漢王朝における重要な功臣にあたる。

劉邦の年齢

劉邦の年齢は、死去した時の年齢62歳(沛となった時点で48歳)説と53歳(沛となった時点で39歳)説がある。前者とすれば、項羽より24歳年上、後者では15歳年上となる。 

しかし、沛時代の劉邦の遊侠としての位置づけや劉邦の子供年齢の幼さから、劉邦はもっと年齢が下であった説が存在する。この研究では、劉邦の年齢は死去した時の年齢43歳(沛となった時点で29歳)としている。この場合、項羽より5歳年上となる。 

父の劉太公との関係

劉邦は若いころはの手伝いをせず、せっかく得た役人の地位も、持ちの結婚しながらも失い、逃亡したため、呂雉も捕らえられるほどで、家族に多大な迷惑をかけたことは想像に難くない。その後もであるは彭の戦いにおいて、項羽の人質となり、危うく煮殺されるところであった。 

この時、劉邦は、「々は義兄弟の契りを交わした間柄だから、私のは、お前にとってもである。釜茹でをやるなら、その煮汁を一杯分けてくれ」と言ったと伝えられる。項羽おじである項伯項羽にとりなしたため、実行させずに済んでいる。 

人質生活は2年半にも渡ったが、劉邦と項羽の間で講和が成立し、なんとか帰還できた。(ただし、劉邦が人質を無視して講和を結ぶことを優先して、項羽油断させた上で攻撃していないことには注意が必要である) 

また、劉邦と仲が悪かった次の妻の子(の孫の一人)に侯を与えるのを、に与えるのをしぶっている。 

しかし、劉邦は皇帝即位後ものもとに5日に一度、庶民と同じような礼をに行っていた。執事の発言を聞いて、自的に臣下の礼をとった。この時も劉邦はおどろいてから降りてをいたわり支えたと伝えられる。が重ねて、が臣下の礼をとることの重要性を聞いて、やっと同意している。 

また、が長安に来てから々としているのを見て、劉邦はが、故郷から離れてまた、『西雑記』によると、頼の若者たちとを売買し、闘と蹴をすることができなくなったため、という理由をすると、長安に近くに新豊(劉邦の故郷である豊の新という意味)をつくって、ふるなじみを呼んで、を喜ばせた、という。(このことから、遊び人気質であり、劉邦と元々から気があったのだろうと考える研究者もいる) 

また、劉邦はの死の前年、宴の席での長寿を祝い、「上は、私のことを頼で仕事をしない、仲(劉邦の次)に及ばないと言っていましたが、私と仲はどちらがなした事業が大きいでしょうか」とった。群臣はみな、万歳をとなえ大いに笑ったという。 

これは劉邦の多少のが入った冗談と解するべきであり、劉邦との仲は良好であったと考えるのが自然である。 

劉邦の「邦」は「兄い」という意味か? 

劉邦の名である「邦」は「い」の意味である「哥」を意味するという説が司馬遼太郎の『項羽と劉邦』で紹介されている。出典は、中国の清末にいた学者の意見であり、はなはだ頼りないものであるが、これが事実であった可性があるとする研究者もいる。 

現代では、発掘された当時の文献を調べたところ、劉邦の皇帝即位、あるいは死後から、「邦」の字は皇帝の諱(いみな)として扱われ、使われなくなったことから(なお、前漢の初期は厳格には守られていなかった可性もある)、劉邦の「邦」は(「い」の意味ではなく)、実名であるとする説が圧倒している。 

劉邦は楚人なのか 

劉邦は一般的に戦国時代の七のうち中国の南側に存在していた楚人のイメージが強い。沛は戦国時代が滅ぼされていた時に楚の領土となっており、また、劉邦は一貫して「楚」を名乗る勢下となっている。 

しかし、劉邦の生地である豊は、が滅ぼされた時に移住してきた人間たちの集まって生まれたであり、劉邦も遊侠時代ににいたはずの張耳食客となっている。『書』でも劉邦の祖先はに移り住んだとされており、それ以前はの前身)やに先祖が住んでいたとしている。 

項羽があくまで「楚」にこだわったことに対して、各に祖先が存在していた劉邦は、七組みによらない「」という国家を建している。

逸話

わしのほくろは72個まであるぞ!

劉邦の太ももには72個のほくろがあったといわれている。 

72と いう数字は当時の一年である360日を五行説5で割った数字で、古代中国において特別な数字とされており、偉大な存在の拠といわれている。もっとも、このせいで「劉邦は項羽72敗(あるいは71敗)した上で、最後に1勝して、項羽に勝った」という劉邦には不名誉な伝説が生まれてしまっている。

現代でも72と いう数字は何かと取り上げられることが多い。

俺は赤龍王赤帝の子だ! 

劉邦のが沢で休んで、を見ていると、鳴と稲がしてあたりが暗くなった。この時、劉邦の)がの上に蛟龍がいるのが見えた。劉邦のはやがてみごもり、劉邦を生んだ。(このため、劉邦は以外の男の子ではないかとする説があるが、少なくとも司馬遷はそのような意図では描いていない。あくまで、皇帝の特別な出生話の一種である) 

また、をつけで飲んでいると、寝ている時に不思議なものが見て、劉邦が屋にい続けるとが何倍も売れ、屋は劉邦の代はただにした。(創作ではこの話は劉邦の人気によりが売れたことになっているが、司馬遷の意図はあくまで英雄にまつわる怪異話である) 

劉邦が逃亡した時に、中で大きながいたのをった。その後で部下が近くで老婆が泣いているのを見つけ理由をたずねると、「私のの子がに変わっていたところを、の子にられた」と言って、消えていった。劉邦は喜んだ。 

劉邦は後に「の子」を自称しただの、当時の漢王朝は火徳じゃないからなんでなんだよ、とか、言ってはいけない。研究者にも分からないのだ。こまけえこたぁいいんだよ!! 

なお、みすぼらしかったはずの劉邦のったは、真珠と玉で飾られて、璃をちりばめたに納められ、漢王朝皇帝に代々伝えられた。そのに収まっていても、り照らして、そのいていたと伝えられる。 

オーラを持っているんだよ! 

上記と同じように、くさい劉邦の伝説として、劉邦の持っていた特別な気(オーラ)がある。 

始皇帝中国の東南地方(劉邦がいた地域)に天子の気があるといって、巡幸してその気をしずめようとしたとされる。 

劉邦が逃亡して隠れた時には、妻の呂雉は劉邦を探すと必ずその居場所を見つけた。劉邦が不思議に思うと、呂雉は「あなたのいるところには、いつも気がありから、探すことができます」とった。この噂を聞いて劉邦に従うものが増えた。劉邦があらかじめ場所を伝えて、呂雉が偶然さがしあてたように見せて、劉邦に箔をつけたという研究者もいるし、その方が自然だけど、こまけえこたぁいいんだよ!! 

また、「鴻門の会」の直前、項羽の参謀である范増は、「私が人に占わせたところ、劉邦の気はとなり、五色あり、これは天子の気です。すぐに討つべきです」としている。しかし、項羽はこの進言を聞くことなく、劉邦を許している。范増の発言は逆効果だったような気がしないではない。 

とにかく、劉邦はすさまじい「天子の気」を持っていたようである。と、特に漢王朝皇帝となった子孫は言いたかっただろうとは、推測できる。 

こまけえこたぁいいんだよ!!

首都である咸陽を落とした劉邦は民衆をがちがちに縛っていた法律を撤し、「怪をさせるな、殺すな、盗むな」という単純な法律のみを敷いた。 

後には再びきちんとした法律が敷かれることになるが、この単純さが民衆には受けたといわれている。 

なお、法三章では戦乱の世の統治ができず、蕭何の法を基本として新しい法を制定している。また、天下統一後も、余り変わらない法律により下をおさめている。 

これは口約束で終わったただの人気取りだったのではないかなどと言ってはいけない。『書』では、劉邦は民をいたわる詔を何度も発しており、法律は運用が違えば実態は大きく違うのである。多分・・。 

こまけえこたぁいいんだよ!! 

言うことを聞いた結果がこれだよ!

前述したとおり、劉邦は部下の進言をすぐに取り入れる。その進言が正しいものであればいいのであるが、時に誤った進言を取り入れてしまうことがあるため、失敗することもある。 

関中を項羽に先駆けて制圧した際にも、部下の「関中は劉邦様のもの。項羽は関中に入れないほうがいいです」という進言を聞き入れて、項羽軍を関中に入れなかったため、項羽激怒項羽を阻むはずの関は突破され、危うく項羽軍に撃破される寸前まで陥った。 

この後は本文の通り、張良の活躍でなんとか危機を逃れる。 

また、項羽に苦しめられている時に、酈食其に進言を取り上げて、楚のを弱め、を増すために、六(楚・・斉)の王の子孫を探して王としようとしたことがあった。劉邦は、六王の印綬をつくらせて、酈食其を出発させようとした。 

しかし、張良が聞きつけて、「六復活させたら、王(劉邦)に従って恩賞を得ようと戦っている人物たちが故郷に帰ってしまいます。また、六項羽に従ったらどうするのですか。その策に従ったら下の大事は去ってしまいます」と進言すると、劉邦は六の印をつぶしてしまった。 

結局、劉邦は張良だよりであることが分かる。ただし、その後も、劉邦は意外に全ての判断を張良や陳にゆだねているわけではなく、部下の進言を聞いてから、自分で判断している。 

これから毎日桟道を焼こうぜ

劉邦が中に入るにあたって、中原に至るための木でできた桟をすべて焼いてしまった。 

これは張良の進言によるものであり、すでに中原には興味がないというアピールをするためのものである。 

ところが、その後も劉邦営は韓信のような脱走が相次いでいるため、少人数では自立で帰ることができたようである。 

子供は投げ捨てるもの?

項羽に敗れ、中で息子劉盈(後の恵帝)、(後の魯元)(なお、どちらも呂雉との間の子)に会い、に載せて逃げることになった際に、楚軍に追われて、を軽くするために自らの子供を次々にから押して落とした。御者となっていた夏侯嬰は、「どうして、危険であり、が遅くなるからと言って、捨てることができようか!」と言って、そのたびにに拾い上げてに乗せた。このループ三度にもわたって行われ、劉邦は十数回も夏侯嬰ろうとしたといわれている。 

この件について、劉邦に対する非難が強い。劉邦への弁護も「子供ちより夏侯嬰を大事にしたかった(あるいはするように見せたかった)」、「中国では孝はなによりも大事であり、それをしない子供たちに実行させた」、「実は表現に誤りがあり、子供たちが自分たちからを降りた」というものがあるが、どれもとても苦しい。呂雉はこの件について、夏侯嬰にとても感謝しており、上記の弁護は不可能でないとはいえ、かなり難しい。 

ただ、この件については、戦時の非常時であるにも関わらず、劉邦は中で子供たちはわざわざ救い上げており、子供たちともども逃げのびて、結局は救っていることは注意すべきである。 

また、呂雉の後の行動が、この件について劉邦を恨んでいたことが原因であるとは、史書に記載されていない。 

医者なんていらねぇぜ 

劉邦の死の間際、黥布との戦いで受けた矢傷が痛み、劉邦が受けた痛みはまし、病はますます悪くなっていた。呂雉は良医を探して、劉邦の治療をさせた。医者は劉邦の病状を見て、「病を治せます」と言った。 

しかし、劉邦は「わしは民の身分でありながら、をひっさげて下を取った。これは命ではないか。命運がに定まっている以上、どんな名医でもどうにもでもならないだろう」と言って、黄金50斤を与えてひきさがらせた。 

男だって大好きだ! 

劉邦も籍孺(せきじゅ。孺は少年の意味)という評判の悪い佞臣を寵愛していた。 

籍孺は、へつらいと顔の良さだけで引き立てられ、劉邦と常に寝起きをともにし、大臣の進言は彼の口を通さねば、劉邦に伝わらなかったと伝わっている。 

籍孺は、を着飾り、やおしろいをしていたようであるため、いわゆる「寵童」であった。 

しかし、それはともかく、「籍」などという項羽の名と同じ名の人物をわざわざ近くに置くとは、劉邦が本当に好きだったのはひょっとして、などと想像もわいてしまう。 

詩だって読めるぞ! 

劉邦は皇帝に即位後、黥布の討伐の後、帰路に故郷の沛にもどっている。その時に沛の住民を集め、宴会を行った際に歌ったのが「大歌」である。 

飛揚(大起こりて飛揚す)

威加(威は内に加わりて故郷に帰る)

安得猛士守四方(安にか猛士を得て四方を守らしめん) 

が吹き起こり、をとびあがっていく。

わしの威下につたわった。そして、故郷に帰ってきた。

どうにか勇猛な人物を得て、四方を守らせたいものだ。 

劉邦が歌った後、沛の子供たちは和して習わせ、劉邦は立って舞った。劉邦はを流し、それはと伝った。 

こので歌われた猛士とは、誅殺した韓信彭越らのことをすとする説もある。 

悲しみだって、詩に託す 

また、劉邦は太子を戚夫人との子である如意に代えようと考えている時、太子であった劉盈(呂雉との間の子)に見知らず立な容貌の老人が四人、従っていたのを見た。劉邦が問うと、四人はそれぞれの名を名乗った。全て、劉邦の招きに応じず隠れていた名の高い人物であった。四人は、傲慢な劉邦のもとで働く恥辱に耐えられずに隠れていたが、太子の劉盈の仁ある人格という評判を聞いて、その下で仕えようと出てきたと答えた。劉邦はおどろいて、「最後まで太子を補佐して欲しい」と伝えた。 

劉邦は戚夫人を呼んで、「もう、あの四人が劉盈を助け、羽劉盈を助ける羽やのような存在)ができてしまったからには、太子を代えることはできない。呂后(呂雉)を人として仕えるように」と伝える。戚夫人が泣くと、劉邦は「わしのために楚の舞を舞ってくれ。わしはそのために歌おう」と言い、歌った。 

鴻鵠高飛一千里(鴻鵠高く飛ぶ 一挙千里

羽翮就横絶四(羽翮(うかく)(すで)に就(な)り 四を横絶す)

横絶四可奈何(四を横絶す 当(まさ)に奈何(いかん)すべき)

雖有矰繳尚安所施(矰繳(そうしゃく)有りといえども尚(な)ほ安(いずく)にか施すところあらん) 

鴻鵠は高く飛んだ。一挙に千里距離を。

はすでにできて、下を横断して、越えていく。

下を横断して、越えていくものを、一体、どうすることができようか。

矢があったとしても、一体、どうにかする手段がありはずもない。 

劉邦が何度か歌うと、戚夫人はを流し、すすり泣いた。劉邦は太子を代えることをあきらめた。この歌は、後世に、「鴻鵲歌」と呼ばれた。 

しかし、劉邦の死後、太子の地位を奪おうとした戚夫人と如意は許されることはなく、呂雉によって殺されている。 

予言だってできるんだ! 

天下統一後、劉邦はかつて礼を働いた王の部下に暗殺をはかられていた。劉邦はにおいて宿泊しようとしたが、県の名前が「人県」と聞いて、「人に迫られることだ」と言って、宿泊しなかった。 

また、の子である濞(りゅうび)を王に封じる時、その面相に謀反の相があると摘し、「50年後に東南に乱が起きるが、同じ一族なのだから決してそむくな」と注意していた。しかし、濞は結局、楚七の乱を起こすことになる。 

「そんな予言があるなら、逃亡することも、豊が落ちて苦戦することも、鴻門の会も、彭の戦いも、広武山で射られることも、その後の反乱も起きなかったんじゃ?」とは(何度も言うが)言ってはいけない。 

こまけえこたぁいいんだよ!!

小説・漫画・ゲームでの劉邦

『通俗漢楚軍談』

中国講談江戸時代翻訳した講談小説横山光輝項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。 

劉邦は当初は史実通り、業を助けない色を好む人物であったが反乱を起こしてから、運のオーラをまとうようになり、范増のように劉邦に仕えなかったことを後悔し、陳のように劉邦側に寝返るものも出てくるほどの人的魅を有するようになる。 

劉邦自身も項羽と対する意味で、史実通り、傲慢で儒者嫌いで態度は横柄なところはあるが、史実以上に民をいたわり、略奪を禁じ、善政に心がけている。また、進言についても、誤った進言や自身の判断により判断誤りをすることは多いが、誤りをすぐに受け入れて部下に伝えて、素直に助言をめる名君ぶりを発揮している。 

韓信たちの謀反についても、韓信たちに非があり、劉邦に対してはかなり擁護した描写がなされている。 

その反面、劉邦自身は一度も一騎打ちを行わず、戦闘においても部下に任せきりであり、矢で負傷するなど、「人間的魅は多大であるが、そのものは低い」というイメージの元となった作品である。

司馬遼太郎「項羽と劉邦」

人から摘されたり馬鹿にされた時、まるで虚のように己をくしてしまい、その者に教えを乞う。そんな姿勢が張良韓信など参謀の心を惹きつけていく。またよくある君とは違って、常に最前線で危険にされながら戦っていく姿が兵士や武将たちの心を掴んでいく。劉邦という人物の魅が常に具体的に表現される。

時に淫行にふけり、愚者として振る舞うときもあるが決してその本性まで愚者ではなく、時に非常に冷で人を観察することがある。これは若い時に地元民からチンピラ扱いされて迫されていたことからとする。項羽の死でこの作品は終わるが、余談として統一後の劉邦の忠臣粛清についてもわずかに書かれている。

本宮ひろ志『赤龍王』

上記の司馬遼太郎項羽と劉邦』と『史記』、久文雄の『史記』(原作久保田太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。 

北斗の拳ドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。作品自体は打ち切りではあったが、劉邦は役であり、青年であり、項羽よりさほど年が変わらない容貌で描かれた。 

劉邦は快で度量が大きい反面、下品でだらしなく描かれるが、史実や上記の『項羽と劉邦』よりは強く優しく、前線で敵兵をり、普段の態度とは裏な部下思いな人物に描かれる。また、劉邦の配下も全てそんな劉邦を心から慕っている。子捨てもカットはされてはおらず、夏侯嬰を救うために子供を捨てたこととされている(陳臣『小説十八史略』と同じ解釈)。 

する虞美人始皇帝項羽に奪われ、臆病さと情の薄さを虞美人から摘され、そのを失い、呂雉からは病的なを受けるという悲哀のある人物に描かれるが、その虞美人項羽から奪い返して人質にしたことから状況は好転し、劉邦を慕う臣たちのチームプレイによって項羽を倒す。 

作品の最後は、その後、(文字背景だけによる)劉邦が韓信たちを誅殺したという内容の見開きという衝撃の終わり方をする。 

横山光輝「項羽と劉邦」

んもう…わしをこんなに心配させおって…。 

ちなみに横山光輝項羽と劉邦」の作中では中心人物という都合からか、子捨て事件がカットされている。

が、横山光輝史記」ではしっかりと描かれていた。 

高橋のぼる「劉邦」

土竜の唄」の作者による楚漫画20203月時点で連載中。劉邦の逃亡前について丁寧に描かれ、蕭何が上であったり、呂雉の前に曹氏という人がいたり、兄貴分として劉邦をよくは思っていない王陵が登場する。 

劉邦は武芸ができず、いい加減な性格ではあるが、機転が利きかつ朗らかで、義侠心があり、とても魅的に描かれている。

光栄「項劉記」

全武将最高の統率99を持つ。実際彼自身は兵士の統率はそれほど高くないのだが、このゲームは魅というステータスいのでこのようなで落ち着いている。その他の戦闘56、用兵67、体力67とまずまずである。

コーエー「三国志」シリーズ

「いにしえ武将」という隠し武将として三国志より登場。魅は他のどの三国志武将も持っていない100を誇る。ただし他のは史実のよろしく40~50台とイマイチ三国志11では特技「強運」を持つ。これは戦争で絶対に死亡・捕縛にならないという、何度も負け戦で死線をかいくぐった劉邦とよくマッチするものである。

関連書籍

司馬遷『史記Ⅳ 逆転の力学exit』 徳間書店 

司馬遷『史記〈4〉逆転の力学exit』 徳間文庫

「もっと詳しく知りたいけど、漫画は読んだことはあるけど、史記翻訳や長い小説はちょっと・・」という人におすすめしたい一冊。この本の翻訳部分だけを読めば、短い内容で大体のことは理解できる。 

史記』について、歴史の流れを追う重要な部分を、原文、読み下し文、翻訳、注釈、寸評をくわえて、時系列に並べた解説書。歴史の流れをとらえて内容を理解するのが、とても分かりやすい。また、歴史の流れの筋から外れる部分は、テーマごとに分けて同じように解説しており、故事成語となった有名なエピソード把握できる。 

劉邦の活躍と戦いについて、関連する本紀・世・列伝を時系列でとらえることができる。 

また、冒頭にある「解題」によって、(古典的な説明ではあるが)楚戦争や統一後の劉邦の『史記』における特徴が、短く分かりやすく解説されている。 

文庫中古で安く購入できるし、図書館にどちらかを置いている可性が高い。 

の滅亡までの闘いや劉邦に関係する人物の列伝までを調べたい人は、あわせて3巻を読んで欲しい。 

シブサワコウ(編集)『項劉記ハンドブック (シブサワ・コウシリーズ)exit(光栄)』

文字だけでなく、イラストや簡略な地図もある書籍で劉邦たちについて調べたいなあ・・」とか、「小説的な掛け合いを含めた、人物についてもっと知りたい」という人にはこの書籍がおすすめ。 

無双シリーズ歴史シミュレーションゲームで知られるコーエーテクモゲームスの前身である光栄がつくった歴史シミュレーションゲーム『項記』のコンピューターゲーム攻略本。 

ゲーム自体の評価は高くなく、余り売れなかったようであるが、基本的な歴史解説とともに第五章の簡略な年表とゲームに登場する92名の人物解説がされている。また、ゲーム解説部分についても人物の掛け合い形式で書かれているため、そこをゲームプレイしなくても楽しんで読める人なら、なんとなく地理や形勢についても理解が深まるのでおすすめである。

堀敏一『漢の劉邦―ものがたり漢帝国成立史exit 』(研文選書) 

こちらは劉邦関係の小説や『小説十八史略』を読んだ人におすすめの一冊。 

値段が割高だけど、銭に余裕がある人や図書館で見つけた人は読んでみよう。 

劉邦に関連する史実について解説した概説書であるが、楚戦争項羽と劉邦の見方については、通説であった貴族と庶民の争いと見ており、そのため、小説では人徳の人とされることが多い劉邦像からは大きくかけ離れた捉え方はしていない。 

内容も史記書の史料の内容を較的、かきくだいた文章で書いており、歴史解説を最小限にした上で、注釈として巻末にして書く形式としており、途中の歴史解説でつまずかないように工夫されている。 

近年の発掘文献の内容も反映されており、かなり詳しい人でも巻末の注釈にある他の研究者への厳しい批判は楽しめるであろう。 

歴史群像シリーズ32 【項羽と劉邦 上巻】 龍虎、泰滅尽への鋭鋒exit』学研

文字ばかりでは、分かりづらいけど、ネットの記事は説明が充実していないという人におすすめの雑誌。歴史雑誌ではあるが、図解や地図も豊富であり、楚を専門にしただけはあって、コラム類も充実している。 

特に、あまり創作では描写されない劉邦の咸陽行きのルート地図に記載されている。地図で劉邦軍のあちこちでルートを変更ながら咸陽への進んでいったことを確認することができる。 

戦争については、続編である『項羽と劉邦 下巻 楚突と国士韓信 (歴史群像シリーズ 33)』が存在する。 

佐竹靖彦『劉邦exit』(中央公論新社)

史料について歴史的書き換えが行われたことを前提として、今までの通説を大きくかけ離れて大胆に楚戦争をとらえなおした一冊。学術研究書であり、内容は難しいから、史記の本紀・世・列伝の翻訳を読んでから読むことおすすめする。 

著者自身も項羽韓信により心理的に同情を寄せていることもあって、劉邦はかなりずる賢い、謀略に長けた「ワル」というとらえかたがされている。また、学説として劉邦が項羽よりそれほど年上ではない「青年説」もとなえている。 

著者としても、劉邦をおとしめるつもりではなく、奸策詭言(ずる賢い策略、相手をあざむく言葉)で勝利するのは、当時の英雄の条件であり、その成功こそが劉邦たちの誇りであったろう、それゆえに(他の時代にべて)真実に迫れる歴史書が多く残ったであろうと考えている。 

人徳の人・劉邦ではなく、「ごろつき出身のワル」劉邦像について知りたい人におすすめの一冊である。 

なお、続編に『項羽』がある。 

松島隆真『漢帝国の成立 (プリミエ・コレクション 87)exit』京都大学学術出版会 

2018年に発行された学術専門書。近年に刊行され、最近の研究が反映されており、また、専門書にしては安価で手に入りやすい。 

内容はかなり難しく理解がとても大変だが、劉邦や楚戦争時代マニア自称するなら、読んでおきたい一冊。 

読んで難しい場合は、上記の書籍のみならず、藤田勝久『項羽と劉邦の時代 帝国亡史』 (講談社選書メチエ)柴田昇『帝国成立前史』(社)や開元『帝国の成立と劉邦集団―軍功受益階層の研究()もあわせて読んでみよう。また、ciniiで手に入る「劉邦」や「 高祖」のキーワードで見つかるただで読めるPDFの論文を読んでみてもいい。 

この書籍の内容が理解できて、面く感じることができれば、さらなる学問としての歴史研究の面さや深さを知ることができるだろう。

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掲示板

  • 322 ななしのよっしん

    2024/02/10(土) 14:18:50 ID: z282LBMYxK

    蕭何は信頼されなくてもしゃーないと思うぞ

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  • 323 ななしのよっしん

    2024/02/14(水) 19:30:59 ID: 5Yw+CBNVav

    信頼もなんも劉邦晩年の樊噲は敵(呂后側)

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  • 324 ななしのよっしん

    2024/03/16(土) 13:59:09 ID: Mti1fCsfWG

    皇帝になったのに周りから皇帝だと扱われてないって感じの晩年劉邦にある種の哀しさを感じてしまう。自分が成り上がりで、権威なんてないことを一番理解していたような気がしてならない

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