大阪近鉄バファローズ 単語

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オオサカキンテツバファローズ

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パシフィック・リーグ
大阪近鉄バファローズ
基本情報
創設 1949年
解散 2004年
本拠地 大阪ドーム
優勝回数
リーグ優勝 4回
日本一 0回
経歴
プロ野球球団テンプレート

大阪近鉄バファローズとは、かつて存在した日本プロ野球チームである。略称は「近鉄」「大阪近鉄」。

2004年オフオリックス・ブルーウェーブと合併しオリックス・バファローズとなり、実質的には消滅した。

なお非常によく間違われるが「バッファローズ」ではない。「バファローズ」である。

歴史

1949年近畿日本鉄道専務であった佐伯勇がオーナーとなり、球団創立された。球団名は、近鉄沿線の伊勢志摩養殖される真珠パール)から、近鉄パールスと命名された。プロ野球1950年シーズンより2リーグ制に移行することが決まり、近鉄パシフィック・リーグに加盟した。初代監督には法政大学監督であった藤田省三が就任した。

選手の確保が上手く行かず、初年度から4年連続で最下位に低迷するが、高橋ユニオンズが参入した1954年には、田中文雄と関根潤三の奮闘もあって初のAクラス(4位。この年は8球団制)に浮上する。1957年までは最下位を免れるが、大映ユニオンズが合併で消滅して6球団に戻った1958年以降は最下位を独走するようになってしまう。

当然人気もなく、オープン戦の日程も、他球団のスケジュールを聞き、いている日に頼み込んで試合を入れてもらっていたほどであった。「弱い近鉄に負けると引きずるから」と嫌がられることも多かったという。

それでも、1958年オフ読売ジャイアンツ二軍監督を務めていた千葉茂を口説き落とし、監督に招聘することに成功した。それに併せて、球団名も千葉ニックネームであった猛から近鉄バファローに変更された。巨人出身者を8人も獲得するなどチームの体質善に務めたが、在任3年1961年には史上初のシーズン100敗を喫してしまい、最終的に現在でもワースト記録である103敗を記録してチームを去った。

1962年シーズンより、球団名が近鉄バファローズとなった。監督には別当薫が就任し、後にとなる土井正博慢して使い続けた。その後も成績はなかなか上向かなかったが、1968年より監督に就任した三原脩の手腕により、徐々にチームは変わり始める。翌1969年は最後の最後で阪急ブレーブスに競り負けたものの、初の2位に浮上した。翌年も3位を確保したものの、三原は球団と喧嘩別れする形で監督を辞した。

地方行もから購入を拒否されるほど人気のないチームであったが、1969年ドラフト会議甲子園アイドルと呼ばれた太田幸司の獲得に成功すると、チーム人気急上昇する。かつてあれだけカードを組むのに苦心したオープン戦も、巨人から申し出が来るほどに変容した(もちろん、コーちゃん人気を当て込んだものであったが)。

この頃には既にかつての弱小球団ではなくなっていたが、どうしても優勝には届かない。そこで、1973年プレーオフ(この年は前期後期制)で南海ホークスに敗れて辞任した、阪急ブレーブス西本幸雄監督を招聘することに決定した。退任即移籍、しかも同一リーグということで阪急球団も西本本人も難色を示したが、最終的には「西本さんの意向に任せる」ということで退団を了承し、晴れバファローズ監督就任が決定した。この時の会見では、ブレーブスオーナー近鉄社長が同席するという異例の形となった。

西本は、監督就任前には「近鉄の選手はいい体をしている。こんな連中を鍛えてみるのも、楽しいだろう」と思っていたという。ところが、近鉄監督として阪急と対戦すると、まるでが立たない。体力から精面、何から何まで作り直す必要があることを痛感し、近鉄では「正しいランニング」から始めたというエピソードが残る。

初年度の1974年は5位に低迷し、土井正博放出するという荒療治を敢行する(トレード成立の一週間後に指名打者制の導入が決定し、西本は後悔したという)。

1975年後期優勝し、悲願の「初優勝」を果たす。しかし、プレーオフでは前期優勝阪急に敗れた。この後2年間は低迷するが、1978年に再び後期優勝チャンスが巡ってくる。しかし、最終戦の直接対決で敗れ、阪急優勝を許してしまった。西本はこの敗戦を受け辞意を表明するが、フロントのみならず選手からも強い慰留を受け、続投を表明した。

そして1979年ヤクルトスワローズとのトレードが成立し、大砲チャーリー・マニエルを獲得した。マニエルロッテ戦で顔面に死球を食らい離脱するというアクシデントはあったものの、何とか貯を守りきり初の前期優勝を果たした。しかし、後期は阪急が意地を見せ、山田久志が後期だけで13勝1敗1Sという凄まじい成績を残す活躍もあり、僅差で優勝を逃した。それでも、プレーオフでは抑えの山口哲治の奮闘もあり、3連勝で悲願のパ・リーグ優勝を果たした。

午後8時、約1万人のファンが待つ日生球場で祝勝会が行われた。「悲劇のオーナー」と呼ばれた佐伯の〝晴れ姿〟であった。

大阪球場舞台に、広島東洋カープを対戦相手に迎えた初出場の日本シリーズ近鉄井本隆鈴木啓示勝利で幸先よく2連勝するが、舞台広島市民球場に移した第3戦での継投失敗からリズムを崩し、3連敗を喫してしまう。大阪球場に戻ってきた第6戦で大幅な打順変更を敢行し、5番に抜した梨田昌孝ホームランも出て勝利し、3勝3敗のタイに戻した。そして迎えた第7戦。1点差で迎えた9回裏に江夏豊満塁に追い詰めるものの、代打佐々木恭介三振、1番石渡茂スクイズ失敗と三振及ばず敗れ去った(「江夏の21球」として知られる)。

1980年も僅差で前期優勝は逃したものの、後期優勝を果たし、前期優勝ロッテオリオンズを3連勝で下して2年連続のパ・リーグ優勝を果たした。日本シリーズの対戦相手は前年と同じ広島で、近鉄2連勝、広島2連勝、近鉄広島とまたしても第7戦にもつれ込む熱戦となったが、最後はエース鈴木尽きて2年連続で日本一には手が届かなかった。

1981年シーズンはマニエル解雇され、また「びすぎるボール」が禁止されたことで打線一気に弱体化し、最下位に沈んでしまった。西本は辞意を表明し、この年限りで勇退した。近鉄阪急の最終戦10月4日ダブルヘッダーであり、試合終了後に西本は両チームの選手から胴上げされた。

その後の近鉄はやや低迷するが、1986年には1980年ドラフト1位石本貴昭が8勝3敗32セーブという数字を上げ、首位の西武ライオンズに2.5ゲーム差の2位チームを躍進させた。しかし、翌1987年投手が壊滅し、阿波野秀幸の新人王受賞など個人記録に限れば明るい話題はあったものの、チームは最下位に転落した。

1988年仰木彬監督に就任。この年は西武ライオンズと壮絶な優勝争いを繰り広げる。10月19日川崎球場で行われたロッテオリオンズとのダブルヘッダーに連勝すれば優勝だったが、2試合が時間切れによる引き分けとなりゲームしで優勝を逃した。このダブルヘッダー10.19と呼ばれプロ野球史上に残る名場面としてり継がれている。

翌年も西武オリックスと三つの熾極まりない優勝争いを繰り広げ、ラルフ・ブライアントの4打数連続本塁打などで西武を打ち砕き129試合(全130試合)で3度優勝を決めた。
日本シリーズでは巨人に3連勝をするも、第3戦の勝利投手加藤哲郎インタビューで、担当記者に「(巨人は)ロッテより弱いんちゃうの?」と振られ、「あれだけ、ええピッチャーおったら(リーグ優勝するで。でも打線アカンなぁ」と答えた。これをマスコミは、巨人ロッテより弱い」と発表。これに激怒した巨人ナインは奮起し、まさかの4連敗を喫し、またしても3勝4敗で敗れ去る。
第7戦も加藤先発したが、ホームランを打った駒田から近鉄ベンチ側に罵を浴びせられた。 

1990年野茂英雄が入団。しかし1992年に仰木が辞任し鈴木啓示監督に就任すると、選手との確執などで再びチームは迷走する。1997年より本拠地を大阪ドームに移転、1999年には大阪近鉄バファローズに球団名を変更、地域密着をはかる。

2001年、圧倒的破壊の「いてまえ打線」を擁し4度リーグ優勝(ちなみにこの年、チーム防御率4.98リーグ最下位)。マジック1で迎えたオリックス戦、2-5でリードされた9回裏、ノーアウト満塁から代打北川博敏代打逆転サヨナラ満塁ホームラン釣り銭なし)を放ち優勝を決めるという漫画でもあり得ないような劇的な展開は、これまでの優勝争いにおいても数々のドラマを生んできた近鉄という球団にこれ以上もなく相応しいものだった。しかし日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で破れる。そしてこれが最後の優勝となった。この年にタフィ・ローズ中村紀洋の3・4番が放った合計101本塁打は未だ破られていない(2018年シーズン終了現在)。

2004年近鉄の経営悪化によりオリックスとの合併計画が進められ、これをきっかけとした1リーグ化構想が絡み球界再編問題が勃発。結局オリックスとの合併によりオリックス・バファローズが誕生、近鉄バファローズは一度も日本一になることなく55年の歴史に幕を下ろした。日本シリーズに出場したことがあるにもかかわらず日本一になれなかったチーム松竹ロビンスと近鉄の2チームだけである。その後、近鉄の所属選手はオリックスと新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスに分配された。

2022年シーズンをもって坂口智隆ヤクルト)・近藤一樹四国IL・香川)が現役を引退し、近鉄OBの現役選手はいなくなった(厳密には現中日2軍打撃コーチ中村紀洋は生涯現役を言しているが、選手としての復帰予定がないことも明かしている。)。

特徴

いてまえ打線徴される、良くも悪くも快な野球が伝統的なチームカラーだと思われているが、全体的に見るとマニエルブライアント、ローズら大当たり外国人打者が入団した年以外は貧打に泣いていることが多い。優勝した年には狂った打撃成績を残しているが、これは「びすぎるボール」のおかげである(1980年シーズン終了後に公式に禁止が言い渡されている)。

前述の通り、1979年日本シリーズ1988年の10・19、2001年北川HRなど、優勝したときや優勝争いに絡んだ際にはプロ野球史上に残る名場面を残している。そういう意味で、非常にドラマチックな球団でもあった。

なお、半世紀以上存続したプロ野球球団で日本一を経験していないのは後にも先にも近鉄のみである。1961年には103敗という100敗以上を記録したのも近鉄のみである。

また、オリックスとの合併時点でパシフィック・リーグ会社の変更が一度もなかった一の球団であった。過去にさかのぼっても、他には3年間だけ存在した高橋ユニオンズのみである(1年だけ球団名がトンボユニオンズとなっているが、これは今でいうネーミングライツ)。

大百科に記事のある近鉄OB・関係者

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