「毛利隆元」(もうり・たかもと 1523年~1563年9月18日)とは、日本の戦国武将・大名。
1523年(大永3年)に誕生。武田信玄は1521年生まれであり、ほぼ同年代である。
後世の肖像画から察するに、父親よりも母親に似ていた(細面でやつれたような顔の元就に対して、隆元は白い肌とふくよかな丸顔が目立つ)ようで柔和な容姿だったらしい。そこを大内義隆に気に入られry
父・元就の保身策(それまで同盟関係にあった尼子家から鞍替えし、大内家と同盟関係を結ぶため)により、当時同盟関係にあった大内家へと人質に出された。時の大内家当主・大内義隆は文弱な性格であり、公家趣味とアッー!な娯楽を持つ人物であった。
10代という多感な時期をそこで過ごした隆元は、公家かぶれにこそならなかったが文芸や遊興を覚えてしまい、戦国武将としては覇気の足りないお坊ちゃんになってしまった。隆元は幼少期から親しんでいた鷹狩りを止め、絵画や仏典書写にばかり勤しむようになった。
元就は後継者の堕落に危機感を覚え、宿老の志道広良と共に隆元の訓育に苦労することになる。
どちらかが変ずれば、容易く覆されましょう。
▲宿老・志道広良が、隆元に言い諭したとされる訓戒。
理想的な君主と家臣の関係を、船と水に喩えた簡潔で見事な比喩表現である。元就と共に毛利家を支えた老将の一言に、隆元は相当心を動かされたようである。
元就と広良の厳しい訓育の甲斐もあって、隆元は1546年(天文15年)に家督を譲られる。だが実権はなく、毛利家は引き続き元就の主導下に置かれた。
隆元は父親に従順で、独自色を出すなどの派手な努力はしなかったため、隆元は生涯にわたって元就の手の上からは離れることはなかった。(できなかった、という方が正しいかもしれない)
隆元自身は、井上一族大粛清後の政治空白を埋め、毛利家の財政を統括すべく五奉行制度や官僚組織を構築。各種家訓や法度を定めるなど、行政機関を精力的に固めている。
また厳島以前まで、国人領主連合的な要素の強かった毛利家を一枚岩の大名家とするために、領主達との上下関係を明確にする方策(友誼を結んだり、金銭を用いて雇用関係になったりなど、相手に応じて硬軟織り交ぜて対応した)を講じたりなど、元就の覇業を影から支えた。隆元がこの時期に定めた家訓や法度の多くは、後世の長州藩の御家訓として採用されたという。この辺はもっと評価されるべきである。
また内政面だけではなく、防長平定後は九州戦線をほぼ1人で(小早川隆景の支援を受けてはいた)受け持って大友軍を相手に転戦を繰り返すなど、軍事面での才能も垣間見せる。
一時は雷神・立花道雪とも戦刃を交わし、北九州の覇権を争った。(さすがに相手が悪く、勝利まではもぎ取れなかったが、致命的な負けも喫していない。)
この隆元の南方での奮戦が、北方の元就の尼子討伐を大いに助けていた。また、戦線が落ち着いた後は足利義輝の調停活動を利用して和議を結ぶなど、政治力・外交力の片鱗も見せている。
1563年(永禄6年)、九州戦線から出雲戦線へと転進する途上、謎の腹痛に襲われ急死。
毒殺説も出るほどの突然の死であった。実際に元就はその後しばらくして、赤川元保など何人かの家臣を暗殺の容疑で誅殺している。
その数奇な生涯を、幕末の長州藩士・吉田松陰は平重盛(1138年~1179年 平清盛の長男)に重ね合わせて「仁徳の将、勇決の士」と称賛した。
Wikiで紹介されている通り、内政・財務面では至極優秀であったし、教養も豊かであった。城を自力で落とした経験もあり、武将としても一角の人物であったことは疑いない。
だが、それも自分を遙かに上回る存在が近くにいては曇ってしまうものである。それが、二人の実弟・吉川元春(毛利家の武勇を体現したような猛将)と小早川隆景(豊臣秀吉に天下席巻の可能性を示された智将)であった。
それに引き換え、二人の長兄である隆元には、確かに目立つ要素がなかった。(毛利家が天下の表舞台で評価されるような時代まで生きられなかったことも不幸だった)
更に不運なことに、隆元はその事実に気づけないほど凡庸でも鈍感でもなかったため、彼は父親や二人の弟達との落差に嘆き悲しみ、終生苦しみ続けていく。
その迷いと煩悶に満ちた思考形態は、まるで多感で打たれ弱い現代青年のようでもある。
細かい逸話などはWikiを参照してほしいが、平素から「自分は無器量無才覚だ」と自嘲し、またある時は「弟達から除け者にされているのではないか」という被害妄想じみた自虐思考に苦しんだ。その自信の無さは、読んでいる側まで居たたまれない気持ちになる。(深く帰依していた僧侶・竺雲恵心に対して、自分が死ぬ事を予期していたかのような、ネガティブな内容の書状まで送っている)
文を以て治め、武を以て守る。
功あるを賞すれば、すなわち忠ある者が増える。
罪を罰すれば、すなわち咎ある者は減る。
▲隆元が生前に自戒として遺し、長州藩御家訓として採用された一文。隆元の清廉な政治姿勢が読み取れる。
内政や財務に関する能力は本物だったようで、彼の死後に毛利家の財政は傾いている。毛利家の財務が正常化したのは、尼子家との戦いに勝利して石見銀山を入手した後になる。
財政感覚に優れた彼がいなければ元就の覇業も、元春と隆景の『毛利両川』としての活躍も、あり得なかったことを忘れてはいけない。
元就に従順だったのも、二代目としては賢明な判断(某二代将軍の如く)であるし、実力のある血族といざこざを抱えるのは世の常である。そんな血族達に振り回された人生ではあったが、決して後世に恥じるような生き方はしなかった、ある意味賢い人物であったとも言えよう。
もし早死にしなければ、彼に対する歴史家の評価も変わっていただろうが、歴史に『if』はない。仕方ないね。
毛利家で数少ない騎馬隊、更にVer1.2の毛利家で唯一の制圧持ちである。
基本的に常に動いていないといけない騎馬隊に制圧があっても微妙とか言ってはいけない。
2.5コストで8/7で魅力・制圧持ちとスペックは良い方である(同時に出た立花誾千代も同じスペック)。
ちなみに毛利三兄弟は全員特技として魅力を持っている。
計略の「百万一心」は、毛利家の味方の武力と統率を上げる采配。士気5とは思えない上昇量ではあるが、代償として自分は計略を発動すると撤退してしまう。効果時間もやや短い。
計略を発動する度「やはり、私は…」と言い残して撤退する。
復活時台詞が「私を頼ってくれ!」だったり、どこか哀愁を誘う台詞が目立つ。
初期は平均的~中の上程度の能力だったが、シリーズが進む毎に上昇傾向にあり、次第に父・元就を一回り低くした程度の能力を与えられるようになった。そして最新作の『創造』では、遂に政治力が90台を突破。賢弟・小早川隆景にも匹敵する能力を得た。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 79 | 政治 | 84 | 魅力 | 93 | 野望 | 77 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 64 | 政治 | 66 | 魅力 | 82 | 野望 | 50 | 教養 | 71 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 86 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 61 | 政治 | 80 | 野望 | 60 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 148(B) | 智才 | 130(B) | 政才 | 160(A) | 魅力 | 86 | 野望 | 69 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 74 | 智謀 | 80 | 政治 | 82 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 77 | 戦闘 | 59 | 智謀 | 75 | 政治 | 81 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 67 | 智謀 | 73 | 政治 | 74 | 野望 | 74 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 66 | 知略 | 72 | 政治 | 78 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 66 | 知略 | 64 | 政治 | 76 | 教養 | 71 | ||||||||
革新 | 統率 | 76 | 武勇 | 74 | 知略 | 72 | 政治 | 85 | ||||||||
天道 | 統率 | 76 | 武勇 | 71 | 知略 | 72 | 政治 | 85 | ||||||||
創造 | 統率 | 78 | 武勇 | 67 | 知略 | 81 | 政治 | 90 | ||||||||
大志 | 統率 | 78 | 武勇 | 70 | 知略 | 77 | 内政 | 85 | 外政 | 81 |
信長の野望シリーズでは、三兄弟が仲睦まじく結束する、ほのぼの家族劇が展開されている。(無論、実際にそこまで至るには数多くの苦難があったわけだが)
戦国無双のソーシャルゲームである「100万人の戦国無双」では、招き猫に取り憑かれた(そのせいが金運に非常に恵まれているらしい)気弱な青年として登場している。4以降でのプレイアブル化にも期待できるか?
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最終更新:2024/04/19(金) 04:00
最終更新:2024/04/19(金) 04:00
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