しょかつりょう ほかに することは ないのですか?
わたしは ちゅうごく さんごくじだいにて しょくかんに つかえた せいじかです。 あざなは こうめい。
まて あわてるな これは こうめいの わなだ? だ ま ら っ し ゃ い ! なんでも わたしのせいに すればいいという ものでは ありません。 |
外見は多くの場合、白い着物に先端がくるくるっとした帽子を被り、白羽扇を持っており、たまに車椅子に座っている(彼の発明品「四輪車」の想像図にちなむ)。
劉備に三顧の礼で迎えられ配下となる。劉備の死後は劉禅に仕えた。
その後、丞相として内政に励みながらも自ら軍を率いて魏を攻める北伐を行った。5度目の北伐の最中、五丈原の戦いの陣中にて病没。北伐の際に奏上した出師の表、後出師の表は名文として有名。[1]
一族にも有名な武将が多くいる。例えば兄の諸葛瑾は呉にて政治・軍事の両方で活躍していた。
演義で描かれた活躍のせいで、「妖術使い」だとか「神算鬼謀の策士」といった戦略家扱いされることが多いが(実際、コーエーの三國志でもそういう扱いを受けている)、正史における実際の本人は、内政に特に優れていたようである。
戦争の指揮や戦術眼に関しては、孔明と並び称された鳳雛こと龐統や劉璋を裏切り劉備らを迎えた法正など、他の人物の方が優れていたと評されることが多い。(共に蜀の建国以前に死亡し、北伐には参加できなかった)
正史での彼は戦争に関して慎重で堅実であり、むしろ奇策を好まなかった。ほぼ確実に勝てると踏んだ時にしか攻めなかったため、よく魏延と対立した。有名な話としては、北伐の際に魏延が敵の後ろからの奇襲を提案したものの、成功するかどうかは半々だったために孔明が退けたというものがある。このことについて、「国力に劣る蜀が致命的な大敗を免れてきた孔明の戦略眼」と見るか、「奇襲での勝利以外に逆転の道がないにも関わらず奇策を用いれなかった孔明の失策」と見るかでその手腕の評価は異なる。
陳寿は評において「臨機応変の軍略は得意でなかったのではないか」と疑問を投げかける。ただし、諸葛亮が数で勝る魏軍を相手に、さしたる損害もなく「勝てずとも負けない戦い」を数年に渡って展開し [2]、退却時にも王双や対蜀戦線のナンバーツーの名将・張郃を討っている。電光石火の急襲を得意とする司馬懿ですら、打ち破られて堅固に守り続けるしかない状態に追い込まれたことは紛れもない事実である。(敵の司馬懿からも「天下の奇才」と最大限に評価されている)
諸葛孔明(パリピ孔明)
掲示板
721 ななしのよっしん
2023/07/17(月) 02:04:21 ID: 3+38R3gwe+
>>704
それは些か偏った見方だろう。蕭何と韓信がおらず、張良のみだったとして劉邦が天下を取れたとは思えないな。それに巴蜀と荊州を得て、曹操に対抗するという諸葛亮の戦略に従って劉備は動いていた訳で、諸葛亮に戦略構築能力が無かったとも考え難い。
というか史記に記された活躍を見る限りでは張良の特筆すべき能力は戦略の構築というよりも、任侠時代に築かれたと思しき人脈と情報収集能力に基づく謀略、正確無比な見識に基づく政略的判断にある。
でもって、それらの能力を最大限活かせるのはある程度の勢力が乱立してたり、情勢が混沌としてる状況でなければならず、三国時代の様に少数の国家が総力戦に近い戦いをしてる中では活かせる余地も少ない。
中原で曹操や袁術と刃を交えてた頃だったら、もしかすると張良の方が諸葛亮より向いてたかもしれんとは思うが、諸葛亮が仕官した頃の劉備に張良が仕えても、諸葛亮以上の成果を得たとは思わんな。
722 ななしのよっしん
2024/02/05(月) 04:06:35 ID: OT8jsfxa3r
諸葛亮の根本的な強みは道徳だと思う。
当時でも、後世でも。
出師見てても意外とアジテーター的な才能があるんだが、とはいえ根っこは信賞必罰なので知識人の信頼を得られる。
ここのセンスを持たない策士や将軍は中国史で数多墓穴を掘ってきたが、諸葛亮はこの部分だけは完璧だった。
723 ななしのよっしん
2024/02/27(火) 13:07:58 ID: ez5QMAqUh2
昔は演義とかの影響で天候すらも見通す
天才軍師のイメージだったけど、
今は上に下に苦労している悲壮なる
中間管理職、というイメージ。
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最終更新:2024/04/18(木) 10:00
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