いしのようことは、日本の女優である。1980年代後半~1990年代前半には日本を代表したコメディアンである「ザ・ドリフターズ」の志村けんと数々のコントでパートナーを務めた名コメディエンヌとしても知られる。
1968年2月20日兵庫県生まれ。三姉妹の次女で、姉は1970年代後半にデビューし人気アイドル歌手となった歌手・女優の石野真子。末妹も一時芸能活動をしていた。
1985年4月「テディボーイ・ブルース」で本名の石野陽子としてアイドル歌手デビュー。既に有名タレントであった石野真子の妹という背景もあって当初から注目されていたほか、本曲はデビュー翌月にセガから発売された同タイトルのアーケードゲーム機専用アクションゲームとのコラボレーション曲という当時としては異色のプロモーションが行われた。ゲームのテーマ曲として使用されるだけでなく石野本人のキャラクターがゲーム中にも登場するのは当時画期的であった。なお、ゲームはその後家庭用ゲーム機のセガマーク3、メガドライブ等にも移植されていったが移植されるたびに石野に関する項目は削られていた。
しかし、アイドル歌手としてのデビューにも関わらず石野本人は歌手活動が恥ずかしくて嫌だったと後年語っており(「志村けんのだいじょうぶだぁ」などではギャグの一環でデビュー曲のイントロが数音流れただけで悶絶したことも。ただ、同番組の歌のコーナーでは自らの曲を歌ったこともある)、歌手としてはデビュー当時各放送局で行われていた音楽祭の新人賞部門候補者にはいくつか選ばれたものの、ヒット曲には恵まれず、シングルは1989年に発表し「志村けんのだいじょうぶだぁ」のエンディングテーマとして採用された「KISSまで待てない-MY WORLD-」が最後となっている。一方、デビュー直後からドラマにも出演、単発ドラマでの主演を早くから演じていたほか、翌年には「セーラー服通り」(TBS)でレギュラー放送のドラマで初主演を務めた。
1987年9月に放送されたフジテレビ「ドリフ大爆笑」にゲスト出演した際、初めて志村けんが相手役で自らがオチを担うコントに出演(「大爆笑」自体は1986年7月以来2度目の出演だったが、初出演時は志村の出ていないコントのみで、役も大勢の中の一人だった)。その際、「最後にカメラが行くので何か適当にオチを」という無茶振りな段取りで恐怖を感じたという。ところがその直後に志村メインの新番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」への出演依頼が来る。初めは「大爆笑」での恐怖もあってか丁重に断ったものの、志村自身から「3か月間勉強だと思って来いよ!」とまで直々にオファーされ、「3か月だけ」「絶対に私にオチを持ってこない」という条件でならと出演を引き受けたという。志村は著書やトーク番組などで「よく笑う子でお笑いが好きならセンスがある」と事あるごとに語っていたが、石野については「ドリフ大爆笑」での初共演の際に「すごく笑う子だった」と志村も印象深く語っており、志村のコメディへの適性を見抜く力が正しかったことが証明されることとなる。
1987年11月、月曜夜8時からの1時間枠で「志村けんのだいじょうぶだぁ」の放送が開始され、初回からレギュラー出演を開始。志村の著書によると「慣れて本領を発揮してコントをやれるようになるまでには少し時間がかかった」といい、当初は何人かいた女性アイドルレギュラーの1人という存在感だった(初期の「だいじょうぶだぁ」において、志村の男女コントの相手役は女性ゲストが演じることが多かった)。しかし、3か月という約束が早々に忘れ去られ、やがて数々のコントの中心キャラを演じだすと、次第に男女ペアのコントは志村と石野の組み合わせが1つの定番となる。
志村のコントは日常の風景を切り取ることが多いことから、新婚夫婦、親娘、熟年夫婦、恋人、舅と嫁、母と息子、変なおじさんとそのターゲットの女性など数えきれないパターンの役を演じ、時に志村を食うほどの絶妙のコンビネーションを見せはじめる。また単独でも少女、女子高生から若妻、OL、老婆まで、天然キャラからツッパリヤンキー、クールビューティ、任侠の女、そしてシリアス無言劇に代表される悲劇のヒロインまで多彩に演じ分け、ボケもツッコミも、さらには当初は嫌がっていたオチもこなし、時に台本にないアドリブも混ぜる志村の変幻自在な演技にも、少し恥じらったり大笑いしながらも絶妙に硬軟織り交ぜ絶妙なタイミングで受け返すコメディセンスを開花させた。特に以下のキャラクターは代表作となった。
・おハナ坊
同時期には年に数回特番で放映されていた「志村けんのバカ殿様」でもメイン格の腰元の一人としてレギュラー出演するなど、当時の「だいじょうぶだぁファミリー」と呼ばれた中でも、志村けんのパートナーとして田代まさしと共に欠かせない存在となっていた。
志村とのコントでのやり取りが細かい所まであまりにも息がピッタリになっていったこともあり、幾度となく週刊誌のゴシップネタとして志村との仲が度々取り上げられた。一度それを逆手に取ってか「だいじょうぶだぁ」の後半コーナーの最中に2人で改まって発表したいことがあるとしてスタジオが騒然となるも、「2人とも誕生日(ともに2月20日生まれ)を迎えました」というオチで一同をズッコケさせたこともあった。
一方で、志村は著書の中で結果論かもしれないとした前置きした上で、石野との夫婦コントについて「仕事場で会うだけではあの表情は難しいかもしれない」とも記している。「5時の夫婦」のコントの台本合わせは志村の楽屋で二人きりで弁当を食べながらやっていた時期もあるといい、実際に親密さがあったからこそのあの雰囲気が出せたともいえる。
1992年、「だいじょうぶだぁ」女性レギュラーのもう一人の看板だった松本典子が結婚を機に芸能活動を休業し、同年いっぱいで番組を降板することとなった際、石野も同時に番組から降板することとなる。最後の出演回では2人の卒業を送る特別版が放送され、名場面やNG集のあと、スタジオでスタッフを交えた打ち上げパーティの様子までを放送。番組では感情が巡ってる雰囲気は伝わりつつも抑え気味に視聴者へ卒業の感謝の挨拶をしていたが、最後にスタジオを去る際、万感の想いがこみ上げたか号泣する石野を、本格的にコントの世界へ誘い、鍛え上げた志村がすっと彼女を抱きしめた姿はあまりに印象的であった。最初は3か月だったはずで出演者のクレジットテロップも真ん中ぐらいだったのが、最終的には出演期間は約5年の長きに渡り、クレジットテロップも「志村、田代、松本、石野」の順と4番目にまであがるなど、現在まで番組の看板のひとりに語り継がれるまでに成長していた(様々な年代の役を演じていたが、番組卒業当時の石野はまだ24歳であった)。
翌年からは以前レギュラーを務めていた渡辺美奈代を新たに女性レギュラーの筆頭格として復帰させるなど女性レギュラーを入れ替え、コーナーのリニューアルも施して再スタートした「だいじょうぶだぁ」であったが、1993年9月いっぱいでレギュラー番組としては終了。以降は特番に移行した。
志村メインの番組は翌月から水曜夜7時半からの30分枠「志村けんはいかがでしょう」に移行。この番組で石野は番組後半に放送されるスタジオ収録の公開コントコーナーのレギュラーとして9か月ぶりに復帰する。しかし、「だいじょうぶだぁ」からの流れで志村の相手役は主に渡辺が務める形は継続され、石野は基本的に脇を固める役回りが多くなる。一方で、「だいじょうぶだぁ」時代に人気を博した「おハナ坊コント」を復活させたりと、時に志村との2人コントを演じることもあり、その際には変わらぬコンビネーションを見せた。
同番組は1995年4月から1時間枠となるもフジ系ではローカルセールス枠の月曜に移動したことで、一部地域では枠を失ったことで打ち切られ、番組自体も同年9月で終了。志村メインのゴールデンタイムの番組はタイトルを変えながら1996年9月まで継続したが、石野の志村メイン番組へのレギュラー出演は「いかがでしょう」の終了をもってピリオドが打たれた。
「志村けんはいかがでしょう」の終了後はテレビドラマや映画、Vシネマ、舞台などで本格的に幅広く女優として活動。脇を固める役が多く、Vシネマ「ミナミの帝王」シリーズでは1996~2000年にわたってレギュラー出演した一方、TBS系で放送されていた平日昼の帯ドラマ枠「ドラマ30」で主役を務めた作品もあった(「ふ~ふ生活」(1996年6~7月・中部日本放送制作)と「おかみさんドスコイ!!」(2002年4~5月・毎日放送制作)の2作)。また、バラエティー番組にもゲスト出演していた他、TBSの「日立 世界ふしぎ発見!」で準レギュラー的な頻度でゲスト回答者を務めていた時期もある(ミステリーハンターとしても出演した)。
なお、1996年末~97年ごろに芸名を本名の漢字表記からひらがなの「いしのようこ」に改名している。
2003年1月4日、「志村けんのバカ殿様2003お年玉スペシャル」にいしのと当時主婦業に専念していた松本典子が揃ってゲストとしてコーナー出演し志村と久々に共演。いしのは登場するや否や「ひとり足りない…」と言い出して一同を慌てさせ家老の桑野信義が平謝りしたり(前年に不祥事で完全降板した田代まさしがいれば元祖「だいじょうぶだぁ」の主役格が勢ぞろいだった)、志村が「5時の夫婦」の定番ネタを振ると即座に往年のやりとりを返すなどブランクを感じさせない姿を見せた。
その後2012~2014年には志村の座長公演「志村魂」に客演。2012年の製作にあたり志村からのオファーをいしのが快諾して実現したといい、久々の共演ともあって大きな反響があった。翌2013年の公演前の記者会見では、志村といしのがコントをレギュラーで演じた時代から20年近く経っていたことから受け入れられるのか不安もあったものの、前年の公演で客席からは「待ってました」という雰囲気が流れてきてホッとしたという。この頃、「志村魂」のプロモーションを兼ねて志村といしのがバラエティー番組のゲストでいくつか共演しており、その際の志村とのやりとりでもいしのとの息が今もピッタリであることが改めて示された。
この頃既に志村は年齢や芸歴からも堂々たる芸能界の大御所的な立場となり、易々と突っ込める存在ではなくなっていたが、お構いなくコントさながらに志村に切り込むいしのの姿に後輩芸人は懐かしむと同時に驚いていた(晩年の志村に容赦なく突っ込めたのはいしのとダウンタウンの浜田雅功くらいだったという評もある)。
それ以後は共演がないまま、志村が2020年3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎により突如急逝。いしのは「若かりし頃に教えて頂いた数々の事、忘れません」と追悼のコメントを発表した。
4月1日、志村メインの番組を放送し続けていたフジテレビが志村の追悼特番を放送。ザ・ドリフターズの3人と共にゆかりの女性タレントとして研ナオコとともにいしのが出演した。諸事情で「だいじょうぶだぁ」のコントの大半が地上波で流せなくなっている中、いしのと志村の2人コントだった「デシ男に道を聞かれ困る石野(デシ男初登場のコント)」と「おハナ坊コント(動物編)」の2本を放映。一時代を築いた名コンビを思い出し、当時を懐かしむ声がネット上にも多く流れた。
いしのは志村について「(ドリフのコントで加藤茶が志村に)何やっても突っ込んでくれるから安心してやれる、と加藤さんが志村さんに教えたからでしょうね、…好き勝手やりますよ。もう大変でした。」と苦笑いしながら振り返った。それに対し加藤は「志村がどんなにアドリブ使っても(研もいしのも)受けるじゃない。それが凄い。今見ても面白いし、改めてゲストも凄いなと思う」と称賛した。
引き続き女優として活躍している。なお、若い頃は(コントできわどいことをやったりしたときは時折「私お嫁に行けなくなっちゃう…」とボヤいていたこともあったのだが)完璧な独身主義だったという。ただ、それは卒業したといい、籍を入れた結婚ではなく一緒に居てくれるパートナーが居てくれたらいいと後年語っていた。そして、2019年に放送されたバラエティー番組に出演した際、結婚という形に興味はないのは変わらないものの、1歳年下の男性と事実婚状態にあることを明かしている。
かつてのコント出演の視聴に関しては公式にはイザワオフィスが2021年4月17日までの期間限定でYouTubeに公開している「志村けんのだいじょうぶだぁ」の動画以外は番組DVDの購入が手っ取り早い。DVD自体はリリースから相当年数を経ているものの現在も新品の購入が可能である。
一方、テレビ放送としては状況の変化がない限り、諸事情が当てはまらない水曜時代の「志村けんはいかがでしょう」は過去にCSで放送されており、可能性はある。また、過去2回ある「ドリフ大爆笑」の出演回は同番組自体が現在もCS「ファミリー劇場」に加えBSフジでも放映されていることから、再放送される機会はあると思われる。
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最終更新:2024/04/18(木) 17:00
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