えのころ飯 単語


ニコニコ動画でえのころ飯の動画を見に行く

エノコロメシ

5.0千文字の記事

えのころ飯歴史的仮名遣:ゑのころ飯)とは、日本薩摩にて食べられていたと伝えられる料理である。

概要

端的に言えば、子犬を裂いて内臓を取り出し、中となったを詰めて丸焼きとしたもの。薩摩現在鹿児島県の西側)で食べられていたとする文章が存在している。

「えのころ」という言葉は漢字で書くなら「子」「児」「狗子」「狗児」となり、つまりは子犬す。「いぬころ」または「いぬっころ」から訛ったものらしい。要するに「ころ飯」である。植物の「エノコログサ」でよく知られるが、このエノコログサは穂の形が子犬尻尾に似ているためにそう名がついたらしい。

江戸時代の文人である「」の随筆・見聞録『譚』に、以下のような文章が収録されている。

薩摩にては狗の子をとりえてを剖、腑をとり出し、其跡をよく〱にてあらひすまして後、をかしぎて内へ納、針金にて堅くゝり封じて、其儘竈の焚火に押入なり、始はかぬるやうなれども、しばらくあれば狗の膏火に和して、よく焚てになる、其時引出し針金をとき、をひらき見れば、納置たるよく蒸て飯と成、其色なり、それをそば切料理にて、汁をかけて食す、味甚美なりとぞ、是を方言にはゑのころ飯といふよし、高の人食するのみならず、さつまへも進む、但侯の食に充るは赤犬ばかりを用る事といへり、

(現代語訳:薩摩ではの子を捕まえてを裂き、内臓を取り出したあとの洞をよくで洗浄した後に、を炊いての中に納めて、針金でかたくくくり封じて、そのままかまどの焚火押し入れて焼く。はじめのうちは焼けないようだが、しばらくするとの脂が火の熱に合わさって、よく焚けてになる。そうするとかまどから引き出して針金をといて、を開いて見れば、納めておいたはよく蒸されて飯となり、その色は赤色になっている。これをそば切り料理として汁をかけて食する。味はとてもおいしいという。これを方言でえのころ飯というそうだ。身分が高い人が食べるだけでなく薩摩にも差し上げる、ただしが食べるものには赤犬だけを用いるとのことである。)

また、同じく江戸時代の文人である「山人」(大田南畝)の随筆集『一話一言』の後からの追加部分『一話一言補遺』にも以下の文章が収録されている。

  ○薩摩にて狗を食する事
薩摩にては、狗の子をとらへてを裂き、腑をとり出し、其跡をよく〱にて洗ひすまして後、をかしぎて内ヘ入納、針金にて堅くく〻りをして其ま〻竈の焚火に押入なり、初はけ兼ぬるやうなれども、暫く有れば狗の膏火に和して、よく焚て見れば、になる、納置きたるよくむして飯となり、其時引き出して針金をとき、を明け其色なり、それをそは切料理にて、汁をかけて食す、味甚美なりとぞ、是を方言にはゑのころ飯といふよし、高の人食するのみならず、薩摩侯へも進む、但侯の食に充るは、赤犬斗を用る事といへり。

この『譚』と『一話一言補遺』の文章はほとんど同じで、言い回しや文字使いがわずかに異なるのみである。どちらかがどちらかを引用したものか、あるいは現在では知られていない共通の元ネタ本があったのかもしれない。

これら二つの「ほぼ同一の文章」よりさかのぼる出典はいようだ、これ以後の記述もこれらの文章のどちらかを参照したものが多い。

これらの文章によれば、そのまま丸焼きのごと食べたという描写ではなく「を開いてみるとは蒸されて色がついた蒸し飯になっているので、そば切料理として汁をかけて食した」と記されている。しかし「の部分は食べずに捨てた」と書いてあるわけでもないので、「の部分まで食べたのか否か」は実はこれらの文章でははっきりしない。

実際にこういった料理があったのか、という点についても実のところよくわからない。『一話一言補遺』の方は他にも「長崎の唐人屋敷には幽霊が出る」「ウサギ鼓を打つ」「大を助けた百姓が、お礼に重な木の枝をから渡された」などと言ったあからさまに胡散臭い話も掲載されているような書物である。

ただし、を騎射の的とする術鍛錬にして一種のスポーツでもある「追物」で殺されたを食べたという記録室町時代からあり、また薩摩ではこの「追物」が他の地よりも長く残っていたことで知られる。よって「こういった料理はありえないものだ」とは言いがたく、存在していたとしてもおかしくはない。

さらに、やはり偽は不明ながら「知り合いの鹿児島県人から直接聞いた話によると……」という体での以下のような話が、昭和12年1937年)刊行の『食物講座 第十二』に掲載されているようだ。

を食べたとか狗を食べたとか、又はを食べたなどといふことは、日本でも農などではさのみらしいことではなく、特に赤猫狗はうまいものといふ定評がある位で、(際はさう等差がありさうにも思はれないが)取り立て奇とするには足らないかも知れませんが、中でやゝつたやり方のものを御紹介すると、「さつまのえのころ飯」といふのがあります。今日薩摩人の間にこんなことが行はれてゐるか否かは存じませんが、知り合の鹿人から直接聞いた話によると、材料の狗ころは赤犬を隨一とするのださうです。殺してを裂いて、腑一切を除いたのに、冷飯を詰め込んで更にその切り口を麻で縫ひ合せるのださうです。そして上つ面の毛一通りを剃りおとしたのを、その儘焚火の中へ放り込むのださうです。そのはじめは狩場の宴などで、その時の獲物の鹿でもつてやつてた方法なのださうです。殿臣も一つ焚火んでの講といふのが、古薩摩の特になつてゐたとの事です。つまりこれ民間に移つて野や畜用されたのださうです。

以上の『譚』『一話一言補遺』『食物講座 第十二』いずれにもある、赤犬を特別視するような記述は、おそらく「赤犬が美味である」という俗説に基づくもの。明治時代の調理に関する書籍『実用割烹講義録』には以下のような記述がある。

次は貞卯年に州といふ人が『食用簡便』といふ書を著して、その功用、調理法を恁ふ述た、

(中略)

を上とす、斑のし……このといふのは赤犬のことで、赤犬は美味いといふ俗もこれより出たが、その最初は支那の『本』のを取次だのである、

ここにあるように、中国の著名な書籍『本』にはについて「為上白犬為次之」(「を上とする、白犬はそれに次ぐとする」)といった記述があるようだ。これが「黄色」→「黄色」→「色の」とスライドして、「赤犬が美味い」という俗説となったものだろうか。

さらにこの『実用割烹講義録』には、薩摩での文化についてこうある。

文政二年の本間の筆記で『』といふ書中によると、今の世はを喰ふ事ない今州にては若き人々をだに見れば打殺して喰ふとの事江人は聞へて、唐人の如しなど驚てかたりあへども、昔は江人も皆を食せし事落穗集に委しく書載たり、の士りさも有けむと思はる、今の世のを喰はぬをあしといふにはあらねども、是にて人の勇氣衰へたるをさとるべしなどと食用の動機は武士の遺だといふた、

(現代語訳:文政二年の本間游清の雑記で『』という書物によれば、
を食べることがなくなった現代だが、今でも薩摩においては若者を見れば打ち殺して煮て食べる、という話を江戸の人が聞き伝えて、『唐人のようだ』と驚いて語り合うが、昔は江戸の人も皆を食べていたことは『落穗集』に詳しく記載されている。(薩摩には)戦国武士の気がそのように残っているのだなあと思える。現代の人がを食べなくなったことを悪いというわけではないが、こういったことで人の勇気が衰えたことを悟ることができる」
などと、を食用にすることの動機は戦国武士の遺であると言っている)

薩摩若者を見たらぶち殺して食う=薩摩には戦国武士の気が残っている」というポジティブな捉え方である。そういうものであろうか?

また、鹿児島県地方新聞である南日本新聞社長も務めた人物である鹿児島県人の「川越正則」氏による1950年の書籍『南日本文化史』に、えのころ飯について説明した文章の後に

現在はどこにもこういうやり方はのこつていないようである。しかし、だけはいまも食つており、赤犬が最もよいとされ、ワンの汁は二杯とないという言葉があり、は体が温まるともいう。

と記されており、少なくとも1950年代の鹿児島県民から見て「ありえない料理だ、フィクションだ」というとらえ方ではなかったことがうかがえる。

ゐぬごろ飯(いぬごろ飯)

明治昭和時代作家真山果」が1928年に『文芸春秋』に載せた随筆『口嗜小史』に、幕末の儒学者「頼三三郎」(頼山陽息子)について記した以下のようなくだりがある。

 梁、ひそかにを評して、「彼はおやぢの名と終生格闘して大怪をする男だ。」とつたさうだが、彼の性質傲不覊、しく、人を人とも思はぬ男であつたらしい。そのくせ根はかなり小膽な臆病者で、つて山陽の名をふ時は必ず涕泣するがあつたとふ。例の寛永寺の暴一件で校を追はれて、齋藤拙堂の送序一篇をふところに悄然と東北漫遊の途にのぼつた際には、わが大叔父と同塾の係よりして、暫くの間の外祖母に寄留してゐたことがあるとて、幼時祖母の話に、よく三の噂を聞いてゐる。その中で今にも明かに覺えてゐることは、三京都生れの故か魚類り好まず、獸のを非常に嗜み、家鴨論時には近隣の飼まで撲殺して食ふので、これには甚だ迷惑したとふ。る日、湯よりの途、飴色なる小の頸を荒繩にてくゝりつけ、信々と悲鳴をあげさせつゝ庭先からつてたるに、家族の者は驚いて細を問ふと、長々御厄介になつた御今日ぬごろ飯とて薩摩料理の極上を皆に御馳走しませうとふ。料理へばいづれ小を殺すことに相違ないから、今日は何某の精進日なればなど、女ども々に言して、漸くに小の繩を解き放ちやりしとふ話を聞いてゐる。この頃調ぶることありての『譚』を繙くと、丁度そのぬごろ飯の調理法が書いてあつた。序にその本文のまゝ載せて置く。

これより以下には、前記の『譚』からの引用文と同じものが掲載されている。「ゑのころ飯」(えのころ飯)が「ぬごろ飯」(いぬごろ飯)と呼ばれることもあったと判断できる資料だろう。なお京都出身の頼三三郎がなぜ薩摩料理であるはずの「ぬごろ飯」を作ろうと思い立ったのかは不明。とりあえず他人の飼を撲殺して食うようなこの不届き者には罰が当たればいいと思う。

フィクションでの扱い

薩摩を題材としたフィクション作品でも、登場したり、言及されたりすることがある。

特に有名なものとしては「本陽」の小説を「とみ新蔵」が漫画化した作品『示現流』での登場で、この「えのころ飯」が登場する2ページインターネット上でも時に話題となっている。薩摩ではなく京都で行っており、周囲の人は逃げ出していた。

ちなみに、よく見ると「あ!うちのシロ!」という女性台詞があり、飼い犬をえのころ飯にしている。

その他にも、以下のように様々なフィクションにて言及されている。

例えば平野耕太漫画作品『ドリフターズ』にて

島津豊久州でんばよか食うど 戦場でんえのころ飯ちうて ば減ったら野をばひっつかまえ」
織田信長「もういいッ 聞きたくもないわ!!」

また、山口貴由漫画作品『衛府の七忍』にて、これから切腹しようとする人物の台詞

中馬大蔵「臓物(もつ)抜いて ん中 (から)にすっで 飯つめて炊いて喰ってたもし!」

しかし、この場合はではないのでレギュレーション違反である。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/10(水) 02:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/10(水) 02:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP