お伽草紙とは、太宰治の短編小説集である。『瘤取り』『浦島さん』『カチカチ山』『舌切雀』の4編から成る。
日本の昔話を下敷きに、太宰が独自の想像を加えて、新しい作品に仕上げている。
1945年10月25日に筑摩書房から出版された。作者の逝去から70年が経過した現在は著作権が消滅しており、青空文庫やAmazon・Kindleにて無料で読むことができる。
軽妙な語り口とユーモア溢れる筆致で、太宰治が鋭い人間洞察を披露している。
本作品には落語調の軽快な語り口が多く見られる。『浦島さん』における浦島太郎と亀の喋りや、『カチカチ山』のタヌキの喋りは落語そのもの。
太宰治の代表作は『人間失格』『斜陽』『走れメロス』などとされるが、『お伽草紙』はそれらの作品とは雰囲気が大きく異なっている。まことに面白く、実力あるコメディ作家の随筆を読んでいるような気分になる。
本作品を傑作と扱う声は多く、立川談志、大藪春彦、小林信彦、奥野健男、高橋源一郎などが絶賛している。
高射砲の音が鳴り響いたのに合わせて防空壕に逃げ込んだ一家だったが、5歳になる娘が「防空壕から出たい」と主張しはじめる。それをなだめるため、作家の父は絵本を手に取り、色んな日本の昔話を読んで聞かせる。そうしているうちに、作家の父の胸中には新たな物語が沸き起こってきたのであった。
厳粛で真面目な妻と息子のいる家で窮屈な思いをしていたお爺さんだったが、50歳を超えた頃から右頬に大きな瘤ができて、瘤のことを孫のように思い大事にしていた。あるとき家から逃れて飲酒をしていたお爺さんが、雨宿りをするため山の中に入ったら鬼の住処に入りこんだ。鬼たちも酒を飲んで酔っており、宴会をしている。お爺さんは阿波踊りを披露して、鬼の歓心を得るが、お爺さんとの再会を願う鬼たちによって右頬の瘤を奪われて預かられてしまい、とぼとぼと帰途につく。
気まぐれで亀を助けた浦島太郎は、風流を愛するお金持ちの長男坊だった。亀は命を救ってもらった恩返しに浦島太郎を竜宮城に招待しようとするが、浦島太郎は「亀の甲羅に乗るなんて、風流じゃない。下品だ。冒険はあまり好きではない。私は先人のおだやかな道を、まっすぐに歩いて行きたい」などとキザったらしいことを言い始める。これに対し亀が散々に煽ったり罵ったりして、なんとか浦島太郎をその気にさせる。
カチカチ山の狸が卑劣な詭計を受けてなぶり殺しにされる凄惨な運命をたどったことに対し、眉をひそめた筆者は、「この物語は、16歳の処女が、自分に寄ってくる不細工な男を懲らしめる情景を物語にした」と喝破する。
冒頭にて筆者は『桃太郎』の執筆を断念した理由を長々と語る。「日本一の桃太郎」を書く自信がない、自分が桃太郎を書くとすれば小さい時から泣虫でさっぱり駄目な男になりそうだがそんな桃太郎を書いてしまえば外国の人に「なんだ、これが日本一か」と言われてしまい日本に対してすまぬことになる、と言う。
代わりに書かれた舌切雀のお爺さんは病弱で本ばかり読んでいて仕事をしない駄目人間、お婆さんはそんな駄目人間の世話をするように富豪の実家からあてがわれた怒りっぽい女中、とされており、そこに若い娘さんの声を発する雀が入りこんでお爺さんと仲良くなり、三角関係を展開する。
とかく招かれざる客というものは、その訪問先の主人の、こんな憎悪感に気付く事はなはだ疎いものである。これは実に不思議な心理だ。読者諸君も気をつけるがよい。あそこの家へ行くのは、どうも大儀だ、窮屈だ、と思いながら渋々出かけて行く時には、案外その家で君たちの来訪をしんから喜んでいるものである。それに反して、ああ、あの家はなんて気持のよい家だろう、ほとんどわが家同然だ、いや、わが家以上に居心地がよい、我輩の唯一の憩いの巣だ、なんともあの家へ行くのは楽しみだ、などといい気分で出かける家においては、諸君は、まずたいてい迷惑がられ、きたながられ、恐怖せられ、ふすまの陰にホウキなど立てられているものである。
-カチカチ山-
それに私は、自身が非力のせいか、弱者の心理にはいささか通じているつもりだが、どうも、強者の心理は、あまりつまびらかに知っていない。ことにも、誰にも絶対に負けぬ完璧の強者なんてのには、いままでいちども逢った事が無いし、また噂にさえ聞いた事が無い。私は多少でも自分で実際に経験した事で無ければ、一行も一字も書けない甚だ空想が貧弱の物語作家である。
-舌切雀-
前書きに出てくる5歳の少女は、太宰治の娘の津島園子である。
ちなみに津島園子は上野雄二という大蔵省の秀才官僚をお婿さんにもらった。その秀才官僚は後に衆議院議員になり、厚生大臣も務めている。津島園子の息子は、2019年現在衆議院議員となっている津島淳。いつのまにか、津島園子は青森県の名家である津島家の直系祖先になってしまった。
『瘤取り』の厳粛なる老婦人のモデルは、太宰治の妻の津島美知子(旧姓・石原)だろうと思われる。この人のことを簡単に説明すると、教師兼地質学者の家に生まれ、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入り、卒業後は高校で地理・歴史の教師となっていた。経歴だけでも、まことにしっかりした女性だという印象を受ける。教師をしているときに母から見合いを勧められ、1939年1月8日に太宰の恩人である井伏鱒二の家で結婚式を行った。
津島美知子と結婚した後の太宰治はわりと精神的に安定したという評価が定まっている。
太宰の作品には奥さん(津島美知子)がしばしば登場するが、奥さんと一緒に酒を飲んだという情景はあまり見られない。太宰は、『瘤取り』の爺さんのように、家の中で肩身を狭くしながら酒を飲み、家の外で羽を伸ばしながら酒を飲んでいたのだろう。
『浦島さん』の、教養があって風流を好む浦島太郎のモデルは、太宰治の実兄の津島文治だろうと思われる。大富豪の津島家を継ぎ、金木町長になり、青森県議を務め、1937年の衆議院議員選挙に立候補して当選している。
この人も太宰の作品に登場しており、教養ある人だったことが分かる。(「庭」「兄たち」で長兄として登場している)
『浦島さん』には「浦島太郎という人は、(中略)旧家の長男であったわけである。下品にがぶがぶ大酒を飲んで素性の悪い女にひっかかり、親兄弟の顔に泥を塗るというような荒すさんだ放蕩者は、次男、三男に多く見掛けられるようである。長男にはそんな野蛮性が無い。」と書かれている。
ちなみに、下品にがぶがぶ大酒を飲んで芸者の小山初代と結婚してそのあと離婚していたのは太宰治(津島家の6男坊)である。
『カチカチ山』に出てくる愛すべきタヌキのモデルは、田中英光という太宰の弟子とされる。このことは、太宰の弟子である小山清が「太宰治本人からそう聞いた」と証言している。
『舌切雀』の病弱で本ばかり読んでいる男性は、太宰治自身がモデルであろう。太宰は病弱で、肺病も患っていたが、手当たり次第に本を読む青年だった。
本作品は太平洋戦争のまっただ中に執筆された。Wikipediaの該当ページには、『太宰治全集』などの書籍を資料にして、執筆の時期をかなり詳しく記録してある。それを分かりやすく表にすると以下のようになる。
1945年3月6~7日頃 | 太宰治が三鷹の自宅でお伽草紙の執筆に取りかかる |
3月10日 | 東京大空襲。東京の東部に位置する深川区(現在の江東区)が焼け野原となった。太宰の自宅がある三鷹は東京の西部にあり、太宰も真赤に燃える東の空を望み見た。太宰は、妻の実家がある山梨県甲府市への疎開を決意することになった。3月末には引っ越しを実行に移した。 |
4月2日 | 三鷹も空襲を受ける |
5月7日 | 『瘤取り』を脱稿。『浦島さん』を執筆開始。 |
5月末~6月初め頃 | 『カチカチ山』の執筆開始。 |
6月中旬~6月末 | 『舌切雀』を執筆する |
7月7日 | 甲府市が空襲を受け、太宰の妻の実家である石原邸が全焼する。このとき太宰は長女を抱えながら本作品の原稿を持ち出した。このあと、小山清(太宰の弟子)が見舞いに訪れ、原稿を預かった。 |
7月13日 | 小山清が無事に東京の筑摩書房へ原稿を渡す。 |
7月28日 | 太宰は一家そろって青森県五所川原市の実家に疎開することを決意。東京の上野駅を経由して鉄道で移動していった |
8月15日 | 終戦を告げるラジオ放送が流れる。 |
10月25日 | 筑摩書房が本作品を出版する |
お伽草紙の冒頭は、高射砲(米軍爆撃機に向けて放たれる日本軍の大砲)の音を聞いた太宰一家がそろって防空壕に逃げ込む、というシーンから始まる。上記の表を読んでおくと、そのシーンの迫真性がより高まるだろう。
『お伽草紙』の原稿のうち30枚が青森県近代文学館に保管されている。
2019年4月5日、日本近代文学館が『お伽草紙』の完全原稿387枚を発見したことを発表した。それまで個人が所蔵していたのだが、日本近代文学館が所有主と交渉を重ねて原稿を譲り受けた。
いずれの原稿にも、『瘤取り』の部分が記されている。そこには「鬼にも、いろいろの種類があるらしい。アメリカ鬼、イギリス鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても」と書かれている。
執筆当時は太平洋戦争の最中で、「鬼畜米英」という言葉が新聞に踊っていた時代だった。太宰もそうした風潮に影響され、「アメリカ鬼、イギリス鬼」と書いたのだろう。
1945年10月25日に筑摩書房から出版された初版の単行本には「××××鬼、××××鬼」と伏せ字にされており、1946年2月の再版時には「殺人鬼、吸血鬼」という表現に改められていた。
太宰治は1946年11月ごろまで青森県の実家に住んでいたので、こうした改変は太宰の承認を得ずに出版社の独断でなされた可能性があるが、詳細は不明。ちなみに、GHQ(アメリカ軍主体の占領軍)による出版検閲は1945年10月9日から始まっている。
筆者の一家が防空壕の中でラジオを聴いている描写がある。実際の1945年頃の太宰家はラジオを持っておらず、1947年の9~11月頃になってやっとラジオを購入したことが、『家庭の幸福』という作品の中で明かされている。
爺さんが住んでいたのは四国・徳島県の剣山(つるぎさん)としている。内陸部の山奥で、森林に覆われている。
爺さんの息子は阿波聖人と呼ばれている。平安時代後期に青蓮大和尚という人がおり、阿波国(現在の徳島県)出身で、熊野で修行をして、後白河法皇の病気を治したことにより阿波上人という尊称で呼ばれるようになった。その阿波上人が名前の元ネタであろう。
竹林の賢者とは、3世紀の中国(三国志の時代)において、山奥に入りこんで飲酒しつつ、清談(哲学的で風流な談話)をしていた知識人のこと。
爺さんの阿波踊りの一節に「むすめ島田で年寄りゃかつらじゃ」という言葉がある。これは、若い娘が島田髷(しまだまげ)という髪の結い方をしている、年寄りのばあさんはカツラを付けている、という意味。
爺さんの阿波踊りの一節の「大谷通れば石ばかり 笹山通れば笹ばかり」は阿波踊りの唄ばやし。このサイトにも載っている。
頬被り(ほおかむり)とは、頬を隠すように手ぬぐいを頭から被ること。農家でたまに見られる。
鉄扇(てっせん)とは、鉄でできた扇のことで、江戸時代の武士が護身用に持ち歩いた。自分の上司の家におもむくときは刀を持ち込めないので、これを携行し、必要があったら扇を畳んだ状態で殴りつける。江戸時代の武士は荒っぽく、上司が部下を斬り殺す事件も頻繁に起こっていたので、鉄扇が重宝された。
名士の爺さんが踊ったのは、通盛(みちもり)という能楽である。徳島県の鳴門市あたりで敗れた平家の武士を弔う僧侶の心境を語る作品。こんな感じの喋りをする。
鬼たちが恐れている鍾馗というのは、中国の民間伝承に伝わる道教系の神。鬼よりも強く、鬼を食べてしまうこともある。鍾馗の絵や像は魔除けとされる。
『浦島さん』の舞台はこのあたりで、日本海に面した海岸。丹後国で、現在の京都府北部。
旧家(きゅうか)とは、古くから続いている由緒正しい名家。
浦島太郎が詠んでいる和歌は、万葉集で柿本人麻呂が詠んでいるもの。「飼飯(けひ)の海(み)の 庭好くあらし 刈薦(かりこも)の 乱れ出づそ見ゆ 海人し釣船」と訓読し、「飼飯の海は穏やかである。刈った薦を干しているかのように散り散りになって、漁師の舟が海に出て行く」という意味。
淡水は塩分を含まない水で、鹹水(かんすい)は塩分を含む水。
筆者が亀の候補として挙げているのは、石亀、たいまい、赤海亀である。「弁天様の池畔などで、ぐったり寝そべって甲羅を干しているのは、あれは、いしがめとでもいうのであろうか」と筆者が論じているが、ここで出てくる弁天池というのは、太宰治の自宅がある三鷹から近い井の頭恩賜公園の弁財天の前の弁天池のことだろうと思われる。画像検索すると、井の頭恩賜公園に亀が多くすんでいることが分かる。
お祝言の時などの島台とは、結婚式に用意される飾りの台。蓬莱山(ほうらいさん。中国で想像された神仙が住む山)をイメージして作られることが多い。鶴と亀を配置し、尉(じょう。爺さん)と姥(うば。婆さん)を立たせて落ち葉を掃除させる。この画像の島台は、太宰治がイメージする典型的な島台。
太宰治が沼津で目撃した赤海亀は甲羅の直径が五尺という。一尺は30cmなので、五尺は150cm。
五文を現在の貨幣価値にすると100円ぐらい。(良い子の諸君!の記事を参考にした)
皮裏の陽秋とは、口には出さないが、心のなかで人の是非を判断し、ほめたりけなしたりすること。「皮裏」は皮膚の裏側のことで心の意。「陽秋」は孔子の著作といわれる『春秋』のことで、歴史の正邪をただした書。
竜宮は1万尋とされている。1尋は1.8メートルなので、1万尋は18km。
エデンの園の蛇とは、聖書の『創世記』で知恵の実を食べるように言ってきた蛇のこと。
物語の舞台は富士五湖の1つ河口湖の船津あたり。
筆者が娘を連れて行ってタヌキを見せたという井の頭動物園は、井の頭恩賜公園の一角にあり、1942年5月17日に開園している。
国民学校は1941年から1947年まで存在した日本の学校。現在の小学1年~中学3年にあたる。
鞍馬山は、京都の北のこの場所にある山。霊山として知られ、密教による山岳修験の場として栄えた。牛若丸(源義経)が修行した場所とされている。牛若丸に剣術を教えたのが、鞍馬山に住む鞍馬天狗とされている。
膺懲(ようちょう)とは、懲らしめること。日中戦争が続いていた当時の新聞には「暴支膺懲(暴れる中国を懲らしめよう)」という文字が踊っていた。臥薪嘗胆とは、仇を討つため苦労を重ねて努力すること。日清戦争直後の三国干渉で遼東半島を失ったとき、新聞に「臥薪嘗胆」と書かれた。また、太平洋戦争の時も臥薪嘗胆が流行語だった。こうした語句から、戦時中に書かれた作品であることがよく分かる。
石油鑵とは、おそらく、一斗缶(18リットルの缶)のことだろう。
作中には37歳のタヌキが出てくるが、執筆当時の太宰は数え年齢で37歳である。当時は数え年齢が一般的だった。
長尾山はこのあたり、大室山はこのあたり。どちらも富士山に連なる山。
昔の薬の販売形態は、行商(訪問販売)が一般的だった。特に富山の薬売りは有名。
ホウキで家の中の掃除をしている時代は、嫌な来客を追い払うためのおまじないにホウキが使われた。とくに、ホウキを逆さまに立てておくと嫌な客が来なくなるという迷信が広まっていた。
タヌキとウサギが鮒(ふな)を獲りに出かけたのは河口湖のこの場所にある無人島。作中では鸕鷀島(うがしま)と書かれているが、現在の正式な名称は鵜ノ島(うのしま)。
「タバコの敷島に書かれているのは、鸕鷀島の松林であるそうだ」と筆者が書いているが、これは誤りである。タバコの敷島の松林は、和歌山県のこの場所にある和歌ノ浦のもので、伊東栄吉という人がデザインした。
土左衛門は水死体のこと。江戸の力士・成瀬川土左衛門の肥満体を、ふくれあがった水死体に見立てて言い出した語という。
舳(へさき)は船の先端。艫(とも)は船の後端。櫂(かい)は船を漕ぐ道具。
「命ぜられては奉公の用事に出勤」と書いてある。戦争中の当時は、働き手をことごとく軍隊に取られていたので極度の人手不足であり、民間人を動員して軍需工場で働かせていた。あまりに人手が足らないので、10代の学生も強制的に労働させていた。これを学徒勤労動員という。
乙夜(いつや)は午後9時からの2時間。丑満(うしみつ)は丑三つとも書き、午前2時から午前2時半。無聊(ぶりょう)は退屈という意味。「豪傑の乙夜丑満の無聊を慰めてくれるだけのものである」と書いてあるが、「豪傑の、真夜中の退屈を紛らわせてくれるだけの存在である」という意味になる。
本作品において「刻舟求剣」は、見当違いといった程度の意味である。本来は「融通が利かない」という意味で使われることが多い。
物語の舞台は宮城県仙台市の南のこの場所にある愛宕山の麓で、近くに広瀬川がある竹藪とされている。愛宕山は仙台を見渡すことができる観光名所で、江戸時代の頃から有名だった。
仙台笹とはこういう紋章で、仙台を治めた伊達家の家紋。
芝居の先代萩とは、仙台を治めた伊達家の御家騒動である「伊達騒動」を題材にした人形浄瑠璃および歌舞伎。江戸時代は、大名の殿様がみっともない不祥事を起こしたら人形浄瑠璃や歌舞伎にされ、一般庶民から思いっきりからかわれた時代だった。
「寝ていて人を起こすことなかれ」とは、秋田県の農業指導者である石川理紀之助の言葉。寝っ転がりながら人に指図することはダメだ、自ら立ち上がって動き回り率先垂範すべきだ、という意味。
先ほど紹介した愛宕山の頂上には、愛宕神社がある。お爺さんと雀のお照を会わせる奇跡を起こしたのは、この神社の神様だとされる。
身長二尺くらいのお人形さんが出てくるが、一尺は30cmなので、身長60cmぐらい。
お伽草紙(青空文庫)Amazon kindle版 | 青空文庫のこのページで公開されているデータを、AmazonのKindleでも読めるようにしたもの。作者が逝去して70年が経ったので著作権が消滅しており無料で読むことができる。新字(戦後に広まった漢字)が使われているが、仮名遣いは旧仮名遣いですこし読みにくい。 |
新字・新仮名遣いで読みやすい。挿絵などは一切無い。岩波文庫版に比べて文字がすこし大きい。 | |
新字・新仮名遣いで読みやすい。挿絵などは一切無い。345ページ以降に注釈があり、難解な語句を説明している。 | |
新潮社から出された単行本。内容は文庫版とほぼ同じ。 |
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最終更新:2024/04/23(火) 17:00
最終更新:2024/04/23(火) 17:00
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