だいぶ溜まってんじゃんアゼルバイジャン 単語

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ダイブタマッテンジャンアゼルバイジャン

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基礎データ
正式名称 だいぶ溜まってんじゃんアゼルバイジャン共和国
Republic of Devtamatenjan Azerbaijan
vtamatəncan Azərbaycan Respublika
国旗
国歌 アゼルバイジャン共和国国歌(大嘘)exit_nicovideo
公用語 アゼルバイジャン
首都 クー
面積 86,600 km²(界第119位)
人口(’18) 約990万人(世界第90位)
通貨 アゼルバイジャンマナト (AZM)

だいぶ溜まってんじゃんアゼルバイジャンとは、南コーカサスに存在するTDN国家である(大嘘)

国名

アゼルバイジャン」という名は古代ペルシア語の "Āzar"(آذر、火)と "Pāyegān"(پایگان‎、番人)に由来し、かつてゾロアスター教拝火教寺院がだいぶ溜まっていたことを示す。

しかしながら、同じ語名を持つ古代国家「アトロパテネ」はアラス以南、現在イラン北部に存在したのであって、その意味では正当な "Āzar Pāyegān" の継承者はイランアーザルバージャー地方(東西アーザルバージャーン、アルダビール、ザンジャーンの4州)であるとも言える。

事実、「アゼルバイジャン」という地名は近代まで専らアラス以南をして使われ、対してアラス以北(現代のアゼルバイジャン共和国領)は「アッラー」や「シルヴァー」と呼ばれていた。アラス以北が「アゼルバイジャン」と呼ばれるようになったのは1918年に旧ロシア帝国領で「アゼルバイジャン民主共和」が独立を宣言してからであり、当時イランはこの独立宣言に対し「勝手に名乗って……何者だ?」と抗議している。

イスラム圏から見た「アゼルバイジャン」領域の変遷史(クリックしてgifを見て、どうぞ)

歴史

古代

アゼルバイジャン古代からメディアペルシア、パルティアなど様々な文化圏のを受けたが、紀元前2世紀頃には現代のアゼルバイジャン人に繋がる古代国家コーカサス・アルバニア」が……繋がっとるんかな? いや繋がってないかも知れへんわ。紹介すんのやめとくわ。

また、アゼルバイジャン一帯は古くはギリシャ神話に登場する「アマゾネス」の同一視され、江戸期の学者西川如見も『増補夷通商考』において、その地域を「女戦士だけのの間だけ男をに入れて子供を作り、男児が生まれれば殺す」と書いている。アゼルバイジャンは女人。女人レズレズはホモ。よってアゼルバイジャンホモQ.E.D.

中世

7世紀、アラビア半島ったイスラーム教はく間に西アジア一帯を征し、コーカサス地方にもイスラーム教徒が増え始めた。もっとも、コーカサスでのイスラーム拡大は緩やかで、10世紀頃まではむしろアルメニア国家元気で栄えていた。コーカサスはが険しいからね、しょうがいね。

この地方にとって決定的な分岐点となったのは11世紀のセルジュークに始まるテュルクトルコ)・モンゴル系遊牧民の進出だった。現在アゼルバイジャントルコ東部一帯は自然環境中央アジア原地帯に近く、お前の事(高地の原地帯)が好きだったんだよ!、と言って遊牧民達は好んでこの地方に居住した。

この流れを決定づけたのがご存じモンゴル帝国の襲来で、その後継国家の一つ、フレグウルス(イルハン)はまさにアゼルバイジャン一帯を根拠地としていた(なお、イルハン営地の一つに「カラ・バグカラバフ)」という地名があったりする)。ちなみに、フレグウルスが勝手にこの地方拠点にしたことで前々からこの地方をほしがってた北のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン)と対立、同じモンゴル人どうしで何十年にもわたって内戦が行われる羽になっていたりする。遊牧民はアゼルバイジャン好き過ぎィ!

ともかく、モンゴル時代を経て南コーカサス一帯にはイスラーム教を信奉するテュルク系遊牧民が定着し、これが現在アゼリー人(アゼルバイジャン人)の祖先となった。

近世

レグウルスの衰退後に浮上したのは中央アジアを根拠地とするティムール朝だったが、その後にイラン一帯を席巻したのは南コーカサスのテュルク系遊牧民だった。ティムール朝から西部イランの土地を奪ったに取って代わった白羊、そしてイランの統一を成し遂げたサファヴィー朝は、いずれも東部アナトリアアゼルバイジャン一帯のテュルク系遊牧騎兵がとなってされた王だった。

サファヴィー朝は久しぶりのイランペルシア)の長期政権となり、この時代にアゼリー人のシーア派化が進んだ。この後、概ね現アゼルバイジャン一帯はイランの王の一部として近代まで至るが、この地方を巡ってサファヴィー朝しく争ったのがこれまたテュルク系のオスマン朝(現トルコ)だった。トルコイランアゼルバイジャン(の騎軍事)にゾッコン、はっきりわかんだね。

ちなみに、この南コーカサスを巡る戦争中にサファヴィー朝が焦土戦術をとるため、大量のアルメニア人をイラン方面に強制移住させる事件があった。多くのアルメニア人にとっては災難だったが、サファヴィー朝アルメニア人がキリスト教徒であることから対ヨーロッパ交易に重用したため、アルメニア人はイラン内において特権商人としての地位を確立した。こんな流れでアルメニア人が周囲のテュルク民族を嫌って、積極的にヨーロッパイランに協めるようになるのも、多少はね?

このように、中近世アゼルバイジャン方面のテュルク系遊牧民(アゼリー人の祖)が々しく活躍した時代だったが、近代に入り騎軍団一強時代の終焉ヨーロッパアジア進出が始まると状況は一変する。

近代

帝政ロシア時代

18世紀までガージャーペルシアの支配下にあったアゼルバイジャン人居住域は、ロシアペルシア戦争でのペルシア敗北によって、1828年のトルコマーンチャーイ条約でアラス分割された。ロシア帝国では、アゼルバイジャン人も他の非キリスト教徒と同様、権利を強く制限され、キリスト教徒のおやつにされるクソザコナメクジであった。

19世紀半ばに入ると、後に首都となるクー石油をドバーっと出して来た。これによりロシア全体の産の半分、全世界の産の15を賄うようになったバクーは未曽有のハッテンを遂げ、様々な石油企業立するロシア折りの際工業都市となった。しかし、バクー石油企業においても、経営はもちろん高給技術職もロシア人、アルメニア人、ユダヤ人に独占され、アゼルバイジャン人の大半は底辺土方に過ぎなかった。

大戦期

クーは、第一次世界大戦期にはゼネストの頻発する革命の最前線と化し、十月革命後の1918年にはアルメニア共産主義者を中心としたクーコミューン政権が発足した。これにはレーニンもニッコリしたのも束の間、バクーコミューンはオスマン帝国軍の侵攻を受けて数かで崩壊した。

なお、バクーコミューンは1918年3月にはアルメニア民族義者の手を借りて1万人をアゼルバイジャン人を虐殺している(三月事件)。これは数年前にオスマン帝国トルコ人政権が起こしたアルメニア人虐殺の恨みを、同じテュルク系のアゼルバイジャン人に向けてらしたもので、アゼルバイジャン人にとってはいい迷惑である(人間の屑がこの野郎……)。とはいえ、アゼルバイジャン人の側も直後にオスマン帝国軍と共謀して数万人のアルメニア人を虐殺し返しているので(九月事件)、どっちもどっちも、どっちもどっちも!(半ギレ)

クーがもう中血まみれになっていた頃、当時南コーカサスの中心都市であったトビリシ(現代のグルジア)では、現地の3民族グルジア人、アルメニア人、そしてアゼルバイジャン人)の政治家たちが集まり、オスマン帝国軍の侵攻に対処しようとしていた。「連邦になって3で護りあわねえか?」との結論に達した彼らは1918年4月カフカース民主連邦共和を結成し、ロシアからの独立を宣言した。

しかし、キリスト教徒であり対オスマンこうせんグルジア人・アルメニア人と、イスラム教徒としてオスマン近感を抱くアゼルバイジャン人が連邦を組み、ましてバクーでの虐殺にバッチェ冷え切っていたアゼルバイジャン人がアルメニア人と協し合うなど土台理な話であった。建からわずか1か後にアゼルバイジャン人が「じゃあオスマン支援貰って帰るから」と離脱したことでザカフカース連邦は崩壊。5月28日アゼルバイジャン人による史上最初の独立国家アゼルバイジャン民主共和」が成立した。

独立時代

このアゼルバイジャン民主共和政権は民族義的なミュサヴァト党を中心とする不安定な連立政権であり、またバクー田も大戦で大打撃を受けたため、政権はガバガバ国家運営を強いられた。

加えて同時に独立したグルジア民主共和アルメニア第一共和両国とも領土争いが絶えず、特にアルメニアとの間に発生したナゴルノ・カラバフ、ザンゲズル、ナヒチェヴァンに対する領土紛争アルメニアアゼルバイジャン戦争)では、またしても両者が互いに民族浄化を繰り広げた(また君達かぁ、(命が)壊れるなぁ……)。

な後ろであったオスマン帝国軍も、敗戦によって「オスマン壊れちまうよ……」と撤兵し、ようやく列強が南コーカサス3国家承認を行ったのは、ロシア内戦でのソビエトロシア勝利が決定的となり、コーカサスに防共の壁が必要となった1920年1月のことであった。

しかし、4月24日にはソビエトロシア軍石油当てにプロレタリア解放(意味深)のためにクーへ侵攻し、28日にアゼルバイジャン民主共和抵抗のまま共産党に政権を移譲するというクッソ情けない最期を迎えた。

かくして短命に終わったアゼルバイジャン民主共和であったが、1918年の独立当初から女性参政権を導入していたことだけははっきりと真実を伝えたかった。これは欧を含めた大多数の世界に先駆けるものであり、イスラム圏ではクリミア人民共和に次ぐ2番の、イスラム教徒の国家としては最初の導入である。

ソ連時代

1920年4月28日に新たに成立したアゼルバイジャンソビエト社会主義共和であったが、その導者である共産党第一書記は最初の1人を除いて1934年までロシア人、グルジア人、アルメニア人などの異民族によって占められ、帝政ロシア時代と変わらぬ支配を感じたアゼルバイジャン人の不満はだいぶ溜まった(エリート共産主義者が足りないから、ま、多少はね?)。

一方、アルメニアとの係争地域であったナゴルノ・カラバフナヒチェヴァンについては、ソビエトロシアトルコイラン媚を売るためにアゼルバイジャンの領土と決定するなどの優遇措置も取られた。また、ソ連時代にはアゼルバイジャン人の識字率も急上昇し、バクー田の復によって経済ハッテンしている(Foo↑気持ちいい)。

しかし、1930年代にはアゼルバイジャンでも虐殺おじさん(赤)のイキスギによって数千人が命を落とし、その後には虐殺おじさん(黒)石油めてスターリングラードまでぐるぐるしてきた。第二次世界大戦にはアゼルバイジャンからも70万人(人口の20)が出征し、そのうち戦死者は25万人に上った。

現代

やがて1980年代に入るとペレストロイカが開始され、自由化の流れはソ連各地でだいぶ溜まっていた民族問題に対する不満を呼び覚ました。アゼルバイジャンでも、かつて自領とされたナゴルノ・カラバフ(人口の80アルメニア人が占める)の住民たちが、ナゴルノ・カラバフアルメニアへの統合をめて活動を開始した。

こうして再び表面化したアゼルバイジャンアルメニア間の領土対立は、だいぶどころではなく溜まっていた両国民族の恨みも相まって、1988年に「ナゴルノ・カラバフ戦争」として火を噴いた。ソ連の内戦として始まったナゴルノ・カラバフ戦争は、1991年両国ソ連から独立した後も全面戦争として継続し、またも両者が互いに民族浄化を繰り広げる惨状を呈した(やめてくれよ……(絶望))。

やがてナゴルノ・カラバフアルメニア側によって占領され、便乗して占領された周辺地域と併せて「アルツァフ共和」が一方的独立を宣言した状態で、1994年5月に停戦は成立した。これによってアゼルバイジャンは領土の14を喪失し、占領地域からは70万人を難民が発生した。

この大百科記事が作られた2018年に至ってもなお、ナゴルノ・カラバフ問題やアゼルバイジャンアルメニア間問題にはLOVE&PIECEの兆しすらなく、アゼルバイジャンアルメニアへの恨みを現在進行形でだいぶ溜まらせているのが実情である。

そして2020年9月28日にはアゼルバイジャン議会アルメニア宣戦布告。溜まっていたものがついに噴き出してしまった(現在進行系)。トルコや周辺イスラム々にアゼルバイジャン支持を表明し、下記の石油マネーで入手したと思しきドローンなどの攻撃で優位に立っているようだ。軍関係者の中には、アルメニアのメツァモール原子力発電所への攻撃を示唆する者もいる。やめろぉ(建前)やめろぉ(本音)。

だがその後の10月10日ロシア連邦兄貴の仲介により休戦となり、以降は欧州安保協機構の元で平和的解決のための協議がされることとなった。

しかし停戦は5分(誇ナシ)で破棄され戦闘は再開。後日改めて締結された停戦協定も4分で破棄されたことから、恐らく両国は"停戦破棄RTA"を走っていると考えられる。そんなもの走らなくていいから(良心)。

10月26日、今度はアメリカの仲介により停戦協議が開始。しかし二度あることは三度あるとばかりにまたも停戦破棄。RTA審判団からは今回の記録は3分とされたが実際の停戦時間は不明である。

そして11月10日ナゴルノ・カラバフ首都ステパナケルト近郊の都市であるシュシが陥落しアルメニアからの一の補給路を喪失。アルメニア側は市民にAKを配りなおも徹底抗戦の構えを見せていた(竹槍じゃないだけ有情か)ため、ステパナケルトでの大規模な戦及び民間人の大量虐殺が懸念されたが、時を同じくしてロシア軍機をアゼルバイジャン軍が誤射により撃墜する事件が発生。

アゼルバイジャン側が速やかに非を認めロシアへと謝罪したことをきっかけにロシア導の停戦明が発表され、アルメニア首相もこれに署名。ここに44日間に渡る紛争はここに終結し、悲惨な戦や虐殺危機も過ぎ去ったのだった。

ラブ&ピース
終わり!停戦!!以上!!皆解散!!

…とは行かず、本傷な上に度重なる大本営発表による自優勢を信じ切っていたアルメニアでは民が暴動を起こす事態にハッテンしており、アゼルバイジャンに代わりだいぶ溜まっている状況となった。また停戦合意内容の解釈もアルメニアアゼルバイジャン両首間で食い違いが見られ未だ予断を許さない状態である。

民族

2009年国勢調査(実効支配地域のみ)では民の91%アゼルバイジャン人であり、その他にレズギン人、アルメニア人、ロシア人、タリシュ人が1、か2%くらいですね。

様々な民族文化が入り乱れて発展してきたコーカサスにおいて、アゼルバイジャン人の人種的起特定することはいやーキツイっす。しかしながら近代以降のアゼルバイジャン人は文化的にはオグズ系テュルクトルコ人)と近く、アゼルバイジャン語もトルコ語とは相互に何を言っているのかはっきりわかんだね。

宗教においては、アゼルバイジャン民の97イスラム教徒であり(2012年)、さらにそのうち85シーア派である。この点ではアゼルバイジャンシーア派が支配的なペルシアを強く受けており、スンニ派が優勢なトルコとは異なる。とはいえ、2013年の調では民の53が「神なんか必要ねぇんだよ!」と回答しており、これはイスラム圏では最も高い割合である。

政治

残念ながらアゼルバイジャンの政情は、各種人権機関も否定的に評価しているように、あまり良好とは言えない。

1993年から続く現在の新アゼルバイジャン党政権は、ガバ選挙ヘイダルアリエフの後を継いだ現大統領イルハム、そして大統領夫人にして第一副首相大統領代行のメフリバンに導されている。また、内大手の財閥も両やその心たちによってられ、野党事実上機してないです。

また大統領の権限は非常に強で、改選制限もない。立法・法によるチェック体制も地方自治もない。反体制運動は厳しく弾圧されるため、言論・報道・集会の自由もない(やめたらこの体制?)。警官が懐に麻薬を押し込んで現行犯逮捕する事例が横行するため、反体制活動家の間では「ポケットを縫い付けず外出してはいけない(め)」が合言葉となっている。

世俗国家ということもあって、信教の自由なら辛うじて残ってるがね。でもイスラム圏の例に漏れず、ホモの権利はないです。

経済

アゼルバイジャン経済は、かつて世界を支えたバクー田を擁していることもあり、その輸出額は石油産業が全体の9割以上を占める(2017年)。これマジ? 田にべて他の産業が貧弱過ぎるだろ……との危惧は2014年石油価格下落によって的中。中央銀行の外貨準備高は同年の151ドルから2016年末には40億ドルへと急落し、政府は2度のデノミを余儀なくされている。

肝心の原油生産量自体も2011年以来減産を続けており、政府石油依存経済を「(農業観光業などの多経済に)切り替えていく」と表明している。このように、「高層建築立する第2のドバイ」「金! 権SEX! の理想郷」といったアゼルバイジャンイメージは最過去のものと言える。

イランのアゼルバイジャン人

上記のようにアゼルバイジャン共和国アゼルバイジャン人の国家であるが、世界単位で見れば、アゼルバイジャン人が最も多く居住しているのは隣イランである。イランにおけるアゼルバイジャン人人口は1800万人以上とアゼルバイジャン共和国の2倍近く、イランの全人口の16を占める最大の少数民族である(語録無視)。

アゼルバイジャン人は古くからイランのアーザルバージャー地方に暮らし、ペルシア人とともにイラン政治文化ハッテンさせてきた(現在イラン最高導者アリ・ハメネイ師方がアゼルバイジャン人である)。しかし、ロシア帝国アゼルバイジャン人居住域の半分を手に入れて以来、アラスの関係には度々隙間が吹いている(ゴオオオオオオオオオオオ……!!!)

そもそもの対立は、上記のように第一次大戦期にアラス以北が「アゼルバイジャン」と自称したことに始まるが、直接的な対立は第二次大戦期にも発生した。

大戦中、ソ連軍は英軍とともに、独的なパフラヴィイランに対し「こっちの事情も考えてよ」と侵攻し、ソ連軍はイラン北部アーザルバージャー地方を占領下に置いた。そしてソ連は、この地域でだいぶ溜まっていたアゼルバイジャン人のペルシア人に対する不満を利用して、アゼルバイジャン共産主義者による自治(迫真)政府アゼルバイジャン政府」を発足させた。

これをやはりヤバいと感じたイランは「自分のにぃ、変態共産主義者が入り込んでるんですけどぉ」と国連安保理に提訴。ほどなくソ連軍は撤兵し政府も崩壊したが、その後もアーザルバージャーンがイランからの分離とアゼルバイジャン共和国への統合を志向しているのではないかというペルシア人の疑念は続いている。

2000年代以降も、イランでは新聞アゼルバイジャン語を話すゴキブリ漫画を載せたり、子供番組がトイレブラシでを磨くアゼルバイジャン人のエピソードを流したりしており(え、何それは……(ドン引き))、これによって死者が発生する暴動も度々起こっている。

この記事および掲示板について

下記の空耳によって風評被害を受けたアゼルバイジャン掲示板に大量のホモが襲来し、通報によってほぼすべてのレス削除された。これを受けて初代編集が作成したものがこの記事である。アゼルバイジャン歴史について、淫夢系の文章でクッソ丁寧に書かれた(ホモは博識)当記事は隠れた人気を博していた。

そんな中、2020年9月27日ナゴルノ・カラバフ紛争が勃発。以後、ページ下部の掲示板は、内・海外ニュースソースを基に紛争について語るスレと化している。度重なる停戦合意を重ねつつもすぐに危険な領域に再突入するAZRBIJNとARMNAの戦況を見守りながら、現在数千をえるレスが書き込まれ、恐らく史上初となる、リアルタイム淫夢実況された戦争となった。

情報量・議論の活発さではおそらく内随一の規模であるといえるかもしれない。ノンケは最初は読みづらく感じるかもしれないが、淫夢語録が分からなくてもすぐに慣れる、大丈夫だって安心しろよ。ヘーキヘーキ、ヘーキだから(大嘘)

そして2021年8月、同じ中東ということか、レ帝軍の撤退に伴うAFGNSTNの政権崩壊と、それと同時に急速に勢を広げたTLBNの政権(大嘘)についてが淫夢実況されており、勢いがとどまることを知らなかった。

2022年2月、PTNは東UKRINの二か独立承認。そして24日、RSAUKRINでの軍事作戦を承認し、東欧の過熱した情勢は、遂に危険な領域へと突入する。例の通り掲示板は情勢の淫夢実況で盛況すると思われた...が、UNEIの謀略によりプレミアム規制を受けてしまう。そんな中有志のホモに他サイトスレが立てられ現在は実質的にそちらが本スレとなっている。一般会員ホモく情勢を語り合おうぜ。

現行スレ検索exit

それにともない外部wikiもできた。掲示板で使われているTDN式表記などもまとめてあるので参考に、しよう!

だいぶ溜まってんじゃんアゼルバイジャンwikiexit

空耳について

一応解説しておくと、4章にて、野獣先輩遠野股間オイルを塗っているシーンが元。

野獣「どんくらいやってないの?」

遠野「まあ2かくらい」

野獣「だいぶ溜まってんじゃんアゼルバイジャン」

モーラ数が明らかに足りないしどう聞いてもアゼルバイジャンには聞こえないんですけど、それは大丈夫なんですかね?「危ないじゃん」「やばいじゃん」「それじゃあ」「やっぱりじゃあ」などが元のセリフとして考察されているがまったく聞き取れないため相は不明。

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だいぶ溜まってんじゃんアゼルバイジャンに関するニコニコミュニティ紹介しなくていいから(良心)。

関連項目

発生事象と掲示板レス

日付は日ペ時間。追記オナシャス

2020年NGRNKRBF紛争

NGRNKRBF紛争終結後、TLBNによるAFGNSTN握まで
元々AZRBIJNに関する記事のスレのため、特に紛争終結後しばらくはAZR/ARM関連の話が多くなっているが、次第に際情勢全般を語る場へと移り変わっている。

TLBN政権復活後、UKRIN侵攻開始まで
しばらくはAFGN情勢について語られる。

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