ひかりごけとは、
である。ここでは1と3について記載する。
時は、大東亜戦争真っ只中の1943年12月3日午後1時。帝國陸軍6193部隊所属の徴用船「第五清進丸」は回航命令を受け、北海道根室港を出発。物資や弾薬を積載して小樽市へと向かった。乗組員にとっても航路は慣れ親しんだもので、事故など起きる筈が無いと思われていた。ところが同日夜、知床半島羅臼(らうす)沖で大時化に遭遇。厳寒の吹雪も加わり、視界は極端に悪化。僚船が視認できなくなる。追い討ちを掛けるかのように23時、第五清進丸のエンジンが故障。人知れず船団から脱落してしまった。翌4日午前6時、第五清進丸は座礁。沈没の恐れがあるとして、船長は岸へ向かって泳ぐよう命令。自身も氷海に飛び込んだ。その後、第五清進丸は消息を絶った。7名の船員も全員行方不明になり、生存は絶望視されていたが……。
氷点下20度、猛吹雪が吹き荒れる死の海を泳ぎきった船長(当時27歳)は、命からがら上陸。白い雪に覆われた小屋を発見し、中へと飛び込んだ。続いて生き残った少年(当時18歳)も小屋へとやってきた。船長は他の船員の安否を尋ねるが、少年も分からなかった。彼らが逃げ込んだのは、地元の漁師が夏の間だけ使用する番小屋で、冬の現在は誰も来ない所だった。極寒の環境に閉じ込められ、満足に動くことも出来ない。幸運だったのは、その小屋にマッチと少量の味噌が残されている事だった。
※注意、猟奇的な表現があります。
船長と少年は、生き延びるための努力を続けた。食糧を得るため、氷点下30度の中を命がけで通り、海岸に漂着しているワカメや昆布を回収。雪を火に掛けて水分とし、味噌を使って即席の味噌汁を作って飢えを凌いだ。凍死しないよう焚き火をし、交代で火の見張り番を行った。しかし極限状態が招く睡眠不足と空腹は確実に2人の命を蝕んでいった。
先に限界が来たのは少年の方だった。意識が朦朧とし、衰弱していく少年。幻覚を見たり、うわ言を繰り返すようになり、そして遭難から46日後の1944年1月18日に栄養失調で息を引き取った。船長は一人取り残され、悲しみに打たれた彼はしばらく少年の亡骸を抱いていたという。仲間の死と極限状態から来る死の恐怖……このままでは自分も死んでしまう。絶望的な状況と孤独が船長の精神を歪ませる。追い詰められた船長は番小屋にあった包丁や斧を使って少年の死体を解体し始めた。こうして得た肉を味噌汁の中に入れ、餓死から逃れようとした。その後も船長は肉を削ぎ落とし続け、少年の死体は原型を留めていなかったという。心のどこかに罪悪感があったのか、少年の肉を口にしてから毎晩閻魔大王に裁かれる夢を見た。それでも解体する手を止められなかった。
1944年2月1日、周囲を氷に閉ざしていた連日の猛吹雪が止まって晴天となった。食糧が少なくなっていた事もあり、船長は脱出を決意。民家を求めて2日間歩き続けた。そしてついに、27km離れた羅臼町岬町にて一軒家を発見し、助けを求めた事で無事船長は保護された。船長の奇跡的な生還は大ニュースとなり、「不死身の神兵」という渾名が付けられた。生存者は船長だけで、残りの6人は全員死亡していた。
船長は小樽市の陸軍第五船舶輸送司令部に出頭し、遭難の経緯を報告。その後、故郷に戻って療養生活に入った。故郷では国民的英雄としてもてはやされる一方、船長は少年の肉を喰らってまで生き続けた事に葛藤していた。また警察や軍部には、奇跡の生還劇を疑う者もいた。あの過酷な冬から、何の備えもなしに生還できるはずがないと。
1944年5月19日、船長がサバイバル生活を送っていた番小屋に持ち主の片山梅太郎が訪れた。英雄が過ごした場所を調べていると、小屋の外の岩陰にロープで縛られたリンゴ箱が不自然に置かれていた。中身を見てみると、人骨と皮が詰まっていた。ただちに警察へ通報され、現場を調査。小屋の中で殺人が行われ、死体損壊及び死体遺棄が行われたと決定付けた。それが出来たのは船長しかいない。不死身の神兵から一変、船長は容疑者として逮捕されてしまった。当時の刑法には食人に関するものがなかったため、死体損壊の容疑が掛けられた。
人肉食に関しては素直に認めた船長だったが、殺人だけは一貫して否認。彼の必死の訴えにより殺人罪の嫌疑は晴れたが、死体損壊の罪で起訴。裁判は釧路地裁で行われ、9月3日に有罪判決が下った。しかしながら心神耗弱状態にあった事が認められ、懲役1年で済んでいる。こうしてこの事件は終結し……昭和史に残る唯一の食人事件として歴史に刻まれたのだった(補給が断たれた第18軍でも人肉食が横行していたが、裁判で裁かれたのはこの事件のみである)。
この判決は新聞等では報道されず、資料も廃棄及び焼失しているため、船長からの情報や地元漁師の噂がそのまま史実として記録されているという。
1954年、武田秦淳が第五清進丸遭難事件を題材とした小説「ひかりごけ」を執筆。船長へのインタビューを基に作られているため、ノンフィクション作品の側面も持っている。作中世界では、食人を行った罪人の首の後ろに光輪が浮かび上がるという設定があり、これをひかりごけに見立てた事から、そういう題名が付けられた。この小説はベストセラーとなり、多くの人々に知れ渡った。極限状態の中で行った食人は、果たして裁いて良いものなのかを問う重たいテーマを取り扱っている。これがきっかけで、この遭難事件は「ひかりごけ事件」と呼称されるようになった。一方の船長は少年の肉を喰らった事を生涯後悔し続け、1988年12月28日に亡くなるまで乗組員の冥福と少年への謝罪を続けていた。
ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケ。1科1属1種の原始的な存在。名前の由来は文字通り光るコケ。光苔。日本では、1910年に発見・確認された。長野県佐久市村田の中学生が光る土を採取し、中学校に届け出た事がきっかけである。比較的浅い歴史のため、古典や季語に記述された形跡は無い。
主に北半球に分布し、ヨーロッパやロシア、北米に自生。日本では中部地方以北の高地や洞窟に自生している。環境変化に弱く、大気汚染や開発によって生育域が縮小の一途を辿っている事から準絶滅危惧種に指定。ちなみに上記の事件の舞台になった羅臼町にも自生しており、これが小説ひかりごけの由来と思われる。
ヒカリゴケは薄緑色の光を放つが、コケ自身が発光しているのではなく差し込んだ太陽光をレンズ細胞が内部反射する事で光って見える。そのレンズ細胞には葉緑体が多分に含まれているので薄緑色に光るのだという。見る角度によって光の強弱が変わり、幻想的な風景を演出する。何故光るように進化したのかは不明。
埼玉県東松山市の吉見の百穴、長野県佐久市の自生地は国の天然記念物に指定されている。
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最終更新:2023/06/06(火) 17:00
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