アイドル達と昭和日本 単語

142件

アイドルタチトショウワニホン

4.6万文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

アイドル達と昭和日本とは、鈴木貫太郎P制作している、iM@S架空戦記シリーズである。・・・・・・が、
3月17日更新の25話後編にて作品更新の一時休載が宣言された。
4月19日に26話前編更新し帰ってきた。おかえりなさい。

概要

第二次大戦直前の日本舞台とした、現地人系架空戦記

1934年1月岡田啓介ではなく如月千早が第31代内閣総理大臣となったことで、歴史は大きく変わり始める。

登場人物 

※以下、ネタバレ注意

登場アイドル

如月千早:第31代内閣総理大臣海軍大将。通称「はらぺこ首相」。この世界では千歳)は死んでおらず、その手料理が好物。世界恐慌の余波から来る不況への対策と、地方部の貧困対策などに優秀な閣僚やブレーンと共に熱意を持って取り組み、着実に効果を上げつつある事によって民から高い支持率を得る。にもかかわらず、千早本人は軍人が政治を行うことを良しとせず辞任し政治政党政治に返そうと決意するのだが、その矢先に先を見通せぬ暗愚な政党政治家コミュニスト(ソ連)の謀略に嵌り、日本という国家が看過できない状況に追い込まれる事が明となった為、苦渋の決断として開戦を決意する。千歳人には如月 負の連鎖(22話前編での台詞により、千早も○だった模様)を断ち切ってくれる様な豊かな胸の人(貴音未来希望の持てるやよいなど)と結ばれる事を願っている(よって、は除外)。一時「官邸だけが高いものを食っている」と疑惑を持たれ騒然となったが、高い食材はど使っていない事が明され食べ過ぎ以外は問題となったとか?

萩原雪歩:内務大臣兼鉄道大臣。通称「政界の土建屋」。日本最大の建築業「萩原建設」の跡取り実家の実績から入閣を依頼される。本人は鉄道大臣を希望していたが、父親の知人(初代特高警察部長 安倍基)の補佐を受けると言う事で内務大臣も拝命する。内務大臣としては普段は気弱な彼女だが一旦スイッチが入ると変し、スコップの備前長スコップアカの血をめ唸りを上げるとも。内務大臣としての道路・上下水道などの生活インフラ整備、鉄道大臣として鉄道敷設などの土木工事をを実家組員若い衆と共にスコップを振り回しを流してるのはやり過ぎとのも。

四条貴音:外務大臣。族(四条)ではなく、この世界では皇族の一員(28話中編で出生の秘密アリョーシャ(朝倉涼子)との出会いがられる)。千早首相就任に皇族の入閣など通常ならありえなかったが、今が危機存亡の時と入閣を決断する。千歳暗殺(未遂)事件後、黒井日本からの脱出を呼びかけられるが、千歳との出会いで人と人とを繋ぐ「」の大切さを知り、その提案を拒絶する。最近は三日と明けずに千歳の作る官邸ラーメン(別名 千歳麺)を食べている事で有名で、総理はらぺこが感染したとの疑惑も。

水瀬伊織:大蔵大臣。通称「罵倒大臣」。水瀬財閥(伯爵)の跡取り。元総理高橋是清翁との知己により経済通となる。政財界の重鎮らにに衣着せぬ発言は反発どころか重鎮らを下化している模様。また、涼宮ハルヒ女王とは幼馴染で顔合わせる度に喧嘩している(つもりだが他者には仲良くじゃれあってるようにしか見えない)。ラジオの質疑応答でのに衣着せぬ応答は一番人気だが、子供への釘宮病患者大量発生の根として教育には悪いとの評判?

双海亜美情報大臣。(現代の日本内閣役職に当てはめた場合、公安調査庁長官に該当か?)通称「闇とかち~」。大臣でありながら、日本が誇る第一級のエージェントでもある。実は盗み出す事は困難られるソ連軍事機密をも容易く盗み出してくる程で、彼女諜報の優秀さを理解していただけるかと。

秋月律子陸軍中将(16話後編より大将)、近衛団長都防衛官。太くん。“バーデン・バーデンの密約”催の一人。第1話冒頭、如月内閣発足前の西園寺-高木会談では高木律子首相に推挙したかったが、陸軍内閣を嫌う西園寺翁の反対で口に出せずに終わった。(高木社長と同様の考えの人間陸軍内にもおり、陸軍内の統制・皇の和ければ彼女を担ぎ出してクーデターを起こす動きもあったとの事。)対ソ開戦時は満州方面軍兼大陸派遣総司令官。自他共に認める優秀な将官であり、自分も切れ者たるべしと思ってるようであるが、他者(特に小畑敏四郎)から見れば情に厚く冷酷になり切れていないと見られている(リッチャンハジウニモロイデスヨ)。対ソ戦後元帥に昇進、日本本土にやっと帰れるかと思った舞台と一緒に台湾に駐屯する事に。そんな彼女へ軍部(ハルヒ)と首相から手紙が「半年で中国に勝てる作戦立てなさい(ハルヒ)」「考えるのがお前仕事だ~!(千早)」・・・・・・頑りっちゃん

菊地真陸軍少将(16話中編より中将)、騎兵第一団長。対ソ開戦時は騎兵第1軍官。出征直前、千歳に奇襲を敢行し成功する。(ガンパレード・オーケストラの章、第105山岳師団の面々はの部下の模様。)
対ソ戦開始後、コリマ鉱山の捕虜収容所(ラーゲリ)を開放した事から“コリマの聖女”と称される事に。闊にも戦いの終わったばかりの戦場に一人立ち、凄惨な情に胸を痛めていた所を狙撃され(千歳の贈ったバキュラペンダントで一命は取り留めるが)一時的にバイストン・ウェル行きとなる。そこで朝倉涼子と出会い、現世に残る自分の身体を始末して欲しいと依頼される。ウブで純情でいて曲がった事が嫌いな熱血(ねっけつおとこのこかんのむすめ)である。

星井美希陸軍大佐(16話後編より少将、20話後編から中将)、飛行第一戦隊戦隊長。対ソ開戦時は大陸派遣陸軍航空官、対ソ戦後陸軍航空官。千歳暗殺(未遂)事件後、落胆する千早を励まし立ち直らせたのは彼女である。千歳が抱える悩みを受け止められるくらいの関係になりたいと、する乙女の表情をものぞかせる。29話前編で彼女千歳を知り、千歳が自分達を大切に思って抱え込もうとする悩みを一緒に分かち合いたいと千歳争奪戦に参戦を決意する

双海真美陸軍軍医中尉(17話前編より大尉東郷平八郎元帥の最期を看取る。千歳暗殺(未遂)事件では陸軍病院に運ばれてきた千歳の手術を担当し、手術成功後は千歳の傍について覚めの時を待っていた。対ソ戦開始後、彼女も満へ渡る。

高槻やよい陸軍少尉(14話後編より中尉)、総理護衛武官兼近衛師団小隊長。この世界では父親海軍高官への贈賄事件「シーメンス事件」に関与したとして軍を追われた経緯を持つ。よってやよい海軍ではなく陸軍へ進んだ。。史実で2.26事件を起こした皇青年将校らとは交がある。(当初の設定では皇に送り込まれたスパイという設定だったと番外前編にてられている)「東京うっう~

音無小鳥海軍中佐総理護衛武官兼秘書官で、「高木の隠密」とも称される。千歳秘密未来予知)を知る数少ない一人(だったが29話で明かされた為、数少ない千歳アドバンテージを失う事に)。
この世界でも幼少のころから東郷×木の妄想していたなど妄想女王ぶりは時代が変わっても変らずの模様。「永遠の23歳」から「音無小鳥さんまんにじゅうよんさい」へ
更に29話前編では邪神コトリザバス格を得たとも。くこの退治してくれw

天海春香海軍大佐(16話後編より少将)、横須賀海軍航空、対ソ開戦時は大陸派遣海軍航空官。満州帝国皇帝溥儀(康徳)の即位式でどんがらがっしゃ~んを披露(?)する。対ソ戦開始後はソ連極東軍を食いに食いまくり、一説では筆ヒゲソ連人民最大の敵ドイツの某閣下より先に賞定したという噂も。20話前編にて今後の陸共同作戦の円滑な遂行(ぶっちゃけ陸軍に言う事聞かせる)為に三段階昇進で元帥に昇進する。

三浦あずさ海軍大佐戦艦陸奥』艦長。第一艦隊官。A級ジャンパー。乗艦ごと移動していたの安らぎの場所(バイストン・ウェル)にて、地上から落下してきた千歳陸奥で地上に送り返すという奇跡の大殊勲を行った(ガンパレードマーチ、5121小隊の面々は陸奥乗組員となっている)。

我那覇響:統合軍少将(15話前編より中将)、上機動団(海兵隊)長。(ガンパレード・オーケストラの章、兵109師団の面々はの部下)。巨大な戦闘「戦斗バーナー」を飼育騎兵部隊一着いて往ける機動ある部隊という事で、本来不向きな戦場である砂漠原の地に赴く。23話後編にてソ連スナイパーヴァシリ・ザイツェフ狙撃を受けたが、が貰ったのと同じバキュラペンダント天然の86センチ胸部装甲によって(胸部装甲より13センチほど薄かった為ひびが入り2週間の入院だったのに対し)傷だった。

日高愛日高中将。統合軍士官学校海軍科学生。卒業後(卒業席次は・・・・・・聞くなw(23話中編でブービーだった事が判明w))海軍少尉として海軍航空隊に配属。初陣にて10機撃墜と、オーガ戦場で開々しいデビューを飾る。

水谷絵理:統合軍士官学校情報科学生。次席で卒業し統合軍少尉としてチームELLIEを発足、技術研究に邁進する。研究チーム科学者たちからは(や孫のように)可がられている模様。

秋月 :統合軍士官学校陸軍科学生。首席で卒業陸軍少尉として戦車第一軍第2師団へ配属。突撃一番用中な夢子

桜井夢子:統合軍士官学校陸軍科学生。三位で卒業陸軍少尉として戦車第一軍第3師団へ配属。突撃一番用されてる

日高舞日高 愛海少尉母親。対イタリアエチオピア援軍(およびトルコイスタンブールにボゾンジャンプした戦艦陸奥三浦あずさ)回収)の「遣土艦隊」として戦艦金剛を旗艦として地中海へ出航す。ケマル・アタチュルクトルコ大統領民の為にも節をと進言する。対ソ開戦時は空母赤城を旗艦とする第1機動艦隊官。開戦2日前に最後通牒手渡したにも拘らず、敵基地への奇襲攻撃が成功してしまった事に大いに憤慨する。

史実人物

昭和天皇からドゥーチェまで、多数の史実人物が登場する。 
史実人物についてもっと深く詳しく知りたいという方はWikipediaなどを検索してください

今上(昭和天皇:普段は感情を表に出さぬ温和な方で、圧縮「あっそう」(この四文字の中にはその場その時に応じ色々な意味が含まれる)を用いてりかけるが、本気で怒ってる時は長文り感情を露わにする。

陸軍

十郎陸軍大臣・陸軍大将、史実では33代総理大臣、外務、文部大臣なども歴任したが首相時代、特に何もしなかった事から「何にもせんじゅうろう」と揶揄された。暴走する軍部とハルヒの挟撃にストレスがたまり胃薬が欠かせず、痔にも悩まされる。開戦直後は普段と変らず飄々とした好々爺の姿を見せながら、一方で万一の事(日本敗北)があった場合は海軍によって天皇を脱出させる考えを一人にも明かさず心に秘めていた模様。対ソ戦後半には占領獲得した領土を次々独立させる如月内閣の政策に不満を持つ陸軍OBや在郷軍人会などに対しての火消し役として奔走している。当分、痛も痔も治す時間もさそうです。

崎甚三郎陸軍大将教育総監。皇の中心人物。史実では2.26事件の黒幕とも(偽不明)。この世界では在郷軍人会や義者を煽動していた事が発覚、ハルヒ皇軍粛清より失脚。

小畑敏四郎陸軍少将(6話時点、史実最終階級、16話後編より中将)、「バーデン・バーデンの密約」の一人。敏四郎えもん。史実では皇の中心人物とされ、2.26事件後に青年将校の決起を止められなかった責任を取り予備役に編入される。この世界では統合軍士官学校校長。皇代表の一人として山下奉文、鈴木と共に三会談に列席。対ソ開戦時は第1軍官兼大陸派遣軍総参謀長(ガンパレード・オーケストラの章、第108警護師団の面々は彼の配下の模様)で、総司令官の“太くん”律子とは息の合ったコンビぶりを見せる。

山下奉文陸軍中将(最終階級は大将)皇の幹部で、史実では2・26事件後に統制に睨まれ中央から左遷される。太平洋戦争開戦時は第25軍官としてマレー作戦揮し「マレーの虎」と呼ばれ、シンガポールの戦いの英軍降交渉で「イエスノーか」と迫った事は有名。マッカーサーの恨みを買い大将でありながらB級戦犯としてマニラで絞首刑となる(享年60歳)。この世界では皇代表の一人として小畑敏四郎、鈴木と共に三会談に列席する。対ソ開戦時第2軍官。

鈴木(よりみち):陸軍少将(最終階級陸軍中将)。史実では欧航空隊の発展をつぶさにし、帰後、陸軍航空隊の発展に尽した航空隊育てのであるが、東條英機に疎まれ、1943年5月に第2航空官を解職され、同年8月した。享年44歳。この世界では皇代表の一人として小畑敏四郎、山下奉文と共に三会談に列席する。対ソ開戦時は陸軍第1航空官。

永田陸軍中将(当初少将で登場だったが27話後編の台詞中将昇進確認)陸軍省軍務局長。統制の中心人物。陸軍の英才と謳われ、「バーデン・バーデンの密約」の一人。史実では教育総監更迭を巡り皇と対立し、永田の陰謀と信じた相沢三郎中佐殺される(享年51歳)。この世界では統制代表の一人としてHI☆DE☆KI岡村寧次と共に三会談に列席する。ハルヒの行った陸軍粛清によって暗殺される事はくなったがトロピコ行きとなる。対ソ開戦決定に伴い帰し、動員課長を兼務する事に。

東條英機HI☆DE☆KI(最終階級は陸軍大将)史実では義と呼ぶ永田山の死後、統制の第一人者となり、のち40代総理大臣となるが日本の敗戦後東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され絞首刑の判決を下され執行される(享年65歳)。この世界では統制代表の一人として永田山、岡村寧次と共に三会談に列席する。上記永田山と同様トロピコ送りとなる。山の帰後もトロピコに居残りであったが、帰後はモンゴル遠征軍の補給の手を整える等、官僚軍人として活躍。

岡村寧次(やすじ):陸軍中将(最終階級陸軍大将)。陸軍三羽の一人で「バーデン・バーデンの密約」の一人でもあり、支那派遣軍総司令官、北支那方面軍官、第11軍官等を歴任する。戦後蒋介石の要請による国民党政府軍を秘密裏に支援した旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団「団」に参加する。この世界では統制代表の一人として永田山、HI☆DE☆KIと共に三会談に列席する。対ソ開戦時騎兵2軍官。

:陸軍中尉(10話時点、最終階級中佐律子の部下。史実では陸軍士官学校第44期次席、陸軍大学校第51期首席。大本営参謀で、戦後シベリアへ11年間抑留され帰後は自衛隊への誘いもあったが伊藤忠商事へ入社、1978年には会長に就任した。義は史実の31代首相である岡田啓介(海軍大将)で、さらに義岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務め、2.26事件で身代わり死した松尾伝蔵(陸軍大佐)である。

相沢三郎陸軍中佐。史実では永田山軍務局長殺の「相沢事件」を起こすのだが、この世界では千歳殺事件の第一発見者となり、朝倉涼子との会話で知る今後起りうる世の中の事実と、如月千歳との出会いが大きく彼の未来を変える事となった。のち律子の計らいよって第1師団に転属となり、千歳の護衛の任につく。の腕前は朝倉さんと互にやりあうほど。回復アイテム「はらこめし」と秘山切り」を持つ。

牟田口廉也陸軍大佐(史実最終階級は中将)。富永恭次・木村太郎と並ぶ日本陸軍無能将官。余りにもの無能っぷりに史実ではA級戦犯とはなったが不起訴処分となり、ニコマスなど架空戦記ではネタキャラとして扱われるのがデフォとなっている。この世界では貴音らの不を買い、エチオピアに左遷された(エチオピアに春の香りを 参照)が、そのエチオピアイタリア軍が侵攻してきた際、日本政府・軍の意向を聞かず独断でエチオピア兵を率い迎撃・交戦し、あやうく日開戦となりかけた。その後日本へ帰し、事件のフラグが立ちかけたがヘミングウェイエチオピアハイレ・セラシエ皇帝によってキリマンジャロ山頂に連れて行かれ凍死一歩手前となるが麓タンガニーカ(タンザニア)の地元民に救助される。本人は帰したがっているが地元民の懇願と呪術師の帰すると日本不幸になるとのお告げにより帰できずにいる。地元民GJ!(サラザールのエスタド・ノヴォ 参照)

政信陸軍大佐、のち政治家。「作戦神様」と謳われる一方で、多くの失策謀な作戦計画などで批判されることが多い。戦後衆議院議員(4期)参院議員(1期)となり参院議員在職中の1961年ラオスへの視察として渡航行方不明となり、1968年家族の申請により裁判所より死亡宣告がなされた。この世界ではイタリアエチオピア侵攻に対し中国人貿易商に扮しエチオピア武器を供与(表向きはコーヒーとの交換貿易)する。対ソ戦開始後は中国人商人大人(つじたーれん)に変装し新彊(ウイグル)の勢軍事物資の密貿易や諜報活動中の模様。「石原莞爾だって戦場満州事変)で勝って出世したんだ、だって!」「やめろ辻ーん!」

前田利為(としなり):陸軍少将(最終階級は大将)。旧加賀前田本家第16代侯爵)。この世界では開戦当初樺太に駐屯。史実ではこの頃は第8師団長(ちなみにフィリピンルパン戦後30年潜した小野田寛郎少尉はこの第8師団参謀部所属だった。)で一旦予備役編入後、昭和17年4月にボルネオ守備軍官となり、9月に消息を絶ち後に残骸と遺体が発見され、死後大将に叙せられる(享年57歳)。

加藤建夫:14話前編で初登場。陸軍中佐(最終階級は少将)。陸軍航空戦隊長で美希の部下。史実においては帝国陸軍の飛行戦隊、飛行第64戦隊、通称“加藤戦闘隊”戦隊長として有名なエースパイロットの1人。1942年5月22日、敵機交戦中に被弾し帰還困難となり面に自爆戦死し死後二階級特進して少将となり、軍として讃えられた。
この世界では美希の部下で戦闘機コクピットで寝ている美希を起こすのが日課となってる模様。

武藤陸軍大佐(最終階級中将)。この世界では山下中将率いる第2軍参謀長。史実でも山下奉文とは思想が異なるが仲が良かったという。統制の一員で対中強硬ではあったが対英戦争には反対し、東条英機と対立して左遷されたにもかかわらず対英戦は武藤が強権により強行したと田中陸軍少将東京裁判で言した為、中将一絞首刑判決を受けた。

本間陸軍中将。史実ではフィリピン攻略時の第14軍だったが攻略後の捕虜の輸送計画の不備により多大な犠牲者を出す事となる(パターン死の行進)。この時の不手際をとがめられ予備役に編入され、終戦まで第一線には復帰しなかった。戦後、マニラ戦犯裁判でバターン死の行進責任者として召喚、死刑判決が下り1946年昭和21年4月3日午前0時53分、ちょうど4年前に第14軍官であった本間の口より総攻撃の命が下された同じ日、同じ時刻にあわせて執行された(マッカーサー復讐という説あり)。この世界では戦車第1軍官として夢子の上官として登場、初めて戦場に赴く二人の不安を和らげようとする配慮を見せる。
戦場鹵獲したソ連KV-1戦車東豪寺麗華(=東寺財閥)に新たなる戦車開発に役立たせるように譲渡する。

渡辺太郎明治昭和初期の陸軍軍人、陸軍大将“あの”元老山縣有朋の副官を務めていた。教養人であり天皇機関説を正しく理解していたといわれる人物であったが、崎甚三郎教育総監の後任として教育総監に任命された事が近視眼・短絡的思考しか出来ない青年将校には崎追い落としに加担したと映り憎悪の対となって、2.26事件で決起兵の機関銃の餌食と化し死亡する(満61歳)。
2.26事件の発生していないこの世界では関東総司令官を務め、ソ連極東軍・シベリア軍撃破した今後の日本軍戦略りっちゃん達が苦慮していた所に、日露戦争というロシアと戦った大先輩を聞くべく呼ばれ、ソ連の縦深戦術理論ドイツ電撃戦理論といった彼らの戦術は、自分の一番されたくない事を行っているのだとり、ロシアと戦う時は止まる事く前へ進む事だと具申する。

松井石根(いわね):陸軍大将古方面軍官。史実では中支那方面軍官兼上海派遣官、ハルピン特務機関長などを務め、戦後所謂「南京大虐殺」の責任を取らされ東京裁判でB・C級戦犯として処刑された。満70歳

篠原陸軍曹長(最終階級は陸軍少尉)。総撃墜数58機を誇る帝国陸軍トップエースの一人で通り名・異名は「東洋のリヒトホーフェン」と呼ばれ、1日で11機の敵機を撃墜した記録を持ち、この記録を上回るのはドイツ空軍エーリヒ・ハルトマン(1日に12機を撃墜)だけである。しかし武運は長くは続かず、初陣からわずか4ヵ後の1939年8月27日爆撃機護衛の際に交戦となり敵機3機を撃墜したがI-16戦闘機に撃墜され戦死し、功績によって准尉から少尉に特進した(享年26歳)。この世界では加藤建夫と同様に美の部下で、史実と違い自己の撃墜数の上を行く美希を越すべく奮闘する。

板垣征四郎陸軍大将関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行。史実では満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣、朝鮮官などを務め、戦後東京裁判にて死刑判決を受け絞首刑に(満63歳)。この世界では当初ハルヒ皇軍粛清の処分対として満送り(それって彼にとって処分と言えるのか?)となっていたが開戦後に新設された騎兵3軍官に任命される。

石原莞爾陸軍少将(史実最終階級陸軍中将)。「世界終戦論」など軍事思想としても知られる。関東作戦参謀として、板垣征四郎らとともに事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、この東條との対立と病気のため戦犯定を免れ、戦後政治活動などをする事は山形庄内の農場で静かに余生を送り、昭和24年8月15日に60歳で死去している。この世界では当初ハルヒ皇軍粛清の処分対として満送り(板垣と同様にそれは彼にとって処分と言えるのか?)となっていたが、開戦後に新設された騎兵3軍の参謀長に任命される。の参謀である芝英吏にして危険人物と言わせる人物(お前が言うな)である。 ・余録:世界音楽揮者の小澤征爾1935年9月1日生)の征爾の名は、父親交のあった板垣四郎と石原の一字づつから貰って命名されたもの。山形県選出の衆院議員(自民党元幹事長)加藤紘一は、彼の従兄加藤清三(元衆院議員)の子である。)

田中陸軍中佐(史実最終階級陸軍少将)。史実では太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長陸軍中野学校長など務める。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与してた日本軍の闇の部分に通じた人物といえ、上海使館附武官として上海に赴任していた1930年に“男装の麗人”川島芳子をスパイに引き込んだ本人である。また戦後には太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、極東軍事裁判(東京裁判)において戦犯としての訴追を免れ、検事側の人として被告に不利な言したといわれ、武藤章が東京裁判で中将として絞首刑判決を受けたのは田中言による所が大きいといわれている。(ただこれは国体維持の為、被害者を最小限に抑える為の全てが計算された謀略であったとも。)この世界では情報省に出向中で亜美の部下となっている。(独りにすると碌な事しないので亜美の手元に置いているのか?)

樋口季一郎陸軍少将(史実最終階級陸軍中将)。史実では第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任。相沢三郎永田山を殺した“相沢事件”当時の相沢の直接の上でもあった。ハルピン特務機関長時代の1937年12月26日に第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を間接的ながらしく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの采を浴びたという。また、ナチスの迫の為に欧州から逃れてきたユダヤ人に対して食料・燃料の援助や、亡命希望への出満州国への移民上海租界への移動の旋などを行っていたという。これは過去樋口欧州にてユダヤ人に暖かくむかえてくれた実体験が根底にあったためという(一方で“東洋のシンドラー杉原千畝とは対照的にユダヤ人救済に尽したにも関わらず日本で名が知られていないのは難民救済を実質的に揮したのは、後にA級戦犯とされる当時関東軍の参謀長だった東條英機と同じ時期に南満州鉄道の総裁だった松岡洋右も難民救済に一役買っていた事から、に人面からなのか単なる政策の一環からかの評価が定まっていない為との事)。戦後イスラエル功労者として安江仙弘大佐(作品未登場)と共に本来ユダヤ人しか登録されないはずのゴールデンブック黄金の碑)に登録されることとなる。この世界では中央アジアにてソ連軍崩壊後に編成された騎兵四軍官に任命される。

山田:(史実最終階級は陸軍大将)。史実では第3軍官や中支那派遣軍官、教育総監兼軍事参議官などを務め、1944年昭和19年7月最後の関東総司令官として赴任、終戦ソ連軍に降し参謀らと共にソ連に抑留され、10年以上経って日本へ帰した。 この世界では第3軍官。この世界では第3軍参謀長としてジューコフ率いる戦車隊と対峙する。

:(史実最終階級は陸軍大将)。大戦末期沖縄・首里に部を置く第32軍官として赴任しアメリカ軍との沖縄戦を戦う事となるが衆寡如何せん南部の摩文仁へ撤退し、抵抗を続けるものの6月23日未明、参謀長の長勇と共に自決する(満57歳)この世界では第三軍参謀長としてジューコフ率いる戦車隊と対峙する。

各師団の師団長はどうやら戦国幕末の世から駆けつけてきた模様である。
第1師団長北条氏康
第2師団長伊達政宗
第3師団長織田信長
第6師団長:深水長智


第11師団長長宗我部元親
第17師団長尼子経久、参謀長:宇喜多直家
第22師団長松平容保、参謀長:最上義光 ※なお、第22師団の兵は白虎隊である。


・・・・・・今後が登場するか楽しみである。

海軍

東郷平八郎元帥海軍大将日清日露戦争勝利に大きく貢献し、日露戦争においてはロシアバルチック艦隊を撃ち破る大殊勲を挙げ、その名を世界に知らしめ、世界三大提督と称されるようになる。晩年は末次長官、加藤部総長など艦隊に利用され、ロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取り、また明治以来の懸案であった、兵科機関科の処遇格差の是正にも反対するなど、現代においては老害批判する者も多し。史実では昭和9年(1934年)5月30日に86歳で死去、その前日に侯爵位を授かる。この世界では軍は死後、守護となって如月内閣を、日本を見守っている。

伏見宮博恭(ひろやす)海軍大臣・元帥海軍大将(史実は軍部総長も歴任する。)日露戦争の従軍を始め艦長や艦隊などを努めた実戦経験豊富な皇族である。自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や難所の航でも難なく操る実は尊敬されていたという。また、皇族の一員でありながら海軍での生活習慣が身に付いていた博恭王は、下着洗濯などは自ら行う事もあったといい、艦内では握り飯漬物という簡易な食事を好んで食し、海軍食堂での食の好物は天ぷらうどんだったとの事。

末次信正:21代連合艦隊長官。最終階級海軍大将ツンデレでオラ極右(ごくう)。ロンドン軍縮会議に関しては強硬な反対であった。人望はあったが過な性格が災いし、後には天皇陛下とも対立する。この世界においては、女性戦艦の艦長なっているなど軍に女性がいる事に強く不満を持っていたが、戦艦陸奥艦長三浦あずさが物怖じせず自分に意見を述べた事で 惚れ 見識をめ、自分の後継者にと考えるようになった模様。また、25話後編では本来は第1機動艦隊(+戦艦2艦)のみ派遣予定で留守番のはずだった欧州派遣艦隊を自分も行けるように意図的にあずさに生体ボゾンジャンプを発動させ、連合艦隊総出でイスタンブール行きとなった。

豊田副武(そえむ):最終階級海軍大将。史実では後に29・30代連合艦隊長官となるがその頃の帝国海軍は見るい状態で、小沢三郎中将連合艦隊長官の職を引き継がせた後は、最後の軍部総長として戦後処理に当たる。この世界では連合艦隊参謀長。ツンデレ末次長官の副官としての休まる日がない苦労人の模様。

加藤寛治:この世界での軍部総長 元帥海軍大将(史実は海軍大将)。実は第1話OPにも登場しているが、次の登場が17話対ソ戦開始OPで、(Hoi2ゲーム上では軍部という組織は必要い組織の為)初台詞が25話中編という不運の人。史実では伏見宮博恭王、末次信正らとともに艦隊の中心人物の一人。鈴木貫太郎大将従長に転出した事で軍部総長となる。ロンドン海軍軍縮条約批准時には強硬に反対し、統帥権干犯問題に発展、史実では1930年6月条約批准後帷幄上奏(昭和天皇に直接辞表提出)し軍部長を辞任した。

山本五十六:史実では26・27代(太平洋戦争開戦時の)連合艦隊長官。海軍大将(25話時点では中将)。世界的に名を知られる帝国海軍軍人の1人。旧姓・高野五十六で、越後長岡家老山本(武田信玄の配下、山本勘助を祖とする。)の養子となる。航空機期から着海軍航空隊育成に尽した。真珠湾攻撃の計画は山本の発案といわれる。後、前線視察に訪れていたブーゲンビルにて米軍機の待ちせに遭い戦死し、死後元帥に追贈される。この世界では艦隊から条約に転向した事を千早が嫌い、顔も見たくないとられるほどであったが千歳の仲介により和解し、後に海軍省次官に就任した模様。

木村昌福まさとみ):最終階級海軍中将あだ名名前音読みにした「ショーフク」。中央勤務の経験しで中将まで昇進した叩き上げの帝国海軍軍人名将の1人。敵味方を問わず常に人命を疎かにせず、慎重且つ的確な揮統率で知られ、キスカ島守備隊を味方の犠牲を1人も出さず行った事は有名。

小沢三郎海軍大佐(6話時点、最終階級は中将)統合軍海軍科教官。史実では最後の連合艦隊長官。戦の延長上の発想から、空母の集中運用という「空母機動艦隊」を提案し空母機動艦隊生みのと称される(が、艦隊揮は年功人事で南雲中将揮する事となる)。

大西治郎海軍大佐(史実最終階級は中将)。日高中将下の第一機動艦隊参謀長。末次長官の副官、豊田参謀長と同様に苦労人の模様。史実では議論の余地あれど“特攻生みの”として知られる。

高橋三吉海軍大将。この世界では第一護衛艦隊官。史実ではこの時期の連合艦隊長官(22代)を務めている人物で、皇族で軍部総長となっていた伏見宮博恭王とともに軍部の権限強化を図ろうとしていた。連合艦隊長官に着任した頃、「大和」「武蔵」の建造が始まった際には、戦艦建造の必要性があるかどうか再考を促すコメントを残している。

井上成美海軍少将(史実最終階級は海軍大将) 。この世界では第一護衛艦隊参謀長。史実では横須賀鎮守府参謀長、海軍省軍務局長海軍次官などを務めた。横須賀鎮守府参謀長時代、2.26事件発生前から青年将校グループ反乱軍と予測・断定し、海軍戦隊東京派遣海軍省の警備につかせるなどの対応を取っていた。軍務局長として米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国軍事同盟条約締結に強行に反対し新聞記者からは「海軍3羽」と称された。剛直、清廉潔、曲がったことが大嫌いという人柄であったが一方で敵も多かったといわれる。

海軍中佐(史実最終階級海軍少将)、史実では太平洋戦争期の連合艦隊先任(席)参謀。山本五十六の懐として真珠湾攻撃を立案、また特攻を発案し、軍部第一部部長中澤 少将田 実大佐らと共に実行に移し多くの若者の生命を散らせた本人ともいえる。敗戦後デスクワーカーとなっていた事で戦争犯罪を問われず、自決するわけでもなくその後寿を全うした。享年72。この世界では情報省に出向中で亜美の部下となっている。(田中吉と同様、独りにすると碌な事しないので亜美の手元に置いているのか?)

岩本徹三日本海軍戦闘機搭乗員(最終階級 海軍中尉)。史実では太平洋戦争時の日パイロットの中で一撃墜数200機えをするエースパイロットであり、日中戦争から太平洋戦争終戦まで最前線で戦い続け、『最強零戦パイロット』と謳われた名操縦士である。この武士道的言葉を、彼は常々自身に言い聞かせていたと言われる。「媚(こ)びず、諂(へつら)わず、とらわれず。」この世界ではと同じ海軍航空部隊パイロットで階級的にの部下と思われるが実質ちゃんのお守り?

西澤日本海軍戦闘機搭乗員(最終階級 海軍中尉)。史実ではラバウルでの活躍から『ラバウル魔王』と呼ばれたが、乗機をフィリピン・セブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のためマバラカット基地(のちのクラーク空軍基地)へ零式輸送機に便乗して移動の途中、輸送機がミンドロ北端上に達したところでグラマンF6Fに攻撃を受けて撃墜され、戦死した。24歳。この世界ではと同じ海軍航空部隊パイロットで階級的にの部下と思われるが実質ちゃんのお守り?

陸海軍双方で現時点で名前だけ登場の人(-史実経歴の抜粋だけ紹介)

俊六空軍大臣(注・当時の日本にはこの役職はありません。当時の役職は陸軍航空本部長。)陸軍中将(史実最終階級は元帥)。史実では作戦関係の要職を歴任し昭和12(1937年)に陸軍大将に昇任し、軍事参議官・陸軍教育総監を兼任し、同年、十郎らと共に首班補に推される。天皇の信任が厚く陸軍大臣に就任するが、軍部の暴走を止める事は出来なかった。陸相留任した内閣天皇から内閣への協を言明されていたにもかかわらず単独辞任しこれが元で内閣瓦解する事になり、戦後この事でA級戦犯として起訴される事となる。国鉄広島付近で被爆するも奇跡的に難を逃れ、災者援護の揮を執り終戦を迎える。A級戦犯として起訴されたが東京裁判では米内光政(元首相海軍大将)は彼をかばい、結果、死刑を免れ終身禁固の判決を受けた。

米内光政海軍大将。この世界では護衛艦長官。史実では連合艦隊長官(23代)兼第一艦隊長官、海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを務めた。山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長ととも日独伊三国軍事同盟に反対し続ける。昭和天皇に強く押されて37代総理大臣となったが陸軍とうまくいかず短命政権となる。昭和天皇も「内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」とったという。戦後GHQマッカーサー)は日本の占領統治をやり易くする為、天皇戦争責任を問わない方針に決め、天皇が何ら罪のないことを日本側が立させる代償として東条に全責任を負わせるようにするという密約を内と交わしたとも。

安藤利吉陸軍中将。対ソ開戦時第4軍官。(史実最終階級は陸軍大将。)史実では1940年昭和15年2月10日支那方面軍官に着任。同年6月に北部インドシナへの進駐(印進駐)を揮するが、富永敵前逃亡”恭次が独断で武進駐したため責任を負い予備役に。のち再召集され台湾軍台湾総督も務めた。中華民国政府拘束され、上海に抑留されたが1946年昭和21年)に自決した(殺という説もあり)。満62歳

柳川陸軍中将。対ソ開戦時第5軍官。史実では荒木貞夫陸軍大臣の下で陸軍次官を務め皇の重鎮の一人で第一師団長となるが台湾軍に左遷、2.26事件後に予備役に。第2次近衛内閣法大臣、第3次近衛内閣では務大臣を務めた。1945年病死。

梅津美治郎陸軍中将。対ソ開戦時第6軍官。(史実最終階級陸軍大将。)通称「言の将軍」。史実ではノモンハン事件後に関東総司令官に就任し、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀の粛正の任を果たした。終戦直前、阿南惟幾陸軍大臣から知らされた一部将校たちによる本土決戦めるクーデター計画に絶対反対を唱え、計画を中止させた。太平洋戦争の降文書調印式全権を依頼され大本営全権として降文書調印式に出席。東京裁判では終身禁固刑となり役中に直腸により病した。満67歳

橋本五郎陸軍中佐(史実最終階級陸軍大佐)。史実ではケマル・アタテュルク革命思想に接したことで趣味が「革命」となる。2.26事件では自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、予備役へ回される事となる。東京裁判ではA級戦犯として終身刑となるがのち仮出所する。

長勇(ちょう いさむ):陸軍少佐(史実最終階級陸軍中将)。史実では1930年昭和5年)に橋本五郎らと会を結成。同年12月、参謀本部員に異動。1931年昭和6年)の三月事件・十月事件を計画。橋本らと同様に処分を受けるが軽い処分で済んでいる。1937年(昭和12年)12月情報主任参謀として、南攻略戦に参加。捕らえた中国兵捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った松井石根中支派遣官に窘められている。沖縄戦にて米軍に追い詰められ割自殺(実は青酸カリによる自殺)した模様。満50歳

宮崎繁三郎陸軍中佐。(史実最終階級陸軍中将。)ノモンハン事件インパール作戦など、日本軍が劣勢の戦場で常に戦功を挙げた事は知られており、日本陸軍の野戦指揮官、名将として名高い。負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励まし、他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、遺体埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍死体で埋め尽くされた地獄街道を撤退し続けたという。
インパール作戦における“日本陸軍の良心”とも呼ばれ、作戦に従軍した兵士達は、牟田口の名を口にするたび、一様に怒りで口を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。

松永海軍少将(最終階級は海軍中将)。“戦国ボンバーマン松永久秀を祖先とする。木村昌福海軍学校同期太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を壊滅させた航空指揮官として名高い。「敵インフラを破壊した後に飲むはまた格別・・・・・・」

政官界

西園寺公爵。(最後の)元老。立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣政治家としては衆議院での多数政党内閣を組織する政の常を慣例にする事を望んだ。大正13年に元老松方正義が死去後に元老として列せられ、内閣総理大臣奏薦の任に当たる事となる。この世界では次期首相奏薦について、艦隊だった千早に危惧し千早への大命降下に反対した。千早が政権を正当に帰す決断をした時は、これで先立った元老たちの元へ立てると大喜びしたのだが、西園寺翁の願いは時代と愚かな政党政治家)によってわぬものとなった。

牧野伸顕:内大臣。天皇陛下の「お言葉(=あっそう)」を訳する(史実、麻生太郎総理は曾孫に当たる)。

吉田茂:駐イタリア大使。内大臣牧野伸顕の婿。“人を食う"のが大好きで、作品内でもドゥーチェらを喰ってしまう。史実では戦後、第45・48~51代内閣総理大臣となる。

杉原千畝外務省諜報部第一課、貴音の部下。史実ではリトアニアカウナス領事館領事代理時代、ナチス・ドイツからの迫から逃れようとする多くのユダヤ人を救った人物“東洋のシンドラー”として世界に知られる。

安倍:内務官僚、初代特高警察部長。史実では「赤色ギャング事件」や「日本共産党リンチ事件」(プロレタリア文学作家小林多喜二はこの件で死亡している)などで「狩り安倍」の名をかす。
この世界では内務大臣の雪歩の部下であり、雪歩友。内務大臣萩原雪歩を“育てた"と言って過言いが、雪歩が予想以上に(そっち方面へ)成長・開した事に驚愕畏怖する。

岸信介:商工省局長。16話中編で満州へ向かった雪歩に同行する。史実では戦後政界に転じ第56・57代内閣総理大臣となる。

(また、で第61~63代内閣総理大臣となる佐藤栄作鉄道省勤務でアメリカ鉄道技術取得中)

十河信二:南満州鉄道(満)理事。雪歩岸信介とともに同行する。史実では戦後、第4代国鉄総裁となり、「新幹線」と呼ばれるようになる。

田中角栄建築技師見習いの17歳。史実では高等教育を受けずに第64・65代内閣総理大臣まで上りつめた事から“今太”とも呼ばれ、中華人民共和化との日中交正常化を実現。首相退ロッキード事件発覚、首相経験者が逮捕される事態となる。

近衛文麿公爵。第9代貴族院議長、第34・38・39代内閣総理大臣。五摂の近の第30代。3度の首相名を受けたがその任期中に事件を発端とする泥沼の日中戦争の勃発、大政翼賛会発足による日本政党政治終焉日独伊三国軍事同盟を締結、ヒトラーによる第二次大戦勃発とフランスパリ占領、ヴィシー政権誕生後の南部印進駐、それに反発したアメリカによる対日石油全面輸出禁止等の制裁強化と軍部に引きずられ戦争へのへ進んでいき、日交渉も事実上決裂し戦争の決断を迫られた途端に内閣を投げ出し、陸相だった東條英機首相となった。戦後、東久邇宮内閣で近は副総理格の務大臣を務め憲法改正に携わったが、内外世論で徐々に支那事変、三同盟、大東亜戦争に対する近責任問題の追及がしくなりGHQに切り捨てられ昭和20年1945年12月6日に、GHQからの逮捕を聞きA級戦犯として巣鴨拘置所出頭を命じられた最終期限日の昭和20年1945年12月16日に、別荘の荻外荘にて青酸カリして自殺した。54歳2ヶでの死去は、2011年現在日本総理大臣経験者では、もっとも若い年齢である。また総理大臣経験者として、死因自殺である人物は近一でもある。

賀屋日本の大蔵官僚、政治家1927年昭和2年)ジュネーブ海軍軍縮会議1929年ロンドン海軍軍縮会議に、それぞれ全権の随員として列席。ロンドン会議では条約締結賛成だったために、次席随員として参加していた山本五十六鼻血を出す殴り合いを演じた。第一次近衛内閣で大蔵大臣を任じた。東條内閣でも大蔵大臣を務めたが英に対する開戦には終始反対だった。戦時下には戦時債を濫発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた事で戦後A級戦犯となり終身刑となり約10年間巣鴨リズンに役、1955年に仮釈放、3年後正式釈放後に衆院議員となり岸信介首相経済顧問や外交調会長として安保定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任した。

日本の内務官僚、政治家。内務官僚時代は、官選の新潟県富山県両県の知事を経て、内務省警保局長(特高警察の元締)や警視総監などを歴任したが、戦後職追放された。追放解除後、衆議院議員総選挙に立補して国会議員となる。その後、北海道知事に当選し3期務める。任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。外務大臣や内閣官房長官を務めた自民党閥・清和会会長町村信孝の実
この世界では内務省書記官、内務省警保局警務課長として登場。日本軍占領後のモスクワに入り、ソ連共産党秘密文書の入手や、地下に潜したソ連共産党幹部(ベリヤなど)を追跡する。

政党政治家・民間人

政党政治家

鈴木三郎:動く愚者その1。野党立憲政友会第7代総裁。5.15事件で犬養首相が暗殺された事で、本来なら後継内閣を組織するはずが軍部に政党政治を反対された為に首相になり損ねた経緯を持つ。軍人内閣が続くことを好ましくないと考える。如月内閣憎しの感情をソ連に付け込まれ(自分たちは自発的行動と思っていたようだが)ソ連スターリンら)の操り人形と化していた。国会大流血事件(21話後編)後は鳩山一郎とともに入院していたが、リヒャルトゾルゲ、尾崎秀実のスパイ網摘発後に特高警察によって入院先にて事情聴取を行われ、が自せずとも侵攻中の日本軍モスクワを占拠すれば彼らがソ連から受け取った銭の拠を掴まれる事で命運は尽き、首元が涼しくなり政治生命の終焉だけで済めば御の字という状況となった。

鳩山一郎:動く愚者その2。野党立憲政友会の議員で鈴木三郎の義鈴木三郎夫人)。史実では戦後三木武吉らと日本自由党を結成したが離党して日本民主党に加わり52・53代内閣総理大臣となり、その後日本自由党との保守合同を成し遂げ自由民主党を誕生させ初代総裁となり54代内閣総理大臣になる。鈴木三郎もそうだが、民の為の政治などより首相の座を奪った如月千早(政権)憎しの感情が先にたってるので、そこに付け込むソ連(スターリン)やユダヤのいい操り人形となっている(ただし、本人は気付いてない)愚かな道化たちである。ゾルゲらソ連スパイ逮捕後、上記の鈴木三郎同様に特高警察の事情聴取を受ける事となり、日本軍モスクワ占領も間近な今、鈴木三郎と同様に首元が涼しくなり政治生命の終焉だけで済めば御の字といえよう。

高橋是清立憲政友会第4代総裁。大蔵大臣。20代内閣総理大臣。史実では軍事予算を削減しようとした事で陸軍の恨みを買い、2.26事件で暗殺される(享年81歳)。この世界では元々伊織と知己を持ち、伊織経済学先生とも言える存在で、伊織が入閣した如月内閣に協した事で立政友党から追放された。現在トロピコに渡っていて後に訪れる永田東條賢狼ホロと共に経済を伝授する。

民間

美濃部達吉憲法学者で貴族院議員。天皇機関説を発表した事で右翼陸軍から狙われる身となり、政府海軍で保護する事となり戦艦陸奥に乗艦し、バイストン・ウェル経由でトルコまで同行する。日本に戻ると身の危険がある事から、トルコに残留しイスタンブール大学教授に就任した模様。史実では発表後、貴族院を辞職する事となる。また、長男吉は後に東京都知事になる。

尾崎秀実(ほつみ):朝日新聞記者で「全な共産主義者」。内閣嘱託、満調部嘱託職員。近衛内閣ブレーンであり軍・政界と重要な関係を持つが、実態は共産主義者でゾルゲ事件の首謀者の一人。共産主義者、革命としてリヒャルトゾルゲが導するソビエト連邦諜報組織「ゾル諜報団」に参加し、スパイとして同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者」として、逮捕されるまで正体が知られる事く活動したが、1941年昭和16年10月14日ゾルゲ事件の首謀者の一人として発覚逮捕され、1944年昭和19年)、ロシア革命記念日にあたる11月7日に、防保安法違反、軍機保護法違反、治安維持法違反により巣鴨拘置所でリヒャルトゾルゲと共に絞首刑に処された。

一輝革命・思想。右は義眼で「片魔王」の異名をとる。1906年(明治39年)『国体論及び純正社会主義』を発表するが発禁処分となる。中国に渡り辛革命に参加したが失意のうちに帰、のち「日本改造法案大綱」を刊行し、これが2.26事件の首謀者となる青年将校らに大きくを及ぼす。史実では2.26事件の理論的首謀者とされ死刑判決が下され処刑される。満54歳
この世界では霊告によって“先”の見える千歳の存在を知り面会を希望していたが(14話中編)、作中では描かれなかったが面会を果たしたようで、今では(私服警官を数人引き連れながら)首相官邸の千歳の所まで会いに来る間柄となった。

諸外国の人物

(対戦国の人物は別にて紹介)

新覚羅溥儀清帝国最後(12代)の皇帝・宣統満州国執政、政以降後は康徳を名乗る。英明な人物で、生まれてくる時代がくかつ西太后がいなければ清朝はまだ存続したかもと思わせる人物。即位名代として赴いた貴音雪歩との会談で、日本からの移民の受け入れとその見返りとしての満州国内のインフラ整備を承諾する。

ベニート・ムッソリーニ(ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ):イタリアドゥーチェ(首領)。ニコマスアイドル。この世界では逆さ吊りにされて処刑されないといいですねw

チェーザレ・アメーイタリア情報大臣。ドゥーチェ無茶振りに付き合わされる苦労人。
(どうやらこの世界でもイタリア兵はりっちゃん好きの模様)

アドルフ・ヒトラードイツ第三帝国 勤上等兵総統モスクワの筆ヒゲスターリン)と並ぶ世界最悪の独裁者
史実に関しては書こうとするとどんなに端折ってもあまりにも長上になってしまうのでアドルフ・ヒトラー - Wikipediaexitの記事を読んでください。
18話前編時点でラインラント進駐、19話中編でスペイン内戦の時期であり、歴史舞台に姿を現すのはもう少し先の話・・・・・・だったがついに22話中編にて初登場。この世界では日本ソ連侵攻に喜ぶ一方でソ連軍を撃ち破る日本軍事に警感を持ち始める。
ソ連の28話後編にてスターリンアリョーシャ(朝倉涼子)によって史実未来を教えられていた事が判明するが、ソ連前の26話後編の時点でヒトラーの元にいる事と、史実ではかったドイツ海軍の大幅な軍備拡が行われる所を見るとヒトラー歴史を伝えられてる可性が大きい。

ヴィルヘルム・カナリヴィルヘルム・フランツ・カナリス):ドイツ海軍軍人(最終階級海軍大将)。防軍情報部(アプヴェーア)部長。第一次大戦時は所属したドイツ東洋艦隊壊滅後、チリ拘束されたが脱走しアンデス山脈を越えアルゼンチンに逃亡しイギリスの監視のを掻い潜って帰した事でスパイとしての一級の素材と判断された。ヒトラー政権成立後は賛意を持って迎え入れ、アプヴェーア(防軍情報部)の長官に任じられ日独防共協定を成立に導いたが徐々にヒトラー外交政策に疑念を抱き、それは時と共に増大し政府転覆計画を練っていた部下のハンス・オスターなどをったがドイツ敗戦直前の2月にアプヴェーア長官の職を剥奪され、4月防軍情報部の庫から長年探されていたカナリスの反逆を示す拠文書を発見しヒトラーに提示され、ヒトラーは即座に陰謀者全員の殺を命、絞首刑に処された。 世界的に有名な女スパイ“マタ・ハリ”の人でもあったという。

コンスタンティン・フォン・ノイラードイツ外交官、政治家男爵ドイツ共和第3帝国)外務大臣、ベーメン・メーレンチェコ)保護領総督。テュービンゲン大学ベルリン大学で法学を学び博士号を取得。ドイツ帝国時代の外務省に入省し駐ロンドン大使館副領事、駐コンスタンチノープル大使館参事官を務め、第一次世界大戦には予備役将校として従軍し、十字勲章を受章。戦後復職しデンマーク使、イタリア大使を歴任。イタリア大使在任中にベニート・ムッソリーニファシズムに感銘を受ける。ヒトラー政権の前々内閣時代から外務大臣に就任しており、実務経験の乏しいヒトラー内閣にとって貴族出身かつ際的知名度の高かったノイラートは威信を与える役割を担っていたが、次第にヒトラーの私的外交顧問であるヨアヒム・フォン・リッベントロップが頭を現し、さらにヒトラー戦争計画に反対した事から38年2月に外相を解任、外交政策は後任の外相であるリッベントロップが取り仕切り全に帳の外に置かれてしまう。1939年ベーメン・メーレンチェコ)保護領総督となったが穏健政策を取った事をヒトラーに失望され、副総督に国家保安本部長ラインハルト・ハイドリヒが送り込まれ実権を喪失、43年8月には総督を辞職し、以降直接政治に関係することはなくなった。ニュルンベルク裁判で戦犯として起訴、禁固15年の実刑判決を受けるが53年に健康面での悪化に伴い仮釈放、その3年後に心臓発作のため死去する。(83歳。)

ハイレ・セラシエ(1世)エチオピア帝国(最後の)皇帝ムッソリーニファシストイタリアの侵攻時、この世界では当時イタリア領であったマッサワまで日本軍の供与した武器の受け取り(表向きはコーヒーとの交換貿易)に出向く。欧イタリア侵略を黙殺する中、日本政府エチオピア支援を決定し軍(日高舞中将の遣土艦隊)を派遣、またイタリア大使吉田茂の(人を喰った)外交術にイタリア政府侵略を断念、エチオピア独立は守られた。史実では侵攻は(ガス兵器まで使ってなんとか)成功し、イタリア王がエチオピア皇帝を兼務するイタリア領東アフリカ帝国となり、1941年イギリスによって開放されるまで亡命していた。戦後経済の悪化と富裕層の腐敗により世界最貧の一つと数えられるとなった中で、ペットライオンを与えてる写真表され、深刻な食糧難に苦しむ民を激怒させるという事件も発生する。その後1974年9月に(後にエチオピア人民民主共和国初代大統領として独裁者となる)メンギスツ少佐率いる軍のクーデターが発生、退位直後に殺されたという(満83歳。)これによりシバ女王より続くといわれたエチオピア王制は幕を閉じた。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクケマル・アタテュルクケマル・パシャ):トルコ大統領。史実では仕官学校時代から皇帝の専制政治には反感を抱いていた模様で、第一次大戦中は当時のオスマン帝国首都イスタンブールののど元に当たる要衝を守り、英軍の猛攻をぎ「アナファルタラルの英雄」と呼ばれ名を獲得しパシャの称号を得る。敗戦後、戦勝トルコ分割に反発・抵抗アンカラで新政府を立ち上げ、ギリシアが占領していた地中海沿の大商業都市イズミルをサカリヤの戦いで撃退した事で連合アンカラ政府に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功し、1923年に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。好きでラク(トルコアルコール度数が4550%と強い蒸留)を毎晩500ml飲んでいたともいわれ、務と過度の飲が原因の肝硬変で満57歳の生涯を閉じる。この世界ではオスマン帝国時代から続くちっぱい至上(如何なる物かはかわずP作品「あずさのハンガリー興隆記」をご覧くださいexit_list)から、あずささんと出合った事で女性は胸の大きさは関係なく素晴らしいものだということに覚める(いやむしろdtpn覚めた感もあり)。

兵衛シモ・ヘイヘ:この世界では北のフィンランド)から義勇兵としてやってきた人物。初めて使う高射砲を使い慣れた狙撃銃の如く使いこなし、満州・新へ侵攻爆撃しにきたソ連爆撃機に多大なる被害を与えた。対ソ戦当初は祖国フィンランドにはばかり霜 兵兵衛という偽名を用いていたが、スターリングラード攻防戦終盤に日本フィンランドが正式に同盟を結んだ事から義勇軍からフィンランド軍人シモ・ヘイヘとしての参加になった。
史実ではフィンランドソビエト連邦の間で起こった冬戦争にて史上最多の確認戦果505名射殺(非公式戦果を含めると542人、その他にも未確認戦果が多数あり、アメリカ製作されたドキュメンタリー番組では800人以上を狙撃で殺していると推定されている)の記録を残し、ソビエト赤軍から“白い死神”と呼ばれ恐れられた。

スナフキンシモ・ヘイヘと同じフィンランドからの義勇兵の一人。シモヘイヘ同様、狙撃ライフルを持って戦い、ソ連狙撃兵のザイツェフとパブリチェンコを始末する。
ムーミンパパシモ・ヘイヘと同じフィンランドからの義勇兵の一人。マシンガンで戦う。

ラウル・ワレンバーラウルグスタフ・ワレンバーグ):スウェーデン外交官、実業オスカーシンドラー杉原千畝と並ぶユダヤ人の救出者の一人として知られる。史実ではスウェーデン政府から自分に付与された外交官特権を最大限に利用し、多くのユダヤ人を当時中立だったスウェーデンの保護下に置くなどして救った。・・・・・・が、45年1月ナチスブダペストから追い出したソ連導部と会見すべく向かったがそのままソ連当局に拉致され、それが最後の姿となった。1986年ゴルバチョフ政権のグラスノスチ(情報開)によって1947年7月に収容所で病死したとする資料が発見された。しかし、現在にいたるまでワレンバーグの死は公式に認められておらず、1947年以降の情報も伝えられているため、調が続けられている。 この世界ではスウェーデン王室の晩餐会で同席した東豪寺麗華らに、千早日本政府フルール・ボランとの会談の仲介を依頼する。

コロマン・ラウアー(本名 フルール・ボラン):この世界では(男装の)ユダヤ系貿易商。ユダヤ人の代表として千早日本政府と会談し、ユダヤ人の人的資、技術提供を条件に満州ユダヤ人移住の要望を申し込みに来る(キャラグラ元は狼と香辛料から)。史実ではユダヤハンガリー人貿易商で、ラウル・ワレンバーグを見出した人物。アメリカルーズベルト大統領ユダヤ人保護の一環として設立した「戦時亡命者委員会」に所属していた事でワレンバーグがハンガリーへ赴く事となった。

アントニオ・オスカル・カルモナポルトガル共和国第11代大統領首相1926年クーデター大統領首相の座に着いた2人の失脚後に就任し、1927年サラザールを財務大臣に登用。その手腕に感銘を受け32年にサラザール首相に任命するが、形式的な閣僚任命権などの儀礼的な役割を除きサラザールのお飾りとなる(とはいえ権を握ったサラザールもカルモナを解任する事は出来なかった)。

アントニオ・サラザールアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール):Hoi2×アイマス架空戦記「サラザールのエスタド・ノヴォ(現在不定期連載中)」exit_listプロデューサー・・・・・・ではなく、ポルトガル共和国首相(短期間だが大統領も務めた)。王制終焉後のポルトガル第一共和制時代にも大臣の就任依頼があったが断り大学教授として教を執っていたが、1926年クーデターの後にカルモナ大統領になると財務大臣に登用され、危機的財政の建て直しを行う。この時の手腕が認められ32年首相に任命され、33年の新憲法を制定して、「祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ(新国家体制)」の成立を宣言、穏健右を体制の中心としながら敵対勢秘密警察を用いて始末するといった(ドイツスペインよりは穏健的な)ファシズム体制を作り上げた。
この世界ではパッチもちゃんと入れたのに兵までして協したフランコが共和に敗れてしまい隣スペインに左政権が誕生し危機的な状態に追い込まれつつあった所で、軍備更新で旧式となった日本軍武器(及び鹵獲したソ連武器)の売り込み(とその見返りとしての海外植民地での帝国海軍の補給許可)をエージェント亜美められる。

ジョージ6世アルバートフレデリックアーサージョージウィンザー):グレートブリテンおよびアイルランド連合イギリス)及び海外自治領国王インド帝国皇帝。現英国女王エリザベス2世は彼のである。
Hoi2界では暗黒王の名をかす。

オズワルド・モズレーイギリスファシスト導者。国会議員
この世界では本来対立する立場のはずのジョージ6世として暗躍する。


 

F・Dルーズベルトフランクリン・デラノ・ルーズベルト):第32代アメリカ合衆国大統領民主党所属。アメリカ大統領一4選された、一重度身体障碍者(当時はポリオに感染と思われていたが、現在ではギラン・バレー症候群であったと推測されている)で大統領となった人物。第26代大統領セオドアルーズベルト共和党)は従兄で妻はセオドアルーズベルトの姪(の子)。歴代大統領人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ民からの支持は根強い。一方でスターリンに対する容共的態度は批判の対ともなった。また、日系人の強制収容を行うなど、日本人への人種差別的な嫌悪感を強く持っていたことでも知られる。
下肢に障碍を持ちながら政治活動を行い1929年ニューヨーク州知事に当選、同年に10月29日に発生したの大暴落(暗木曜日)に始まる大不況(世界恐慌)では、有効的な対策を取れないままでいたハーバート・フーヴァー大統領を大差(獲得選挙人数472対59)で破り当選した。
日本の歴史教科書でも書かれるニューディール政策を推進し、アメリカ経済を立て直したかのように書かれるが、現実は決して上手くいってたものでもなく、一部の政策は最高裁から違判決まで出る状態で、アメリカ経済回復1941年第二次世界大戦参戦による軍需の増大に寄る所が大きく、現在経済学者からも経済再建の為に日本との戦争を仕掛けたという意見も出ていて現在も評価が対立している。
また、戦後言ではルーズベルト政権で法長官を務めていたF・マーフィー(後に最高裁判事)は、反米活動調委員会で「共産主義者がルーズベルトとその夫人を操っていた」と言しており、対日戦争ソ連シナリオであったと認める報告書を提出しているように、政権内部に共産主義シンパやスパイ工作員が多数いたといわれている。結果、太平洋戦争後の中国大陸において資本主義寄りであった蒋介石を見捨て、毛沢東率いる中国共産党を支持した為に蒋介石台湾に追い出される形となり、中国大陸共産主義者の支配する地となった根を作り出した人物と言っても過言でく、日本にとっても反ソ反共共和党政権からソ容共の民主党政権となった事も不幸の始まりと言って過言でいと思われる。
この世界ルーズベルトは、アメリカアジアヨーロッパ戦争に関与できないモンロー義の打破を論んでおり、先の日本の対ソ戦争(第二次日露戦争)終結直後の日本の好戦性の高さを絶好の機会と捉えていたが、如月首相先手を打ち占領地を順次独立させた事で論見は潰えたが、次の策略として中国国民党日本を戦わせようと画策する。

コーデル・ハルアメリカ合衆国政治家。F・Dルーズヴェルト政権下で務長官を1933年から1944年まで務めた。
史実においては日本との平和外交解決の失敗全般に関係し、有名な「ハル・ノート」の提出により日本戦争以外に進むを閉ざされ太平洋戦争勃発への本人と言っても間違いはいと思われる(事実、当時のアメリカ野党共和党人間ハルノートして「これによって日本には、自殺するか、降するか、さもなくば戦うかの選択しか残されなかった」と強く批判していた)。
アメリカが元から参加せず、日本ドイツなどが脱退し機不全に陥った国際連盟に代わる際組織である国際連盟の創設に貢献し、それを讃え1945年ノーベル平和賞自らの提出したハル・ノートにより日本人の多くの血を流させたその手で受賞している。
戦後ドイツ科学フォン・ブラウンらをアメリカに移送・亡命させ、アメリカロケット計画(後のNASA宇宙開発)に貢献した。

ジョセフ・P・ケネディジョセフパトリック・“ジョー”・ケネディ・シニア):アメリカ合衆国政治家・実業、第35代大統領ジョン・F・ケネディ
巨大な資産バックグランドにした民主党大物政治家であり、アメリカカトリック教徒および、アイルランドアメリカ人の実者でもあった。F・Dルーズベルト大統領選出時(1932年)に財政支援を行った功によって初代券取引委員会委員長や、動画作品内での役職でもある駐英アメリカ大使などの任命を受けた。
この作品ではアメリカ民主党大物議員である一方で、ルーズベルトハルの企みを実業としての利益拡大の好機と捉え二人を支援する。

対戦国

対ソ戦(第二次日露戦争)(1936年2月‐1938年7月)

ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)

1936年2月14日開戦 1938年7月21日戦略拠点占拠によりソ連側降により終結。

ヨシフ・スターリンソビエト連邦最高導者。みんな大好き 親父 ヨシフおじさん。“ちょび"ヒトラーと並ぶ20世紀最最悪の独裁者ソ連人民最大の敵中華民国蒋介石)と日本を戦わせ、疲弊した両国をモノにしようと策謀をり巡らす。史実においては疑心の強さからトハチェフスキー元帥などの優秀な将官・政治家粛清した事からナチス・ドイツモスクワ一歩手前まで迫られる原因をも作り出した。これ以上の紹介は、この筆と後に登場するであろうチョビの二人に関しては短い文章で紹介しようにもし切れないのでWikipediaの本項を読まれる事を推奨する。これ以上私がここに書いたら私の身g・・・###うp主は粛清されました###
この世界ではアリョーシャ(朝倉涼子)によって未来を知らされた者であった模様。その為に大粛清が行われず、トゥハチェフスキー元帥生存している(ただし、前線ジューコフは出しながらトゥハチェフスキーは現れなかった事を見ると飼い殺し状態であった模様)。ヴォロシーロフリトヴィノフなど最後まで付いてきた同志を次々見捨てながら、一人スペインに逃亡しようとしたが千歳により逃亡位置を感知され、最後は千歳本人の手により始末される。

マクシムリトヴィノフソビエト連邦外相。スターリンの右腕として対外工作を図る。史実ではなどとの融和を図り、ロシア革命後断絶していたアメリカとの交を回復国際連盟加盟にも貢献した。独ソ不可侵条約の締結の障碍になると見られ外相を解任される。その後駐大使など務めたが、1951年自動車事故により死去(これは事故ではなくスターリンの陰謀らしい)。
この世界ではソ連邦外相として史実どおりスターリンの右腕として活躍する。対ソ戦末期レニングラードに置き去りにされたヴォロシーロフらと違い、スターリンに同行しスペインへ向かうべくアルハンゲリスクへ向かう途中、乗っていた列車日本軍により止められた際、スターリンに見捨てられて脱出失敗し憲兵に拘禁された模様。

クリメント・ヴォロシーロフソビエト連邦の軍人、政治家ソ連元帥ソ連防大臣、国家元首に当たる最高会議幹部会議長を歴任した。軍人としては決して優秀ではなく、フィンランドとの冬戦争では多くの死傷者を出し、ドイツ軍レニングラード包囲を招いたが、スターリンの年来の幼馴染という事で不問となる。第二次世界大戦で使用された重戦車であるKVシリーズは、ヴォロシーロフにちなんで名付けられたものである。
レニングラードにてスターリンに見捨てられた人1号。それでも祖国ソビエトの為、友人であったスターリンの為、命を捨て日本軍との最終防衛線に挑む。(本編では生死不明だったが、番外編で戦死したことが判明)

ヤコフ・マリク:駐日全権代表部参事官。立憲政友会鈴木鳩山と密かに接触し、如月内閣打倒の陰謀に裏から加担する。史実では大戦中の42年(昭和17年)から大使となり、大戦末期の45年には非公式終戦交渉を行い、8月には最後通牒宣戦布告文種を手渡す。戦後は外務次官となると同時に駐国連安保理ソ連常任代表を兼任などと、優秀な外交官であった模様。

ラヴレンチー・ベリヤソ連政治家グルジア共産党第一書記ソ連共産党中央委員、ロリコン。長官スターリンの大粛清要な執行者とみなされており、多くの人間粛清し過ぎた前任の内務人民委員部(NKVD)長官エジョフを失脚・処刑し長官となり大粛清の総仕上げにあたる。スターリン死後、第一副首相に任命されたがフルシチョフとの政争に敗れ失脚、逮捕銃殺刑となる。また、大変な漁色で知られ、誘惑を断ったが最後その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。スターリン時代は巧みに乗り切り粛清の対とはならなかったがスターリンの死後に後継者となったフルシチョフ時代に失脚、逮捕処刑される事となる。この世界ではただのロリコンではなく熟女でも問題いという幅の広い(でもやっぱり若い方が好きな)女好きで、朝倉男爵邸を襲い子と子のを(禁則事項)した上に殺し、硫で溶かした後に下に投げるという外道真似を行った本人。結果的にこの行為がこの世界における千歳られた事件の要因を作り、同時にソ連寿命を縮めただけでなく、世界そのものの歴史を史実以上の悲劇への可性に傾けたとも言えるスターリンモスクワ脱出した後もモスクワに残り(見捨てられた?)工事中地下鉄構内に潜していたが千歳貴音に追い詰められ、反撃を企てるが予想外超天海により死す。また大量の隠し財産を溜め込んでいたことも番外編で判明した。

ヤン・ベルジン:軍諜報機関導者、強制収容所(ラーゲリ)の創設者。1924年3月から1935年4月まで、労農赤軍参謀本部第4局長として軍諜報機関の基礎を作った。特に彼の在任時、リヒャルトゾルゲ等の優秀な諜報員が採用された。1937年11月スターリンの大粛清により逮捕され、翌年殺。1956年に名誉回復する。この世界ではスターリンの不を買い極東軍副に左遷される。官・参謀長行方不明揮を執るが物資不足で継戦を失い降し、のち自決ラーゲリの創設者の最後の仕事は皮にも自分の家族ラーゲリ送りにする事となった。

ヴァシーリー・ブリヘルソ連の軍人。ソ連元帥スターリン粛清の著名な犠牲者の一人。史実ではトゥハチェフスキーを有罪とした裁判に加わっていたが、鼓峰事件で見せた無能振りと恐らく軍における当時の人望のゆえにモスクワに呼び戻され逮捕された。監で自を拒否し、片が飛び出すほどの拷問を受け、間もなく獄死した。この世界では極東軍官で、日本軍の沿州包囲を阻止すべく出撃したが、海兵隊海軍の連携攻撃に阻まれ行方不明となるが19話前編にてチェイコフによって助け出されていた事が確認、シベリア軍管区となるが衆寡敵せず包囲され降する。

リル・メレツコフソ連の軍人。ソ連元帥。史実では冬戦争で第7軍官を務め、マンネルハイム線を突破した。1945年8月の対日参戦時には沿方面から満州に侵攻し日本軍を破る。この世界では極東軍管区参謀長で、日本軍の沿州包囲を阻止すべく出撃したが、海兵隊海軍の連携攻撃に阻まれ行方不明となるが、19話前編にてチェイコフによって助け出されていた事が確認、シベリア軍管区参謀長となるが衆寡敵せず包囲され降する。

ワシーリー・チュイコフソ連の軍人。ソ連元帥。史実ではスターリングラード攻防戦において、第62軍官として同を死守したこと、さらにベルリンナチスの降を受け入れたことで有名である。 農民出身で叩き上げの赤軍の名将。この世界では当初極東軍の部隊長であったがブリヘルとメレツコフを助け出し、その後モンゴル支援派遣されるが、彼の理解な上官ブジョーンヌィは彼に兵をど与えなかったため手持ちの戦だけでは日本軍と対戦しても撃破されるだけだと判断した彼はモンゴルチョイバルサンと共にウランバートルを脱出する。
レニングラードにてスターリンに見捨てられた人2号。それでも祖国ソビエトの為、ヴォロシーロフと共に命を捨て日本軍との最終防衛線に挑むが、敗色濃厚となったときにヴォロシーロフの命により戦場を離脱したことが番外編の対ソ戦の裏側で明かされた。

ニコライ・クルイロフソ連の軍人。この世界ではソ連極東軍副参謀長。史実ではロシア革命シベリア出兵の日本軍とも戦い、独ソ戦ではオデッサとセヴァストポリの防衛と撤退を揮。その後はスターリングラード攻防戦や東プロシアドイツ軍撃破、ヤルタ会談後は部隊を極東に移動させソ連対日参戦と共に関東軍を撃破した。戦後ソ連元帥戦略ロケット総司令官防次官、ソ連共産党中央委員に。この世界ではソ連極東軍副参謀長。ブリヘル、メレツコフが行方不明、ベルジン自害した為ウラジ・オトク後の責任者となる。

セミョーン・ブジョーンヌロシア帝国ソ連の軍人、帝政ロシア時代に日露戦争にも従軍した。ソ連元帥の最初の1人で、3度ソ連英雄称号を受けた。ポーランドソビエト戦争でのワルシャワの戦いにて西欧式の近代的な兵器に対し大敗北を喫しながらもその後も騎兵隊を過大視し、戦車部隊との連携を承認しなかった為、第二次大戦の頃には指揮官としての無能さを露呈するばかりであった。この世界では騎兵監督官を務め、日本との戦争の序盤で敗北した極東軍管区官のブリヘル元帥粛清から救い、ソ連革命軍事会議副議長としてシベリア軍管区官に任命する事を伝え、モンゴルに兵を進めた日本軍と戦うが兵分散の愚を犯し惨敗、再度日本軍に挑むが自分は安全な後方にいた為、ブリヘルやメレツコフが降し捕虜となる一方で脱出に成功したかに見えたが春香爆撃に追われる羽に。(その後の動向は不明だったが、番外編においてヴォロシーロフ・チュイコフとともにレニングラード防衛戦に参加し、騎兵元帥として凄絶な戦死を遂げ、軍人としての最期を全うしたことが判明した)

ゲオルギー・ジューコフ(ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフ):ソ連軍人、政治家。史実ではスターリンの大粛清を上手く避け生き延び、政治的に不穏なモスクワを避けソビエトモンゴル軍団となり、のちノモンハン事件ソ連側呼称・ハルハ河事件)が発生する。この戦いで機械部隊の機動的な運用という革新的な戦術を用いたがまだ重要視されず注されるにはナチス・ドイツ電撃戦を待つ事になる。第二次大戦ではジューコフ兵站手腕によりドイツ軍の攻勢を食い止めモスクワを防衛し、スターリングラードの戦いでは100万人の死者を出す犠牲を払いながら戦を制しドイツ東部戦線の転換点を実現し1943年1月18日ソ連元帥に昇進する。1945年ドイツ侵攻の揮を執り同年4月ベルリンを占領し降文書を受け取った。戦争終結後はそのままソ連ドイツ占領軍の最高官となった。彼の戦術は兵数の圧倒的優位で敵を打ち破る物で、全軍歴を通じ導した作戦のほぼ全てで勝利を収めるかしい戦績を持っている一方、彼の作戦ではソ連軍はほとんど常に敵より多い、時には数倍の死傷者を出している。兵士の消耗を恐れないジューコフの冷酷さにはスターリンですら感銘を受けるほどだった。
この世界ではソ連少将、初登場時は戦車団長として登場、たちの帝国陸軍戦車部隊論んだ敵部隊を誘き寄せて地と戦車隊の挟み撃ちを看破して日本軍地に薄するなど、史実どおりの優秀な将官だが戦差は時すでに遅く撤退を余儀なくされ、のちにモスクワ防衛官となるが圧倒的兵差と400万人のモスクワ市民を犠牲にする事をよしとせず、徹底抗戦するフルシチョフを逮捕拘禁してモスクワ市民の安全を条件に日本軍に降し、日本側の交渉担当した菊地真中将の要請により日本軍占領後の統治に協する。

ニコライ・エジョフソ連邦の政治家政治警察秘密警察である(KGBの前身)NKVDの長官。スターリンの大粛清の支持者であり実行者でもあり膨大な数の民を虐殺し、背が小さかった(150cm)事から入りの小人、血まみれの小人とも呼ばれた。大量の粛清を行った(晩年には疑心暗鬼に陥り、自分の妻まで粛清している)事から国家経済が機不全になり、スターリンの不を買うようになりエジョフがNKVD前任のゲンリフ・ヤゴーダを逮捕・処刑したようにベリヤによって逮捕・処刑される事となる。
この世界では史実同様スターリンの不況を買い日本軍に始末させる&NKVD長官の地位を狙うベリヤによってスターリングラード防衛の官を任命され、一般市民を持たせてまで抵抗するが敵わず、ヴォルゴ河から艦にて脱出しようとするがの前に現れた艦あずささんのボゾンジャンプにて派遣された日本海軍の艦熱海河川砲艦)の射撃により木っ端微と化す。外道には相応しい最後であった。

ヴァシリ・ザイツェフヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフ):ソ連軍軍人・狙撃兵
第二次世界大戦当初は、ロシア太平洋艦隊の会計班長だったが1942年9月から第284狙撃師団に所属する第1047狙撃連隊に配属され、スターリングラード攻防戦に参加し、1942年11月10日から12月17日までの間に225人のドイツ軍将兵を倒している(それ以前にも32人のドイツ軍将兵を倒している)。またザイツェフは化学工場廃墟に設けた狙撃兵訓練学校で28人の兵士狙撃手として育成し、結果として3,000人以上のドイツ兵が戦死したとわれている。
この世界では狙撃し成功したかに思えたが、千歳そっくりの次郎?)からのバキュラペンダント天然の86センチ胸部装甲で(73センチ胸部装甲にひびが入り全治二週間の入院という羽になったのに対し)傷だった。残念でした。最後はフィンランド狙撃兵スナフキンに斃された模様。
彼の手記を元に作られた映画2001年制作された「スターリングラード(原題:Enemy at the Gates)」である。

リュドミラ・パヴリチェンコ(リュドミラ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコ):ソ連軍軍人・狙撃兵第二次世界大戦においてソビエト赤軍が数多く登用した女性狙撃手の中でも、確認戦果309名射殺という傑出した成績を残した史上最高の女性スナイパーである。
この世界では日本軍の侵攻にあわせたウクライナ人の反政府活動が活発化しており、ウクライナ出身のリュミドラは(背後から狙撃されると疑った)エジョフによって休暇の名の下で狙撃任務から外される。最後はフィンランド狙撃兵スナフキンに斃された模様。

フョードル・トルブーヒン(フョードル・イワノヴィッチ・トルブーヒン):ソ連の軍人。ソ連元帥ソ連英雄(死後)。史実経歴の多くを南方カフカス方面を担当した人物。独ソ戦初期はザカフカスやクリミア戦線の参謀長を務め、のちスターリングラード軍管区副官、南部戦線やスターリングラードの戦いを経てユーゴスラビアルーマニアハンガリーの“解放”に参加、1944年9月ソ連元帥に昇進する。戦後南部軍集団総司令官を経てソ連最高会議代議員、のちザカフカーズ軍管区官。49年10月に死去し遺骸はクレムリンの壁に葬られた。享年55歳。 この世界ではソ連陸軍大佐でセヴァストポリ要塞官。トルコ戦後のどかな地域だったのが、日本帝国海軍の登場で戦場のどん中と化し、頼みの要塞戦艦陸奥の新弾(九十一式徹甲弾)により破壊され要塞内部に引きこもる・・・が、1個連隊で連合艦隊と対峙するのは理と判断し降する。降交渉の際、交渉担当したトルコ内に潜入させていたスパイに気づかれる事黒海に現れた帝国海軍はどんな魔術を使ったのかと質問する。(聞かれた側にも答えられる人間などどいないのだが・・・・・・w)

イワン・S・コーネフイワン・ステパノヴィチ・コーネフ):ソ連の軍人。ソ連元帥ソ連英雄(2度)。史実世界ではゲオルギー・ジューコフベルリン一番乗りを競った。
独ソ戦時は第19軍、西部戦線、北西戦線、モスクワの戦い、クルスクの戦い、ウクライナ解放ベルリンの戦いなど多くの戦いに参加する。19軍時代にヴォロシーロフの不を買い軍法会議にかけられるところをジューコフに救われその後はジューコフの副官として腕を振るい、戦後は地上軍総司令官防次官、ワルシャワ条約機構統合軍総司令官、駐独ソビエト軍集団総司令官、駐独ソビエト軍集団総司令官など要職を務める。

レオニード・ブレジネフレオニードイリイチ・ブレジネフ):ソビエト連邦政治家。第5代最高導者。ウクライナ生まれのロシア人である。独ソ戦時はウクライナ戦線に政治委員として参加し、ニキータフルシチョフとの出会いが後の出世に大きく役立つ事となる。フルシチョフの右腕として出世しソ連邦最高会議幹部会議長となり、実際の権は党第一書記フルシチョフのものであったが名上の国家元首にまで昇りつめるがフルシチョフ失脚の際には反フルシチョフ側に加担し、1964年に開かれた臨時の中央委員会総会でフルシチョフが「自発的に」第一書記と閣僚会議議長(首相)を辞任させられた後は党第一書記に就任した。中ソ紛争など中ソ対立かアメリカ中共中華人民共和国)との中同盟を危惧したブレジネフは1972年5月モスクワを訪問、戦略兵器制限条約(SALT I)に調印し、「デタント」(緊緩和)の始まりとなった。
1968年プラハを踏み潰した事はアメリカ西側諸国は口頭批判はしたが軍事行動などは起こさず、東欧ソ連圏という事で黙認されたが、1978年アフガニスタン侵攻はデタント終焉を招き、アメリカとの穀物取引の停止と共に、ソ連経済問題を急速に悪化させ、アメリカ西側諸国との軍事的緊を高める事となり、この軍拡競争における大きな経済負担はソ連経済状態をより一層の悪化に導き、後のソ連崩壊に結びついた。
アフガニスタン侵攻は際的非難を招き、1980年モスクワオリンピックでは日本を含めた世界々にボイコットされた。(次の84年ロサンゼルスオリンピックではアメリカのグラナダ侵攻を批判し、東側諸国がボイコットする事となる。)
1976年3月心臓発作で倒れるがそれでもまだ権維持を図るが11月に再び心臓発作を起こし死去する。満75歳

セミョーン・チモシェンセミョーン・コンスタンチノヴィッチ・チモシェンコ):ソビエト連邦の軍人、ソ連元帥冬戦争フィンランド軍の防衛線(マンネルハイム線)を突破した功績と、多大な犠牲を出した責任で解任されたヴォロシーロフの後任として防人民委員(防相)に就任し、ソ連元帥に昇進。ドイツ軍ソ連に侵攻すると、西部方面軍総司令官に転任(防人民委員はスターリンが兼任)し、その後は南西戦線官、スターリングラード戦線、北西戦線官を転任し、その後、総部議長として各戦線間の行動の調整に当たり終戦を迎え、戦後は南ウラル軍管区官、白ロシア軍管区官など務め、ソ連共産党中央委員会委員、ソ連最高会議代議員をも務めた。

ニキータフルシチョフニキータセルゲーエヴィチ・フルシチョフ):ソビエト連邦政治家、第4代最高導者。史実ではスターリンの死後、スターリンの独裁専横を批判した「スターリン批判」を報告し大粛清で犠牲になった人物の名誉回復を行いアメリカとの軍縮核実験の削減を図ろうとするなど「解け」といわれる東西平和をもたらした一方で、宇宙開発競争でスプートニクボストークの打ち上げに成功しアメリカに先んじたりキューバ危機では核戦争一歩手前まで進みかけ、ドイツベルリンに「ベルリンの壁」を構築、ハンガリー動乱では民主化をめるハンガリー軍事介入を行ったり、中共毛沢東との社会主義路線をめぐる対立など同じ社会主義国との対立が立った。
性格はであったといわれ、同志に対する叱責や暴言を繰り返したり、一方で集団導体制を無視し権の集中(第一書記首相の兼任)を繰り返した為にフルシチョフに反発するブレジネフらのグループ殺や専用機の爆破まで計画されていたといわれ、結局1964年10月に開かれた臨時の中央委員会総会で反フルシチョフグループ更迭を要、味方がいないと悟ったフルシチョフは「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長の両方を辞任することに同意、第二書記であったブレジネフと閣僚会議第一副議長であったコスギンがそれぞれ昇格し、その後ソ連停滞の時代と呼ばれる事になるブレジネフ、コスギンニコライ・ポドゴルヌイのトロイカ体制が始まる事になる。晩年はソ連最高導者であった人物にもかかわらず死去後はの広場に埋葬される事モスクワの修院の墓地埋葬された。
この世界ではまだガチガチスターリン義者であり、先にモスクワを脱出したスターリンの時間稼ぎの為の徹底抗戦するが、多くの死体と瓦礫しか残らぬ徹底抗戦より、モスクワ市民400万人の命を選択したモスクワ防衛ジューコフ逮捕しようとしたが逆に逮捕拘束される。

フセヴォロド・メイエルホリ(フセヴォロド・エミリエヴィッチ・メイエルホリド):ロシアの演出俳優。ロシ アの演劇人中、一番革命を歓迎した一人であり、1918年8月にはすでにロシア共産党に入党、同年から1921年までソ連教育人民委員部(文部省)の演劇部門を統括し、新時代にふさわしい新しい演劇創造運動に邁進する。
1923年ロシア共和人民芸術家称号を授与された。また、同年メイエルホリ劇場を創立するとともに、1924年までメイエルホリ劇場モスクワ革命劇場芸術導者を兼務する。しかし、演劇創作の絶対的自由と不断の革新メイエルホリドの姿勢は、スターリンに代表される共産党官僚の全体主義的統制と相対するようになり、1938年1月メイエルホリ劇場閉鎖、同年に日本樺太)からソ連亡命した演出杉本良吉、女優岡田嘉子らはソ連当局(スターリン)からスパイと疑われ杉本殺、岡田は10年間の役刑となったが、特に杉本メイエルホリ粛清の口実の一つにされ1939年の第一回全ソ演出会議自己批判を余儀なくされたうえに投、残拷問を受けた末にフランス日本イギリス諜報部に協したと供述させられ、1940年2月1日死刑判決を受け、(おそらく)翌日に殺され、夫人もまた自宅で何者か(GPUソ連秘密警察)の犯行が有)によって殺されている。
この世界ではメイエルホリ劇場スターリンの命閉鎖されており、自身も逮捕直前であった。モスクワを占領した日本軍律子ら)に劇場の再開と援助を(日本軍の援助によって劇場再開する事で、ソ連崩壊後の新政府劇場運営に口出しできないようにする強かな計算も織り込みながら)要望する。

セルゲイエイゼンシュテインセルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン):ソビエト連邦映画監督監督作品としては「戦艦ポチョムキン(1925年)」「アレクサンドル・ネフスキー1938年)」「イワン雷帝(第2部・第3部スターリンの死後まで非開)」などが挙げられる。
モンタージュ理論(複数のカットを組み合わせたとき、後ろの方のカットの意味は前の方のカットの意味にを受け、新たな意味を獲得する、とする理論)を確立し『戦艦ポチョムキン』(1925)で実した人物で、映画史において極めて重要な人物の1人とされている。ハリウッドからの招聘などを通じて人脈を広げた。
ディズニーチャップリンとは友でレーニンからは絶賛されたがスターリンが政権を握ってからの作品は作品の変・棄を余儀なくされ、3部作で構想された『イワン雷帝』は第1部(1944年)はモスクワ演で見た歌舞伎の「見得」をイワンに切らせるなど歌舞伎的演出を用いスターリン賞を受賞したが、第2部(1946年)は疑心暗鬼に駆られたイワン貴族達を粛清する様が描かれるが、これが当時の大粛清を彷彿とさせる設定にスターリン激怒してスターリンの死後まで開されず(上映は1958年)、第3部ではイワン粛清してきた人物の名を読み上げ懺悔する中にはスターリンによって粛清されたセルゲイ友人たちの名が密かに取り入れられており、第2部以上にスターリンへの批判が明瞭になっていたという。1948年モスクワにて心臓発作で死去。満50歳
この世界ではメイエルホリドと共に日本軍律子ら)への芸術活動再開の援助を要望する。

ミハイル・トゥハチェフスキーミハイルニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー):ソビエト連邦の軍人。ソ連元帥赤軍機械化を推進。数々の画期的戦術理論を編みだし、赤軍至宝、あるいはナポレオンと呼ばれた。
帝政ロシア貴族息子として生まれ、幼年学校、士官学校へと進みロシア帝国陸軍少尉となった直後に発生した第一次大戦に従軍し最初の6ヶ間で6個の勲章を授与される活躍をして大尉まで昇進したがドイツ軍捕虜となる。その後脱出するが祖国ロシア革命政崩壊していて1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入り、軍事教養を持たない農民が多い赤軍の中で元政軍人だった事から中将・軍官の待遇で迎え入れられ、内に侵攻してきた他軍や軍と戦い撃破していった。1920年4月侵攻してきたポーランド軍を敗退させ6月には逆にポーランドへ侵攻するのだがこの時、首都ルシャワの攻略に失敗。レーニンはこれを隣接の南西方面軍の協がなかったためであるとし、その責任を南西方面軍軍事委員だったスターリン責任としトハチェフスキーは罰せられなかった事でスターリンの深い逆恨みの憎悪の発端となる。
レーニンの死去後、スターリンが権を握っても内戦の英雄であるトゥハチェフスキーに手を出す事はできずにいたが、1937年5月にヴォルガ軍管区官に左遷されたのを独ソ戦があった場合もっとも強敵になるであろう名将トゥハチェフスキー殺する絶好のチャンスと判断し偽造文書の作成を作成、チェコスロヴァキアベネシュ大統領経由で入手させスターリンの手に送られ、これを口実にして「ドイツ参謀本部とゲシュタポのスパイ」として1937年5月26日に彼を逮捕拷問にかけられ自を強要され即決で反逆罪により死刑判決を下し、判決のその日の内にモスクワのルビヤンカ刑務所殺された。年44歳。以降、いわゆる“赤軍粛清”が吹き荒れて赤軍団長以上の者の45が殺され、赤軍は壊滅状態に達した。
この世界ではアリョーシャ(朝倉涼子)によってスターリン未来を知らせた事から赤軍の大弱体化に繋がる大粛清が行われず、その為にっ先に粛清されるはずの彼が生き残る結果となった(ただし対日戦開始後も姿を見せてなかったのは飼い殺しにされていた可性が大きい)。レニングラードにてスターリンに見捨てられた人3号。ヴォロシーロフやチュイコフが祖国ソビエトの滅亡と共に殉じる事を選択したのと対照的にソ連き後の世界を見る為に生きる事を選択、レニングラード陥落と共に降したと思われる。(番外編ではソ連共産主義崩壊後にロシア赤軍をまとめられるのがトゥハチェフスキーのみと同じ元帥であるヴォロシーロフやブジョーンヌイらに説得されたというエピソードが追加されている)

リヒャルトゾルナチス党員・ドイツ新聞東京員を隠れ蓑としたソ連スパイゾルゲ事件の首謀者。あらゆる方面から日本を観察し、日本人以上に当時の日本を理解していたかもしれない人物。史実では日本シベリア方面侵攻ではなく南方インドシナ)方面侵攻を計画してる事を尾崎秀実を介して情報を入手しスターリンに伝えた。これによってスターリンは満方面に配備していた兵欧州戦線に移動させることが可となり、ナチスドイツ独ソ戦敗北の遠因を作ったともいえる。1941年、特高警察による共産党逮捕尾崎秀実ともども一斉に逮捕され、1942年防保安法、治安維持法違反などにより起訴、死刑判決となり1944年11月死刑執行された。この世界では史実よりく、スパイ網構築前に千歳で感知され逮捕される。共産主義現実未来を知る千歳は、共産主義の暗部に生きる彼に評価された世界も見てほしいと願い、彼に生き延びてほしいと願う。その後も何度か面会に来た千歳を友として認め、ソ連崩壊後に暴走を懸念されたコミンテルンを打破するために、知りうる限りのコミンテルンの情報心の部下を千歳に預けた。ちなみにこの世界では2.26事件が発生しなかったことで生きのびた一輝との面会も行っており、司法取引は断ったものの、意気投合は果たした模様。

モンゴル人民共和国(モンゴル)

1936年2月14日開戦

ホルローギーン・チョイバルサン漢字表記:霍爾・喬山):モンゴル革命、軍人、政治家独裁者。第4代人民小会議幹部会議長(現在大統領に相当)第11代モンゴル人民共和首相。対日宥和政策やスターリンが助言したモンゴル仏教僧の排除を拒否した前首相ゲンドゥンらを日本スパイとして粛清し、これを自らの独裁体制の確立に利用した。権保身の為の粛清やチンギスハンの一族に連なる者の殺などといった暗黒面を持つ一方、現ロシア領のトゥバ共和(タンヌトゥバ、唐努)のようにソ連領に組み込まれる事独立した国家としての地位を保った点と、近代化を推し進めた点で、彼の内の評価は現代でも悪くないとの事。(19話中編にて出てくる地名のバヤントゥメンは史実世界では名され、モンゴル最東部ドノルド県の県都チョイバルサンとして彼の名前を残している。)この世界では、手持ちの戦日本軍と対抗できないと判断したチュイコフの進言に従いウランバートルを放棄・脱出する。

ペルディーン・ゲンドゥン漢字表記:博勒吉德・根登):第2代人民小会議幹部会議長(現在大統領に相当)、第9代モンゴル人民共和首相を務め、ラマチベット仏教)僧の一掃やソ相互援助議定書の成文化などスターリンからのさまざまな圧抵抗した為、チョイバルサン首相の座を追われ、反動義者・日帝スパイなどの罪で処刑された。この世界では粛清直前に日本軍により助けられ、占領下統治を任される。

対中戦争(1938年12月~1939年2月)

中華民国

蒋介石((介石は字で名は中正。中華圏では中正と呼ばれるのが一般的(台湾中共Wikipediaの表記も中正である)):中華民国政治家、軍人。第3代・第5代政府席、初代中華民国総統
1907年明治40年)渡日し東京振武学校陸軍士官学校または陸軍戸山学校に入ろうとする清からの留学生の準備教育のために設けられた学校)へ留学( 下宿の身元引受人は、後に南京事件責任を問われて東京裁判にてBC級戦犯として死刑判決を受け処刑された松井石根陸軍大将(当時大尉)である
1909-11年まで大日本帝国陸軍陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校として勤務(この頃、蒋経国誕生)。1911- 1912年辛革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右の代表として頭を現す。孫文の命でソ連支援により設立された埔軍官学校校長となり、孫文死後の後継者争いでは孫文の側近でもあった汪兆銘に対し北伐、上海クーデターを経て実権を握、南政府席となる。
1937年(民26年)7月事件を契機に日中戦争が勃発し抗日を推し進めるが、同年12月日本軍による首都の占領が不可避と判断して四川省重慶遷都1943年11月ルーズベルトの要請でカイロ会談に参加し、四人の警察官構想の一員になるが1944年日本陸軍最大の攻勢作戦大陸打通作戦によって蒋介石国民党軍が大打撃を受け大敗(この敗北アメリカの対日戦略中国大陸航空基地から日本などを爆撃するというものから、太平洋々を逐次占領していくものに転換される事となった)により、アメリカ軍の不信を生み、後の中共内戦で毛沢東率いる共産党が(ソ連支援もあった訳だが)勝利蒋介石台湾に追い出される遠因ともなった。
その後、英を味方につけて日本の降を見る事となるが間を置かず共産党との共内戦が再開、しかし上記の大陸打通作戦時の腐敗堕落した国民党蒋介石)に失望していたアメリカ武器援助の停止と中国内戦からのアメリカの撤退を表明、日本軍の前面に立って戦を消耗していた政府軍に対して共産党軍は、(ソ連の援助を受けながら)後方でを蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていき、農部を中心に国民党の勢は後退、48年9-11月頃の戦いで共兵は逆転、北京、南上海などの都市を占領され、1949年10月1日共産党による中華人民共和国が成立を宣言され、蒋介石は残る兵国家・個人の財産などを台湾に持ち出し同年12月政府機構も台湾に移転させ現在に到る。
政策においては確かに失策があった人物だが、一方で史実の日本同様にそのようなを歩まざるを得なかった側面もあったとされる。本来はかつて留学していた日本との会戦についても消極であり、むしろ中国化の方を警していたとも言われるが、時勢が対日戦争を選択せざるを得なかったとも取れる(本作においては、蒋介石が仮に親日路線を推し進めたとしても、クーデターが起きて別の反日導者が蒋介石に代わって国民党トップになるだけとすら言われる有様)
この世界では民族義に覚めた民衆を抑えるには最日本と戦う以外の選択肢いとり、まだ残された余地はあるとする汪兆銘と決別し、ナチスドイツ支援を持って日本と戦う事を決意する。
史実と違い台湾という逃げ場がい彼には勝利以外のい訳だが・・・・・・。
その後の日中戦争では日本との圧倒的な戦差の前に国民党軍事は僅か3か全に瓦解、ドイツへの逃亡を図ったところを千歳によって感知され、乗った飛行機ごと墜落するという形で暗殺され生涯を閉じた。

汪兆銘(字は季新、号は精衛。中華圏では汪精衛と呼ばれるのが一般的(台湾中共Wikipediaの表記も汪精衛)):中華民国政治家政府常務委員会席・軍事委員会席、南政府席。知日として知られた。
清朝時代の緒30年(明治37年、1904年)に日本法政大学(の前身)に費留学し、留学中に孫文革命思想に触れ孫文革命党(中国同盟会)に参加、機関「民報」の編集スタッフを務め、この頃から中国での彼の名称として知られるようになる「精衛」の号が用いられるようになる。
革命により清朝は崩壊し、民元年(1912年)1月1日中華民国が成立したが、この成立宣言の文章を起したのも民14年(1925年)の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起したのも汪である。
彼は「一面抵抗、一面平和」というある程度武を持って抵抗の姿を見せなければ平和は開けないという持論を持ち、蒋介石の抗戦を背景日本との間で和交渉を行なったのであるが、徹底抗戦を貫き日に日に強硬さを増す蒋介石との対立が深まり、国民党軍が長沙大火と呼ばれる(日本軍の侵攻阻止はなくその頃滞在してた周恩来らの暗殺的と言われる)放火事件を起こした事に対して批判した事により蒋介石との対立は決定的なものとなり、民27年(1938年)のとの話し合いとの別を決心したと伝えられる。決別後、ハノイに滞在していたが国民党側の刺客に心を暗殺され脱出後に日本占領地域内での新政府立を決意し、元々の中華民国首都である南政府が戻ってきたという意味を込め、南政府汪兆銘政権)を立し(当初は重慶政府との合流の可性を睨んで席ではなく)「席代理」へ就任した。
史実においては彼の望む中国の戦乱は収まらず、以前の暗殺未遂事件にて身体に残った弾が原因での多発性髄腫にて名古屋帝国大学医学部附属病院にて1944年に61歳で客死する。遺体は南郊外埋葬されたが、国民党軍はを取り出して遺体を火葬してにした上で放り捨てたとの事。
史実においては彼は彼なりの信念を持ちを憂いて行動した結果が「奸」と呼ばれる結果となったが、この世界でも史実同様、蒋介石と袂を分かち如月首相の下へ訪れたが、日本との交渉中に蒋介石戦争を始めたことで全に孤立、以後は高木順一朗らに説得されることで、史実どおりに南政府立することになる。
)汪兆銘を手術した名古屋大学医学部へは汪よりの木が贈られ、現在名古屋ドームすぐ近くの名古屋大学付属大幸医療センターの裏庭に植えられているとの事。

中国共産党

毛沢東(字は詠芝、号は子任。中華圏では毛澤東と呼ばれるのが一般的(台湾中共Wikipediaの表記も毛澤東):中国共産党の創立党員の1人で、中国革命軍事委員会席。史実では1949年より中国共産党中央委員会席・中央軍事委員会席。政治家以外としては思想戦略詩人としても名高い。
日中戦争以後に内戦で勝利して中国国民党台湾に追いやり、その後に中華人民共和国を建大躍進政策文化大革命を通して終身独裁者の地位を築き上げた。清の崩壊後に混乱が続いた中国め上げた業績が高く評価される一方で、急進的な社会主義を推し進めたことによる政策の失敗による負の側面も大きいため、評価が定まらない所がある。特に権確立や政策の最中における粛清飢饉で出した死者の数は二度にわたる五ヵ年計画と大粛清を敢行したスターリンともされており、おそらく歴史上で最も中国人を犠牲にした人物とも言える。本作では日本国民党との衝突より前に日ソ戦争ソ連が敗退・解体されたことで、中国共産党の基盤自体が大幅に弱体化。そのため国民党日本との戦闘ではいずれも敗退を重ね、最後は日本に追い詰められてを見捨てて逃亡しようとしたところを、周恩来と彭徳懐に見限られて射殺された。
(この作品の本来の歴史では千歳の介入で殺されるはずであったが、その前に部下に見限られた理由は現在のところは不明。日本が想像以上に勝ちすぎていたことや、蒋介石を中心とした国民党が既に瓦解していたこと、更に史実では最後まで心の部下として従った周恩来に見限られるほど人望を落としていたことなど、様々な要素が複合したのが理由と思われる)

周恩来(字は少):中国革命軍事委員会副席。史実では1949年より政務院総理務院総理首相)。
中国共産党の人物としては屈の傑物で、文化大革命のときも毛沢東粛清されずに信任され続け、外交・内政において多大の功績を遺した。また日中共同明を調印したり、ニクソ大統領の訪中を実現させ、日双方との交正常化を果たしたのも彼の功績である。中国内においても彼によって命を救われた人物も多く、もし彼がいなければ文革の時の犠牲者はさらに増えていたのは間違いない。また日本との関わりも深く、敗戦した日本戦犯を裁く際にも彼が導した裁判においては死刑を出さなかっただけでなく、ほとんどが減刑されている。その実な人柄と祖国に対する献身はの内外から絶賛されるほどで、彼が死去した時には彼を慕う民が暴動を起こし、第一次天安門事件が起きたこともそれを裏付けている。
本作でも『中国の宰相』『起き上がり小法師』と称された史実通り毛沢東を立て続けたが、日本軍に追い詰められた毛沢東亡命をもくろんだ際の「民がいくら死んでも問題ない」との発言で見限り、射殺しようとしたところを彭徳懐に撃されるも、彼の方が毛沢東よりも格段に信頼されていたため、彭徳懐は毛沢東の方を射殺。そのまま席に就任し、犠牲者を減らすために日本に降し、中国共産党軍事としては消滅した。

その他の人物達

アイドルマスター関係(メインアイドル以外)

高木順一朗:元老西園寺翁や皇族の貴音と対等に話のできるの人物。次期首相海軍大将千早を推挙し、さらに内閣自体を千早人脈で固める「如月千早を支えよう内閣」を提案する。

黒井崇男:貿易会社社長諜報プロ。清々しいまでに自己の利益の追求に率直で、利用価値がなくなれば人であろうと(貴音美希の3人は除く)であろうと捨てる事も厭わない合理義の持ち。彼自身も謀略に手を染める事にしないので、謀略で日本を陥れようとするスターリンらを“旨いが飲めそう”とまでる。

東豪寺麗華水瀬財閥と家族ぐるみの交を持つ東寺財閥(男爵、モットーは「爪楊枝から重戦車まで」)の跡取り兵器関連メーカーとして陸軍近代化に協し、有事の際の物資輸送の速化と、来るべき社会を見越し全各地に自動車教習場を建設する。のち、ハルヒ女王皇軍の大粛清を決断した後、統制・皇・統合軍の三会談を催し、対立は軍部の弱体化を招くものと三を諭し、軍部融和を図る。

三条ともみ三条公爵令嬢で、麗私にわたる右腕左腕といえる存在。

朝比奈りん朝比奈男爵(今川臣、朝比奈の流れをむ)令嬢、麗私にわたる右腕左腕といえる存在。

石川実岡本まなみパンアメリカン航空子会社、876新聞の社員。

善永さん(本来フルネーム設定はいがこの作品内では善永うp主命名):876新聞記者。部数増大の為の大衆に迎合した記事、民を何かしら誘導しようと論む勢の圧に屈せず、本来新聞社としてあるべき主観で記事を書く(部数が伸びない理由もそこにあるのだが)優れた新聞記者

尾崎玲子:876新聞記者。対ソ戦開始後は戦場員として戦地に赴く。

鈴木彩音サイネリア):立憲政友会総帥鈴木三郎秘書(この世界では鈴木三郎の遠縁という設定)。政党政治復活の名の下に売国行動然と行う叔父たちに心を痛め、千早らに会談の内容を伝え、これが対ソ戦を決断する引き金ともなった。その後は大叔父想を尽かし鈴木の名を捨て新たな人生を歩む為、876新聞戦場サイネリアとして戦地に赴き戦争を見る事を決断する。

西園寺美神:最後の元老、西園寺望の遠縁で、ゾルゲ事件に連座し嫡された長男一(きんかず)に代わり後継者となった才女。
(史実では西園寺督は一の不二男が継いでいる)

ハルヒ関係

涼宮ハルヒ(女王):皇族(涼宮読み原作上の「すずみや」ではなく「すずのみや」)、陸軍大将陸軍総参謀長。暴走しやすい性格ゆえ「 」を刺される。伊織や麗とは幼馴染で、特に伊織とは顔合わすたびに喧嘩している(喧嘩するほど仲がいい)。
面倒くさい仕事は全て次官のキョン陸軍大臣に丸投げするので、彼ら2人のの休まる日はい。

キョン陸軍中将、参謀次長。苦労人。陛下以外でハルヒを抑えられるのは彼以外いないと思われる。

古泉一樹陸軍少将、参謀本部第一部部長
(ちなみに長門有希戦艦長門の通信兵(海軍中佐)で戦艦長門の守護者、朝比奈みくるは東郷元帥宅の女給(メイド)として登場・・・・・・だったのだが、両者とも13話中編では違和感なく陸軍参謀本部にいたりする。)

アリョーシャ(は露名、日本名は朝倉涼子):11話後編では不明だったが13話前編により朝倉男爵令嬢と判明。また、第1話冒頭の時点では貴音高木の会話でで行方不明であった事が判る。千歳と同じく未来を見透す事のできるを持つ。その未来予知で知った未来(第二次大戦)は千歳が行っているように回避すべきものではなく、更にその先の未来の為には受け入れなくてはならぬ必要なものとし、戦争回避にを使う千歳を殺しようとする。20話前編にて、実は彼女は死んでいてだけがの安らぎの場所(バイストン・ウェル)にいて、地上に残る彼女の身体は邪悪な念に囚われて堕ちた存在との事。狙撃されバイストン・ウェルに落ちてきたが一命を取り留め現世に帰ったに、現世にいる自分を始末する事、未来は生きている者によって変えられるもので子孫らに幸せ未来を作って欲しいと願いを託す。28話後編にてスターリンに(史実の)未来を教えていた模様。そのスターリンの元を離れ26話後編でヒトラーの元にいた事と、史実ではなかったドイツ海軍の大幅な軍備拡を行っている(25話中編)を振り返るとこの時点でヒトラーにも歴史を伝えている可性は大きいかと。

重要なサブキャラ達

銀河英雄伝説ガンパレードマーチパトレイバーリリカルなのは狼と香辛料本家Hoi2からと多キャラが登場している。

安怒流:(アン・ドリュー。朝鮮済州島出身)陸軍少尉(20話後編では統合軍中尉)三次郎を差し置いて、陸士46期席となった、受験秀才。陸軍軍人らしい硬直思考でこのままだと後から味方に撃たれるか、洋上で中に「処理」される運命が待っている可性大。陸軍海軍絵理入れ替わりで統合軍に入り、小畑校長小沢教官らに底的に絞られ補給科を優秀な成績で卒業、時間はかかったが自分が後方勤務に向いているとも自覚し、自分の居場所を見つけ出す。

スンスンおじさんHoi2で最も有名な人物。この作品世界では本名「カミーユ・シラク」、コードネーム「スンスーン」というフランス新聞社に勤務するコミンテルンの示を受けたフランス社会党スパイで、と同時に逮捕され禁固10年の拘留中。キャラクターベースゾルゲ事件で事情聴取を受けたフランスジャーナリスト、ロベールギランか?(史実のロベールの方は事情聴取は受けたが逮捕されてはいない。)

善行忠孝戦艦陸奥副長。海軍中佐あずさの副官だけあって、毎度発生するあずさの生体ボゾンジャンプにも動じない強兵である。(なお、芝速水原さんなどGPMの5121小隊陸奥乗組員となっている。)

英吏騎兵第一軍参謀、の部下。コリマの強制収容所(ラーゲリ)開放を大本営・総部に具申の際、参謀本部には「ツテ」があると発言した所から、軍中枢内部には「芝」が深く根を広げていると思われる。)

萩原(現在名前募集中)萩原雪歩(大総統憤怒ホムンクルスではありませんw)。に近づく男は実排除も厭わないが、には弱いようである。

賢狼ホロユダヤ社会代表として4話後編での満州国開発への外資調達を元・総理兼蔵相の高橋是清と共に行う。また、ハルヒ皇軍粛清トロピコ アメリカ送りとなった永田東條経済の何たるかを学ばせる。

高町なのは:在ソビエト日本大使大使日露戦争開戦直前時の帝政ロシア同様に日本を侮るソ連政府日本政府最後通牒を手渡し、開戦後は全全開なのと宣告する。

太郎:整備班長。称、おやっさん
斯波繁夫:整備班員。称、シゲさん
この二人がいる基地において機体の整備不良はありえないと思われる。

オリジナル人物

如月千歳如月千早千早胃袋と周囲の女性心を意識に掴んで離さぬN.P.B少年未来予知があり、2.26事件のイメージにうなされる。を用いて歴史修正し、戦争回避の未来日本を進ませようとするが、それを阻止しようとする朝倉アリョーシャ”子に殺される・・・・・・が、A級ジャンパーあずさのとっさの機転で現世に生還する。17話中編での美希く、「臆病なくらいに他人の痛みに敏感で、優しいけれど、自分の事を大切に思っておらず自分と他人の距離を置きたがる」との事。この美希の直感は20話前編での朝倉涼子()の「彼は自分の幸せを望む意思がい」という言葉で裏付けられたといえる。
対ソ戦末、一人逃げようとするスターリンに対し、歴史修正する自分の罪であり自分の仕事といわんがばりにスターリンを一にて殺す。

関連動画

関連商品

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 15:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 15:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP