アウグストゥス 単語

12件

アウグストゥス

3.2千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

アウグストゥスインペラトル・カエサルティウィ・フィリウス・アウグストゥス / オクタウィアヌス(紀元前63~紀元14)とは、初代ローマ皇帝である。

また、称号としてのアウグストゥスはローマ皇帝の事を称号である。

概要

ユリウス・カエサルの養子であり、カエサルの死後第二回三頭政治として権力を分かち合ったアントニウスとそのパートナーであったクレオパトラ7世を共に排除し、共和制の伝統厚きローマ政を築いた。

1世紀にわたり混乱していたローマ平和をもたらした人物には違いないのだが、判官贔屓などもあり、カエサルなどにべると好き嫌いがはっきり分かれる、そんな人物である。

カエサルの養子・オクタウィアヌス

紀元前63年に、元老院議員ガイウス・オクタウィウスの息子ガイウス・オクタウィウス(同名)として誕生した。をわずか4歳の時に失うも、ガイウス・カエサルユリアだったため、以後大叔父カエサル護を受けていく。

紀元前46年のスペイン遠征で、カエサルの下で働くこととなり、紀元前44年のパルティア遠征では18歳にして官として揮をとるよう命じられる。ところが、いざ遠征となったところ、カエサルが暗殺されたのだ。

急いでローマにもどると、カエサルの遺言によって相続人となり、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと名を改めた。カエサル亡き後の権力はアントニウス、レピドゥスに握られていた。そこでオクタウィアヌスはレギオの一部を含めたカエサルの支持者を多数味方に引き入れ、またキケロをはじめとした反アントニウス元老院議員と手を結ぶ。

こうして、カエサル後から半年もたたないうちにアントニウスを襲撃。しかしオクタウィアヌスは元老院議員の思惑通りには動かなかった。紀元前43年8月反転してローマにもどってきたオクタウィアヌスは、自分を執政官と認めさせ、ボローニャでそれまで戦っていたはずのアントニウス、そこにレピドゥスも加え協定を結ぶ。キケロらを処分した後、紀元前42年にフィリッピの戦いでブルートゥス、カシウスら反カエサル営を壊滅させる。

こうして紀元前40年、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人は第二回三頭政治を開始。アントニウスにのオクタウィアをがせ、基盤を盤石にすると、自分の担当である西部属州で勢力拡大に尽力。盟友アグリッパとともに、シチリ拠点とした大ポンペイウスの息子・セクストゥスと対峙し、紀元前36年のナウロコスの戦でついに勝利することとなった。

アントニウスとの戦いとアウグストゥス就任

第二回三頭政治を開始した時点で格下となっていたレピドゥスは、この頃すでに数ある政界の一有力者程度にまで格が下がっており、オクタウィアヌスと対抗できるのはアントニウスのみとなっていた。そしてそのアントニウスはクレオパトラ7世とを深め、またパルティア遠征にも失敗し、権勢を大きく損なっていったのである。

紀元前32年、オクタウィアヌスは先手を打つ。彼はアントニウスの遺言書を手に入れると、アントニウスがローマに背信していると弾劾。元老院を味方につけ、アントニウスと戦う。

そして運命の紀元前31年アクティウムの戦である。アントニウスを膚なきまでに叩き潰すと、途中で離脱したアントニウスは翌年自殺クレオパトラ7世もその後を追う。

こうしてアレクサンドロス3世以来のプトレマイオスエジプトを滅亡させ、エジプトローマ属州(といいつつ事実上の私領であり、総督も官も騎士身分から選ばれ、元老院議官は許可なく入れなかった)にしたオクタウィアヌスは、ローマ一君臨する独裁者ともいうべき立場になったのである。しかしオクタウィアヌスの頭には、同じように独裁者になろうとして暗殺された養カエサルがいた。そこで紀元前27年、オクタウィアヌスは、政の権限を元老院に返還。続いて元老院の意思でそれを再度受け取る、という儀式ともいうべき手続きを行う。

こうして、10年限りとの名ではあったものの、誕生したのが「尊厳なるもの」、「アウグストゥス」である。もちろんこの尊称に何ら法律的裏付けはなかったのだが、なんやかんや40年近く彼に統治され、さらに以後も政が続いていったため、「アウグストゥス」は皇帝称号となったのであった。

こうしてスタートしたアウグストゥスの治世であったが、紀元前23年に重い病にかかったアウグストゥスは、8年間務めた執政官の地位を退く。その代わりに元老院から終身護民官権限を得、さらにすべての属州総督の上に立つこととなった。このようにして彼の権力は盤石なものとなったのである

アウグストゥスの治世

アウグストゥスは生涯命を狙われたのはただ一回というほど、内外に優れた統治を行った。それを支えたのがアグリッパなどの心や、妻リウィア・ドルシアらである。

帝国内には、宮殿こそ建てなかったものの、ローマには大規模な建築工事が行われていった。またアウグストゥスはカエサルの死でとん挫していたの拡を次第に行っていった。アウグストゥスの治世の当初は東はシリア砂漠ユーラテが、北はラインであった。だがアウグストゥス自身の揮などによって何とかドナウまで北の境線を伸ばし、次はエルを確保しようと、妻の連れ子であった大ドルススにその役を任じた。

ところが紀元前9年、大ドルススが亡くなり、そのティベリウスが引き継ぐ。しかしティベリウスバルカン半島の反乱に対処しているうちに、紀元9年トイトブルクのの戦いでライン方面軍官ウァルスが敗北。アウグストゥスが「ウァルスよ、私の軍団を返してくれ!」と言うほどの壊滅的敗走によって、エルとする計画はとん挫したのであった。

帝位の継承

アウグストゥスはユリウスの中から後継者を見繕おうとした。そのため、当初は妻の連れ子であったティベリウスと大ドルススは当初補になく、ユリアカギとなったのである。

ユリアはアウグストゥスの・オクタウィアの息子ルケルスと結婚した。しかし、マルケルスは若く、アウグストゥスがかつて病床に就いた際は、心・アグリッパに託そうとしたほどだったのだ。さらにマルケルスはあっけなく亡くなってしまい、アウグストゥスはユリアを今度はアグリッパがせた。

アグリッパユリアの間には、ガイウスとルキウス、アグリッパポストゥムスの3人の息子が生まれ、ガイウスとルキウスが当初は後継者ということで、アウグストゥスのもとで育てられたのである。

ところがアグリッパが紀元前12年に亡くなると、アウグストゥスは不安になる。そこでようやくをつけられたのが、ティベリウスと大ドルススであった。アウグストゥスはティベリウスをその妻ウィプサニアと別れさせ、ユリア結婚させることで後見人にしようとした。しかし、もともとこの結婚にすら乗り気ではなかったティベリウスユリアと不和になり、ロードへ隠遁してしまったのである。

加えてガイウスとルキウスの兄弟もあっけなく亡くなった。大ドルススも前述の通りすでに亡く、アウグストゥスに残された選択肢ティベリウスアグリッパポストゥムスの2人であった。しかしアグリッパポストゥムスは粗暴で嫌われ、流刑に処される。こうしてもうティベリウスしか選択肢のなくなったアウグストゥスはティベリウスを後任とし、紀元14年に長い生涯を終えたのである。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
結月ゆかり[単語]

提供: Marlin_Tuna

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/04/05(土) 10:00

ほめられた記事

最終更新:2025/04/05(土) 09:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。