アリストテレス倫理学とは古代ギリシャの哲学者アリストテレスの著作『ニコマコス倫理学』を礎石とする倫理学体系である。
ニコマコス倫理学は西洋の枠を超え、人類の叡智と言われるほどの古典的名著と言われる。
アリストテレスの全哲学は、思考ツールとしての論理学を基礎として、
A.理論(テオリア)
B.実践(プラクシス)
C.制作(ポイエーシス)
に区分することができ、アリストテレス倫理学はこのうちのこの2番目のB.実践の領域とされる。
そもそも倫理学とは人間のとるべき行動規範、すなわち道徳を考える学問であるが、アリストテレスは倫理学を数学のごとき絶対的論理ではないと考えていた。彼によれば倫理学とはおおよそにおいて妥当な観察から始め、おおよそにおいて妥当な結論をもって満足すべきものである。これは彼の師匠であるプラトンが善の理論を唱え、超越的原理をもって絶対確実な学知(エピステーメ)を模索したのとは対照的である。観念の世界に生きたプラトンとは違い、アリストテレスは普通の人間の日常生活の中にも真理の一端を見出した。彼の倫理学はあくまで現実的なものなのである。
人間の行動はすべて何かの目的がある。例えば、職人が馬鞍を作るのは誰かが馬に乗るためであり、馬に乗るのは戦争に勝つためであり、戦争に勝つのは国家が存続していくためである。このような目的を善と呼び、目的をどこまでも突き詰めていきそれ以上ないところまでいったものを最高善(人間的善)という。
最高善とは幸福と言い換えることができる。普通の人間ならば誰しも幸福を目指している。しかし何が幸福であるかはそれこそ千差万別である。ある人は富をもって幸せとし、別の人は名誉をもって幸せとするかもしれない。だがそのようなものが最高善でないことはすぐに明らかとなる。なぜならば富を得るのは富を何かに費やすためで、同じく名誉を得てもそれ自体が最終的な目的とはならない。そのような外的善はあくまで幸せに至るための過程にすぎない。よって真の幸福のためにはそのような外的善でなく、人間本性に即した内的善に基づかなければいけない。
アリストテレスによれば人間が内的善を獲得し真に幸福になるのは人間固有の本性を完全に発揮、機能したときである。それでは人間固有の本性とはなにか。ところでアリストテレスは別著で人間の魂を以下の5つに分類した。
この中で人間固有、つまりつまりヒト以外の動物が持たず人間だけが持つものはなにかというと、eの思考的能力である。この思考的能力はさらに以下の2つに分かれる。
e.a.有理的部分
e.b.非有理的部分
このうち前者の有理的部分こそが人間固有の本性と考えられる。とはいえ有理的に活動すれば人間は幸せになれるほど単純ではなく、活動にはそれなりの質。アリストテレスの言うところの卓越性(徳)というものが求められる。 以上をまとめると「卓越性(徳)に基づき理に即した、あるいは理を欠いていない魂の活動」。それこそが彼の考える人間の幸福である。
それでは卓越性(徳)とはなにか。ここでいう「徳」とは日本語の「徳」よりも意味が広く、その物に固有する性能の良さを表す。例えばハサミの徳は紙をよく切れることであり琴の徳は美しく響くことである。
それでは人間の徳はというと2種類があげられる。
1.知性的徳
2.倫理的徳
前者の1.知性的徳は理に基づいた徳(卓越性)であり、これはさらに2種類に分類できる。
1.1認識的部分:他のあり方にならない事柄。永遠普遍な必然的真理に関わる理論的な知的力。ex.学知、知恵、知性(直知)など
認識的部分は普遍的ですべての人間が同じように考えるので思量する者はいない。よって人間の思量の対象になるのは勘考的部分だけである。
一方で2.の倫理的徳(倫理的卓越性)は理を欠いていない場合の魂の卓越性のことであり、例えば勇気、節制、寛容、寛厚、豪壮、矜持などで習慣づけによって獲得される徳である。
卓越性が複数ある場合は最も善き究極的な卓越性(徳)に即した魂の活動。それを人間的善と呼ぶのである。人間が他の動物から区別される本性がe.思考的部分であるとするならば、1.知性的徳による活動こそ人間独自のものであり、至上の活動であるといえる。また知性的徳の中でも1.2勘考的部分よりも1.1認識的部分のほうがより一層純粋で高次のものだと言える。
知性的徳の認識的部分に基づく活動とは「観照(テオリア)」である。観照とは「対象の本質を客観的に冷静に見つめる」という意味であり、アリストテレスは師匠プラトンと同じように観照的生活こそ人生における最高の生き方であるとした。観照的生活とは要するに「哲学者の生活」のことである。
アリストテレスは観照的生活をもっとも純粋かつ快適で、最も自足的なものだとした。観照とはそれ自体が目的であり、その他の全ての実践的活動は観照を実現するためにある。観照的生活において人は神々と共に世界を飛翔し最高の状態に至ることができるのである。
しかしそのような生活は人間というより神々のそれだろう。アリストテレスによれば、観照的生活における知性(ヌース)は実は元から私たちの内に備わっていたものではなく、外から入ってきたもの。つまり人間の本性とは言えないのである。
ところで人間とは社会共同体を形成し、他人の中で生きていくポリス的動物である。対人関係の中で必要とされるのは知性的徳というよりむしろ倫理的徳なのだ。確かに知性的徳における観照的生活は理想的だが、それよりも現実的な社会的な徳。つまり倫理的徳の重要性の方こそアリストテレスがもっとも紙面を割いて強調していることである。
倫理的徳とは勇気や寛厚など対人関係に求められる魂の卓越性(徳、アレテー)である。ちなみに魂から生じるものには、
の3種類があるが、魂に関わるものとして卓越性(徳)は3つ目の性状に分類される。というのは、情念とは憤怒や嫉妬、歓喜など魂における受動的な情態であり、能力とはそれらを感受する力のことである。情念や能力は私たちの意思から離れた受動的なものでありそこには良いも悪いもない。だが卓越性(徳)とは私たちが自らの意思によって選択し、それによって賞賛や非難を浴びるものである。よってこれは情念や能力ではありえないのである。
「性状(ヘクシス)」とは「所有する(エケイン)」を語源とする名詞であり「活動」とは対義語になる。つまり性状とは固定化された静止的状態のことをさす。しかしただ止まっているのではない。何度も一定の活動が繰り返され、その末に固定した状態が性状(ヘクシス)と言える。よって卓越性(徳)もまた活動の繰り返しによって生じた固定的な状態のことを刺す。例えば、毎日朝早起く起きることを繰り返しやがて習慣となった者には「早起き」という卓越性(徳)を得ることになるだろう。
このように活動が固定化されて「徳」を手に入れた者を有徳の人と言って良い。性状は魂に刻まれた固定的な性格なので、一度形成されれば簡単に変わることはない。有徳の人は自然と顔もしっかりとしてくるが、いまだ性状が活動状態にある人(例えば早起きがまだ3日目の人)は生の素材として流動的で不安定な存在である。そして一度性状(ヘクシス)が固定化されると今度はその性状が新たな活動を産み、次なる流動性を得ていく。
卓越性(徳)は一定の行為や活動の繰り返し、つまり「習慣づけ」によって獲得される。ゆえにそれらは倫理的徳と呼ばれるようになる。大事なのは習慣づけであり、むしろ習慣づけが全てと言っても良い。良い行いが習慣づけられれば良き徳が得られ、悪い行いを習慣づけてしまえば悪しき徳が生じてしまう。悪い習慣づけを得る前の幼少期に正しい教育をすることは大事であるが、正しい習慣づけを得るためには然るべき時に然るべき事柄について然るべき目的で然るべき人によって為されなければいけない。
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最終更新:2024/04/20(土) 07:00
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