基本データ | |
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名称 | アルゼンチン共和国 República Argentina |
国旗 | Bandera de la Argentina |
国歌 | Himno Nacional Argentino |
国花 | アメリカディゴ (カイコウズ) |
国鳥 | セアカカマドドリ (スズメ目カマドドリ科) |
公用語 | スペイン語 |
首都 | ブエノスアイレス(Buenos Aires) |
面積 | 2,766,890km²(世界第6位) |
人口(’23) | 約4,554万人(世界第34位) |
通貨 | アルゼンチン・ペソ(ARS) |
後述するが、公用語のスペイン語による発音はアルヘンティーナである。
チリと共にコーノ・スール(南アメリカ最南端)の域内に収まる。
南米では珍しく、西洋文化の影響が濃い国で、ルーツをたどればヨーロッパというものが多い。
建築物もヨーロッパ風のものが多く、首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と称されている。市内には至る所にカフェがある。
一方でパンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活(最終的にはインディヘナの伝統的な文化)からも影響を受けており、この二つの柱が相克しながら現在のアルゼンチン文化が出来上がっている。
国名の由来は「銀」である。1516年にスペイン人探検家がある川の近くに上陸したとき、現地人が銀の首飾りを身につけていた。このため「この川の上流には銀の山があるに違いない」と思い、この川を「リオ・デ・ラ・プラタ」と呼ぶことにした。リオ・デ・ラ・プラタとはスペイン語で銀の川という意味。プラタ(Plata)は銀でリオ(Río)は川という意味である。
独立直後は「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」という国名だった。ところが、旧宗主国スペインの記憶を消し去りたい、という意見が大勢を占めたので、スペイン語表記をやめてラテン語表記に改めた。銀のラテン語表記「Argentum」に、地名を表す「tina」を付けた「Argentina」という国名とした。
また、独立戦争をしたのは1810年頃であり、そのころはナポレオン戦争真っ盛りで、フランス軍がスペインに進駐して現地スペイン軍を掃討していた時期だった。忌々しい旧宗主国のスペインを圧倒しているフランスに対して憧れを抱き、フランス風に「Argentine」と綴って「アルジャンティーヌ」とフランス風に読んだ時期もある。この呼び方は次第に廃れて、やはり「Argentina」で行こう、となったのが1825年である。
「アルゼンチン連合」「アルゼンチン国」という国名だった時期もあるが、1860年10月8日にサンティアゴ・デルキ大統領が「アルゼンチン共和国」という国名を使用すると宣言。
とはいえ、今でも憲法上は「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」「アルゼンチン連合」「アルゼンチン国」も正式な国号として扱っている。使用していないが、正式国号。
イギリス人はArgentinaを「アルジェンティーナ」と英語風に読んでいた。また、アルゼンチン共和国を「Argentine Republic」と書いて(なぜかArgentinaをArgentineに変化させている)「アルジェンティン・リパブリック」と読んでいた。この英語読みが世界中で流行り、日本にもこの英語風の名前が伝来して定着した。
しかしArgentinaは現地の言葉(スペイン語)では「アルヘンティーナ」と発音される。
日本人の、特にサッカーファンは現地人が「アルヘンティーナ」と呼ぶことを知っているのでそれを真似て呼ぶ人も多い。「アルヘン」と短縮する人もいる。
アルゼンチンの国旗は、横に水色・白・水色の三色縞模様が伸び、真ん中に太陽の象徴を取り入れたものである。
1810年5月18日から5月25日まで1週間かけて五月革命と呼ばれる騒乱が起こり、これがきっかけで独立戦争が始まり、1816年7月9日にアルゼンチンは独立を宣言した。五月革命の最終日である1810年5月25日に民兵隊が蜂起したのだが、1810年5月25日は途中まで悪天候だったが途中から晴れて太陽が見えた。この日の太陽を「5月の太陽」として国旗に取り入れることにした。インカ帝国の太陽神インティを描くことに決め、デザインは当時の中南米で流通していた8エスクード硬貨に刻まれているものを流用した(画像検索例)。
1812年はスペインとの独立戦争の最中だったが、独立軍とスペイン軍の両方が赤と黄色の旗を使っていて紛らわしい状況だった。そこで、独立側の将軍であるマヌエル・ベルグラーノが2月13日になって政府に「白と水色の旗を採用しよう」と提案し、5日後の18日に軍事政権がその提案を採用することを宣言した。
マヌエル・ベルグラーノは国旗の色を決めた人物であるので、彼の命日である6月20日は「国旗の日」としてアルゼンチンの祝日となっている。
公用語はスペイン語で、首都ブエノスアイレス周辺はイタリア・ナポリ方言の影響が強い。
19世紀以降、アルゼンチンはイタリアから大量の移民を受け入れた。特に多かったのがイタリアの中でも貧しい地域である南部のナポリ地方からで、このためナポリの方言が色濃く残った。
アルゼンチンは人口・産業ともに首都ブエノスアイレスに集中する首都一極集中の国なので、ブエノスアイレスの特色がそのままアルゼンチンの特色を代表することになる。
アルゼンチンやチリやボリビアなどの国民は、自分たちが話すスペイン語をEspañol(エスパニョール)とは呼ばず、Castellano(カスティジャーノ)と呼ぶ。Castellanoとは、スペインの中央部を占めてスペインの中心となっているカスティーリャ地方のこと。「スペインの中心部のカスティーリャ地方から受け継いだ言葉」という意味合いである。
アルゼンチンにはパンパという途方もない広さの平野があり、そこには草が生い茂っている(画像検索例)。地形図を見ても関東平野60ヶ分というパンパの広さがよく分かる(画像検索例)。
入植者が牛を持ち込んでパンパの大草原に離したら、その牛が大繁殖してしまった(画像検索例)。それから大畜産国として世界に名をとどろかすようになった。現在も人口よりずっと多くの牛が放牧されており、現地人の主食は牛肉になっている。
放牧された牛を追っかけつつ飼育していた人たちをガウチョという。アルゼンチン版カウボーイ。ガウチョたちの生き様はアルゼンチン人にとって1つの見本となっていて、「寛大で、他人のために自己犠牲を惜しまない」「勇敢」といった好ましいイメージがある。このため、アルゼンチン人にとってガウチョ精神は心の支柱である。日本人が武士道に対して好ましいイメージを持っているのと同じ。
19世紀初頭頃はパンパの牛肉を塩漬けにしてヨーロッパに輸出していた。このころから輸出港はブエノスアイレスであり、ブエノスアイレスは大いに栄えた。
1870年頃にフランスで発明された冷凍船はアルゼンチン経済の発展を大きく後押しした。冷凍船発明前はヨーロッパに行くまで暑い赤道を越えねばならず、肉が傷みやすかった。冷凍船のおかげでパンパの牛肉を冷凍して新鮮なまま輸出できるようになり、アルゼンチンは経済発展。南米随一の近代国家として台頭することになった。全土に鉄道を建設、識字率も一気に向上、平均6%の経済成長率を30年連続記録、国民一人あたりのGDPは世界第4位、と屈指の富裕国になった。
ところが第二次世界大戦が終わるころあたりから斜陽になりはじめ、1949年には外貨を使い果たした。農業は堅調なのだが工業の発展が今ひとつで、世界中の交通が発達して農業が競争にさらされてくると頼みの綱の農業の競争力が落ちてしまう。1960年代には日本にもGDPを逆転された。
そして、固定相場制を維持するために外国の銀行や政府から外貨を借りてから返済しきれなくなる事態、すなわち外貨建て国債の債務不履行(デフォルト)を1827年と1890年と1951年と1956年と1982年と1989年と2001年と2014年と2020年に起こしている(記事1、記事2)。建国してから9回も債務不履行をしており、まさに踏み倒し常習犯である。こういうことをすると外貨建て国債を発行して外国の金融市場で売ろうとしても全く売れなくなり、誰も外貨を貸してくれなくなる。そうなると固定相場制を維持できなくなり、貿易の確実性が減って投資しにくい国になり、工場の建設が難しくなり、工業の発展がさらに遅れてしまう。現在も工業化の遅れがあり、なかなか上手くいっていない。
2000年代以降著しい経済発展を遂げているブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの5ヶ国をまとめてBRICSというが、アルゼンチンはその仲間に入れていない。それどころか知識層が海外に流出する事態も起きており、課題は山積みである。詳しくは下の動画シリーズを。
アルゼンチンは建国以来軍部の力が強く、政局が混乱するとすぐにクーデターが起こって軍人が大統領になるような国であり続けた。特に第二次世界大戦以降のアルゼンチンは軍部によるクーデターが続いた。
有名なのが1976年から1982年の軍部政治である。1978年にサッカーワールドカップをアルゼンチンで開催して見事にアルゼンチンが初優勝を果たすのだが、このとき観戦に訪れた観光客や記者たちにより「アルゼンチンは軍部が仕切る怖い国」という評価が世界的に知れ渡った。
また、1982年には国民の不満をそらすため軍部がイギリスとフォークランド紛争(マルビナス戦争)を起こした。結果は完敗で、しかもアルゼンチン人にとって心の故郷であるヨーロッパ諸国がこぞって英国を支持してアルゼンチン人は強いショックを覚えることになり、やっと軍部政治から脱却するようになった。
1983年から選挙で選ばれた政治家が大統領になる例がずっと続いており、また軍縮も進んで文民統制が行われるようになっていて、かつての軍部政治のイメージはだいぶ薄れてきている。
19世紀以降、アルゼンチンはヨーロッパからの移民を大量に受け入れた。特にイタリアからの移民が多く、アルゼンチンとイタリアの友好関係の基礎になっている。「母をたずねて三千里」もイタリアのジェノヴァからアルゼンチンのブエノスアイレスへ出稼ぎに行った母親を探しに行く少年の物語である。
このためイタリア人のアルゼンチン人への感情は家族に向けるようなものになっている。セリエA(イタリアサッカーリーグ)の各クラブはアルゼンチン人選手を優先的に雇う傾向がある。これは1980年代から現在までずっと続いていて、たびたび日本のサッカー雑誌で「アルゼンチンは第二のイタリアだから両国は親戚同士」と説明されていた。
イタリア語とスペイン語はよく似た言語であり、スペイン語話者がイタリア語話者にスペイン語で話しかけても、イタリア語話者がスペイン語話者にイタリア語で話しかけても、なんとなく意味が伝わるという。アルゼンチンとイタリアの友好関係はそういう面でも強固である。
アルゼンチンにおいてはイタリア系が最大勢力である。ちなみに他にはスペイン系やドイツ系などが多い。
1982年に勃発したフォークランド紛争(アルゼンチン側はマルビナス戦争と呼ぶ)で、イギリスと戦火を交えた。現在もフォークランド諸島(アルゼンチンはマルビナス諸島と呼ぶ)の領有権をお互いに主張、外交関係は冷え込んでいる。詳しくはフォークランド紛争、フォークランド諸島の記事を参照のこと。
南米大陸の両雄であるブラジルとは永遠のライバルで、両国とも「南米一の国」と自認していて、ライバル意識が非常に強い。サッカーワールドカップやコパ・アメリカ(サッカーの南米大会)等では強い対抗意識を持って試合に臨む。ブラジル人に田舎の国はどこかと聞くと「アルゼンチン」となり、アルゼンチン人に田舎の国はどこかと聞くと「ブラジル」と答えが返ってくるという。
なお、ブラジル経済は現在急成長しており、南米開催のオリンピックもリオデジャネイロに先を越されてしまった。両者の均衡は崩れつつあるのかもしれない。
ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に仲が悪い。ローマ法王の仲裁等が無かったら冗談抜きで戦争が起こりかねないほど。2004年にも事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止するなど、仲の悪さは全く改善されていない。まあ隣国との関係なんてどこもそんなものである。
旧宗主国で同じスペイン語を母語にするスペインとは仲がよい。独立は戦争を伴った喧嘩別れだったので
独立直後は反スペイン感情が根強かったが、現在ではその感情は解消されている。スペインにはスペイン語圏にネットワークを張り巡らすような企業がいくつもあり、ラテンアメリカのスペイン語圏国家とはどこも仲がよい。
アメリカ合衆国とはそんなに親密な関係があるわけではない。1823年にアメリカ大統領のモンローが議会において「ヨーロッパ諸国は南北アメリカ大陸に対して干渉すべきでない」と提言し、それ以降の米国はモンロー主義を採用、ヨーロッパとは関係を持たない立場を鮮明にした。このモンロー主義はもう1つの意味があり、「南北アメリカ大陸は米国の勢力圏にする」という意味合いで実際にカリブ海諸国を米国の勢力圏に組み入れている。アルゼンチンはこの米国の外交姿勢に反発、「我々は今まで通りヨーロッパと仲良くする」と宣言、その通りにヨーロッパ諸国との親密な外交を続け、米国とは距離を置いた。現在も米国とは一定の距離を置く関係である。
第二次大戦中に実権を握ったフアン・ペロンが親ナチス・ドイツだったこともあり、戦争に敗れドイツでの居場所を失ったナチス要人を多く匿ったことでも知られる。
かのアドルフ・アイヒマンもその1人であり、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで暮らしていたところをイスラエルのモサドに拉致された。詳しくは「今日はアドルフ・アイヒマンが逮捕された日なんですよ」の記事を参照。
1970年代の軍部政権時に「汚い戦争」と呼ばれる弾圧が行われ、多数の左派知識人や労働組合員が投獄されて獄死させられた。「汚い戦争」を実行する際の資金源として、軍部が偽札(偽の英国ポンド紙幣)の製造をしていたとも言われている。そしてその偽札の製造には、戦時中のナチス・ドイツのベルンハルト作戦(英国ポンド紙幣を偽造して英国経済を混乱させようとした)に参加していた人間が関わっていたという。
地球の反対側にある日本とは特段仲が良くもなければ仲が悪いわけでもない。フォークランド紛争(マルビナス戦争)の最中、日本は米国や英国やEC(現在のEU)から何度も「アルゼンチンに対して禁輸措置をとれ」と圧力を掛けられたが、得意の「まことにごもっともではございますが、しかしながら~」というのらりくらり戦術でかわし、戦争が終わる最後まで禁輸措置をとらなかった。日本は資源ほぼゼロの貿易立国なので、簡単に禁輸措置をとるわけにはいかなかったのである。その一方で国連ではアルゼンチンを積極支持せず、アルゼンチンへの撤退勧告に賛成票を投じている。
2016年には安倍晋三首相が57年ぶりにアルゼンチンを公式訪問した。57年間行っていなかったわけで、そんなに親しい間柄ではない。
一方で、南米大陸全般に言えることだが、明治から昭和にかけて移民を多く送り込んだため日系人がそこそこいる。日本語を日常的に使うコミュニティはさすがに少なくなっているようだが日本語が通じる事もある。日本は国籍が血統主義であり本人が日本国籍の放棄を日本政府に伝えなければ日本国籍を保持できるため、本人が日本国籍を持っていることを知らないパターンもある。また、首都ブエノスアイレスの中には「うるま園」という公園があり(地図検索例)、日系移民が集まる場所の1つとなっていて、門には沖縄の獣像として有名なシーサーが2体置かれている(画像検索例)。
歴史を専攻する(特に大正から戦前にかけての国際関係絡み)人やミリオタなら、南米移民船から空母に改造された「海鷹」こと「あるぜんちな丸」で、競馬ファンならG2重賞「アルゼンチン共和国杯」でお馴染みだろう。
パンパには人より多くの牛が放牧されているので、現地人の主食は牛肉である。1人あたり牛肉消費量は
日本の10倍とされる。美味しい牛肉料理をかなりの安価で頂くことができる。
アサードという、素朴な焼き肉料理が人気。日本の焼き肉は薄いのを金網に乗せるが、アルゼンチンのアサードはデカい肉塊をゴロンと金網の上に置く。休日に炭をおこしてせっせと焼き肉の準備をするのは男性の仕事である。どこの家にも焼き肉用の金網があり、スポーツなどを観戦しながら1日かけてアサードを楽しむ。
牛肉を飽きるほど食べることができるのであまり魚食は流行っていない。血のソーセージや日本ではあまり食べない内臓もよく食べる。特に下味を付けずそのまま焼くのでこれらの希少部位はクセがあり慣れが必要。やや高級な肉料理屋でも凝った味付けをしないのが通例。
美食の国イタリアからの移民を大量に受け入れたおかげで、ピザ、パスタ、ラザニア、ミラネーサ、エンパナーダといったイタリア料理が伝わっている。
肉料理に合わせるための赤ワインの生産も盛んで、生産量は世界5位で上質と評価されている。しかし海外輸出の量はさほど多くない。
マテ茶は国民的飲料であり、ビタミン・ミネラルが豊富で「飲む野菜」とも言われている。
飲み方が独特で、瓢箪などで作った専用のコップ(このコップもマテと呼ぶ)にマテの葉を大量に盛り、お湯をかけつつボンビージャという金属製のフィルター付きストローで啜る。始めの方はとても濃くかなり苦いが、何度もお湯を継ぎ足しするのでそのうち適度な濃さになる。
家族や友人で回し飲みすることも多い。コロナ禍によって御上からは回し飲みを辞めるように指示され減ってはいるものの、絆を示す伝統である等と従わない人々もいるとか。
外出時もよくマテを飲むので1kg入りのデカイ茶葉の袋とお湯の入った水筒とボンビージャ&マテのセットを携帯している人が観光地などにたくさんいる。ボンビージャ&マテのセットは銀色の美しい装飾を施しているのでお土産としても人気。
山ほど牛肉を食べて力が付くからだろうか、著名なスポーツ選手を次々輩出するスポーツ大国である。
サッカーではディエゴ・マラドーナやリオネル・メッシなどサッカー史上に残る名選手を多く輩出する。サッカーアルゼンチン代表はFIFAワールドカップ優勝3回の強豪であり、対戦が決まった国の大半は絶望する。
テニスもトップクラスに位置している。しかも名選手は男女問わない。
ラグビー、バスケットボール、ボクシング、F1でも名選手や名チームを輩出している。
競走馬の馬産が盛んで、南米では最大の規模である。アルゼンチンの種牡馬として*サザンヘイローが有名である。
アルゼンチンといえばやはりタンゴ。
貧しい移民でごった返す19世紀のブエノスアイレスで男達が酒場で鬱憤晴らしにダンスを踊るようになり
しだいに男と女がペアで踊るようになった。これがアルゼンチンタンゴの始まりである(記事)。動画で見てみると荒々しさと情熱が特徴的なダンスだと分かる。始まったときは上流階級の人たちから「粗野」「下品」と評されたが、次第に情熱が人々の胸を打つようになり、国際的にも評価が高まっていった。
ブエノスアイレス、特にラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセの中心として有名。だが、一時はかなり廃れていた。アストル・ピアソラがいなかったら一体どうなっていたか……。
アルゼンチンタンゴ独特のリズムはカンドンベを下敷きにして、ハバネラ、ミロンガなどの影響を受けてボカで育ったと言われている。
アルゼンチンは南北に長い大国であり、熱帯から氷河までさまざまな観光資源を持っている。
北東のブラジルやパラグアイとの国境付近の熱帯雨林地帯に世界最大の滝として知られるイグアスの滝がある(画像検索例)(地図検索例)。米国のナイアガラの滝よりはるかに大きく、米国からやってきたセオドア・ルーズベルト大統領夫人が「Poor Niagara!」と叫んだ。「可哀想なナイアガラ」「ナイアガラはしょぼいわね」という意味。特に大きい滝が「悪魔の喉笛(Garganta Del Diablo)」という滝である(地図検索例)。
北西のボリビアとの国境付近の山岳地帯に、ウマワカ峡谷がある(画像検索例1、画像検索例2)(地図検索例)。カラフルな岩山が広がっている。近くにはサボテンがそこら中に生えている。
北部の内陸地帯に、サリーナス・グランデスという塩湖がある(画像検索例)(地図検索例)。一面真っ白で太陽光が反射してまぶしい。塩湖自体が茨城県と同じ広さであり、売るほど塩があるので輸出している。塩で作った家もある(画像検索例)。バイクレースの最高峰であるMotoGPは開催前に何らかのプレイベントを行うのが恒例であるが2015年はジャック・ミラー選手がこの塩湖で疾走している(動画)。
南東の沿岸部にヴァルデス半島があり、ホエールウォッチングを楽しめる(画像検索例)(地図検索例)。黒くてでかいクジラが豪快に海水面を泳ぐ様を見物できる。
南方のパタゴニアは南極に近く、風が強烈で、氷雪に覆われている。パタゴニアの南西に、ロス・グラシアレス国立公園があり、巨大な青っぽい氷河がある(画像検索例)(地図検索例)。長い間圧縮されて空気をほとんど含まなくなり、青い色になった。太陽光に輝く様子を船で見物できる。ペリト・モレノ氷河が有名で、それがアルヘンティーノ湖に落下する。ビルの大きさの氷が轟音を立て崩れ落ちる様子の動画はYoutubeで検索すると出てくる(検索例)。この動画は素晴らしい。
海沿いの場所に「記念碑の塔」があり、イギリス系移民から贈呈された時計台がある(画像検索例)(地図検索例)。緑色の丸い屋根が印象的である。フォークランド紛争(マルビナス戦争)の前までは「イギリスの塔」と呼ばれていた。
主要道路と細い道路が交差するところにオベリスクという巨大な四角い白柱が立っている(画像検索例)(地図検索例)。1936年に建てられ、高さは67.5メートルである。このオベリスクがあるあたりは共和国広場といわれる。2022年ワールドカップでアルゼンチンが優勝したときは共和国広場が人でいっぱいになった(画像検索例)。
海沿いの場所にフロラリス・ヘネリカという銀色の巨大な花びらのモニュメントがある(画像検索例)(地図検索例)。開閉する機構があるが(動画)、頻繁に故障する。
その他にも富裕層向け墓地、劇場をそのまま使った本屋、大統領邸など、定番の観光地がたくさんある。郊外に出ると、別荘のような立派な外観のヨーロッパ風の住宅が多く見られる。
中心街を含めどの建物も攻撃力の高い柵で覆われており、番犬を飼っている家も散見される。窃盗や強盗が多いのだろう。リュックや旅行カバン、サイフ、スマホなどを不用心に持っていると盗られるので観光時は注意すべきである。もちろん独り歩きは禁物である。
あとトイレは紙を流せない。公衆トイレはトイレットペーパーが盗られて無くなっていることも多いので尻を拭く紙を多めに持ち歩くと安心である
ニコニコ大百科に記事がある人物は太字
掲示板
400 ななしのよっしん
2025/01/01(水) 21:48:42 ID: PiFU0xVVLv
>>398
ミーゼス派のリバタリアンは政府による国防は否定してないが中絶の政府による法規制の部分を見ても明らかに右翼だからリバタリアンでは無い。日本で言う所の条例の範囲で規制するなら分かるが。
401 ななしのよっしん
2025/01/01(水) 21:51:20 ID: PiFU0xVVLv
402 ななしのよっしん
2025/01/05(日) 14:41:38 ID: AnpuX/+7wq
インフレ率こそ鈍化しているが、2024年度のGDP成長率は前年比で鈍化、貧困率は上昇
見たところマイナス面が目立つけど、経済の動向は長い目で見るべきだからミレイ氏の政策がアルゼンチンにとってプラスになるかまだ分からんかな
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/13(月) 05:00
最終更新:2025/01/13(月) 04:00
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